日興遺誡置文   元弘三年一月一三日

 

第一章 五一相対を示して訓戒す

(★1883㌻)
 (それ)(おもんみ)れば末法弘通の慧日は、極悪謗法の闇を照らし、久遠寿量の妙風は伽耶(がや)()(じょう)の権門を吹き払ふ。於戯(ああ)仏法に値ふこと(まれ)にして、(たと)へを(どん)()(はなしべ)に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て()らざる者か。(ここ)に我等宿縁深厚
(★1884㌻)
なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを()、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、(ひとえ)に広宣流布の金言を仰がんが為なり。
 
 さてよく考えてみると、末法に弘通される太陽のごとき仏法は極悪の謗法の闇を照らし、久遠寿量の南無妙法蓮華経という妙なる風は伽耶城の近くにおいて始めて悟りを成じたという権教を吹き払った。この仏法に巡りあうことはまれなことであり、優曇華の花の咲くことに譬えられ、また、一眼の亀が浮木の穴にあうことに譬えられる。それでも足りないくらいである。
 ここに我等は、宿縁が深く厚いことから、幸いにもこの経に巡りあうことができた。従って後代のために、箇条書きにして一つ一つの項目を書き遺したのは、ひとえに広宣流布せよとの日蓮大聖人のお言葉を仰ぐためである。
 一、富士の立義(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。
 一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。
 一、御抄(いず)れも偽書に()し当門流を()(ぼう)せん者之有るべし、若し加様の悪侶出来せば親近(しんごん)すべからざる事。
 一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心()べき事。
 一、謗法を()(しゃく)せずして遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。
 一、檀那の社参物詣(ものもう)でを禁ずべし、(いか)(いわ)んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも(くち)()しき次第なり。是全く己義に非ず、経文御抄等に任す云云。
  一、日興門流の立てている教義は、いささかも先師・日蓮大聖人の相違していないこと。
一、五人の立てた教義は、一つ一つ先師・日蓮大聖人の御化導に相違していること。
一、日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近づいてはならない。
一、偽書を造って御書と称し、本門・迹門は一致であると修行する者は、師子身中の虫であると心得るべきである。
一、謗法を責めることもなく、遊び戯れ、雑談等の振る舞いに明け暮れたり、外道の書物や歌道を好んではいけない。
一、信徒の神社・仏閣への参詣を禁ずるべきである。まして僧侶でありながら、一見と称して謗法を犯し悪鬼が乱入している寺や神社に行ってよいはずがない。そのような僧侶がいることは、返す返すも残念なことである。

 

第二章 門下に行学二道への精進を促す

 一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き、御抄以下の諸聖教を教学すべき事。
 一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。
 一、予が後代の徒衆等権実を弁へざるの間は、父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文すべき事。
 一、義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。
 一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事。
 一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。
 一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事。
  一、才能のある弟子においては、師匠に仕えるための諸の用事をしなくてもよいようにし、御書をはじめとして仏法のさまざまな教えを学ばせるべきである。
一、仏法の学問がまだ完成していないのに、名聞や名利を考える僧侶は、日興上人の弟子ではない。
一、日興上人の後代の弟子たちは、仏法の権教と実教の勝劣を知らない間は、父母や師匠の恩を振り捨てて、生死の苦しみから出て仏法を証得するために学問をすべきである。
一、大聖人の正法を会得せずして、天台の法門を学んではならない。
一、日興門流においては、御書を肝心に染め、極理を師から受け伝えて、その上で、もしいとまがあるならば、天台の法門を学ぶべきである。
一、仏法についての論議や、正法の講義、説法を好むべきであり、それ以外のものはつつしまなければならない。
一、広宣流布が成就しない間は、身命を捨てて、おのおのの力に随って、妙法弘通に励むべきである。

 

第三章 仏法護持の根本精神を示す

 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も、当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事。
 一、弘通の法師に於ては下輩たりと雖も、老僧の思ひを為すべき事。
 一、下劣の者たりと雖も、我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
 一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
 一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。
  一、我が身は軽く法は重しとして仏法実践に励んでいる者に対しては、たとえ下劣の法師であっても「当に仏を敬う如くすべきである」との道理にのっとつて、その人を信じ敬うべきである。
一、妙法を弘める法師は、たとえ身分の低い者であっても、修行を積んだ老僧のごとく思って敬うべきである。
一、たとえ位の低い者であっても、自分より智慧が優れている人を師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。
一、たとえ、時の貫主であっても、仏法の正義に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない。
一、たとえ宗内の多数で議決したことであっても、大聖人の仏法と相違があるならば、貫主はこれを打ち砕くべきである。

 

第四章 日興門流の化儀を示す

 一、衣の墨、黒くすべからざる事。
 一、直綴を著すべからざる事。
 一、謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。
 一、謗法の供養を()くべからざる事。
 一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか。若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。
 一、若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。
 一、先師の如く予が化儀も聖僧たるべし。但し時の貫首或は習学の仁に於ては、設ひ一旦の媱犯有りと雖も、衆徒に差し置くべき事。
 一、(ぎょう)()難問答の行者に於ては先師の如く(しょう)(がん)すべき事。
  一、衣の色を黒くしてはならない。
一、直綴を着てはならない。
一、謗法と同座してはならない。
一、謗法の者から供養を受けてはならない。
一、刀や杖等の武器を持つことは、仏法を守るためであれば許される。
 ただし、仏前に出る時には、身に帯びるべきではない。ただし、その時でも、一般の衆僧等の場合は、自衛のため許してもよいのではないか。
一、たとえ若い僧侶であっても、位の高い檀那より下にいてはならない。
一、先師・日蓮大聖人のように、日興門下の振る舞いも聖僧であるべきである。ただし将来において、時の貫主、あるいは修学中の僧などが、一時的に女犯をしたとしても、破門せずに、平等にしてとどめおくべきである。
一、難問答に巧みな仏道修行者に対しては、先師・大聖人がなされたように、ほめたたえるべきである。

 

第五章 二十六箇条厳守を遺誡する

 右の条目大略()くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、()へて疑惑を生ずること(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず。()って定むる所の条々件の(くだん)し。
  元弘三年癸酉正月十三日    日興花押    
   右の項目は、大略以上のようであるが、未来永劫にわたり、一切衆生を護るために、二十六箇条を定め置くのである。
 後代の僧侶はあえて疑惑を生ずることがあってはならない。このうち一ヵ条でも犯す者は、日興が門流ではない。よって定める所の条目は以上の通りである。
  元弘三年癸酉正月十三日    日興花押