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(★45㌻) |
そもそも遠い過去世から永遠に生命につきまとう、生老病死の苦痛をのがれるために、このたび、決意を固めて成仏という最高の悟りを得ようと思うならば、当然のこととして、衆生本有の妙理をさとらなければなりません。衆生本有の妙理とは、南無妙法蓮華経ということです。ゆえに南無妙法蓮華経と口に出して唱えるならば、衆生本有の妙理を悟ることになるのです。 |
| (★46㌻) |
妙法蓮華経は経文の上からいっても、道理の上からいっても、真実の正しい教えでありますから、その文字はそのまま実相を表しており、実相とは、すなわち妙法のことです。結局は、一心法界の旨を説きあらわしたものを妙法と名づけるのです。そのため、この南無妙法蓮華経を諸仏の智慧というのです。 | |
| 一心法界の旨とは十界三千の |
一心法界の旨とは、十界三千の依報と正報、色法と心法、非情の草や木、大空や大地など、すべてのものを除かず、ちりものこさず、一念の心におさめて、この一念が、心法界にあまねくみちわたることをさして万法というのです。このことを覚知することを一心法界ともいうのです。 |
| 但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はヾ全く妙法にあらず、 |
ただし、南無妙法蓮華経を唱え、持もつといっても、自分の心のほかに法があると思うなら、それは、けっして妙法をたもっているといえません。麁法をたもったことになります。麁法は、妙法蓮華経(今経)ではありません。妙法蓮華経でなければ、それは方便の教えであり、仮の教え(権門)です。方便の教え、仮の教えであるなら、成仏へ導く直道ではありません。成仏の直道でないのであれば、その教えを何度も何度も生まれかわってきて修行をして成仏するために、一生のうちに成仏することができるはずがありません。だから、南無妙法蓮華経と唱えることは、自分の一念をさして、南無妙法蓮華経と名づけると、深く信心をふるいおこしていくべきです。 | |
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あらゆる仏教の教えも、そしてそこに説かれるすべての仏や菩薩も自分の心の外にあると、けっして思ってはいけません。そうであるから、いくら仏教を習うといっても、心性を観じないのであれば、生老病死という人生の苦悩をのがれることはできません。もし自分の心の外に道をもとめて、あらゆる修行や善行をおこなっても、それは、貧しい人が一日中、となりの家の財産を勘定しても、半銭のもうけにもならないのと同じで、価値がないことなのです。 | |
| 然れば天台の釈の中には「若し心を観ぜざれば重罪滅せず」とて、若し心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると |
そのことを中国の天台宗の第六代妙楽が著した「止観観行伝弘決」には「もし心を観じて、その根本を悟らなければ、過去世からの重い罪を消すことはできない」といって、もし、心を観じることができないなら、その修行はかえって大きな苦しみとなると教えています。ゆえに、このような人は、仏法を学んでいるつもりでも、じっさいには外道を学んでいるとはずかしめられています。ここをもって、天台大師の「摩訶止観」には「仏教を学ぶといっても、かえって外道の考え方におちている」といっているのです。 | |
| 然る |
だから仏の名(南無妙法蓮華経)を唱え、方便品・寿量品を読み、仏前にしきみをそなえ、香をつまむことまでも、すべて我が一念におさまる功徳・善根となるという信心を身につけるべきです。 |
| 之に依って浄名経の中には諸仏の |
これによって、浄名経の中には「仏の悟りを一般の人びとの心行にもとめるならば、衆生そく菩提であり、生死そく涅槃である」と説いています。また、人びとの心が濁れば、生活環境も濁り、逆に、人びとの心が清らかであれば、生活環境も清らかになるのであって、浄土(幸福な仏の世界)といっても、穢土(悩みにみちた世界)といっても、別々にあるものではありません。ただそこに住むわたくしたちの心の善悪によって決まると説いています。衆生と仏とのちがいもこれと同じです。迷うときを衆生といい、悟ったときを仏というのです。たとえば、くもってよくうつらない鏡も磨けば宝石のようにみるものです。心もおなじで、迷い悩む心は磨かない鏡のようです。これを磨くならば、くもりのない鏡のように、かならず法性真如の明鏡となるのです。 | |
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深く信心を (★47㌻) |
深く信心をふるいおこして、昼も夜も朝も晩も、つねに怠ることなく磨かなければなりません。どのようにして磨けばよいかといえば、ただ、南無妙法蓮華経と唱えることが、磨くということになるのです。 |
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そもそも、妙法の“妙”とはどういうことかといえば、ただ、我が一念の心が不思議であるということをいっています。不思議とは、人間の頭で考えても考えきれるものではなく(不思)、言葉で表現しようとしても表現しきれるものはない(不議)ということです。 | |
| 然ればすなはち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば |
だから、さまざまに起こるところの一念の心を探求してみると、「ある」と表現しようとしても、色がついているわけでもなく、かたちがあるわけでもありません。また「ない」と表現しょうとしても、さまざまなに心がおこります。 | |
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「ある」とおもうべきでもなく「ない」とおもうべきでもない。心は、「ある」とか「ない」とかという言葉で表現しきれるものではなく、「ある」とか「ない」とか、どちらきに決めるられるものでもありません。 | |
| 有無に非ずして、而も有無に |
心は「ある」とか「ない」というものでもなく、しかも、「ある」とか「ない」とかのどちらかにもあらわれてくるのであって、「中道一実」(あるのでもないないのでもない実相)ともいうべき不思議なものであり、これを“妙”と名づけるのです。この“妙”なる心を名づけて“法”ともいうのです。 | |
| 此の法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。然ればすなはち、善悪に付いて起こり起こる処の念心の当体を指して、是妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。 | この妙法の教えの不思議なさまをあらわすのに、具体的なかたちのあるものにたとえて「蓮華」というのです。一心が“妙”であることを知れば、他の心も妙法と知るところを妙法蓮華経というのです。法華経は、善悪の縁にふれておこるところの心の本体をさして「妙法の体」と説いた最高の経であるから、成仏へただちにみちびく教えというのです。 |
| 此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て 日 蓮 花 押 |
このことを深く信じて、南無妙法蓮華経と唱えれば、一生のうちに成仏することはぜったいに疑いないことです。そのことを法華経神力品には「わたし(釈尊)の死んだ後(末法時代)に、この経(南無妙法蓮華経)をたもち、信じて実践していきなさい。そうすれば、この人が仏道を成ずることは決まっており疑いない」と説かれています。このことについて、けっして疑いをおこしてはいけません。一生成仏の信心とはこのほかにないのです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経 日蓮花押 |