富木常忍略伝

 富木常忍について、次の三点に分けて述べる。
   第一に、富木家の家系・家族構成・常忍の社会的地位の考察
   第二に、日蓮大聖人と富木常忍の関係・常忍の信心について
   第三に、常忍の晩年と大聖人滅後の御書の厳護

 1.富木家について

1.1.出自について

1.1.1.富木常忍の居住地

 富木常忍は、下総国葛飾郡八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)に住し、千葉氏に仕えていた武士である。
 現在、中山法華経寺の奥の院の寺城が館跡であるといわれ、周囲に武士の館跡を思わせる土塁が残っている。若宮館跡と呼ばれ、中世前期に特徴的な単郭方形跡の様相を示している。なお、一時的には多郭式な館であったものと考えることのできる部分がある。
 若宮の地に、このほかには、武士の館を思わせるような遺構はみられない。したがって、若宮館跡こそが、鎌倉中期のころに構築された富木の屋敷跡とみてよいであろう。また、この地は、かっての下総国の国府にも近かった。

1.1.2.富木常忍の呼び名

 富木常忍の呼び名については、大聖人の御書、本人の署名、弟子の文献、ならびに聖教紙背書(要文集の紙背に記されていた文書)によってさまざまである。とき殿、富木入道、常忍上人、日常、常修院日常、富木五郎、富木五郎入道、沙弥常忍等である。
 また、「日蓮教団全史上」によると、摂津国梶折一乗寺に所蔵する、天正年間(1580年頃)の作と推定される「正中山法華経寺日常聖人由緒」という文書には「富木五郎常忍」と記され、宝暦五(1755)年の中山法華経寺縁起には「常忍」「ツネノブ」という読みが付けてあると述べている。
 これらを総合すると、常忍の呼び名は、富木五郎常忍といい、入道してからは常忍をそのまま法号として用い、大聖人から日常との法名を賜ったといわれ、常修院日常と号したようである。
 従来「富木五郎胤継」が本名であるという説があった。しかし、大聖人の御書をはじめ、古い記録には「胤継」という名称は見られない。この名称が文献にみられるのは、享保五(1720)年に著された智寂日省の本化別頭高祖伝に「富木氏に胤継という者あり」とあるのが初めてのようであり、その後、六牙院日潮が本化別頭仏祖統紀巻十に「五郎胤継」と記述した。
 これは、富木常人が千葉氏一族と深いかかわりをもち、しかも常忍の死後、中山法華経寺第三代日祐のころから、中山法華経寺が千葉胤貞一族の氏寺化するようになった、日祐の外護者であった千葉胤継(常忍より五十年以上も後の人で、しかも日祐と兄弟)と常忍が混同され、いつしか「富木胤継」が本名であるという誤解が生じ、そのまま伝えられたものと考えられる。

1.1.3.富木常忍の出身地

 富木常忍の出身地は因幡の国(現在の鳥取県)であり、元来、下総の国(現在の千葉県)の人ではない。このことは、大聖人が弘安元(1278)年八月に伊予房日頂に授与した御本尊に、日興上人が「因幡国富城五郎入道の息伊予房日頂の舎弟寂仙房に之を付属す」(富要八巻222頁)と添書しており、また、富士一跡門徒存知の事に「因幡の国富城の荘の本主今は常忍、下総の国くに五郎入道日常に賜ふ」(1871頁)とあることからも明らかである 。
 「和名類聚抄」(高山寺本)によれば、因幡国法見郡に罵城郡があり、これを「度岐」と註記している。おそらく「罵」は「富」を誤記したものと思われるので、富木常忍の本貫の地は、この因幡国法美郡富城郷(現在の鳥取県岩美郡)であったと考えられる。
 大聖人の御消息の宛名をみると、その大部分が「富木」と書かれているが、なかには「土木」とあつたり「富城」と 書かれているものもある。当時の習慣として、このような借音が用いられたとみられるが、出身地からすれば「富城」が正しいと思われる。
 富木常忍が、この因幡国から下総国へいつ、いかなる理由で移ってきたのか、そのことは明らかではない。
 ただ、常忍が、自分の所従を因幡国一宮の公文元富が拘留しており、早く自分の許に返すよう、一宮の政所に訴えた訴状がある。その中で「件の条、彼の奴原は去る建長二年の此、富城中太入道の手より常忍これを譲得することになり。譲状顕然なり、蓮忍、関東に居住せしむるの後、件の奴原自然に元富の辺を経廻せしむる」とある 。
 この文にある富城中太入道蓮忍とは、常忍の父と思われ、常忍に所従を譲った後に関東に移住したようである。つまり、富木氏は、蓮忍の代に、それも、建長二(1250)年以降に因幡国から関東に移住したものと考えられるのである。なお、聖教紙背景文書の中で、常忍に宛てられた文書のうち、日付けが明らかなものは、建長三(1251)年三月二十日のものが初めてである。

1.1.4.富木常忍の出生

 富木常忍の生い立ち等に関しては、信頼できる文献、資料も少なく、さらに俗伝等が加わって種々の説があり、不明な点が多い。
 生年については、大聖人御誕生の二年前の承久二(1220)年とする説もあるが、永仁七(1299)年三月二十日、八十四歳で没したという本化別顕仏祖統記の記載から逆算した、建保四(1216)年とする説がおもに用いられている。
 出生地に関しては、下総国若宮、鎌倉、さらに因幡国富城郷とする説等々、いくつか挙げられる。前述のように、おそらく因幡国富城ではないかと思われるが、いずれにしても決定的なことはわからない。
 幼少年期および青年時代についての資料は皆無に等しい、常忍の身辺が明らかになるのは、建長年間に入ってからである。それ以前のことについては詳らかではない。
 父母については、俗伝等が加えられたその最たるもので、古来より伝えられるところによれば、父は将軍源実朝の近仕であった土岐左衛門尉光行であり、母は下総国千葉胤政の娘であるといわれている。しかし、この説は直ちに信ずることはできない。
 なぜなら、土岐氏は元来、美濃国土岐郷から興ったものであり、常忍の本貫の地は因幡国富城郷であることが明らかだからである。
 また、常忍が光行の子であるとするなら、隠岐守である土岐光定と同一人物か、もしくは兄弟となるわけであるが、系図等で見るかぎり、常忍との関係を裏付ける記述は皆無である。さらに、常忍直筆の沙弥常忍訴状にみえる、常忍に所従を譲った富城中太入道蓮忍についても、土岐氏との関係はみられない。
 おそらく、土岐光行を常忍の父とするのは、富木氏を美濃国土岐氏と結びつけるために起こった説ではないかと思われる。
 むしろ、沙弥常忍訴状にみえる富城中太入道蓮忍こそ父ではないかと考えられる。もとより、蓮忍についても、その事碩については明確ではないが、沙弥常忍訴状等より推察すれば因幡国の国衛に関係のあった人ではないかと思われるのである。
 母についても、千葉胤政の娘との説は土岐光行との関係においていわれたものであり、信憑性は薄い。
 いずれにせよ、常忍の母が長命であったことは、文永十二(1275)年の富木殿御返事に、御供養した帷子について、
 「此れは又齢九旬にいたれる悲母の愛子にこれをまいらせさせ給える」(0759頁)
とあることからもうかがえる。
 忘持経事に、
 「然りと雖も一人の悲母堂に有り朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り営む所は悲母の為め存する所は孝心のみ」(0957頁)と
大聖人がおほめになっているように、常忍は孝養の誠を尽くしていたが、建治二(1269)年二月下句に、常忍、尼御前等にみとられながら死去している。一説には九十三歳であったと伝えられている。
 常忍はさっそく、亡き母の遺骨を抱いて、身延の大聖人のもとに参じ、
 「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置」(0957頁)
し、追善の回向をしているのである。

1.2.家族構成

1.2.1.妻<富木尼御前>

 常忍は、初め大田乗明の姉を娶ったが、不幸にも早く死別したために、その後、富木尼御前と呼ばれた妙常を妻として迎えたといわれている。尼御前は駿河国重須に生まれ、初め伊予守橘定時に嫁し、まもなく定時が死去したために、富木常忍のもとに再嫁したと伝えられている。
 建治二(1276)年三月、常忍は亡き母の遺骨を奉じて、身延の大聖人のもとに参じた。その折に常忍に託された富木尼御前御返事には、
 「やのはしる事は弓のちから、くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり。いまときどののこれへ御わたりある事、尼ごぜんの御ちからなり。けぶりをみれば火をみる、あめをみればりうをみる。をとこを見ればめをみる。今ときどのにげざんつかまつれば、尼ごぜんをみたてまつるとをぼう。ときどのの御物がたり候は、このはわのなげきのなかに、りんずうのよくをはせしと、尼がよくあたり、かんびやうせし事のうれしさ、いつのよにわするべしともをぼへずと、よろこばれ候なり。」(955頁)
といわれている。
 尼御前は妻としてよく内助の功に励み、嫁として姑に仕えては従順で、しかも孝養心の厚い女性であったと推察できるのである。
 こうした尼御前の人柄もさることながら、
 「尼ごぜん又法華経の行者なり」(955頁)
とあるように、大聖人に帰依し純真な信仰を貫いていたようである。大聖人はこの純真な信心に対し、弘安二(1279)年には御本尊を授与されている。日興上人が「因幡の国の富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与え申す」と添書された大聖人の御本尊は現存している。
 しかし尼御前は、建治元(1275)年のころから病魔に悩まされたようである。可延定業書には、
 「今女人の御身として病を身にうけさせ給う」(0760頁)
とある。そして、大聖人は、
 「心みに法華経の信心を立てゝ御らむあるべし。」(0760頁)
と激励され、
 「しかも善医あり。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり。」(0761頁)
と、四条金吾の治療をうけるように勧められている。
 その後病状は一進一退を続けていたようであるが、弘安二(1279)年、ふたたび発病したとみられる。大聖人は、尼御前の身を心配され、
 「尼御前の御寿命長遠の由天に申して候ぞ。」(1428頁)、
 「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり、此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事灯に油をそへ木の根に土をかさぬるがごとし、願くは日月天 其の命にかわり給へと申し候なり(1578頁)
と病気平癒を御祈念されている。
 晩年には、我が子日頂・日澄が日興上人に帰伏して富士に移ったことから、尼御前もまた娘の乙御前とともに故郷である富士の地に帰り日興上人に帰伏して、「重須」の地で死去したと伝えられる。没年については、墓石のある重須正林寺の寺伝によれば嘉元元(1303)年十一月一日といわれている。

1.2.2.子供

 常忍には少なくとも三人の子供がいたと思われる。男子二人・女子一人である。
 男子二人については、日蓮大聖人が弘安元(1278)年八月に日頂に授与された御本尊に「因幡国富城五郎入道の子伊与房日頂の舎弟寂日房に之を付与す」と添書されている。また日精上人の富士門家中見聞の日澄伝に「五郎入道常忍、後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闍梨日頂なり、則ち高祖直弟子六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是なり、誕生は弘長二年」と記している。
 これらから、子息二人のうち長子は、のちに六老僧の一人となった伊与日頂であり、次子は、のちに富士重須談所の初代学頭となった寂日房日澄である。
 女子については、富士門家中見聞に「乾元元年には下総国伊与阿闍梨日頂、富士に参詣なり、寂仙房帰伏の後、初めて参詣し給へり、此年日澄に本尊授与し給ふ、同母公妙常并に乙御前母子兄弟四人富士に移りて爰に於て終焉なり」とあり、乙御前と呼ばれている。ゆえに、常忍には、日頂、日澄、乙御前の三人の子供がいたことは確かである。

日頂

 日頂は、建長四(1252)年、駿河国重須に生まれ、文永四(1276)年、大聖人の弟子となったと伝えられる。
 以後、修学に励み、文永七(1270)年、父の常忍が、真間の弘法寺に釈迦仏を造立した時には、大聖人から開眼供養の導師に推されるほど行学には進んでいた。
 大聖人が佐渡に流罪された時も、
 「伊与殿は器量物にて候ぞ。今年留め候ひ了んぬ。」(679頁)
と土木殿御返事にあるごとく、文永十(1273)年は大聖人の側にあって給仕につとめ、大聖人はまたその才能を認められていたのである。
 大聖人が身延に入山されてからは、弘法寺に住していたが、身延に下総にと活躍し、弘安二年の富木尼御前御返事には、
 「いよ房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給び候へ。」(1429頁)
とあり、大聖人は下総地方における指導者として、大きな信頼を寄せられていた。
 弘安五(1282)年十月八日、大聖人は、本弟子六人を定められ、大聖人滅後の教団の維持発展のために、各地の信徒の要とされた。日頂はその一人に選ばれたのである。大聖人の信頼の大きかった証拠である。
 しかるに、大聖人御入滅後は墓所輪番にも応ぜず、あまつさえ正応四(1291)年には、「天台法華宗沙門」と名乗って幕府に申状を奉呈するなど、大聖人の正意に反する行動をとるようになった。
 のち、いかなる事情によってか明らかではないが、父・常忍から勘当を受けたようで、正安四(1302)年には、真間弘法寺を去って、先に富士に移っていた舎弟の日澄を頼って重須に行き、日興上人に帰伏した。晩年には、自ら重須に正林寺を建てて住み、富士の清流にいままでの汚濁を清めて、文保元(1317)年三月八日、六十六歳をもって死去した。
 なお、日頂の実父は、伊与守橘定時であり、父の死によって母が富木常忍と再縁したため、常忍の義子となったといわれている。

日澄

 日澄については、日精上人の日蓮聖人年譜に「同二年(弘長)富城寂仙房日澄、下総に生ず。日頂の舎弟、日向の弟子なり、富士に帰伏し、学頭となるなり」とある。
 弘長二(1262)年、下総国若宮に生まれ、幼少にして民部日向の弟子として出家した。寂仙房と称し、大聖人から日澄の法号を賜り、修学に励んだ。
 日向に従って、日興上人離山後の身延に登ったが、永仁年中に甲斐国の地頭・左衛門四郎光長が新堂を建立して一体仏を安置した。日澄はそれに疑問を抱き、日興上人の許に行って大聖人所立の正義を聞き、自義としたのである。
 正安二(1300)年、日向が、その新堂並びに一体仏を開眼供養するに及んで、日向と義絶し、富士重須へ行き日興上人に帰伏した。
 以来、日興上人の側にあって教学の興隆に勤め、乾元元(1302)年、重須談所の初代学頭となった。延慶二(1309)年には日興上人の命によって「富士一跡門徒存知の事」の草案を作ったといわれる。
 日順阿闍梨血脈には「日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し・宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す、其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざる無し」と、その学匠としての博学ぶりを推賞している。
 延慶三(1310)年三月十四日、四十九歳にして重須で死去している。

乙御前

 乙御前については、詳しいことはわかっていない。初め南条時光の弟七郎五郎の妻となったが、夫に先立たれて尼となり、妙国尼といったという説もあるが、七郎五郎は十六歳で死亡しており、信じがたい。
 日亨上人の富士日興上人詳伝には「澄師が先に富士に移りしによって、それをたのみに、母の妙常も、姉の乙御前も、また頂師自身も、心身ともに興師に帰伏して」と、乙御前を日澄の姉とし、日興上人に帰伏したと述べている。
 徳治三(1308)年二月七日、重須に死去したことが正林寺の寺伝に記されている。
 なおこの乙御前を、大聖人から「日妙聖人」と名を賜った婦人の娘・乙御前と同一人物であり、日妙尼が富木常忍」と再婚して富木尼御前と呼ばれたのであるとする説があるが、御書を拝するかぎり、同名異人と思われる。

 

1.3.社会的地位

 富木常忍については、従来、鎌倉幕府に仕えており、おそらくは問注所の役人ではなかったと考えられてきた。これは、問注得意抄にある、
 今日の御出仕公庭に望みての後は設ひ知音たりと雖も、傍輩に向かひて雑言を止めらるべし。両方召し合はせの時、御奉行人、訴陳の状之を読むの剋み、何事に付けても御奉行人御尋ね無からんの外は一言をも出だすべからざるか。設ひ敵人等悪口を吐くと雖も、各々当身の事一・二度までは聞かざるが如くすべし。三度に及ぶの時、顔貌を変ぜず、麁言を出ださず、軟語を以て申すべし。各々は一処の同輩なり。」(0417頁)
との御文をとおして、問注所に「知音」「一処の同輩」がいる等々の理由から推定された説のようである。
 しかし、近年、中山法華経寺に現存する聖教紙背文書の解明、研究が進み、常忍の社会的地位がほぼ明らかになった。
 それによると、常忍は、下総国の守護である千葉介の有力な家臣、それも執事のような地位にあった家臣ではなかったかと推定されている。本節では、それらの文書等を参考にしながら、常忍の社会的地位を明らかにしておこう。
 まず、大聖人の御書等から常忍の社会的立場をみると、
   ①幕府の役人の中に「知音」「一処の同輩」すなわち知人を持っている。
   ②「御供・雑人」を引き連れている身分である。
   ③「朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り営む」(0957頁)という日常生活を送っていた。
   ④漢文で認められた法門についての御書を多く賜っている。
 ④のことは、常忍がそれらの書状を読み、理解することができる能力を備えていたことを示している。
 常忍の社会的地位は、こうした条件を満たすべき地位であったわけであるが、この解明に力を与えたのが聖教紙背文書である。
 「紙背文書」とはすでにその機能を果たし終えた文書の裏を利用し、それを料紙として別の文書や日記、記録、聖教、典籍を書いたもので、大聖人直筆の「双紙要文」「天台肝要文」「破禅宗」「秘書」等と題する要文書の裏に記された文書で130通にも及ぶものがある。
 この「紙背文書」のなかで宛名が明らかなものは四十通あり、このうち、富木常忍宛てたものが二十三通と多く、千葉介の六通、金原法橋の三通、他、となり、関する国名の明らかなものは、下総国十二通、肥前国十通、伊賀国四通、肥前国二通、他となり、内容は、幕府の流鏑馬に関するもの三通、御所御垸飯、鶴岡御放生会に関するもの各二通、その他、千葉氏に関するもの、所領・下人等についての訴訟・譲与等、雑務沙汰に関するものが多数ある。
 このうち、文書にみられる国名の多くは、千葉氏と関係の深い国であることがわかる。下総国は、千葉氏が鎌倉時代の初めより、守護職を世襲していた国であり、伊賀国も宝治・建長のころから元弘にいたるまでは千葉氏が守護であった。肥前国も、小城郡に所領を有していたことが明らかであり、千葉介頼胤はその地で死去しているのである。
 また内容にみられる流鏑馬、御所御垸飯、鶴岡御放生会等は御家人の負担すべきものであった。
 このように、聖教紙背文書を全体的にみれば、下総国守護千葉介を中心として、それを取り巻く所領内の住人、地頭、被官達の往復文書であることが明らかとなるのである。その意味で富木常忍は、千葉介をめぐる一人として、最も深い関係にあった人といえるのである。
 同じく聖教紙背文書から常忍と関係のある消息をみてみると「ときの入道殿」に宛てたさいしむ書状には「このやうを御心え候て、ひんきの時、しかるべきようにけさんにいれさせ給候」とあり、同じく「富木五郎殿」に宛てた長専書状には「御書御垸飯事」として、幕府より下された御教書の趣旨と費用についての心得を富木常忍に伝え、この旨を「御披露有る可く候」とし、「かつこの由を御気色によって申さしむ候なり」とある。
 こうした富木常忍に宛てた形式をとりながら、そのじつ、他の人に披露してくれるよう願っているものは、この他にも数点見られる。
 また常忍・快有等連署奉書は、よしたの百姓「けんけう六をとこ」のために、「けんけう尼」の娘が「きやうふさえもん」に売られた件で、その処置についての仰せを常忍以下三名が連書して「ミやうちの御房」「きやうふ左ゑもん」に通達しているものである。
 このように、富木常忍の仰せを受け、また他の者からの書状の意を申し入れたり、披露したりしていることは、常忍がまさに誰人かの執事としての役割を担っていたことを端的に物語っていよう。
 つまり、富木常忍は、下総国の守護である千葉介の家臣・執事のような地位にあり、若宮の屋敷から守護所に通い、幕府からの通達を受けたり、地頭・領主との折衝・訴訟・譲与に関する処理を行うなど、守護千葉頼胤の裁断を受け、司法・行政に関する事務にたずさわっていたものとみられるのである。
 こうしてみると、常忍が千葉介の執事であったために、常忍の手もとには多くの書類が集まったものと思われる。後年、不要となった書類を、大聖人の要文筆写のためにさしあげたのが「聖教紙背文書」であったわけである。
 初めに幾つかの前提条件を挙げたが、富木常忍が千葉介の被官だとすれば、これらの条件をことごとく満たしているのである。
 まさしく、
 「朝に出で主君に詣で夕に入て私宅に返り営む」(0957頁)
とあるとおりの日常生活であったわけである。
 しかも、鎌倉幕府の有力御家人である千葉介の被官であってみれば、たびたび鎌倉に出向くことも多かったと考えられるし、幕府の役人の中には当然、問注得意抄に見られる「知音」「一処の同輩」が多数いたことであろう。
 また千葉介の執事としての立場にあってみれば、当然、漢文体の書類を読み、理解できることはいうまでもないことであった。

 2. 日蓮大聖人との関係と富木常忍の信心

2.1. 富木常忍の入信

 日蓮大聖人と常忍との最初の出会いが、いつ、どこであったか、また、常忍がどのような経過で信仰の道に入ったか、このことはあまり定かではない。
 常忍が大聖人からいただいた御消息は、今日残っているものでは、建長五(1253)年十二月九日述作と推定される「富木殿御返事」が最初である。
 「よろこびて御とのびと給はりて候。ひるはみぐるしう候へば、よるまいり候はんと存じ候。ゆうさりとりのときばかりに給ふべく候。又御はたり候ひて法門をも御だんぎあるべく候。」(0025頁)
というもので、「お迎えの御家人をつかわしていただき喜びに堪えません。日中は見苦しく存じますので、夜になってからまいりたいと思います。夕方の六時前後に迎えを給いたく思います。また、こちらにおいでくださって、法門等を御談義しましょう」という趣旨の御手紙である。
 この文面を拝するかぎり、大聖人と常忍はすでに知り合っており、法門について話し合うほどの間柄であったことがうかがわれる。この時、常忍が入信いていたかどうかは、この御手紙からは知ることはできない。いずれにしても、建長五(1253)年十二月という、大聖人が立宗宣言された直後に、すでに常忍は大聖人と法門の談義をしているのである。
 さらに、建長七(1255)年には一生成仏抄を賜ったといわれている。この御書は、信仰の目的は一生成仏であり、妙法を唱えることのみが一生成仏への最直道であることを教え、一生成仏を遂げるよう勧められている。しかも、
 「仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり。」(0046頁)
と、信仰者としての基本姿勢を示されている。このことは、入信まもない常忍に対し、信仰の目的、信仰者としてのあり方を教えられたものとも拝することができる。
 こうした点を併せて考えてみると、常忍は、建長五・六年ごろに大聖人と出会い、入信したと考えられるのである。
 入信のいきさつについては、種々の説がある。建長五(1254)年のある日、常忍が鎌倉の途次、たまたま葛鹿の裏から大聖人と同船して知り合い、その後、教化を受けるにいたったという説が、智寂日省の本化別頭祖伝等に多くの文献が記載されている。
 しかし、異説も多い、建長六(1254)年当時、大聖人は鎌倉の名越に住まわれていたゆえ、ゆえあって下総にむかわれた折、富木家と大聖人の母方とが姻戚関係にあったため大聖人が挨拶に富木家を訪ね、常忍の信仰していた真言宗を破折され、その博学に驚嘆して入信した等、大聖人が下総の地におもむかれた時に常忍と出会い、折伏されたという説もある。
 逆に、常忍が、鎌倉において大聖人が諸宗を破し、法華経を流布していることを聞き、好奇の心押えがたく草庵を訪れ、何回かの法論の末に大聖人に帰伏したとか、あるいは、鎌倉で大聖人の辻説法を聞いて等といった、常忍が鎌倉に来た折に大聖人の教化に浴したという説もあるが、この俗説である辻説法については、大聖人の諸御書に記述がないことを付記しておく。
 このように、あまりに俗説が加わりすぎて、そのまま直ちに信ずることはできない。しかし、明らかにする資料も見い出いだせないために、諸説を挙げるにとどめておく。
 ともあれ、信仰について日ごろから深い関心を寄せていた常忍にとって、大聖人との出会いが、まさに人生における大きな転機となり、大聖人の仏法を信受し、広布の道に進むことになったことには間違いない。
 やがて、常忍は、大聖人から大きな信頼を寄せられ、下総地方の信徒の中心者として活躍していくことになるのである。
 なお、大聖人に帰依したことに関連して、常忍が入道した時期について若干ふれておきたい。「日蓮宗の成立と展開」等によると、この時期は、建長三(1251)年~建長五(1253)年にかけてといわれている。
 聖教紙背文書によると、建長三(1251)年二月二十二日付の長専奉書には、宛名の一人として「ときの五郎」とあり「建長五年十二月三十日」と端専書状には、宛名が「ときの入道殿」となっている。この宛名の変化から、常人は建長三(1251)年二月二十日~建長五(1253)年十二月三十日の間に入道したと推定される。
 この時期はまた、常忍が大聖人と出会ったと思われる時期と重なり合う。入道となるには、それなりの理由があろう。大聖人との出会いが、まさしく常忍にとって大きな機縁となったのかもしれない。

2.2.富木常忍の活躍

2.2.1.松葉ヶ谷法難と富木常忍

 日蓮大聖人は、立教開宗されてから七年後の文応元(1260)年七月十六日、鎌倉において立正安国論を著され、前の執権・北条時頼に上書された。第一回の国主諌暁である。幕府の実権者である北条時頼の迷妄を開かんとされたためである。
 これに対し、下山御消息に、
 「御尋ねもなく御用ひもなかりし」(1150頁)
とあるように、幕府からはなんの沙汰もなく、黙殺のかたちとなった。
 ほぼ一ヵ月の間沈黙が続いたが、同年八月二十七日の夜になって、不意に念仏の僧および信徒の一団が、松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を殺害せんとしたのである。松葉ヶ谷の法難である。
 大聖人は、危うくこの難は免れられ、ひとまず鎌倉の地を避け、下総の富木常忍の館に身を寄せられたといわれる。常忍は自邸の近くに堂を建て、大聖人にご寄進申し上げ、大聖人はここで長期にわたって法を説かれたといわれる。一説によれば、一日に一座で百日間、つまり百座の説法をされたとも伝えられている。
 この時、大田乗明、曾谷教信、秋元太郎等が大聖人に帰依したといわれ、下総における教勢は一時に拡大したのである。

 

2.2.2.佐渡流罪中の富木常忍

 文永八(1271)年九月十二日、平左衛門尉頼綱は、松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を捕らえて竜の口で斬罪に処せんとした。
 下山御消息(建治三年六月)に、
 「去ぬる文永八年九月十二日都て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こへしかども、内には頚を切ると定まりぬ。」(1151頁)
とあるがごとく、この事件は、最初から大聖人を亡きものにしようとする企てであった。
 しかし、いかに平左衛門尉の権力をもってしても、末法の御本仏日蓮大聖人を殺害することはできなかった。
 竜の口から相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の邸へ移された大聖人は、翌日の九月十四日、富木常忍に宛てて一書を認めて送られている。土木殿御返事であり、竜の口法難の第一報であった。
 ひとたびは無罪放免説に傾いた幕府内の意見が反転して佐渡流罪と決まり、大聖人は、約一ヵ月後の十月十日に依智を出発され、十二日の旅を経て、十月二十一日に越後国寺泊に着かれた。そこからまた寺泊御書を送られている。
 この寺泊御書には、
 「此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ。但し囹僧等のみ心に懸かり候。便宜の時早々之を聴かすべし。」(0487頁)
とある。
 富木常忍は、日蓮大聖人の佐渡流罪に当たって、彼の従者と思われる入道を大聖人のお供に付けた。大聖人の御身の上を思ってのことであったろう。また、牢に入っているお弟子達に富木常忍から、この寺泊御書で述べられている法門を伝え聴かせるようにといわれている。この一事をもってみても、大聖人の信頼のほどがうかがわれる。
 十月二十八日には佐渡に渡られ、十一月一日に塚原三昧堂に入られた。十一月二十三日付の富木入道殿御返事は、塚原到着後の、今日知られる限り最初の御手紙である。
 「天台・伝教は粗釈し給へども、之を弘め残せる一大事の秘法を、此の国に初めて之を弘む。日蓮豈其の人に非ずや。」(487頁)
 「流罪の事、痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云はく、不軽品に云はく。命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり。」(488頁)
との御文には末法御本仏としての御心境が拝せられ、門下に対しても不惜身命の信心を勧め、激励されたのである 。
 「又貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取り集めらるべく候。其の外論釈の要文、散在あるべからず候。」(488頁)
と、常忍に一切経等の要文の保管を託されている。
 一説によれば、竜の口法難後の松葉ヶ谷の草庵は、常忍が後始末をし、そのために大聖人が集められた教典類等は、すべて常忍の許に保管されたといわれる。
 文永九年(1272年)五月ころには、常忍を中心に、門下が幕府に対して赦免運動を起こしたが、後に大聖人はこの運動を禁止された 。
 富木常忍は、大聖人佐渡流罪という逆境のなかを、門下の重鎮として、房総・関東方面の信徒の中心者として、付近の大田乗明、曾谷教信、さらに鎌倉の四条金吾等とも連絡を取り合い、団結して臆することなく戦っていた。
 こうした常忍に対して、大聖人は、
 「佐渡の国は紙候はぬ上」(583頁)
とあるように困窮の中から、激励につぐ激励のお手紙を送られたのである。
 文永九(1272)年三月「佐渡御書」、四月「富木殿御返事」、五月「真言諸宗違目」、文永十年四月「観心本尊抄」、「同送状」、七月「土木殿御返事」、十一月「土木殿御返事」、文永十一年一月「法華行者逢難事」、等々と、大聖人の御内証を明かされた甚深の法門を送られている。
 佐渡流罪中に、これほど集中して御書をいただいた信徒は、他にはいない。大聖人は、依智から、寺泊から、塚原からというように、行く先々で、まず最初に常忍に御消息を送られているのである。これらの御消息を拝すると、常忍個人に与えられてはいるが、その内容は、常忍をとおして門下一同に与えられたと拝せられる御手紙が多くある。
 佐渡御書には、
 「此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿・大蔵たうのつじ十郎入道殿等・さじきの尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。」(584頁)
とあり、末文にも、
 「此の文を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、料簡候ひて心なぐさませ給へ。」(583頁)
とある。
 真言諸宗違目の末尾には 、
 「此の書を以て諸人に触れ示して恨みを残すこと勿れ。」(602頁)
とある。
 さらに法華経行者逢難事の宛名には、
    「河野辺殿等中
     大和阿闍梨御房等中
 謹上  一切我が弟子等中  日  蓮
     三郎左衛門尉殿
     富木殿」
(721頁)
 とあり、追伸には、
 「富木・三郎左衛門尉・河野辺等・大和阿闍梨等の殿原御房達、各々互ひに読み聞けまいらせさせ給へ。かゝる浮き世には互ひにつねにいゐあわせて、ひまもなく後世ねがわせ給ひ候へ 」(721頁)、
末尾には重ねて、
 「一切の諸人之を見聞し、志有らん人々は互ひに之を語れ。」(720頁)
と仰せられている。
 個人的な御手紙は別にして、門下一同に与えられた御手紙は、おおむね、まず常忍のもとに届けられている。そして、鎌倉の常忍の屋敷に四条金吾、塔の辻十郎入道、さじきの尼御前等門人の人々が集まったであろう。こうして信心ある者が寄り合って、皆で大聖人からの御手紙を拝したのである。
 一人一人が逆境に置かれている時である。そうでなくても一人になれば不安になり、臆する心も出てくる。集まって団結し合い、励まし合えば、逆境を乗り切ることができる。こうした大聖人の御心遣いがあったであろう。当然、
 「佐渡の国は紙候はぬ上、面々に申せば煩わずらひあり、一人ももるれば恨うらみありぬべし。」(583頁)
との理由からでもある。がしかし、竜の口法難・佐渡流罪という門下にとっても最大の苦境を、富木常忍を中心に団結して、乗り越えるよう示唆されたものと思われるのである。大聖人が、常忍を信頼されていたなによりの証左であろう。
 このように、常忍は、大聖人の在家信徒の重鎮として、門下の支えとなっていたことがうかがわれる。

 

2.2.3.御供養の誠を尽くす

 常忍の大聖人に対する外護の誠は、御供養の面でもあらわれている、常忍は、大聖人が住まわれていた鎌倉へ、佐渡へ、そして身延へと、自ら御供養の品々をたずさえて訪れ、また人に託して、御供養申し上げたのである。
 御書にみられる御供養の回数は文永七(1270)年~弘安二(1279)年までの間で十八回であり、年に二・三回で、文永七(1270)年以前は文献が少なく明らかではないし、また、御書全集に漏れている御供養もあったことであろうから、常忍は大聖人に帰依して以来、御供養を続けていたと思われ、白米・鵞目・小袖・筆・墨・古酒・衣・袈裟、などの品々が見られる。
 当時は、大雨があったり、飢饉が続発して、食料も不足しがちな世の中であったことから、常忍から送られた「白米」には、どれほど喜ばれたことであろう。
 大聖人が佐渡に向かわれる時には「鵞目一結」を御供養しており、この時期の銭は、どれほど貴重であったろうか。
 また厳寒の十一月、身延の大聖人の許に「厚綿の白小袖」等を御供養しており、降り続く雪と湿気の多い身延山中で、大聖人は非常に喜ばれて、
 「昼夜の行法もはだうすにては堪へ難く辛苦にて候に、此の小袖を著ては思ひ有るべからず候なり。」(0914頁)
と述べられるとともに、商那和修の故事を引かれて、常忍の信心をめでられている。
 常忍の御供養の特徴は比較的に貨幣が多い。これは南条時光の御供養の主流が食料品であるのと対照的である。これは一つには地理的な関係もあろうが、常忍が経済的に恵まれた生活をしていたことを伺わせる表れかもしれない。
 ともあれ、弘安二年十一月の富城殿御返事に、
 「来年三月の料の分、銭三貫文」(1428頁)
とあることからみて、常忍は、定期的に御供養申し上げ、大聖人の御生活に支障がきたさないよう、外護の誠を尽くしていたものと思われる。

 

2.3.法門についての信解

2.3.1.観心本尊抄等重書を賜る

 文永十(1273)年四月二十五日、日蓮大聖人は、佐渡一の谷において観心本尊抄を著され、翌二十六日、送状を添えて富木常忍に送られた。
 観心本尊抄は「観心の本尊」こそ、末法の衆生の帰命すべき本尊であることを明かれた書で、法本尊開顕の書といわれている。
 「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(654頁)
と、文底下種の三大秘法の御本尊の相貌を初めて明かされているのである。
 前年の文永九(1272)年二月に著され、四条金吾に与えられた人本尊開顕の書たる開目抄と合わせて、ここに人法一箇の当体が明らかにされたわけである。
 日蓮大聖人がこの書をいかに重要視されたかは、観心本尊抄送状に、
此の事日蓮当身の大事なり。之を秘して無二の志を見ば之を開拓せらるべきか。此の書は難多く答へ少なし、未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。設ひ他見に及ぶとも、三人四人座を並べて之を読むこと勿れ」(662頁)
と、認められていることからもうかがえる。
 したがって、当時は、門下の中でも、常忍のほか下総の一部の人のみが、同抄を拝読することができたものと思われる。常忍への賜書とはいえ、大聖人の御真意は、あくまでも末代の弟子檀那へ向けられており、ひとえに広宣流布、令法久住のためであることは明らかといえよう。
 このように、大聖人自ら「日蓮の身に当たるの大事なり」といわれた重書中の重書を、常忍が賜ったのである。常忍が、大聖人の門下の中にあって、鎌倉の四条金吾と並んで、外護における双壁であったことを如実に示すものであろう。
 このほか常忍は、大聖人から四十余編にのぼる御書を賜っており、法華取要抄・四信五品抄・佐渡御書・法華行者逢難事・観心本尊得意抄・聖人知三世事・常忍抄・始聞仏乗義・四菩薩造立抄・治病大小権実違目等、その多くが大聖人の御内証を明かされ、宗旨の肝要を述べられた重要な御書である。常忍は、天台・真言の教理にも通じ、学解においても、相当に力のあった人であることがうかがわれるのである。
 しかし、四菩薩造立抄に、
 「一、御状に云はく、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云。」(1368頁)
との質問を、大聖人にしている。弘安二(1279)年五月のことである。本尊抄・法華取要抄を賜り、また御本尊も拝していたことを考えると、常忍が、大聖人の甚深法門については、どの程度まで理解できたのか、はなはだ疑問である。おそらく十分には理解できなかったのではないであろうかと思われる。
 そうしたなかで、大聖人は常忍に重書を送られたのは、常忍が法門を理解できたからではなく、常忍こそ、御書を後世に残す人であると信頼されたからではあるまいか。
 当時の社会的、政治的に不安定な状況を考える時、御書を後世に残すことは、非常に困難なことであった。社会的基盤が安定していない者に保管させたとすれば、年月が経つ間に散失してしまうにちがいない。
 この点、常忍は、幕府の有力な御家人である千葉氏に仕える武士であり、しかも最も古くからの信徒である。大聖人は、常忍こそ、御書を後世まで伝えるべき任を果たす適任者であると考えられ、厳護を託されたと推察することができる。

 

2.3.2.釈迦仏造立

  常忍は、文永七(1270)年九月、下総国真間の弘法寺に釈迦仏を造立して供養した。このことは常忍の信心のあらわれであった。釈迦仏造立をもって、自身の成仏得道を願い、さらに、弘法寺に安置することによって、大聖人の仏法を真間の地に定着させようとしたものといえるのである。当時の寺は、付近の人々にとっての拠り所となっていたからである。
 大聖人は真間釈迦仏供養遂状に、
 「釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。」(0426頁)
と述べられ、常忍の釈迦仏造立に対してめでられている。
 言うまでもなく日蓮大聖人の正意においては、釈尊の仏像を用いない。日寛上人の末法相応抄にも明らかなように、絵像・木像の本尊は立てないのである。あくまでも大聖人直筆の曼荼羅をもって本尊とするところに大聖人の御正意がある。
 しかし、当時は本尊開顕にいまだいたらず、日本中が弥陀念仏を称えている時にあって、大聖人はひたすら妙法五字の題目を唱えることを教示され、もっぱら題目の流布に努められていた。そのため佐渡以前においては、本尊のことについては、それほどきびしくはされず、釈尊の一体仏を一往容認されていたともいえるのである。
 常忍は釈迦仏を造立供養することが、自身の偉大な福徳となり、広布推進の一歩前進につながると信じていたのである。まして、常忍はもともと天台教学を学び、台家の習慣がいまだ残っていたようであり、造像を好む癖があった。
 「いつぞや大黒を供養し」(0426頁)
とあり、大国より釈迦仏の造立のほうが勝れるから、仮にこれを賞讃されたともいえるのである。
 大聖人が釈迦仏造立をほめられ、許されたということは、そうした一つの段階での、大聖人の、一往の御化導であったことを知らねばならない。
 なお、この釈迦仏造立については、建治三(1275)年に主君を失い、建治二(1276)年、母を亡くしたことからくる追善供養、さらには自身の成仏のためとして、建治二・三年とする説もあるが、やはり文永七(1270)年ごろと考えるべきであろう。

 

2.3.3.真間問答

 弘安元(1278)年九月、富木常忍は、了性、思念という学僧と法論を行い、勝利を収めた。了性、思念は、当時下総国の真間に住し、広学多聞の名声高き学僧であった。
 一説によると、了性房は真間寺の住持であったともいわれている。しかし、天台法華宗の僧であるにもかかわらず、
 「彼の了性と思念とは年来日蓮をそしるとうけ給はる。」(1285頁)
とあるように、大聖人を前々から誹謗していたようである。
 この問答は、
 「此の方のまけなんども申しつけられなばいかんがし候べき。」(1285頁)
とあるところから、おそらく公場の、しかも上司の面前で行われたと推察できるのである。
 法論の内容は、常忍抄に明らかである。まず、常忍が、妙楽大師の法華文句記巻九下の、
 「権を禀けて界を出づるを名づけて虚出と為す。」(1284頁)
の文を挙げて、法華経本門以外は無得道であると主張した。
 これに対して了性房は、
 「全く以て其の釈無し」(1283頁)
とし、論議の結果は常忍の勝となったとみられる。
 また、不信は謗法であるか否か、止観の行者は戒を持つべきか否か、が論じられたようである。
 常忍は、四条金吾や池上兄弟と同じ武士階級の者であった。しかしながら、大聖人からの賜書、この問答の内容からみると、天台教学にはかなり精通していたようである。
 大聖人は、常忍からの問答の報告を受けられるや、ただちに常忍抄を認めて送られている。この中には、問答で争われた論点について、くわしく教示されるとともに、大聖人の弘める法門は、
 「第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。」(1285頁)
と第三の法門であることを示されている。
 さらに、今回の勝利は了性房の天罰の故であり、謗法の科が顕われた故であるが、
 「此の法門の御論談は余は承らず候。彼は広学多聞の者なり。はゞかりはゞかりみたみたと候ひしかば、此の方のまけなんども申しつけられなばいかんがし候べき。」(1285頁)
と、注意を喚起されている。
 さらに今後の対処の仕方についても教示され、
 「此より後は下総にては御法門候べからず。了性・思念をつめつる上は他人と御論候わば、かへりてあさくなりなん。」(1285頁)
と法論を禁じられている。
 これは、広学多聞の了性房を論破したのであるから、その他の人と法論したりすれば、かえって評価を下げ、浅くみられてしまうであろうと、常忍の立場を心配されて、自粛するよう誡められたのである。
 ともあれ、この真間問答は、常忍の学解の深さをいかんなく発揮したともいえるであろう。
 なお、了性房は、この問答の敗北によって、弘法寺から退出してしまった。その後、弘法寺には、常忍の子・伊予房日頂が住持として入り、ここを拠点として、弘教に励んだといわれている。

 

2.3.4.曾谷教信の迹門不読について

 建治元(1275)年十一月には曾谷教信が、弘安二(1279)年五月には大田乗妙等が、観心本尊抄の
 「一品二半よりの外は小乗教・邪教・末得道教・覆相教と名づく。」(655頁)
等の文を誤って解釈し、迹門は無得道であるから読まいという説をとなえるという事件があった。
 同じ下総に住み、ともに信心に励んできた常忍は、このことを大聖人に報告し指導を求めたのである。
 これに対し大聖人は、
 「不相伝の僻見にて候か。」(914頁)、
 「是は以ての外の謬りなり。」(1370頁)
と述べ、さらに、大聖人の御真意を説かれている。
 建治元(1275)年十一月二十三日、御述作の観心本尊得意抄には、
 「所詮、在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は、今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。」(914頁)
と説かれている。
 また、弘安二(1279)年五月十七日の四菩薩造立抄には、
 「本迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし。」(1370頁)
と述べられ、いま、末法の時は法華経一部のなか、本門が正意で迹門が傍意である。ゆえに傍意の迹門を無得道といったからといって、迹門を捨てて本門ばかりを信ずることは、いまだ大聖人の本意を心得ていないためである、と御教示されている。
 そして、常忍に対して、
 「去ぬる文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候ひしが、其の通りを以て御教訓有るべく候。」(914頁)、
 「此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人々にも披露あるべき者なり。」(1370頁)
と観心本尊抄を賜った身として、正しく教導するよう託されている。 

 

 

2.4.大聖人の身延御入山以後の富木常忍

2.4.1.身延後入山と富木常忍

 日蓮大聖人は、文永十一(1273)年三月二十六日、佐渡流罪を赦免され、無事に鎌倉に戻られた。そして四月八日には、平左衛門尉頼綱と対面され、三度目の諌暁をされた。
 しかし、これも聞き入れられず、
 「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひしなり。又いにしへの本文にも、三度のいさめ用ひずば去れといふ。」(1153頁)
とあるごとく、五月十二日に鎌倉を出られて、十七日身延に入山された。
 この時も、入山後ただちに富木殿御書を認められ、
 「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶ひて候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。又たちとゞまるみならばげざんに入り候べし。」(730頁)
との御心境を常忍に伝えられている。
 さらに、大聖人は、法華取要抄の御述作に取りかかられ、五月二十四日には書き終えられ、これもまた、常忍に送られている。法華取要抄は、法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経が、末法弘通の正法であることを明かされた重書であった。

 

 

2.4.2.建治二年前後の富木常忍

 一方、富木常忍にとって、大聖人が佐渡流罪にあわれた文永八(1271)年~建治三(1277)年にかけては、外に蒙古の襲来、ひきつづいて主君の死、内には母の死、夫人の病気と、めまぐるしく変転した時期であった。また、そのために建治年間に入っては、出家の志すら抱いたようである。
 当時、蒙古の動向は、日本の民衆にとっては最大の国難であり、常忍にとっても切実な関心事であった。文永五(1268)年正月、蒙古からの国書がもたらされてから、それに対処するため、幕府からさまざまな対策が打ちだされたのである。
 文永八(1271)年九月十三日には、九州に所領をもつ東国御家人に対して御教書が発せられた。その内容は、九州に所領を持ちながら、その地に在住していない者は、早急に本人または代官を下向させ、その地の守護とともに、蒙古の襲来に対する防備の任に当たるよういというものである。
 同趣旨の御教書は千葉氏にも下されたと思われ、千葉頼胤も肥前国の小城の地に下向している。頼胤に仕えていた被官、所従の多くも頼胤に従って下向したものと思われる。
 建治二(1276)年三月二七日の富木殿御返事には、
  「当時つくしへむかへば、とゞまるめこ、ゆくをとこ、はなるゝときはかわをはぐがごとく、かをとかをとをとりあわせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれて、ゆいのはま、いなぶら、こしごへ、さかわ、はこねざか。一日二日すぐるほどに、あゆみあゆみとをざかるあゆみも、かわも山もへだて、雲もへだつれば、うちそうものはなみだなり、ともなうものはなげきなり」(955頁)
と、蒙古の防備のために下向する武士と、それを見送る妻子の別離の悲しみを述べられている。
 常人は、主君および多くの同僚を九州へ見送った。その心情は、まさに悲痛なものであったにちがいない。常忍にとって、もはや蒙古襲来は他人事ではなかったわけである。
 文永十一(1274)年十月、ついに蒙古は来襲し、日本に多大なる損害を与えた。常忍の主君・千葉頼胤は、その戦いで負傷し、翌、建治元(1275)年八月肥前国の小城の地で没している。三十七歳であった。
 長年にわたって頼胤に仕えてきた常忍にとって、頼胤の死は、千葉家における立場を微妙なものにしたであろう。
 このような不安定な状況の中にあって、常忍は、建治二(1276)年二月下旬には、九十歳を超える長寿であった母を亡くしたのである。
 「営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。」(957頁)
とあるように、人一倍母に対する孝養心の厚かった常忍にとって、母の死は、たとえようのない悲しみであったにちがいない。
 常忍は、さっそく亡き母の遺骨を奉じて、身延の大聖人のもとに参じた。忘持経事には、
 「離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。(中略)案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息む。(957頁)
と述べられている。
 常忍の夫人・尼御前は、建治元年ころから健康を害し、病魔になやまされていたようである。常人は、身延に登った折、夫人の病気のことについても報告したようである。常忍が帰る時には、尼御前に、
 「法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病にては候はじ。設ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。」(955頁)
と、富木尼御前御返事を認められ励まされたのである。
 常忍は、こうして十分に母の追善供養を行い、また大聖人のもとにあって久しく御教示を受け、下山したのである。この時、常忍は、大切な持経を庵室に置き忘れてしまった。大聖人は、
 「夫槃特尊者は名を忘る。此閻浮第一の好く忘るゝ者なり。今常忍上人は持経を忘る。日本第一の好く忘るゝの仁か。」(956頁)
といわれ、使者に託して届けられている。
 こうした主君の死と母の死、夫人の病気に遭遇した常忍にとって、人間の無常を実感するに十分であった。それゆえにこそ、なおいっそう自身の無始以来の罪業を消滅し、成仏の永遠の道を求めようとしたのである。
 そのあらわれか、常忍は、建治三(1277)年三月「畏て言上せしめ候、受け難き人身を受け、遇い難かるの仏法に遇う事、宿業の感ずるところ」で始まる不審状と呼ばれる書状を、日昭に託して大聖人のもとに差し上げたようである。
 その中で、常忍は「敵々明師に逢い奉り、法門を聴聞せしむと雖も、根性闇鈍の間所得の法門忽に忘失す。是れ謗法の先業歟、憂喜相交る者なり」と自身の先業の重きを深く歎き「余命齢已に六旬に及ぶ。縦い長命を期すと雖も余命幾ならず、念念歩歩の所作皆以って三途の業なり、仰て仏法を信ずと雖も、若し罪業を尽さざれば悪趣に堕ちん事疑い無し、不軽軽毀の衆、信伏隋順せしむと雖も、謗法の罪を滅せざれば千劫阿鼻に堕す」と、堕地獄の恐怖を述べ、後生における救済を切実に求めたのである。
 さらに、具体的方途として「唯願くは、聴聞を垂愍せられ、速に世事を捨て、蘭室に入って親近侍し奉らんと欲す」と、身延の大聖人に常随給仕することを願っている。
 常忍は、以前から入道となり、持忘経事に、
 「身は俗に非ず道に非ず禿居士。」(957頁)
とあるような身ではあったが、この時期、真に出家して仏道に専念する希望を強く持っていたと思われる。
 この常忍の不審状に対する回答が、四信五品抄であったといわれている。この内容、またそれ以前の御書を拝するかぎり、常忍の出家した様子はみられない。おそらく、大聖人からさまざまな激励を受け、この危機を信心で見事に克服したのではないかと考えられる。

 

 

2.4.3.熱原法難および大聖人御入滅と富木常忍

 日蓮大聖人身延入山五年後の弘安二(1279)年九月、駿河国熱原に法難が起こった。熱原の農民信徒二十人が捕らえられ、鎌倉へ送られたのである。この法難において日興上人を助けて活躍したのは日秀、日弁の二師であった。幸い両師は捕えられることはなかったが、もはや富士の地に住することは周囲の状況からみて困難であった。
 この時、大聖人は日頂に付けて日秀、日弁を下総に遣わし、常忍夫妻に、両師の外護を託されている。
 この法難は、大聖人にとって出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊御図顕の機縁となるという最も重要な意義をもっていたが、日秀、日弁の保護に当たった常忍にとっては、関心が薄かったようである。日亨上人は、富士日興上人詳伝の中で「大聖人は熱原法難を御自身の大法難と『聖人御難事』におおせられてあっても、下総に避難した日秀・日弁等には、刻心鏤骨忘るることはできぬ恨事であっても、富木殿以下の人々には、さはど重事には扱わなかった」と述べておられる。
 常忍の信解のいたらなかった面が、このようなところにあらわれているのかもしれない。
 日蓮大聖人は弘安五(1282)年十月十三日、一切を第二祖日興上人に付嘱され、池上宗仲の館において、集まった常忍はじめ多くの弟子檀那の読経・唱題のうちに、安祥として御入滅された。
 常忍は、御葬送の折、門下の重鎮として、香炉を持って参列している。

 

 

  3.晩年の御書の厳護

 

3.1.大聖人御入滅後の富木常忍

 大聖人御入滅後の下総における教団の維持運営は、六老僧の一人であり常忍の子息でもある伊予房日頂を中心に進められていた。ところが、永仁の初め常忍は、日頂を勘当し、下総から追放されてしまったのである。
 その理由は定かではないが、中山法華経寺出身の日親の伝燈伝には、若宮で行われた大聖人の三回忌法要に、宗論のためとはいえ、遅参したゆえであると述べている。三回忌法要は、弘安七(1284)年であることから、この記述は十三回忌法要のまちがいであったかもしれない。また日感の「常師行状・三寺初祖」と題する慶長末年ころの記録には、弘法寺俗別当の及川宗秀が、自分の子日樹を弘法寺の住持にしようとして「日頂は、真言僧と親しくして弘法寺の勤行を疎かにしている」と常忍に讒言したためであるとしている。
 いずれにしても、日頂を勘当した常忍は、日頂にかわって、自ら下総における信仰の中心者として、教団の維持運営に当たり、教化弘通をすすめなければならなかった。そのため常忍は、日常と名乗じ、自邸内の持仏堂を改めて法華寺とし、その住持となったのである。数多い信徒のなかにあって、僧侶となったのは常忍一人である。
 永仁三(1295)年十月以降には、自ら本尊を書写して与えるなど、大聖人の御教示に反する行動をとり、日興上人からも離れ、独自の門流を形成するようになっていった。こうして中山門流が形成された。
 こうしたなかにあって、常忍は、観心本尊抄・立正安国論をはじめとする数多くの御書の保存には全力を尽くしたのである。大聖人の御真筆の御書は、湿気を考慮して風通しの良い皮かごに納め、写本等は適当な桐箱に納めたようである。いかに保存に心をくだいていたかがしのばれる。
 永仁七(1299)年三月四日、常忍は、法華寺に厳護している御本尊ならびに御書の保存に関する置文を定めた。「定め置く条条の事」と題する日常置文である。
 その第一条、第二条には次のように定めている。
    一、聖人の御書並びに六十巻以下の聖教等、寺内を出す可からず事。
    右、聖教を惜しむ事は法慳に似たりと雖も、借失するに至っては尚彼よりも甚し。よって何なる大事有りと雖も、当寺の困外に出す事、一向に之を停止すべし、但し至要の時は、道場に於いて之を被見する事は制の限りに非ず。
    一、聖教殿居の事。
    日常存生の時の如く、一分の懈怠も無く之を勤めらるべし。
 これによると、まず、大聖人の御書類は、けっして寺の外に持ち出してはならないことが挙げられている。常忍は、その但し書きにもあるように、御書の貸し出しを禁ずることは、いかにも法を惜しむようではあるが、貸し出して失っては、惜しむ罪よりも重いと、その理由を述べている。どうしても披見する必要のある時は、寺の中で見るように、それならば差し支えはないと厳しく定めているのである。
 さらに、これらの御書を納めている聖教殿の勤めについて述べている。常忍は、自分が勤めていた時と同じように、自分の死後においても、聖教殿の殿居を少しでも怠るようなことがあってはならないと定めたのである。
 この御文を見てもわかるように、大聖人の御書を後世まで守り伝えることについて、いかに強い使命感と責任感を持っていたかがしのばれる。
 常忍は、この置文を制定しおわって後、三月六日には、さらに「常修院本尊聖教事」と題し、法華寺に所蔵する御本尊・御書等の目録を作成している。
 このおもな内容は、「御自筆皮籠」の標題の下に、観心本尊抄一帖、法華取要抄一巻、要文集五帖を記し、「巻物分」の標題の下に、御書および要文集十三通を記し、「御消息文」の下に、五十四通の御消息を記している。以上が、大聖人御自筆の文で、おもに常忍一家に賜った御書等である。
 つぎに「御書箱」の標題の下に、立正安国論一巻、開目抄上下一帖をはじめ一巻十六帖の御書を記し、「要文箱」の標題の下に二十種の要文集を記している。これらはいずれも写本であり、常忍が収集し保存していたものである。
 大聖人滅後、多くの弟子檀那が、大聖人から賜った御書を、仮名でかかれてあるから先師の恥になるといって焼いたり、すき返ししたりしたなかで、常忍は厳として、大聖人の御書を守り抜いたのである。
 常忍が日常置文、常修院本尊聖教事を著したのは、永仁七(1299)年、大聖人滅後十八年目であった。以来、二代日高、三代日祐と常忍の遺言どおり、大聖人の御書を集め保存することに心をくだいている。
 こうして、常忍開基と伝える中山法華経寺には、観心本尊抄等五十数編の大聖人の御真筆御書が現存しているのである。中山法華経寺が大聖人の法義にはずれ邪義に陥った科は科として、この一点に関しては、常忍の護法の大功績といってよいであろう。
 こうして、三十年にわたって外護の任を果たし、晩年は自らの教団の基礎を固めた常忍は、「当寺並びに本尊聖教は帥殿に申し付け奉り候、弘法寺は兵部阿闍梨に申し付け候」と、日高、日陽に教団の後を託し、とくに日高に第二代を付し、永仁七(1299)年三月二十日、八十四歳で死去した。

 

 

3.2.富木常忍没後の中山門流

 常忍没後の中山門流は、第二祖日高、第三祖日祐と継承し、千葉胤貞一族の外護を受け、門流の体制を整えていった。第三代日祐は、曼荼羅御本尊を幾巾も書写したり、法華寺・本妙寺に仏殿を建立し、釈迦・多宝の二仏と四菩薩の造立を行う等、諸堂の整備を行った。また毎年のように、日興上人離山後の身延山久遠寺の大聖人の墓所に参詣し、身延山三世の日進と親交を深めたりもしている。
 第七祖日有の時代には「なべかむり日親」と呼ばれる久遠院日親が出た。日親は、門流のあり方に疑問を持ち、不惜身命の折伏精神こそが大聖人の正意であると、不受不施の信仰体制を強く主張した。加えて日有の謗施受用、本尊の雑乱勧請等の謗法行為を諌言したため、逆に門流から破門された。
 さらに、日親は、日興上人の原殿御返事を用いて、これまで通用していた身延山は、大聖人の御教示から違背しており「身延は高祖の御墓所、池上は御荼毘所たりといえども、下馬をも成す可からざる上は参詣の沙汰の限なり」とも主張したのである。
 その後、中山門流は、中山法華経寺を中心として分立、対立を繰り返しつつも、釈迦本仏および祖師信仰と鬼子母神信仰を軸に、教義には本迹一致をもって、身延派に属し教勢を拡大してきた。
 昭和二十七(1952)年には、日蓮宗内の複雑な事情によって、中山法華経寺は身延派から独立し「中山妙宗」と称したが、昭和四十八(1973)年には、ふたたび身延山久遠寺を祖山とする日蓮宗身延派と合同し今日に至っている。このように、常忍没後の中山門流は、御書の保存を唯一の誇りとしながらも、大聖人の教義からは大きく外れて謗法と化していったのである。
 今日の、中山法華経寺にみると、本尊に迷い、祈祷と荒行の根本道場となっている。
 境内には、いくつかの堂舎がある。大御本尊の御影および中山法華経寺の六祖までの木像を安置した祖師堂、一尊四士を安置する常修殿、法華堂、十羅刹女を祀る刹堂、蛇身を御神体として祀る宇賀神堂、その他、八大竜王堂、妙見堂、清正堂、大田稲荷等々、まさしく本尊雑乱のきわみとなっている。
 また、身延派で祈祷の本尊としている鬼子母神を安置し、子育てをはじめとして、除厄、安産成就、又商売繁盛の現世利益を願い、鬼子母神の開帳や加持祈祷を盛んに行っている。ともに祈祷の種類によって志納金が定められている。
 一方、境内には、日蓮宗加行所と呼ばれる荒行堂があり、百日間の水行と読誦行とにより、木剣加持の伝授を受けるという荒行が行われている。
 これらは、いずれも日蓮大聖人の御教示からは大きく逸脱し、謗法の行為となっていることはいうまでもない。富木常忍の大聖人の仏法に対する信解の誤りが起因となって、今日の中山法華経寺を形成したといえる。