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(★484㌻) 今月(十月なり)十日、相州愛京郡依智郷を起って、武蔵国久目河の宿に付き、十二日を経て越後国寺泊の津に付きぬ。此より大海を亘って佐渡国に至らんと欲す。順風定まらず、其の期を知らず。道の間の事、心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず。但暗に推し度るべし。又本より存知の上なれば、始めて歎くべきに非ざれば之を止む。 |
今月(十月である)十日に相州の国愛京(愛甲)郡依智の郷(現在の神奈川県厚木市)をたって、武蔵国の久目河(現在の東京都東村山市久米川町)の宿に着き、十二日かかって越後国の寺泊(現在の新潟県三島郡寺泊町)の港に着いた。 これから大海を渡って佐渡国に渡ろうとしているが、順風が定まらないために、出発の日がわからない。ここまでの道中のことは、想像も及ばないほどで、また筆に書くこともできない。ただ推量にお任せする。またこの苦難はもとより覚悟のうえなので、いまはじめて歎くことではないから、やめておく。 |
| 法華経第四に云はく「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間怨多くして信じ難し」と。涅槃経三十八に云はく「爾の時一切の外道の衆咸く是の言を作さく、大王○今者唯一の大悪人有り、瞿曇沙門なり○一切世間の悪人、利養の為の故に其の所に往き集まりて、而も眷属と為って善を修すること能はず。呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目犍連等を調伏す」云云。此の涅槃経の文は、一切の外道が我が本師たる二天・三仙の所説の経典を、仏陀に毀られて出だす所の悪言なり。法華経の文は、仏を怨と為す経文には非ず。 | 法華経の巻第四の法師品第十には「この法華経は如来の現に在ます時でさえ怨嫉が多い。ましてや釈尊の滅度の後においてをや」とあり、第五の巻の安楽行品第十四には「一切の世間の中に怨が多くて信じ難い」とある。 また涅槃経の三十八には「その時に一切の外道が阿闍世王の前にでてみなこう言った『大王よ、今世の中に一人の大悪人がいる。瞿曇沙門がそれである。世間のあらゆる悪人は利欲のために彼のもとに集まって、その眷属となり、善いことをすることがない。また彼は呪術の力によって迦葉や舎利弗・目犍連などを帰伏させ弟子としている』」とある。この涅槃経の文は、一切の外道が自分達の本師である二天三仙の説いた経典を仏陀に破られたために言った悪口なのである。 法華経の文は、仏を怨とするという経文ではない。 | |
| 天台の意に云はく「一切の声聞・縁覚並びに近成を楽ふ菩薩」等云云。聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、其の機に当たらざるは、言を出だして謗ること莫きも、皆怨嫉の者と定め了んぬ。在世を以て滅後を惟ふに、一切諸宗の学者等は皆外道の如し。彼等が云ふ一大悪人とは日蓮に当たれり。一切の悪人之に集まるとは、日蓮が弟子等是なり。彼の外道は先仏の説教流伝の後、之を謬って後仏を怨と為せり。今の諸宗の学者等も亦復是くの如し。所詮仏教に依って邪見を起こす。目の転ずる者、大山転ずと欲ふ。今八宗・十宗等、多門の故に諍論を致す。 | 天台大師の解釈にも「一切の声聞・縁覚の二乗、ならびに始成正覚の仏を求めて久遠実成を信じない菩薩が怨である」とあるように、法華経を聞こうともせず信じよともしない人々は、言葉に出して誹謗することがなくても、みな怨嫉の者と定められているのである。 釈尊の在世のことから滅後を推し量ると、一切の諸宗の学者等はみな仏在世の外道のようなものである。彼等がいう「一大悪人」とは日蓮にあたる。「一切の悪人がそこに集まっている」とは日蓮が弟子檀那のことである。彼の外道は過去の仏の教えを誤り伝えて、かえって今の仏である釈尊を怨としたのである。今の諸宗の学者等もまたこれと同じである。結局のところは、仏の残された教えによって邪見を起こしたのである。ちょうど酔って目の回っている者が、大きな山が回っているように見えるのと同じである。今の八宗・十宗等の多くの流派を作って諍論しているのもを目の回っているものの類である。 |
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涅槃経第十八に「贖命重宝」と申す法門あり。天台大師の料簡に云はく「命とは法華経なり。 (★485㌻) 重宝とは涅槃経に説く所の前三経なり」と。但し涅槃経に説く所の円教は如何。此の法華経に説く所の仏性常住を、重ねて之を説いて帰本せしめ、涅槃経の円常を以て法華経に摂す。涅槃経の得分は但前三教に限る。天台の玄義の三に云はく「涅槃は贖命の重宝なり。重ねて掌を抵つのみ」文。籖の三に云はく「今家の引く意は、大経の部を指して以て重宝と為す」等云云。天台大師の四念処と申す文に、法華経の「雖示種種道」の文を引いて、先四味を又重宝と定め了んぬ。若し爾らば法華経の先後の諸経は法華経の為の重宝なり。世間の学者の想はくに云はく「此は天台一宗の義なり。諸宗には之を用ひず」等云云。 |
涅槃経の第十八に「贖命重宝」という法門がある。天台大師はこれを解釈して「命というのは法華経であり、重宝とは涅槃経に説かれた蔵・通・別の前三教である」といっている。それでは涅槃経に説かれているところの円教はどこに属すのか。この円教は法華経に説くところの仏性常住を重ねて本の法華経に帰せしめ、涅槃経の円常を法華経に摂してしまうので、涅槃経の得分はただ蔵・通・別の前の三教に限られるのである。 天台大師の法華玄義巻三には「涅槃経は法華経の命を贖(あがな)う重宝である。重ねて掌をうったようなものである」とあり、妙楽大師の法華玄義釈籤巻三には「天台家で涅槃経の贖命重宝の譬喩を引く意は、涅槃経を重宝として法華経を命とするのである」と明かされている。 天台大師の四念処という書物に法華経の「雖示種種道(種々の道を示すといえども)」の文を引用して華厳・阿含・方等・般若の四味の諸経をまた法華経の命を贖うための重宝である、と定められた。もしそうであるなら法華経の前の諸経も涅槃経も法華経のための重宝なのである。 ところが世間の学者は「これは天台宗だけの義であって、諸宗ではそういう義は用いない」と述べている。 | |
| 日蓮之を案じて云はく、八宗・十宗等、皆仏滅後より之を起こし、論師・人師之を立つ。滅後の宗を以て現在の経を計るべからず。天台の所判は、一切経に叶ふに依って一宗に属して之を棄つべからず。諸宗の学者等、自師の誤りを執する故に、或は事を機に寄せ、或は前師に譲り、或は賢王を語らひ、結句最後には悪心強盛にして闘諍を起こし、失無き者を之を損なふて楽しみと為す。 |
日蓮がこれを考えるに、八宗・十宗等の諸宗はすべて釈尊の滅後に起こったもので、論師・人師の立てた宗である。仏滅後にできた宗義から釈尊在世の経文の意を判じてはならない。天台大師の判釈は一切経の意に叶っているから、これを天台宗のみの義として棄ててはならない。 諸宗の学者等は自らの師の誤りに執着するために、あるいは法華経を機根に合わない、あるいは祖師の仰せだからといい、あるいは賢王を語らって味方につけ、そのあげく最後には悪心が盛んとなって闘諍を起こし、罪のない者を迫害して楽しみとするのである。 |
| 諸宗の中に真言宗殊に僻案を至す。善無畏・金剛智等の想はくに云はく「一念三千は天台の極理、一代の肝心なり。顕密二道の詮たるべきの心地の三千をば、且く之を置く。此の外、印と真言とは仏教の最要」等云云。其の後真言師等、事を此の義に寄せて印・真言無き経々をば之を下すこと外道の法の如し。或義に云はく「大日経は釈迦如来の外の説なり」と。或義に云はく「教主釈尊第一の説なり」と。或義に「釈尊と現じて顕教を説き、大日と現じて密教を説く」と。 |
諸宗のなかでも、真言宗がとくに邪義を構えている。彼らの祖師の善無畏・金剛智等は「一念三千の法門は天台の至極の法門であり、釈尊一代の肝心である。顕密二道の究極である心地の三千はしばらくおく。 このほかに印と真言は仏の教えの最も要である」と述べた。それ以後、真言師等が、祖師の義に事寄せて印と真言のない経々を下すこと、まるで外道の法のようである。 ある者は「大日経は釈迦如来のほかの大日如来の説である」といい、ある者は「大日経は教主釈尊の第一の経である」といい、またある者は「ある時は釈尊と現れて顕経を説き、ある時は大日如来と現われて密経を説いたのである」と主張している。 |
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| 道理を得ずして、無人の僻見之を起こす。譬へば乳の色を弁へざる者、種々の邪推を作せども、本色に当たらざるが如し。又象の譬への如し。今汝等知るべし、大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経等の如し。又天竺の法華経には印・真言有れども、訳者之を略して羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか。 |
これらのものは仏の教えの道理を知らないで果てしない邪見をおこしているのである。譬えば乳の色を知らない者が集まってさまざまな誤った推察をめぐらしても、本当の色がわからないようなものである。また盲目の者が集まって象を論じても、像の全体の形がわからない譬えのようなものである。いま諸宗の学者等は、大日経は法華経以前なら華厳経等のようであり、法華経以後ならば涅槃等と同じく法華経の命を贖うための重宝にすぎないことを知るべきである。あるいはまた、インドの法華経には印と真言があったが、中国の訳者がこれを略して、羅什三蔵は妙法蓮華経と名づけ、善無畏は印と真言とを加えて大日経と名づけたのであろうか。 |
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譬へば正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利等の如し。仏の滅後、天竺に於て此の詮を得たるは竜樹菩薩、 (★486㌻) 漢土に於て始めて之を得たるは天台智者大師なり。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等、名は自宗に依れども其の心は天台宗に落ちたり。其の門弟等此の事を知らず、如何ぞ謗法の失を免れんや。 |
たとえば、法華経にも正法華・添品法華経・法華三昧経・薩曇分陀利経等があるようなものである。 釈尊の滅後にインドにおいて、法華経と諸経との関係を正しく知ったのは竜樹菩薩であり、中国ではじめてこれを知ったのは天台智者大師である。真言宗の善無畏等、華厳宗の澄観等、三論宗の嘉祥等、法相宗の慈恩等は、名はそれぞれの宗として一宗を立てているが、内心は天台宗に帰伏しているのである。その門弟等はこのことを知らないで邪義を構えているが、どうして謗法の罪を免れることができようか。 |
| 或人日蓮を難じて云はく、機を知らずして麁義を立て難に値ふと。或人云はく勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず」云云。或人云はく、唯教門計りなり、理は具に我之を存ずと。卞和は足を切られ、清丸は穢丸と云ふ名を給ひて死罪に及ばんと欲す。時の人之を咲ふ。然りと雖も其の人未だ善き名を流さず。汝等が邪難も亦爾るべし。 |
ある人が日蓮を非難して「末法の衆生の機根を知らないで、荒々しい折伏をするから難に遭うのだ」といい、ある者は「勧持品に説かれている折伏の修行は深位の菩薩の行であり、初心の行の者は安楽行品の摂受の行によるべきであり、日蓮房はこれに背いている」といい、ある人は「自分も内心は法華経第一の義は知っているが言わないでいるのだ」とのべている。またある人は「日蓮は教相門ばかりで観心門がないではないか」と責めている。 こうした非難を日蓮はよく知っているが、中国の卞和は足を切られ、清丸は穢丸という名をつけられたうえ、死罪にされようとした。その当時の人々はそのありさまを笑ったが、笑われた人は名を残し、笑った人々はその名を後世まで残していない。汝らの邪な非難もまた同様であろう。 |
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| 勧持品に云はく「諸の無智の人有って、悪口罵詈す」等云云。日蓮此の経文に当たれり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。「及び刀杖を加ふる者」等云云。日蓮此の経文読めり。汝等何ぞ此の経文を読まざる。「常に大衆の中に在って、我等の過を毀らんと欲す」等云云。「国王・大臣・婆羅門・居士に向かって」等云云。「悪口して顰蹙し、数々擯出せられん」と。数々とは度々なり。日蓮が擯出は衆度、流罪は二度なり。法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来に不軽品たるべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩たるべし。 |
勧持品第十三には「諸の無智の人々が悪口罵詈をする」とある。日蓮はこの勧持品の文のとおりになっている。汝らは、なんでこの経文に入らないのか。また「そして刀杖を加える者がいる」と。日蓮はこの経文を身で読んだのである。汝らは、なんでこの経文を身で読まないのか。 また「つねに大衆のなかで、法華経の行者を毀ろうとする」とも、「国王・大臣・婆羅門等に向かって法華経の行者を誹謗する」とも、「悪口し、軽蔑して、そのために法華経の行者は数数処を追われたりする」ともある。数数とはたびたびである。日蓮は処を追われることは数回、流罪は二度である。 法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。今の勧持品は未来には不軽品となって修行の範となるであろう。その時、勧持品を色読した日蓮は過去の不軽菩薩として折伏の範となるであろう。 |
| 一部八巻・二十八品、天竺の御経は一須臾に布くと承る。定めて数品有るべし。今漢土・日本の二十八品は、略の中の要なり。正宗は之を置く。流通に至って宝塔品の三箇の勅宣は、霊山・虚空の大衆に被らしむ。 | 法華経は一部八巻・二十八品であるが、インドの原典には一由旬の広さに布かれるほどの量があると聞く。おそらくく経本は現在のもの以外にもっと多くの品であったのであろう。今の中国・日本の二十八品は略の中の要なのである。 この法華経は序分・正宗分・流通分に分かれているが、その正宗分はさておき、滅後の弘教のあり方や功徳の説かれた流通分にいたって、見宝塔品では三箇の勅宣をもっては霊鷲山と虚空会の大衆に滅後の弘教を仰せつけられた。 | |
| 勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩の御誓言は、日蓮が浅智に及ばず。但し「恐怖悪世中」の経文は末法の始めを指すなり。此の「恐怖悪世中」の次下の安楽行品等に云はく「於末世」等云云。同本異訳の正法華経に云はく「然後末世」と。又云はく「然後来末世」と。添品法華経に云はく「恐怖悪世中」等云云。 | また勧持品の二万・八万・八十万億等の大菩薩が滅後の弘教を誓言されたことについても日蓮の浅い智慧では量れない。ただし、その御誓言に「恐ろしい悪世の中」との経文は末法の始めをさすのである。この「恐ろしい悪世の中」と説かれた次の安楽行品等には「末世において」とあり、同本異訳である正法華経には「然るに後の末世に」とあり、また「然るに後の末世が来たりて」とあり、また添品法華経には「恐ろしい悪世の中」と説かれている。 | |
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当時、当世三類の敵人之有るに、但八十万億那由他の諸菩薩は一人も見へたまはざるは、乾たる潮の満たず、月の虧けて満ちざるが如し。 (★487㌻) 水清めば月を浮かべ、木を植ゆれば鳥棲む。日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官として之を申す。彼の諸の菩薩の加被を請くる者なり。 |
この末法の時にあたる現在、三類の強敵が出現しているのに、八十万億那由他の諸菩薩は一人もおみえにならない。たとえば乾あがった湖に水が満ちず、かけた月が満ちないようなものである。 水が清めば月が影を浮かべ、木を植えれば鳥が棲むようになるのである。日蓮は八十万億那由他の諸菩薩の代官として、この法華経を弘通するのである。必ず彼の諸の菩薩の加護を受けるであろう。 |
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此の入道、佐渡国へ御供為すべきの由之を承り申す。然るべけれども用途と云ひ、かたがた煩ひ有るの故に之を還す。御志始めて之を申すに及ばず。人々に是くの如くに申させ給へ。但し囹僧等のみ心に懸かり候。便宜の時早々之を聴かすべし。穴賢穴賢。 十月廿二日酉時 日蓮花押 土木殿 |
この入道はあなたのいいつけであるから、佐渡の国へ御供をするという。しかし、費用もかさみ、なにやかやと面倒なことでもあるからここで還すことにする。あなたの御志は今さら言うまでもないが、人々にもよくこのことを伝えてもらいたい。それにつけても土牢で苦しむ弟子達のことが心配なので、よい機会に早くこの法門を聞かせてほしい。穴賢穴賢。 十月二十二日 酉の時 日蓮花押 土木殿 |