真言諸宗違目  文永九年五月五日 五一歳

 

第一章 真言等の諸宗の誤りを略して挙げる

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 真言宗は天竺よりは之無し。開元の始めに善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等天台大師己証の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、之を立て真言宗と号す。
華厳宗は則天皇后の御宇に之を始む。澄観等天台の十乗の観法を盗んで華厳経に入れ、之を立て華厳宗と号す。法相・三論は言ふに足らず。禅宗は梁の世に達磨大師楞伽経等大乗の空の一分を以てせしなり。其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し、一切経を蔑如するは天魔の所為なり。浄土宗善導等観経等を見て一分の慈悲を起こし、摂地二論の人師に向かって一向専修の義を立て了んぬ。
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日本の法然之を誤り、天台真言等を以て雑行に入れ、末代不相応の思ひを為し国中を誑惑して長夜に迷はしむ。之を明らめし導師は但日蓮一人なるのみ。
 
 真言宗はもともとインドにはなかった。開元(唐の玄宗の治世)の初めに善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等が天台大師が自ら覚り開眼した一念三千の法門を盗んで大日経に入れて、これを立てて真言宗と称したのである。華厳宗は則天皇后の時代に始まった。澄観等が天台大師の十乗の観法を盗んで華厳経に入れてこれを立て、華厳宗と称した。法相宗や三論宗は言うに及ばない。
禅宗は梁の時代に達磨大師が楞伽経等をもって始めたもので、大乗で説く空の法理の一部分である。その学者等が大慢をおこして教外別伝等と称した。一切の経を軽蔑することは天魔の所為である。浄土宗は善導等が観経等を見てわずかの慈悲心を起こし、摂論と地論の二論の人師に向ってひたすら専修の義(念仏のみを修行すべきとの教義)を立てたのである。
日本の法然はこれを誤って解釈し、天台・真言等を雑行に入れ、末法の時代には不相応であるとの思いをなし、国中の人をたぶらかして惑わし、永く迷わしている。これを明らかにした導師はただ日蓮一人だけである。

 

第二章 涅槃経の文を挙げ謗法呵責の正しきを証す

 涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」等云云。
 灌頂章安大師云はく「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり。彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。法然が捨閉閣抛、禅家等が教外別伝、若し仏意に叶はずんば日蓮は日本国の人の為には賢父なり、聖親なり、導師なり。之を言はざれば一切衆生の為に「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」の重禍脱れ難し。日蓮既に日本国の王臣等の為には「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」に当たれり。此の国すでに三逆罪を犯す。天豈之を罰せざらんや。涅槃経に云はく「爾の時に世尊、地の少土を取って之を爪の上に置き迦葉に告げて言はく、是の土多きや、十方世界の地土多きや。迦葉菩薩仏に白して言さく、世尊爪の上の土は十方所有の土の比ならず○四重禁を犯し五逆罪を作って○一闡提と作って諸の善根を断じ是の経を信ぜざるものは十方界所有の地土の如く○五逆を作らず○一闡提と作らず。善根を断ぜず。是くの如き等の涅槃経典を信ずるは爪の上の土の如し」等云云。経文の如くんば、当世日本国は十方の地土の如く、日蓮は爪の上の土の如し。
   涅槃経に「もし善い僧が法を破る者を見て、放置して呵嘖も追放も罪を問うこともなければ、まさに知るべきである。この人は仏法の中の怨である」といっている。潅頂章安大師は「仏法を壊り乱す者は仏法の中の怨である。慈悲心も無く詐り親しむ者は、即ちその者にとって怨である。その者の為に悪を除くことは即ち彼に対する慈愛である」といっている。
法然の捨閉閣抛の教義や、禅家等の教外別伝がもし仏意に叶っていなければ、日蓮は日本国の人の為には賢父であり、聖親であり、導師である。このことを言わなければ、一切衆生の為に「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」との重罪から脱れることは難しい。日蓮は既に日本国の王臣等にとって「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」に当たる。この国は既に三逆罪を犯した。諸天がどうしてこれを罰しないことがあろうか。涅槃経に「その時に世尊が大地の土を少し取って、爪の上に置いて迦葉に告げて言われた。「この土のほうが多いだろうか。十方世界の大地の土のほうが多いだろうか」迦葉菩薩は仏に申し上げた。「世尊よ、爪の上の土則天皇后十方(じゅっほう)所有の土とは比べものにならないほど少ないものです」「四重禁(僧として犯してはならない四種の極重罪)を犯し、五逆罪を作って一闡提となって多くの善根を断ち、この経を信じないものは全宇宙の土のように多い。五逆罪を作らず、一闡提とならず、善根を断たず、このような涅槃経典を信じる者は爪の上の土のように少ない」
経文のとおりであるならは、今の時代の日本国は十方の大地の土のようであり、日蓮は爪の上の土のようなものである。

第三章 経文引き御自身が仏記に当たるを明かす

 法華経に云はく「諸の無智の人有って悪口罵詈等す」云云。法滅尽経に云はく「吾般泥洹の後、五逆濁世に魔道興盛なり。魔、沙門と作って吾が道を壊乱し○悪人転た多くして海中の沙の如く、劫尽きんと欲せん時日月転た短く、善者甚だ少なく若しは一若しは二人」等云云。又云はく「衆魔の比丘命終の後、精神当に無択地獄に堕すべし」等云云。今道隆が一党・良観が一党・聖一が一党・日本国の一切四衆等は是の経文に当たるなり。法華経に云はく「仮使劫焼に乾れたる草を担ひ負ひて中に入れて焼けざらんも、亦未だ難しと為ず。
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我が滅度の後に若し此の経を持ち一人の為にも説かん、是則ち為れ難し」等云云。日蓮は此の経文に当たれり。「諸の無智の人有って悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者あらん」等云云。仏陀記して云はく「後五百歳に法華経の行者有って、諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石・流罪死罪せられん」等云云。日蓮無くば釈迦・多宝・十方諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり。
   法華経に「多くの無智の人がいて悪口罵詈する」とある。法滅尽経に「「私が入滅した後、五逆罪の人々が充満する濁世に、魔道が盛んに興る。魔が僧侶となって正しい仏法を破壊し乱すであろう。また悪人はますます多くなり、海中の砂のようになるだろう。その世が尽きようとする時、太陽や月の輝く時間はますます短くなり、善人はたいそう少くなって、わずかに一人か二人である」とある。また、「多くの魔の僧侶は命を終えた後、三世に続く主体は間違いなく無間地獄に堕ちるだろう」とある。
今、道隆の一党、良観の一党、聖一の一党、日本国の一切の四衆等はこの経文に当たるのである。法華経に「「たとえ世界の破壊である劫に大火災がおこっているとき、乾いた草を背負って火の中に入っても焼けないというのもまだ難しいこととはしない。
私が入滅度した後に、もしこの経を持って一人の為にでもこの経を説くなら、これこそ則ち難しいことである」とある。日蓮はこの経文に当っている。「多くの無智の人がいて悪口をいい、罵り、及び刀杖を加える者がある」とある。
釈尊は記された。「後の五百歳に法華経の行者は多くの無智の者によって必ず悪口を言われ、罵られ、刀で切られ、杖で叩かれ、瓦や小石を投げつけられ、流罪され、死罪に処せられるであろう」と。日蓮がいなければ、釈迦や多宝・十方の諸仏の未来記はまさに大妄語となるはずである。

 

第四章 教の勝劣により人を判ずべきを明かす

 疑って云はく、汝当世の諸人に勝るゝ事は一分爾るべし。真言・華厳・三論・法相等の元祖に勝るとは豈慢過慢の者に非ずや。過人法とは是なり。汝必ず無間大城に堕すべし。故に首楞厳経に説いて云はく「譬へば窮人妄りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し。況んや復法王如何ぞ妄りに窃まん。因地直からざれば果紆曲を招かん」等云云。    疑っていう。「あなたが今の時代の多くの人より勝ていることについては、少しはそうであろう。しかし、真言・華厳・三論・法相等の元祖より勝れているというのは、まさに慢・過慢の者ではないか。過人法とはこのことである。あなたは必ず無間地獄に堕ちるだろう。」ゆえに、首楞厳経にこう説かれている。「たとえば貧しい者がみだりに帝王と称して、自ら打ち滅ぼされるようなものである。ましてまた法王の位をどうしてみだりに盗んでよいであろうか。修行の位が正しくなければ、仏果もうねり曲がるだろう」と。
 涅槃経に云はく「云何なる比丘か過人法に堕する。○未だ四沙門果を得ず。云何ぞ当に諸の世間の人をして我は已に得たりと謂はしむべし」等云云。答へて云はく、法華経に云はく「又大梵天王の一切衆生の父なるが如し」と。又云はく「此の経○諸経の中、最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。伝教大師の秀句に云はく「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠る。故に自讃毀他ならず。庶くは有智の君子、経を尋ね宗を定めよ」等云。
   涅槃経にこうある。「どのような出家した男子が過人法に堕ちるのか。いまだ四沙門果(小乗教における四種の声聞の悟り)も得ていないのに、どうして多くの世間の人々に対し、自分はすでに(四沙門果を)得たと思わせられるだろうか」と。答えていう。法華経にこうある。「また大梵天王がすべての衆生の父であるように」と。またこうある。「この経は諸経の中の王である。最もこれが第一である。よくこの経典を受持する者は、またまた同様にすべての衆生の中においてこれまた第一である」と。伝教大師は法華秀句で述べている。「「天台法華宗が諸宗より勝れているのは、よりどころとする経によるのである。自讃して他を毀っているのではない。願わくは仏法に通達し解了している人格者であるならば、拠り所としている経を明らかにしたうえでその宗を定めなさい」と。
 星の中に勝れたるは月、星月の中に勝れたるは日輪なり。小国の大臣は大国の無官より下る傍例なり。外道の五通を得るは仏弟子の小乗の三賢の者の未だ一通を得ざるも天地猶勝れり。法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝始めて之に驚くや。教に依って人の勝劣を定む。先づ経の勝劣を知らずして何ぞ人の高下を論ぜんや。    星の中で勝れているのは月である。星や月の中で勝れているのは太陽である。小さな国の大臣は大きな国の官職のない臣下より劣る。これは間接的例証である。外道の五通を得た者より仏弟子の小乗の三賢の位でいまだ一通も得ていない者のほうが、天が地より勝れている以上に勝っているのである。法華経以外の諸経の大菩薩は法華経の名字即の凡夫(初めて正法を聞いて一念三千の理を理解し疑わずに信じる位)より劣っている。どうしてあなたは初めてこのことを聞いたかのように驚くのか。教によって人の勝劣が定まる。まず経の勝劣を知らなければどうして人の高下を論じることができよう。

 

第五章 法華経の行者を諸天が守護するを明かす

 問うて云はく、汝法華経の行者為らば、何ぞ天汝を守護せざるや。答へて云はく法華経に云はく「悪鬼其の身に入る」等云云。首楞厳経に云はく「修羅王有って世界を執持して能く梵王及び天の帝釈四天と権を諍ふ。此の阿修羅は変化に因って有り、天趣の所摂なり」等云云。能く大梵天王・帝釈・四天と戦ふ大阿修羅王有り。禅宗・
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念仏宗・律宗等の棟梁の心中に付け入りて、次第に国主国中に遷り入りて賢人を失ふ。是くの如き大悪は梵釈も猶防ぎ難きか。何に況んや日本守護の少神をや。但地涌千界の大菩薩・釈迦・多宝・諸仏の御加護に非ざれば叶ひ難きか。日月は四天の明鏡なり。諸天定めて日蓮を知りたまふか。日月は十方世界の明鏡なり。諸仏定めて日蓮を知りたまふか。一分も之を疑ふべからず。但し先業未だ尽きざるなり。日蓮流罪に当たれば教主釈尊衣を以て之を覆ひたまはんか。去年九月十二日の夜中に虎口を脱れたるか。必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」等とは是なり。
 汝等努々疑うこと勿れ、決定して疑ひ有るべからざる者なり。恐々謹言。
    五月五日          日蓮花押
  此の書を以て諸人に触れ示して恨みを残すこと勿れ。
   問う。あなたが法華経の行者であるなら、どうして天はあなたを守護しないのか。答える。法華経にこうある。「悪い鬼がその身に入る」と。首楞厳経にこうある。「「阿修羅王がいて、世界を支配しようとして、よく大梵天王や天界の帝釈天や四天王と権力を争う。この阿修羅は変現によっては天界に含まれることもある」よく大梵天王や帝釈天・四天王と戦う大阿修羅王があった。
 禅宗、念仏宗・律宗等の中心者の心中に付け入り、次第に国主や国中の人々にうつり入って賢人を亡き者にする。このような大悪は、大梵天王や帝釈天でさえ防ぎ難い。まして日本を守護する小神は防ぐことはできない。ただ地涌の大菩薩や釈迦・多宝・諸仏の御加護でなければ叶い難いだろう。太陽や月は全世界の明鏡である。諸天善神は必ず日蓮を知っていらっしゃるであろう。また太陽や月は全宇宙の明鏡でもある。諸仏も必ず日蓮を知っていらっしゃるであろう。わずかでもこのことを疑ってはならない。ただ先業はいまだ尽きていない。日蓮が流罪になれば教主釈尊が衣をもって日蓮を覆ってくださるだろう。去年の九月十二日の夜中に虎口を脱れたのはこのためであろう。「必ず心の固きによりて神の守り即ち強し」等とはこのことである。
 あなたがたはゆめゆめ疑ってはいけない。決定して疑いのないことである。恐恐謹言。
  五月五日  日蓮花押
この書を諸人にふれしめして恨みをのこすことがないように。

 

第六章 門下に流罪赦免の運動を禁ずる

 土木殿
 空に読み覚へよ。老人等は具に聞き奉れ。早々に御免を蒙らざる事は之を歎くべからず。定めて天之を抑ふるか。藤河入道を以て之を知れ。去年流罪有らば今年横死に値ふべからざるか。彼を以て之を惟ふなり。日蓮が御免を蒙らんと欲する事を色に出だす弟子は不孝の者なり。敢へて後生を扶くべからず。各々此の旨を知れ。
   富木常忍殿
 暗記して覚えなさい。老人等は詳しく聞きなさい。早々に赦免されないことを歎いてはならない。おそらく天がこのことを抑えているのである。藤河入道のことをもってこのことを知りなさい。去年流罪のままであったならば、今年横死することはなかったであろう。彼をもって日蓮を思えば、愚者は用いない事である。日蓮が赦免になってほしいと思う事を顔や言動に出す弟子は不孝の者である。到底未来世を助けることはできない。おのおのこの旨を知りなさい。