| 夫常啼菩薩は東に向かひて般若を求め、善財童子は南に向かひて華厳を得る。雪山の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ。此等は皆上聖大人なり。其の迹を検すれば地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ。身は八熱に入りて火坑三昧を得、心は八寒に入りて清凉三昧を証し、身心共に苦無し。譬へば矢を放ちて虚空を射、石を握りて水に投ずるが如し。 |
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昔、常啼菩薩は東方に向って般若を求め、善財童子は南に向かって華厳を得た。雪山童子は「生滅滅已、寂滅為楽」の半偈の法を得ようとして身を投げ、楽法梵志は一偈の文を書き写すために身の皮をはぎ紙とした。 しかしこれらは昔、聖人であり、この垂迹をかんがえてみるに別教の初地、円教の初住の菩薩の位に居られ、その本地を尋ねてみれば等覚・妙覚の位に居られる。身は八熱の苦しみにあっても火坑三昧を得られ、心は八寒地獄に堕ちても清凉三昧をさとられているひとであるから、身心ともに苦しみがない。たとえば矢を放って虚空を射、石をつかんで水に投ずるように、なんらの障りもないのである。 |
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今常忍貴辺は末代の愚者にして見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず禿居士。心は善に非ず悪に非ず羝羊のみ。然りと雖も一人の悲母堂に有り。朝に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。 |
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今、常忍殿、あなたは末代の愚者で見思の一惑さえ断じていない凡夫である。身は俗でもなく僧でもない。禿居士であり、心は善でもなく悪でもない羝羊と変わりがない。しかし、家に一人の悲母がおり、朝に出でては主君に仕え、夕には家に帰って、もっぱら孝養を尽くされたが、去る二月の下旬のころ、母親は生死の理を示さんがために黄泉の旅におもむかれた。 |
| 此に貴辺と歎いて云はく、齢既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか期せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。 |
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ここにあなたは嘆いていうのに、すでに齢九十を超され、子を残して親が逝くことは順序であるというものの、しかしよくよく考えてみるに、母親が去って後いつの日にか再び会うことができようか。世に二人の母はいない。これからは誰を母として崇めていくべきだろうか。 |
離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々糧米乏少なり。我が身贏弱にして所従亡きが若く牛馬合期せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭天に捽ち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼眩き足冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺、役の優婆塞が大峰も只今なりと云云。
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そこで別離の悲しみが忍びがたいので、その御遺骨を頸にかけ、足にまかせて大道に出で、下総からこの甲州までこられた。その間の道のりは往復千里にも及ぶ。国々は皆飢饉で、山野には盗賊があふれ、宿々では粮米も乏しくそのうえ身体もよわく、かつ従者もないに等しい。牛馬とてあてにはならず、大山は峨峨として折り重なり、満々と流れる大河は多い。 高山に登れば頭を天につくほどであり、幽谷に下れば足下に雲を踏む。鳥でなければ渡ることは難しく、鹿でなければ越え難い。目はくらみ、足はこごえる。羅什三蔵が葱嶺を越えた様子、役の行者が大峰をよじ登ったのもこのようであったかと思われる。
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然る後深洞に尋ね入りて一菴室を見るに、法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、
(★958㌻)
尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽ちに息む。 |
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このような旅を経て身延の深洞に尋ね入り、一つの菴室をみる。そこからは法華経読誦の声が青天に響き、一乗妙法を談義する言が山中に聞こえる。
案内を請い室に入り、教主釈尊の御宝前に母御の御骨を安置し、五躰を地に投げて合掌し、両眼を開き尊容を拝すると、歓喜が身にあまり、心の苦しみがたちまちにやむ。 |
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子と菓子と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目犍尊者は同時の成仏なり。是くの如く観ずる時無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給ふか。然る後、随分に仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。
富木入道殿 |
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思うに我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口である。たとえば種子と菓子と身と影とのようである。教主釈尊の成道は親の浄飯王、摩耶夫人の得道であり、目連尊者の成仏は、親の吉占師子・青提女と同時の成仏であった。このように観ずるとき、無始以来、過去遠々の罪障もたちまちに消えて、己心の仏性を即座に開かれたところであろう。こうして十分に仏事を営み、お帰りになられたのである。恐恐謹言。
富木入道殿 |