治部房御返事   弘安四年八月二二日  六〇歳

 

第一章 白米の御供養の謝辞

(★1567㌻)
 白米一斗、茗荷の子、はじかみ一づと送り給び候ひ畢んぬ。
 仏には春の花、秋の紅葉、夏の清水、冬の雪を進らせて候人々皆仏に成らせ給ふ。況んや上一人は寿命を持たせ給ひ、下万民は珠よりも重くし候稲米を法華経にまいらせ給ふ人、争でか仏に成らざるべき。
 
 白米一斗・みょうがの子・はじかみ一つとお送りいただいた。
 仏に春の花・秋の紅葉・夏の清水・冬の雪を供養した人々でも、皆、成仏する。まして、上一人の寿命を持ち、下万民が珠より大切にしている白米を法華経に供養された人が、どうして仏にならないことがあろうか。

 

第二章 第六天の魔王の障礙を説く

 其の上世間に人の大事とする事は主君と父母との仰せなり。父母の仰せを背けば不孝の罪に堕ちて天に捨てられ、国主の仰せを用ひざれば違勅の者と成りて命をめさる。されば我等は過去遠々劫より菩提をねがひしに、或は国をすて、或は妻子をすて、或は身をすてなんどして、後生菩提をねがひし程に、すでに仏になること近づきし時は、一乗妙法蓮華経と申す御経に値ひまいらせ候ひし時に、第六天の魔王と申す三界の主をはします。すでに此のもの仏にならんとするに二つの失あり。一には此のもの三界を出づるならば、我が所従の義をはなれなん。二つには此のもの仏にならば、此のものが父母兄弟等も又娑婆世界を引き越しなん。いかゞせんとて身を種々に分けて、或は父母につき、或は国主につき、或は貴き僧となり、或は悪を勧め、或はおどし、或はすかし、或は高僧、或は大僧、或は智者、或は持斉等に成りて、或は華厳、或は阿含、或は念仏、或は真言等を以て、法華経にすゝめかへて仏になさじとたばかり候なり。法華経第五の巻には、末法に入りては大鬼神、第一には国王・大臣・万民の身に入りて、法華経の行者を或は罵り或は打ち、それに叶はずんば無量無辺の僧と現じて一切経を引いてすかすべし。それに叶はずんば二百五十戒三千の威儀を備へたる大僧と成りて、国主をすかし国母をたぼらかして、或はながし、或はころしなんどすべしと説かれて候。    そのうえ、世間で人が大事にすることは、主君と父母の仰せである。父母の仰せに背けば、不孝の罪に堕ちて天に捨てられてしまう。国主の仰せに従わなければ、違勅のものとなって命を召されてしまう。そもそも、我等は過去遠遠劫から菩提を願って、あるいは国を捨て、あるいは妻子を捨て、あるいは身を捨てるなどして後生菩提を願ってきたので、すでに成仏が近づいた時、一乗妙法蓮華経と申す御経に値ったので、第六天の魔王という三界の主がいて「すでにこの人が仏になれば、自分に二つの損がある。一には、この人が三界を離れれば我が所従を離れてしまう。二には、この人が仏になるならば、父母・兄弟等もまた、娑婆世界を引き越してしまう。どうしてこれを食い止めようか」と、身を種々に変じて、あるいは父母の身に付き、あるいは国主の身に入り、あるいは立派そうな僧となって、あるいは悪を勧め・あるいは脅し・或はすかしたりする。また、高僧・大僧、或は智者・持斎等に成って華厳・阿含・念仏・真言等をもって法華経に勧め代えて、成仏させまいと歎くのである。このことを、法華経の第五の巻・勧持品には「末法に入ると、大鬼神が第一に国王・大臣・万民の身に入って法華経の行者を、あるいはののしり、あるいは打ったり切ったりし、それでもかなわなければ無量無数の僧として現われて、一切経を引いて、すかすであろう。それでもかなわなければ、二百五十戒・三千の威儀を備えた大僧となって、国主をすかし、国母をたぼらかして、あるいは島流しにし、あるいは殺すなどするであろう」と説かれている。
(★1568㌻)
 又七の巻の不軽品、又四の巻の法師品、或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻、或は守護経等に委細に見へて候が、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河の国賀島の荘は、殊に目の前に身にあたらせ給ひて覚へさせ給ひ候らん。他事には似候はず。父母国主等の法華経を御制止候を用ひ候はねば、還って父母の孝養となり、国主の祈りとなり候ぞ。
 
 また法華経第七の巻の不軽品・四の巻の法師品・あるいはまた二の巻の譬喩品・あるいは涅槃経四十巻・あるいは守護経等にくわしく記されていることが、当今の世相に少しも違わないうえ、駿河の国賀島の荘のことはことに眼前に身に当たり、考えさせられたことであろう。他のこととは違い父母・国主等が法華経の信仰を制止される時は、それを用いないのがかえって父母の孝養となり国主の安泰のための祈りとなるのである。 

第三章 法華経信受の功徳を明かす

 其の上日本国はいみじき国にて候。神を敬ひ仏を崇むる国なり。而れども日蓮が法華経を弘通し候を、上一人より下万民に至るまで御あだみ候故に、一切の神を敬ひ、一切の仏を御供養候へども其の功徳還って大悪となり、やいとの還って悪瘡となるが如く、薬の還って毒となるが如し。一切の仏神等に祈り給ふ御祈りは、還って科と成りて此の国既に他国の財と成りて候。又大なる人々皆平家の亡びしが様に、百千万億すぎての御歎きたるべきよし、兼ねてより人々に申し聞かせ候ひ畢んぬ。
 又法華経をあだむ人の科にあたる分斉をもて、還って功徳となる分斉をも知らせ給ふべし。例せば、父母を殺す人は何なる大善根をなせども、天是を受け給ふ事なし。又法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば、大罪還って大善根となり候。設ひ十方三世の諸仏の怨敵なれども、法華経の一句を信じぬれば諸仏捨て給ふ事なし。是を以て推せさせ給へ。御使ひいそぎ候へば委しくは申さず候。又々申すべく候。恐々謹言。
  八月廿二日          日蓮花押
 治部房御返事
   そのうえ日本国はすぐれた国であり、神を敬い、仏を崇める国である。それなのに、日蓮が法華経を弘通しているのを上一人から下万民に至るまであだをなすので、いかに一切の神を敬い、一切の仏を供養してもその功徳はかえって大悪とってしまうのである。それはちょうど、灸をすえたところがかえって悪瘡となるようであり、薬がかえって毒となるようなものである。
 一切の仏神等に祈る祈りはかえって科となって、この国すでに他の国のものとなるであろう。また身分の高い人々は、皆、平家が滅びた様子より百千万億倍も歎かれる時がくるとかねてから人々に申し聞かせてきたのである。
 また法華経を怨む人の受ける科がどれほど大きいかをもって、かえって、法華経を供養する人の功徳の大きさを知るべきである。例えば、父母を殺した人はいかなる大善根を積んでも、天はこれを受けられることはないが、法華経の敵となる人ならば、それが父母であっても殺した大罪は、かえって大善根となるのである。たとえ十方三世の諸仏の怨敵であっても、法華経の一句をも信じるならば諸仏は捨てられることはない。このことをもって推量されるがよい。御使いが急ぐから詳しくは述べられない。また申し上げる。恐恐謹言。
  八月二十二日          日蓮花押
 治部房御返事