五人所破抄  嘉暦三年七月

 

第一章 大聖人、本弟子六人を定む

(★1875㌻)
 夫以れば諸仏懸遠の難きことは譬へを曇華仮り、妙法値遇の縁は比を浮木に類す。塵数三五の施化に猶漏れて、正像二千の弘経も稍過ぎ已はんぬ。闘諍堅固の今は乗戒倶に緩く人には弊悪の機のみ多し、何の依憑しきこと有らんや。設ひ内外兼包の智は三に積み大小薫習の行は百劫を満つとも、時と機とを弁へず本と迹とに迷倒せば其れも亦信じ難からん。爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も、早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻み、五字紹継の為に六人の遺弟を定めたまふ。
(★1876㌻)
 日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持已上六人なり。
 
 さてよく考えてみると、諸仏が出世することの難しさは優曇華に譬えられ、衆生が妙法に巡りあう縁が希であることは一眼の亀が浮き木にあうことにも譬えられる。末法の衆生は三千塵点劫や五百塵点劫の釈尊の化導に漏れ正法・像法二千年の弘経も、はや過ぎてしまった。闘諍堅固の今は、教えの実践も戒律に基づく修行も共に熱心に行われなくなって、人々の機根も悪い者だけが多くなってしまった。どこにたのもしいことがあろうか。たとえば内道・外道を兼ね備えている智慧を三阿僧祇劫の間、積み重ね、大乗・小乗の修業を百劫の間、行じたとしても、時と機とを弁えず、本門と迹門に迷うならばそれを信ずることも難しい。
 ここに先師日蓮大聖人は、釈尊から付嘱を受けて末法の教主となったといえども、すでに生死の無常の姿を示して入滅されようとした時、妙法五字を継承せしめるために六人の遺弟を定められたのである。
 日昭と日朗と日興と日向と日頂と日持の以上六人である。

 

二章 五老僧の申状を挙げる

 五人武家に捧ぐる状に云はく未だ公家に奏せず。
 天台の沙門日昭謹んで言上す。先師日蓮は忝くも法華の行者として専ら仏果の直道を顕はし、天台の余流を酌み地慮の研精を尽くす云云。
 又云はく、日昭不肖の身たりと雖も、兵戈永息の為副将安全の為に法華の道場を構へ、長日の勤行を致し奉る。已に冥々の志有り、豈昭々の感無からんや詮を取る。
 天台の沙門日朗謹んで言上す。先師日蓮は如来の本意に任せ、先判の権経を閣いて後判の実経を弘通せしむるに最要未だ上聞に達せず、愁鬱を懐いて空しく多年の星霜を送り、玉を含みて寂に入るが如く逝去せしめ畢んぬ。然して日朗忝くも彼の一乗妙典を相伝して鎮に国家を祈り奉る詮を取る。
 天台法華宗の沙門日向日頂謹んで言上す。桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み、立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請ふの状。右謹んで旧規を検へたるに、祖師伝教大師が延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したまふ云云。又云はく法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。
   五人が武家に捧げた申状には次のように述べている。鎌倉幕府には申状を提出したが、まだ公家には提出していない。
 「天台宗の僧侶である日昭が謹んで申し上げる。先師・日蓮はありがたくも法華の行者としてもっぱら成仏の直道を明らかにし、天台宗の余流をくんで思い慮の研鑚に励んだ」と。
 また、「日昭は取るに足りない身であるが、戦さが長く止むよう。また副将軍が安泰であるよう、法華の道場を構え、長い間勤行を行ってきた。すでに人知れず務めている志があるので、どうしてはっきりと明らかな感応がないわけがあろうか」。詮を取る。
 「天台宗の僧である日朗が謹んで申し上げる。先師・日蓮は如来の本意に従って、先に説かれた権経を捨てて、後に説かれた実経を弘通させたが、最も肝要なことは国主の耳に入れずに至らず、憂いと欝屈の思いを抱いて空しく多年を送り、まるで宝石を持った者がそれを認められずに亡くなったように逝去してしまった。そこで日朗はありがたいことに先師から、かの一乗妙典である法華経を相承し、国家の永久の安泰をお祈り申し上げている」。詮を取る。
 「天台法華宗の僧侶である日向・日頂が謹んで申し上げる。
 桓武天皇の時代の姿を仰ぎ、伝教大師の流れを受け継ぎ、立正安国論にならって一仏乗の法華経を尊び敬われることを請い願う書状である」と。
 「右のことを謹んで古い例に基づき考えてみると、我が天台宗の開祖である伝教大師は延暦年中に始めて比叡山に登って、法華教の宗旨を弘通された」と。
 また「自分は、今この所を法華経の道場になぞらえ、天地が永久に平穏であるように祈っている。その祈りを今日まで欠かしたことがない」と。詮を取る。

 

第三章 日興上人の申状を示す

 日興公家に奏し武家に訴へて云はく、
 夫日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘通の大権なり。所謂大覚世尊未来の時機を鑑みたまひ、世を三時に分かち法を四依に付して以来、正法千年の内には迦葉阿難等の聖者先づ小を弘めて大を略し、竜樹天親等の論師は次に小を破りて大を立つ。像法千年の間、異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む。今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり。正像已に過ぐ、何ぞ爾前迹門を以て強ひて御帰依有るべけんや。就中天台伝教は像法の時に当たって演説し、
(★1877㌻)
日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘す、彼は薬王の後身此は上行の再誕なり、経文に載する所、解釈炳焉たる者なり。
   日興が公家に奏上し、武家に訴えて言う。
 「日蓮大聖人はもったいなくも上行菩薩の再誕であり、法華経本門を弘経するために現れた偉大な方である。すなわち、仏は未来の機根を考えられて時代を正法・像法末法の三時に分け、法を四依の菩薩に付嘱されたのである。仏滅後、正法千年の間に迦葉・阿難等の聖人が、まず小乗教を弘めて大乗教を省略し、次に竜樹・天親等の論師が出て小乗教を破って大乗教を立てた。像法千年の間では中国の陳・隋の両国の時代に、天台大師は南三・北七の十師の邪義を破り、日本においては桓武天皇の時代に、伝教大師は南都六宗の誤った論を改めさせた。
 今末法の世に入っては上行菩薩が出現される世であり、法華経本門の流布する時である。正法・像法時代は過ぎてしまったのに、どうして爾前迹門の教えに強いて帰依する必要があろうか。とりわけ大切なことは、天台大師・伝教大師は像法時代において法を説き演べ、日蓮大聖人は末法の時代を迎えて弘通したのである。彼は薬王菩薩の生まれ変わった身であり、日蓮大聖人は上行菩薩の再誕である。これらのことは経文にも載っていることであり、この解釈においても明らかである。
 凡そ一代教籍の濫觴は法華の中道を説かんが為なり。三国伝持の流布は蓋んぞ真実の本門を先とせざらんや。若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て、燭影を捧げて日光を捨てれば、只風俗の迷妄に趁って世尊の化導を謗ずるに似たるか。華の中に優曇有り、木の中に栴檀有り、凡慮覃び難し、併しながら冥鑑に任す云云。本迹既に水火を隔て、時機亦天地の如し。何ぞ地涌の菩薩を指して苟しくも天台の末弟と称せんや。    一般に釈尊一代の説教の起こりは、法華経の中道実相を説こうとしたためであり、インド・中国・日本へと三国へ伝持された法華経の流布は、どうして仏の真実の本門を第一としないでよいであろうか。もし瓦や礫を尊んで珠玉を捨て、灯を大事にして太陽の光を愚弄するならば、ただ世俗に迷い従って釈尊の化導を非難するのに等しいであろう。三時の弘教において大聖人の本門弘通は華の中に優曇華があり、木の中に栴檀があるようなものであり、凡夫には考え及ぶところではなく、冥の照覧に任せるのである」と。
 本門と迹門とはことごとく水と火のような隔たりがあり、正法・像法・末法とは、時も機根も天地のような同意がある。
 どうして地涌の菩薩である日蓮大聖人を指して、いやしくも天台大師の末弟などと呼ぶことができようか。
 次に祈国の段亦以て不審なり。所以は何、文永免許の古先師素意の分既に以て顕はれ畢んぬ、何ぞ僣聖道門の怨敵に交はり坐して鎮に天長地久の御願を祈らんや、況んや三災弥起こり一分も徴無し、啻に祖師の本懐に違するのみにあらず、還って己身の面目を失ふの謂ひか。    次に国家を祈ったというのは、また、それ以上に疑わしいことである。その理由は、文永十一年に佐渡から御赦免の折、平左衛門尉に対面された時の御返事に、日蓮大聖人の御心はすでに顕れている。どうして法華経の行者を誹謗する僣聖・道門増上慢の怨敵と一緒になって永く国家の安全を祈禱しなければならないのであろうか。まして、三災はますます激しくなり、祈禱の効果など全くない。他宗と並んで国家を祈るなどということは、大聖人の御心に背くばかりでなく、かえって自身の面目をも失うことになるのである。

 

第四章 五老僧の三点の迷妄を挙る

 又五人一同に云はく、凡そ倭漢両朝の章疏を披いて本迹二門の元意を探るに、判教は其の文に尽き、弘通は残る所無し、何ぞ天台一宗の外に胸臆の異義を構へんや。拙いかな尊高の台嶺を褊して辺鄙の富山を崇め、明静の止観を閣いて仮字の消息を執す。誠に是愚癡を一身に招き恥辱を先師に及ぼす者なり、僻案の至りなり。甚だ以て然るべからず。若し聖人の製作と号し後代に伝へんと欲せば、宜しく卑賤の倭言を改め漢字を用ゆべし云云。    また、五人が一同に言う「そもそも日本・中国の注釈書を開いて法華経の本門と迹門の究極の意を深く考えて見ると、教えの判教は法華玄義と法華文句に尽くされており、法華経の弘通に関して残されているところはない。どうして天台宗のほかに自己流の異義を構えるのか。何と拙いことであろうか、尊高な天台山を見下して、辺鄙な富士山を崇め、明確で誤りない摩訶止観をさしおいて、仮字文字の消息文に執着するのは誠に愚かさを我が身一身に招き、恥を先師に及ぼすものである。誤りの極みであり、決して在るべき姿ではあい。もし聖人の後述作と称して後世に伝えようとするならば、卑しい仮名文字を漢字に改めるべきである」と。

 

第五章 先師を天台の余流とする迷妄を破す

 日興が云はく、夫竜樹天親は即ち四依の大士、円頓一実の中道を申ぶと雖も、而も権を以て面と為し実を隠して裏に用ゆ。天台伝教は亦五品の行位にして専ら本迹二門の不同を分かち、而も迹を弘め衆を救ひ本を残して末に譲りたまふ。内鑑は然りと雖も外は時宜に適ふかの故に、或は知らざるの相を示し、或は知って而も未だ闡揚せず。    日興が言う。そもそも竜樹・天親はすなわち四依の大士であって、円頓一実の中道を説いているといっても、権教を表として実教は隠して裏に用いた。また天台大師・伝教大師は観行即の五品の位の人であり、もっぱら法華経本門と迹門の区別を明確にしながらも迹門を弘めて衆生を救済し、本門は残してその弘通を末法に譲ったのである。内心では知ってはいたが、外に向かっては時の宜しきに合わせるために、あるいは知ってはいなかったような姿を示し、あるいは知っていてもいまだ明らかに示さなかった。
 然るに今本迹両経共に天台の弘通と称するの条、経文に違背し解釈は拠を失ふ。所以に宝塔三個の鳳詔に驚き勧持二万の勅答を挙げて、此等の弘経を申ぶと雖も迹化の菩薩に許さず。過八恒沙の競望を止めて不須汝等護持此経と示し、地涌千界の菩薩を召して如来一切所有の法を授く。    それにもかかわらず、今、五老僧が本迹二門の教えが共に天台大師の弘通であると主張していることは法華経の経文に違背しており、天台等の解釈も根拠のないものとなってしまう。なぜかといえば、法華経見宝塔品で釈尊が三箇の鳳詔により滅後における法華経の弘通を命じたことに対し勧持品で二万の菩薩が娑婆世界での弘経を誓ったが、釈尊はこれを許さなかった。湧出品に於いては、他方から来集した無数の八恒河沙を超す菩薩が競って娑婆世界の弘教を誓い望んだのである。釈尊はこれを経して「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と示し、地涌千界の菩薩を召し出して。如来が所有している一切の法を授けたのである。
 迹化他方の極位すら尚劫数塵点に暗し、
(★1878㌻)
止善男子の金言に豈幽微の実本を許さんや。本門五字の肝要は上行菩薩の付属なり、誰か胸臆なりと称せんや 委細は文の如し経を開いて見るべし。
   迹化・他方の最高位にある菩薩ですら釈尊と地涌の菩薩との血縁が五百塵点劫以来のものであることを知らなかったのであるから、「止みね善男子」の金言にるように、深遠なる実教の本門の弘通をこれら迹化・他方に許すことがあるだろうか。
本門の肝心たる妙法蓮華経の五字は上行菩薩の付嘱である。誰が己義などということができようか。詳しくは経文の通りであり、経文を開いて見るべきである。
 次に天台大師経文を消したまふに「如来之を止むるに凡そ三義有り。汝等各々自ら己が任有り、若し此土に住せば彼の利益を廃せん。又他方は此土に結縁の事浅し、宣授せんと欲すと雖も必ず巨益無からん。又若し之を許さば則ち下を召すことを得ず、下若し来たらずんば迹も破することを得ず、遠も顕はすことを得ず。是を三義と為す。如来之を止めて下方を召して来たらしむるに亦三義有り。    次に天台大師が湧出品の経文をつぎのように解釈している。
 「釈尊が他方の菩薩を制止された理由はほぼ三つの意義がある。一つは、他方の菩薩はそれぞれに自らの住する地がある。もしこの娑婆世界に住したとすれば、本来住している地の衆生を利益することができなくなる。二つには、他方の菩薩は娑婆世界に血縁が薄いため、それらに法を授与したいと思っても大勢の人を利益することはできない。三つには、もし他方の菩薩に弘通を許したならば、地涌の菩薩を召し出すことができない。これを三義とするのである。釈尊が他方の菩薩を制止し、地涌の菩薩を召し出された理由に、また三つの意義がある。
 是我が弟子応に我が法を弘むべし。縁深厚なるを以て能く此土に遍して益し、分身の土に遍して益し、他方の土に遍して益し、又開近顕遠することを得。是の故に彼を止めて下を召すなり」文。又云はく「爾時仏告上行の下、是第三に結要付属す」云云。    一つは、地涌の菩薩は釈尊の久遠の弟子であるから釈尊の法を弘めるべきであるということ。二つには、地涌の菩薩は久遠以来、娑婆世界との宿縁が深く厚いので、よくこの娑婆世界娑婆世界の衆生をあまねく遍く利益し、また、分身の諸仏の国土の衆生も遍く利益し、他方の土の衆生も遍く利益すること。三つには、地涌の出現により始成正覚の近を開いて久遠実成の遠を顕することができるのである。この故に他方の菩薩を制止して地涌の菩薩を召し出されたのである」と。
 また、天台大師は法華文句で「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、以下の部分が第三の結要付嘱である」と言っている。
 伝教大師は本門を慕ひて「正像稍過ぎ巳はって末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり」文。又云はく「代を語れば則ち像の終はり末の初め、地を原ぬれば則ち唐の東、羯の西、人を尋ぬれば則ち五濁の生、闘諍の時、経に云はく猶多怨嫉況滅度後と、此の言良に以有るなり」云云。    伝教大師は本門流布の時を慕って守護国界章で「正法・像法の時代が次第に過ぎて、末法がいよいよ近づいている。法華一乗の教えが流布すべき機はまさしくその時である」と述べている。
 また、法華秀句には「時代を語ると像法の終わり末法の初め、国を尋ねると中国の東・カムチャッカの西・人を論じると五濁悪世の衆生であり、闘諍堅固白法隠没の時である。法華経法師品第十に『猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや』との言葉は、誠に深い意味がある」と述べている。
 加之記の八に大論を引いて云はく「法華は是秘密なれば諸の菩薩に付す」と。今の下文に下方を召すが如く尚本眷属を待つ、験らけし余は未だ堪へざることを。輔正記に云はく「付嘱を明かさば、この経をば唯下方涌出の菩薩に付す、何を以ての故に爾る、法是久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」と。論釈一に非ず繁きを恐れて之を略す。     さらに付け加えると、竜樹菩薩は大智度論の中に「法華経は秘密の経であるから特別の菩薩に付嘱する」と述べている。涌出品の時に下方の大士を召したということは明らかに本眷属である地涌の菩薩を待ったということである。それは地涌の菩薩以外はこの法の付嘱に堪えないからである。
 道暹の法華文句輔正記には「付嘱を明かすならばこの経は、ただ地涌の菩薩に付嘱するのである。なぜそうなるかというと、法自体が久遠実成の法であるが故に、教化してきた久成の人に付嘱するのである」とある。これらについての論や釈は一つでないので、繁雑を恐れてこれを省略する。
 観音薬王は既に迹化に居す、南岳天台誰人の後身ぞや。正像過ぎて二千年、未だ上行の出現を聞かず。末法も亦二百余廻なれば本門流布の時節なり、何ぞ一部の総釈を以て猥りに三時の弘経を難ぜんや。    観音菩薩や薬王菩薩はすでに迹化の菩薩である。南岳大師・天台大師は誰の生まれ変わった身であろうか。正法・像法時代が経過して二千年になるが、いまだに上行菩薩の出現は聞いていない。また末法に入って二百年が経過し、法華経本門流布の時に当たっている。
  どうして天台の法華経一部八巻の総じての解釈をもって、勝手に正像末の三時の弘経の次第を非難することができようか。

 

第六章 五老僧の台嶺偏重・仮名蔑視を破す

 次に日本は総名なり、亦本朝を扶桑国と云ふ。富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す。爰に知んぬ、
(★1879㌻)
先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す、弘通此の地に在るなり。遠く異朝の天台山を訪らへば台星の所居なり、大師彼の深洞を卜して迹門を建立す。近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の居住なり、聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す。閻浮第一の富山なればなり。五人争でか辺鄙と下さんや。
   次に日本というのは総称である。また日本を扶桑国ともいう。富士は郡の名であり、すなわち大日蓮華山と称する。このことから、次のことを知ることができる。先師の自然の名乗りである日蓮という名号と妙法蓮華の経題と大日蓮華山とこの山の名前が相応している。このことから法華経弘通は富士山から起るのである。
 遠く中国の天台山を訪ねれば、そこは三台星の居住する地であり、天台大師はその地を選び迹門の法華経を建立された。近く我が日本国の大日蓮華山をたずねれば、日天子の住む所であり、日蓮大聖人はこの高峰の富士山を選んで本門を弘めようとされた。それは世界一の富士山だからである。にもかかわらず、五人はどうして辺鄙と見下すのであろうか。
 次に上行菩薩は本極法身・微妙深遠にして寂光に居すと雖も、未了の者の為に事を以て理を顕はす。地より涌出したまひて以来付を本門に承け、時を末法に待ち、生を我が朝に降し訓を仮字に示す。祖師の鑑機失無くんば、遺弟の改転定めて恐れ有らんか。此等の所勘に依って浅智の仰信を致すのみ。仰梵漢の両字と扶桑の一点とは時に依り機に随って互ひに優劣無しと雖も、倩上聖被下の善巧を思ふに殆ど天竺震旦の方便に超へたり。何ぞ倭国の風俗を蔑如して必ずしも漢家の水露を崇重せん。但し西天の仏法東漸の時、既に梵音を飜じて倭漢に伝ふるが如く、本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ずべし。遠沾の飜訳は諍論に及ばず。雅意の改変は独り悲哀を懐く者なり。
   次に、上行菩薩は極極の法身にして凡智では知り得ない境地であり、常寂光土に住しておられるが、未だ法華経の実義を了解していない衆生のために、地涌の湧出の事相をもって永遠の真理を顕して地より涌出され、それ以来、付嘱を本門に受け、時を末法に待ち、生を我が日本に現し、教えを仮名文字で示されたのである。
 祖師日蓮大聖人の衆生の機根のとらえ方に誤りがなければ、遺弟たちが仮名文字を改めることは誠に恐れ多いことである。このように考えて、智慧の浅い者はひたすら信じ、仰ぐのみである。
 そもそもインド・中国の梵字・漢字と日本の仮名文字は、時により機根により使うのであり、互いに優劣はないのである。よくよく大聖人が凡夫を教化される手段の巧みさを考えるならば、インドや中国の方便よりも、大聖人の用いた仮名文字のほうがはっきりと勝れている。どうして日本の仮名文字を蔑視して、中国の漢字を崇め重んずる必要があるだろうか。
 ただしインドの仏法が次第に東方につたわった時・すでに梵語を翻訳して中国・日本に伝えられたのと同様に、日本の大聖人の金言も広宣流布する時には、また仮名文字を翻訳して、インド・中国に流通すべきである。
 教えを流布するために飜訳をなすべきことは論ずるまでもなあいが、我見によって仮名文字を漢字に改変することについては、私独り、悲しみの思いを抱いている。

 

第七章 本尊をめぐる五一相対を明かす

一、又五人一同に云はく、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔より弘安帰寂の日に到るまで随身せり、何ぞ輙く言ふに及ばんや云云。    また、五人が一同に言う。先師が所持していた釈尊像は、かたじけなくも弘長元年の伊豆配流の際に彫刻され、後入滅の日まで身近に所持されていたものである。どうして軽んずることができようか。
日興が云はく、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依って異を弁ず。如来の本迹は測り難きも眷属を以て之を知る。所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し、伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、此の外の一体の形像豈頭陀の応身に非ずや。凡そ円頓の学者は広く大綱を存して網目を事とせず。倩聖人出世の本懐を尋ぬれば、源権実已過の化導を改め、上行所伝の乗戒を弘めんが為なり。図する所の本尊は亦正像二千年の間一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり。今に当たっては迹化の教主既に益無し、況んや々婆和の拙仏をや。次に隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、
(★1880㌻)
敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。
   日興が言う。諸仏の姿が荘厳であることは同じであるが、印契によって仏の違いを区別することができる。仏の本迹の相違は推し測り難いが、左右に並ぶ眷属によってこれを知ることができるのである。従って、小乗教の教主は迦葉・阿難を脇士とし、伽耶城近くの菩提樹の下で始めて悟りを開いた境地にとどまっている大乗の迹仏は、普賢・文殊の菩薩が脇士として左右にいる。これ以外の釈尊の一体像は頭陀の修業の姿をした応身である。およそ円頓教の学者は広くその大網を修め、些細な網目にはとらわれないのであって、よくよく大聖人の出世の本懐を考えれば、過去の権実二教の化導を改め、上行菩薩として付嘱を受けた教えと妙戒を弘通されることにあった。
 御図顕された御本尊は、また、正法・像法二千の間・世界中にいまだかって現れたことのない大漫荼羅である。末法今時においては、法華経迹門の教主である釈尊はすでに利益はないのであるから、まして小乗教の応身仏に利益があるはずがない。 次に、大聖人が一体仏を随身所持しておられたではないかという言い分についていえば、これはちょうど、まま子を一時的に愛するようなものであり、また、月が出るまでの片時の間の、蛍の光のようなものであろう。それでもなお釈尊に執着し、どうしても仏像に帰依したいと願うならば、当然四菩薩を加えて脇士とすべきであろう。あえて一体仏を用いてはならない。

第八章 神祇・修業・戒における相違を明かす

一、 又五人一同に云はく、富士の立義の為体啻に法門の異類に擬するのみに匪ず、剰へ神無の別途を構ふ。既に以て道を失ふ、誰人か之を信ぜんや。    また五人が一同に言う。日興上人の立てている教義のありさまは単に法門の流れが異っているばかりでなく、神社に神はいないという別義を構えている。これはすでに道理に外れたことで、誰がそのようなことを信ずるであろうか。
 日興が云はく、我が朝は是神明和光の塵、仏陀利生の境なり。然りと雖も今末法に入って二百余年、御帰依の法は爾前迹門なり。誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師の勘ふる所なり、何ぞ善神聖人の誓願に背き、新たに悪鬼乱入の社壇に詣でんや。但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰んで鎮守を定むべし云云。    日興が言う。我が日本国は諸天善神がその威光を和らげて衆生の煩悩に交わり、仏が国中の利益を及ぼすところでる。 しかし今、末法に入って二百余年が経ち、人々が帰依しているのは爾前・迹門の教えである。このような正法誹謗の国を諸天善神・聖人が捨て去るということは経論に明らかであり、また先師・日蓮大聖人が述べられたところでる。善神・ 聖人の誓願に背いて、どうして悪鬼が乱入している社殿に詣でてよいことがあろうか。ただし本門流布して垂迹の善神が還られる時が来たならば、その時こそ上下の格式を選定し、鎮守の社を定めるべきである。
一、又五人一同に云はく、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写読誦に於ても相違有るべからず云云。    また五人が一同に言う。如法経・一日経の両経共に法華経の真実の経文を写す修業である。経典を書写・読誦することは経文に相違するものではない。
 日興が云はく、如法・一日の両経は法華の真文たりと雖も、正像転時の往古、平等摂受の修行なり。今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らとせず。但五字の題目を唱へ、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か。此則ち勧持不軽の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや。但し四悉の廃立二門の取捨宜しく時機を守るべし、敢へて偏執すること勿れ云云。    日興が言う。如法経・一日経の両経は法華経の真実の経文を書写する修業ではあるといっても、それは正法・像時代という過去における摂受の修行である。今は末法の時代を迎え折伏を行ずべきであり、その在り方を論ずるならば、法華経一部八巻を読誦するのではなく、ただ題目の五字を唱え、たとえ三類の強敵による難を受けても、諸師の邪義を責めるべきである。このことは、法華経の勧持品第十三や常不軽菩薩品第二十に明確に説かれているところであり、上行菩薩の再誕として出現され弘教された日蓮大聖人が現証をもって示されたところである。どうして折伏すべき時に摂受の修行をしてよいことがあるだろうか。ただ四悉壇の廃立も、摂受・折伏の二門の取捨も、時と機根を考えるべきであり、あえて一方に偏って持戒か破戒かで論議しあっている。
一、 又五人の立義既に二途に分かれ戒門に於て持破を論ず云云。
   また五人の立てている教義は、すでに日昭方と日朗方の二つに分かれており、戒について持戒か破破かで論議しあっている。
 
 日興が云はく、夫波羅提木叉の用否・行住四威儀の所作、平嶮は時機に随ひ持破に凡聖有り。若し爾前迹門の尸羅を論ずれば一向に制禁すべし。法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。但し本門の戒体の委細の経釈面を以て決すべし云云。    日興が言う。そもそも出家の戒律を用いるべきか否か、行住坐臥の四種の威儀の行いは、時代の人々の機根が平穏であるか険悪であるかによって異なり、また戒を持つかどうかも凡人と聖人ではちがいがある。爾前教や法華経迹門の戒を論ずれば、全く持つべきではない。法華経本門における戒については、用いるべきである。ただし法華経本門に説かれる戒の体がいかなるものかは教典・書釈に詳しくかかれており、面談をもって決定すべきである。

 

 

第九章 身延離山の意義を論ず

一、身延の群徒猥りに疑難して云はく、富山の重科は専ら当所の離散に有り。
(★1881㌻)
縦ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべきに、既に御墓に参詣せず、争でか向背の過罪を遁れんや云云。
   身延の宗徒が、筋違いにも、次のように非難して言っている。日興門流の重い罪科はもっぱら身延を離山したことにある。たとえ地頭の波木井殿があやまちを犯したとしても、先師の遺跡があるのだから忍んで留まるべきであった。日興門流は、もはや先師の御墓にも参詣していない。どうして師匠に背く重罪をのがれることができようか。
 日興が云はく、此の段顚倒の至極なり、言語に及ばずと雖も未聞の輩に仰せて毒鼓の縁を結ばん。夫身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り、地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや。然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見先の僻案を起こし、師弟有無の新義を構へて理非顕然の諍論を致す。誠に是葉を取って其の根を乾かし、流れを酌んで未だ源を知らざる故か。    日興が言う。彼らの言い分は転倒の極みである。今更、身延離山の正否について改めて言う必要もないが、未だ聞ていない人もいるだろうから、毒鼓の縁を結ぶために述べておこう。
 そもそも、身延山興隆の根本理由は、日蓮大聖人が住まわれた尊い場所であったからであり、また地頭の波木井殿が大聖人に帰依したのも元をただせば日興の教化に依るところである。
 ところが今、身延の徒は、日興が波木井実長に下種し結縁したという最初の淵源を忘れて日向などの劣った教えを日興の義よりも勝れていると誤った考えを起こし、自分は日興の弟子ではないとか聖人の直弟子だから同列であるなどと勝手な主張を構え、明らかに道理に合わない暴論を述べている。誠にこれは葉を大事にし根を枯らし、流れを汲みながら末だ源を知らないのと同じである。
 何に況んや慈覚智証は即ち伝教入室の付弟、叡山住持の祖匠なり。若宮八幡は亦百王鎮護の大神、日域朝廷の本主なり。然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て、先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す。若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の謬誤なり。    ましてや慈覚・智証は伝教大師の直弟で、比叡山の住持の中でも初めの人々である。また鎌倉の若宮八幡は百王を守護すると誓った大明神で、日本の朝廷の本主である。しかしながら、この大明神は釈尊の前で謗法の国は捨て去るとの誓願を立てた。先聖は慈覚を指して本師の伝教大師に違背した人であると破折された。
 もし先師の墓を守りさえすればよいというのであれは、比叡山に住して伝教大師の御墓を守った円仁を破折した大聖人は大きな誤りをしたことになる。
 非例を致して過無くんば、其の国棄捨の誓ひ都て垂迹の不覚か。料り知んぬ、悪鬼外道の災ひを作し宗廟社稷の処を辞す、善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり。抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分かたず、強ひて御廟の参否を論ずるは汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや、迷暗尤も甚し。之に准じて知るべし。    また、仏法に背く振る舞いをしても罪科が現れないならば、正法誹謗の国を捨て去るとの請願はすべて仏の垂迹としての諸天善神の不覚となるであろう。考えてみれば分かるように謗法の国においては悪鬼・外道が災難をもたらし、守護の善神や廟は国を捨てて天上に還る。善神・聖人の住居は、すなわち正しく正法を護持する者の頂にある。
 そもそも身延の流れを汲む人々は、未だ仏法の正邪を分別できないでいる。強いて御廟への参不参を論ずれば、汝ら身延の徒はまさに砕身の舎利を信じようとしているのであって、法華経を受持する者とどうしていえようか。迷暗誠に甚しいものがある。これに準じて、次の例を知るがよい。
 伝へ聞く天台大師に三千余の弟子有り、章安朗然として独り之を達す。伝教大師は三千侶の衆徒を安く、義真以後は其れ無きが如し。今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む、然りと雖も法門既に二途に分かれ門徒亦一准ならず。    伝え聞くところでは、天台大師に三千余人の弟子がいたが、章安大師一人だけがはっきりと誤りなくすべてに調達することができた。伝教大師にも三千人の弟子がいたが、義真の後は真実の弟子は無きに等しい。今、日蓮大聖人は衆生を末法万年にわたって救斉するために、六人の本弟子を定められた。
 しかしながら法門はすでに正邪の二つに分かれ、門下もまた一つにまとまることなく分派している。
 宿習の至り正師に遇ふと雖も伝持の人自他弁じ難し。「能く是の法を聴く者此の人亦復難し」と。「此の言若し堕ちなば将来悲むべし」と。    宿習の故に正しい師匠に会えたというのに、法を持ち伝えているのがだれなのかを、わきまえられないでいる。
 法華経方便品第二には「能く是の法を聴く者、斯の人亦復難し」とあり、章安大師は、天台大師のこの言葉がもし脱漏したならば、将来の人は正しい教えがしることができず悲しむことになる」と言われている。
 経文と解釈と宛も符契の如し。迹化の悲歎猶此くの如し。本門の墜堕寧ろ愁へざらんや。案立若し先師に違はゞ一身の短慮尤も恐れ有り、言ふ所亦仏意に叶はゞ五人の謬義甚だ憂ふべし。取捨正見に任す、思惟して宜しく解すべし云云。     この方便品の経文と章安の釈は、あたかも割符を合わせたように合致いている。迹化の菩薩も正法が信じがたく、堕落しやすいことをこのように嘆かれたのである。まして法華経本門の教えが地に墜地、破れてしまうことを憂えずにおられようか。
 日興の考えや主張が、もし日蓮大聖人の御心に少しでも異なっているところがるとすれば、それは私自身の未熟な考えでよるものであって、誠に恐れ多いことであるが、私の考えが仏意に叶っているのであれば、五人の誤りは明確で、はなはだ憂うべきである。
 いずれの説を取るか捨てるかは、あなた方の正しく真理を見極める智慧に任せるので、熟慮の上で正しく理解すべきである。

 

第十章 方便品不読の邪義を破す

 此の外支流異義を構へ諂曲稍数多なり。其の中に天目の云はく、已前の六人の談は皆以て嘲哢すべきの義なり。但し富山宜しと雖も亦過失有り。迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違なり、信受すべきに足らず。
(★1882㌻)
若し所破の為と云はゞ弥陀経をも誦すべけんや云云。
   この五老僧の外の支流にも異義を構え、仏法を曲げるものがたくさんいる。その中の天目がいう。六老僧の説は皆、嘲哢すべき教義である。富山の日興門流だけは宜しいが、また過ちもある。迹門を破折しながら法華経方便品を読むことは既に自語相違であり信受するに値しない。
 もし所破のために読むというのであれば、阿弥陀経をも読まなければならないではないか。
 日興が云はく、聖人の炳誡の如くんば沙汰の限りに非ずと雖も、慢幢を倒さんが為に粗一端を示さん。先づ本迹の相違は汝慥かに自発するや。去ぬる比天目当所に来たって問答を遂ぐるの刻み、日興が立義一々証伏し畢んぬ。若し正見を存せば尤も帰敬を成すべきの処に還って方便読誦の難を致す。誠に是無慚無愧の甚しきなり。    日興が言う。日蓮大聖人の明らかな戒めに基づけば、天目の主張など論ずるまでもないが、天目の慢心を挫くために、その一端を示そう。まず法華経本門と迹門の相違があることは、天目が確かに初めに言い出したことか。そうではあるまい。去る正安二年のころ、天目が富士に来つて問答をなした際、本迹勝劣等の日興が立義に一つ一つ証伏したはずである。もし、正しい思考力があるならば、当然、日興に帰依し恭敬すべきであるのに、逆に方便読誦を非難してくるとは誠に恥知らずの極みである。
 夫狂言綺語の歌仙を取って自作に備ふる相すら尚短才の恥辱と為す、況んや終窮究竟の本門を盗み己が徳と称する逆人争でか無間の大苦を免れんや。照覧冥に在り、慎まずんばあるべからず。    そもそも狂言綺語をもてあそぶ歌道においてすら、昔の歌仙を自分の作品にみせかけることで、才能のなさを示す行為として、どんな身分の高い人も恥とした。まして仏法の中でも最終究極である本門の教えを盗み、自身の説であると称する反逆の輩がどうして無間地獄の大苦を免れることができようか。仏天の照覧は目にみえなくても厳然としている。だからこそ自ら恐れ慎むべきである。
 次に方便品の疑難に至っては汝未だ法門の立破を弁へず、恣に祖師の添加を蔑如す。重科一に非ず、罪業上の如し。若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣で、尤も習学の為宮仕へを致すべきなり。仰彼等が為に教訓するに非ず、正見に任せて二義を立つ。    次に方便品読誦の非難に至っては、天目は法門の立破の意義を弁えてはいない。日蓮大聖人が正行である題目に方便・寿量を読誦の助行として加えられたことを道理も分からないで軽蔑しているのである。その重罪は一つではない。罪悪の業は先に述べた通り無間地獄は免れない。もしこれらの道理を知りたいと願うならば、以前のように富山に詣でて、習学のために師匠のそばに仕えることである。そこで、天目等の輩のために教訓するのではなく、正しい真理を示しておくために師匠のそばに仕えることである。そこで、天目等の輩のために教訓するのではなく、正しい真理を示しておくために、方便品読誦について二義を立てておく。
 一には所破の為、二には文証を借るなり。初めに所破の為とは純一無雑の序分には且く権乗の得果を挙げ、廃迹顕本の寿量には猶伽耶の近情を明かす。此を以て之を思ふに方便読誦は本意に非ざれば只是牒破の一段なり。若し所破の為と云はゞ念仏をも申すべきか等の愚難は誠に四重の興廃に迷ひ、未だ三時の弘経を知らず重畳の狂難嗚呼の至極なり。    それは一には所破のためであり、二には文を借りるためである。初に所破のためとは、清浄な唯一無二の法華経の序分においては爾前権教によっても果を得ることができることを挙げ、迹門を廃して本門を顕す寿量品においては伽耶城近くで初めて正覚を成じたことを明かしている。このことから考えてみると、方便品読誦の根本の意は、ひとえにこれまでの教えに対する執着を破折するためである。では、所破のためというならば阿弥陀経を読んでもよいのではないかという愚かな非難は、まさに四重の興廃に迷い、正法・像法・末法の三時の弘経を知らないのである。度重なる狂気じみた非難は愚劣の極みである。
 夫諸宗破失の基は天台伝教の助言にして全く先聖の正意に非ず、何ぞ所破の為に読まざるべけんや。経釈の明鏡既に日月の如し、天目の暗きは邪雲に覆はるゝ故なり。次に迹の文証を借りて本の実相を顕はすなり。此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃ぶ所に非ず、正機には将に之を伝へんとす云云。
 嘉暦三戊辰年七月草案す          日順
   いったい念仏など爾前権教の諸宗の破折は天台・伝教の両大師の領分で、大聖人はそれを助けたのであり、全く日蓮大聖人の正意ではない。末法においては、像法時代の経である迹門は所破のために読むのである。経文や釈義の明鏡は太陽と月のように明瞭であるが、天目は愚かで、その眼が邪な雲に覆われているため、分からないのである。
 次に方便品を読誦するのは、迹門の文証を借りて本門の実相を顕すためである。此等の深い意義は日蓮大聖人の高い境涯にあるものであり、浅はかな智慧ではとうてい及ぶところではない。(正しく信解できる機根の人にはこの法門を伝えるべきである。)云云。
  嘉暦三戊辰年七月草稿した          日順