忘持経事 建治二年三月三〇日 五五歳

 

第一章 内外の忘失者の例を挙ぐ

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 忘れ給ふ所の()()(きょう)追って修行者に持たせ之を(つか)はす。
 ()哀公(あいこう)云はく「人好く忘るゝ者有り。移宅(わたまし)(すなわ)ち其の妻を忘れたり」云云。孔子云はく「又好く忘るゝこと此より甚しき者あり。桀紂(けっちゅう)の君は乃ち其の身を忘れたり」等云云。(それ)槃特尊者(はんどくそんじゃ)は名を忘る。此閻浮(えんぶ)第一の好く忘るゝ者なり。今常忍(じょうにん)上人は持経を忘る。日本第一の好く忘るゝの仁か。
 
 お忘れになった御持経、追って修行者に持たせお届けした。魯の国の哀公が孔子に「よく物忘れする人がいて、転宅するときに妻を忘れてしまったそうだ」と言うと、孔子は「もっとはなはだしい物忘れがいる。夏の桀王や殷の紂王は我が身さえも忘れてしまった」と言った。
 また槃特尊者は自分の名さえ忘れたというから、これこそ世界第一の物忘れの人である。今、常忍上人は御持経をお忘れになったから、日本第一の物忘れをされる方といえようか。
 大通結縁(だいつうけちえん)(ともがら)衣珠(えじゅ)を忘れ、三千塵劫(じんごう)を経て貧路(ひんろ)踟蹰(ちちゅう)し、久遠下種の人は良薬を忘れ、五百塵点(じんでん)を送りて三()嶮地(けんじ)顛倒(てんどう)せり。今の真言宗・念仏宗・
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禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失(もうしつ)し、未来無数劫を経歴(きょうりゃく)して阿鼻(あび)火坑(かきょう)沈淪(ちんりん)せん。此より第一の好く忘るゝ者あり。所謂(いわゆる)今の世の天台宗の学者等と持経者等との日蓮を誹謗(ひぼう)し念仏者等を扶助(ふじょ)する是なり。親に(そむ)きて敵に付き刀を持ちて自らを破る。此等は(しばら)く之を置く。
   大通結縁の者は衣のえりにかけられた宝珠を忘れ、三千塵点劫という長い間、貧路に迷い、また久遠下種の人は良薬を忘れて五百塵点劫の間、三悪道に堕ちて苦しんだ、今、真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等が釈尊の本意を忘失し未来無数劫の間、無間地獄の火坑に沈むであろう。
 これらより第一に仏意を忘失した人達がいる。すなわち今の世の天台宗の学者達と法華経を持つ者達で、法華経の行者である日蓮を誹謗し、念仏者達を助けているのがそれである。これはちょうど、親に背いて敵につき、刀をもって自らを切り破るようなものであるが、これらのことはしばらく置く。

 

第二章 悲母への追善供養を讃える

 (それ)常啼(じょうたい)菩薩は東に向かひて般若(はんにゃ)を求め、善財(ぜんざい)童子は南に向かひて華厳を得る。雪山の小児は半偈(はんげ)に身を投げ、楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)は一偈に皮を()ぐ。此等は皆上聖大人なり。其の(あと)を検すれば地住(じじゅう)に居し、其の本を尋ぬれば等妙(とうみょう)なるのみ。身は八熱に入りて火坑(かきょう)(まい)を得、心は八寒に入りて清凉(しょうりょう)三昧を証し、身心共に苦無し。(たと)へば矢を放ちて虚空(こくう)()、石を握りて水に投ずるが如し。    昔、常啼菩薩は東方に向って般若を求め、善財童子は南に向かって華厳を得た。雪山童子は「生滅滅已、寂滅為楽」の半偈の法を得ようとして身を投げ、楽法梵志は一偈の文を書き写すために身の皮をはぎ紙とした。 しかしこれらは昔、聖人であり、この垂迹をかんがえてみるに別教の初地、円教の初住の菩薩の位に居られ、その本地を尋ねてみれば等覚・妙覚の位に居られる。身は八熱の苦しみにあっても火坑三昧を得られ、心は八寒地獄に堕ちても清凉三昧をさとられているひとであるから、身心ともに苦しみがない。たとえば矢を放って虚空を射、石をつかんで水に投ずるように、なんらの障りもないのである。
 今常忍貴辺(きへん)は末代の愚者にして見思(けんじ)未断(みだん)の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず禿(とく)居士(こじ)。心は善に非ず悪に非ず羝羊(ていよう)のみ。然りと雖も一人の悲母(ひも)(どう)に有り。(あした)に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。(しか)るに去月下旬の(ころ)、生死の(ことわり)を示さんが為に黄泉の道に(おもむ)く。    今、常忍殿、あなたは末代の愚者で見思の一惑さえ断じていない凡夫である。身は俗でもなく僧でもない。禿居士であり、心は善でもなく悪でもない羝羊と変わりがない。しかし、家に一人の悲母がおり、朝に出でては主君に仕え、夕には家に帰って、もっぱら孝養を尽くされたが、去る二月の下旬のころ、母親は生死の理を示さんがために黄泉の旅におもむかれた。
 此に貴辺と歎いて云はく、(よわい)既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりと雖も、(つらつら)事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか()せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。  ここにあなたは嘆いていうのに、すでに齢九十を超され、子を残して親が逝くことは順序であるというものの、しかしよくよく考えてみるに、母親が去って後いつの日にか再び会うことができようか。世に二人の母はいない。これからは誰を母として崇めていくべきだろうか。
 離別忍び難きの間、舎利(しゃり)(くび)()け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉(ききん)して山野に盗賊(とうぞく)充満し、宿々(しゅくしゅく)糧米(ろうまい)乏少(ぼうしょう)なり。我が身贏弱(るいじゃく)にして所従亡きが(ごと)牛馬(ごめ)合期(ごうご)せず。峨々(がが)たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば(こうべ)天に()ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼(くるめ)き足冷ゆ。羅什(らじゅう)三蔵の葱嶺(そうれい)(えん)優婆塞(うばそく)が大峰も只今なりと云云。 
   そこで別離の悲しみが忍びがたいので、その御遺骨を頸にかけ、足にまかせて大道に出で、下総からこの甲州までこられた。その間の道のりは往復千里にも及ぶ。国々は皆飢饉で、山野には盗賊があふれ、宿々では粮米も乏しくそのうえ身体もよわく、かつ従者もないに等しい。牛馬とてあてにはならず、大山は峨峨として折り重なり、満々と流れる大河は多い。 高山に登れば頭を天につくほどであり、幽谷に下れば足下に雲を踏む。鳥でなければ渡ることは難しく、鹿でなければ越え難い。目はくらみ、足はこごえる。羅什三蔵が葱嶺を越えた様子、役の行者が大峰をよじ登ったのもこのようであったかと思われる。 
 (しか)る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室(あんしつ)を見るに、法華読誦(どくじゅ)(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌(がっしょう)して両眼を開き、
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尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ(たちま)ちに()む。
   このような旅を経て身延の深洞に尋ね入り、一つの菴室をみる。そこからは法華経読誦の声が青天に響き、一乗妙法を談義する言が山中に聞こえる。
 案内を請い室に入り、教主釈尊の御宝前に母御の御骨を安置し、五躰を地に投げて合掌し、両眼を開き尊容を拝すると、歓喜が身にあまり、心の苦しみがたちまちにやむ。
 我が(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子(たね)(この)()と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯(じょうぼん)摩耶(まや)の得道、吉占(きっせん)師子(しし)青提女(しょうだいにょ)目犍尊者(もっけんそんじゃ)は同時の成仏なり。是くの如く観ずる時無始(むし)業障(ごうしょう)忽ちに消え、心性(しんしょう)の妙蓮忽ちに開き給ふか。(しか)る後、随分に仏事を()し、事故無く(かえ)り給ふ云云。恐々謹言。
富木入道殿
   思うに我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口である。たとえば種子と菓子と身と影とのようである。教主釈尊の成道は親の浄飯王、摩耶夫人の得道であり、目連尊者の成仏は、親の吉占師子・青提女と同時の成仏であった。このように観ずるとき、無始以来、過去遠々の罪障もたちまちに消えて、己心の仏性を即座に開かれたところであろう。こうして十分に仏事を営み、お帰りになられたのである。恐恐謹言。
富木入道殿