大白法・平成21年11月1日刊(第776号より転載)御書解説(163)―背景と大意

四条金吾許御文(1523頁)

別名『八幡抄』

 一、御述作の由来

 本抄は、弘安三(1280)年十二月十六日、大聖人様五十九歳の御時、身延より鎌倉の四条(しじょう)金吾(きんご)頼基殿(よりもとどの)の女房・日眼女(にちげんにょ)に与えられた御消息です。宛名は「四条金吾殿女房」とされているものの、内容から対告衆を日眼女に限定されるものではないので、題名は『四条金吾許御文』と名づけられています。
 また八幡大菩薩についてふれていることから『八幡抄』とも呼ばれていますが、これは同年十一月十四日に、八幡大菩薩を(まつ)る鎌倉八幡宮の炎上したことに関連して、神天上の法門について述べられていることによるものです。

 

 二、本抄の大意

 初めに、四条金吾夫妻による白小袖や綿といった真心の御供養について御礼を述べられると共に、金吾が主君の江間氏の前で大聖人様の御法門を語ったことについて大いに喜ばれています。大聖人様はその褒美(ほうび)として、「大事の法門一つ」と(おお)せられて、八幡大菩薩の本地は世間で言われている阿弥陀仏ではなく、釈尊であることを説かれます。その理由として、大隅(おおすみ)国(現在の鹿児島県東部)の正八幡宮にあったとされる石体の(めい)を証文とし、また八幡大菩薩の本体である応神天皇の誕生と没年の月日と釈尊のそれとの一致をもって八幡大菩薩が釈尊の垂迹(すいじゃく)であると示されています。
 さらに八幡大菩薩の誓願として、インドでは釈尊として法華経を説いて「正直捨方便」(法華経124頁)と示し、日本では八幡大菩薩として「正直の(いただき)にやどらん」と誓ったにもかかわらず、十一月十四日、鎌倉八幡宮の宝殿を焼いて天に上ってしまったと仰せです。これは、日本国の衆生が縁の深い釈尊を捨てて、無縁の阿弥陀仏を(あが)めているためであり、その誤りを正す大聖人様を(かたき)としていることから、正直の人の頂がなく、居るところがないために(すみか)をなくして天に上ったのであろうと仰せです。
 法華経を信ずる人は、正直の法についているので、釈尊も守ってくださるのであり、釈尊の垂迹である八幡大菩薩が正直の人を守らないはずはないと示されて、法華経を信じ行ずる人は、厳然と加護されると仰せになり、本抄を結ばれています。

 三、信行のポイント

 神天上法門

 仏法および法華経の行者を守護する善神を総称して諸天善神と言います。この諸天善神は、大梵天王(だいぼんてんのう)帝釈(たいしゃく)天王・大日天王・大月天王・大明星天王等に代表され、古来より日本国を守護する神として重んじられてきた天照大神・八幡大菩薩等も含まれています。
 法華経『安楽行品』には、

諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」(法華経396頁)

と説かれていて、釈尊の滅後に法華経を弘通する菩薩には常に諸天善神が付き随っていて、菩薩が法華経を説くのを側で聴聞し、その法味を食して威光・勢力を増し、また説法を聞くために菩薩を守護するという諸天善神の誓いが示されています。私たちも大聖人様の仏法を実践することにより、必ず諸天善神が付き随い、私たちの自行化他にわたる題目を聞いて威光・勢力を増し、私たちを守護するということです。

 このように諸天善神は法界に実在するとは言っても、『立正安国論』に、

世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書234頁)

と仰せられ、善神は、邪宗邪義の蔓延によって法味を味わえないために天上へと去り、逆に神社には魔神・鬼神が乱入して、国中に災いを起こし、そこに詣でる者は鬼神につかれて災いを招くのであると仰せです。これを神天上法門と言います。

 大聖人様の御入滅後に、鎌倉に住していた弟子たちは、諸神が日本国を守護するからと神社への参詣を認め、民部日向は、

法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべし」(『原殿御返事』 聖典558頁)

と述べて、法華経の持者の所には善神が降りてくるのだから、大聖人様の弟子檀那が神社に詣でてもよいと主張しました。これに対して、第二祖日興上人は、

何ぞ善神聖人の誓願に背き、新たに悪鬼乱入の社壇に詣でんや」(五人所破抄1880頁)

檀那の社参物詣でを禁ずべし(中略)謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや」(日興遺誡置文1884頁)

と仰せになり、あくまでも『立正安国論』に仰せの通り、善神が天上へ去って、悪鬼が乱入した神社に詣でることを厳禁されているのであり、今日においてもその精神は変わることはありません。

 すべての仏神は本来法華経の守護神

 大聖人様は、日本全国の寺社に祀られる仏神と法華経との関係について、

日本国一万一千三十七の寺並びに三千二百三十二社の神は国家安穏のためにあがめられて候。而るに其の寺々の別当等、其の社々の神主等は、みなみなあがむるところの本尊と神との御心に相違せり。彼々の仏と神とは其の身異体なれども、其の心同心に法華経の守護神なり」(諌暁八幡抄、1538頁)

と仰せられ、仏神は、本来、国家安穏のために尊崇され、法華経を守護する用きがあるにもかかわらず、これらの寺社の別当や神主たちは、いずれも崇める本尊と神との心に背いて、「正直捨方便」と説かれる法華経に敵対していることを明かされています。しかも、

日蓮が法華経を弘通し候を、上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、一切の神を敬ひ、一切の仏を御供養候へども其の功徳還って大悪となり、やいとの還って悪瘡となるが如く、薬の還って毒となるが如し」(治部房御返事、1568頁)

と、諸仏出世の一大事と言われる法華経を、身命を賭して弘通される大聖人様に対して仇をなす者たちが、たとえ一切の仏神を敬い供養をしても、功徳とはならずにかえって大悪となると仰せです。なぜなら一切の仏神の守護としての用きは、御本仏大聖人様の御意を離れたところにはないからです。

 大聖人様は、法華経守護の善神である八幡大菩薩の誓願として、

正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭らず」(諌暁八幡抄、1542頁)

とあることを示され、

されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給ふとも、法華経の行者を見ては争でか其の影をばをしみ給ふべき。我が一門は深く此の心を信ぜさせ給ふべし」(同1525頁)

と、八幡大菩薩は不正直を憎んで自らの宝殿を焼いて天に上られてはいるものの、私たちが大聖人様の教えの通りに仏道修行に励むならば、常に諸天善神が私たちの頂に影を落として守護してくださると仰せです。

 大聖人様は「正直」について、

正直に二あり。一には世間の正直(中略)二には出世の正直」(同1542頁)

と仰せられ、世間的な偽りがないという意味の正直と、仏法の上で正しい教えを行ずるという意味の正直との二種があると示されています。私たちは世間的に正直であることは当然ながら、仏法の上にこそ正直でなければなりません。そのためには、

諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法」(如説修行抄、673頁)

と言い切ることであり、大聖人様の仏法こそが世の中に唯一絶対の仏法であると折伏を行ずることが大切なのです。

 

 四、結  び

 この世に災難をもたらす根本原因は、人々が邪宗邪義を信じて、正しい仏法を誹謗することにあります。このことを解決するには、謗法こそが国土や人心を破壊する根本原因であることを教え、人々を大聖人様の仏法に帰依せしめなければなりません。そのために私たちが心がけるべきことは、

彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親」(開目抄、577頁)

と仰せのように、謗法に対して、傍観者的な態度であったり、破折をしない勧誘的な弱い折伏であってはならないということです。邪宗教こそが私たちを不幸へと陥れ、国家をも危うくする元凶であることを言い切り、一切の謗法を破折し、屈伏せしめていく姿勢が大切なのです。
 たとえ相手が無信仰者であると言ってこちらの話を聞こうとしなくても、それは正法に背くばかりではなく、正法を知らないこと自体が、その人にとっては不幸の原因となるのですから、正法を説き聞かせることが本当の慈悲であり、折伏なのです。
 御法主日如上人猊下は、

真剣に題目をあげ、祈り、動き、講中が一致団結・異体同心して折伏に立ち上がれば、諸天も必ず動き、折伏は達成できると固く信じます」(大白法 690号)

と御指南されています。

 私たち一人ひとりが、御法主上人猊下より賜った御命題の大事を自覚して、世の人々を災難と苦悩の人生から救うための慈悲行たる折伏に邁進してまいりましょう。