諌暁八幡抄   弘安三年一二月  五九歳

 

第一章 天神の威力の増減を説く

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 夫馬は一歳二歳の時は、設ひつがいのび、まろすねにすねほそく、うでのびて候へども病あるべしとも見えず。而れども七八歳なんどになりて身もこへ、血ふとく、上かち下をくれ候へば、小船に大石をつめるがごとく、小さき木に大なる菓のなれるがごとく、多くのやまい出来して人の用にもあわず、力もよわく寿もみじかし。天神等も又かくのごとし。成劫の始めには先生の果報いみじき衆生生まれ来たる上、人の悪も候はねば、身の光もあざやかに、心もいさぎよく日月のごとくあざやかに、師子・象のいさみをなして候ひし程に、成劫やうやくすぎて住劫になるままに、前の天神等は年かさなりて下旬の月のごとし。今生まれ来たれる天神は果報衰減し下劣の衆生多分は生来す。然る間一天に三災やうやくをこり、四海に七難粗出現せしかば、一切衆生始めて苦と楽とををもひ知る。
 
 さて、馬は一歳・二歳の時は、たとえ頸が伸び、関節のところは丸く、細く腕が伸びていても、病気であろうとは思われない。
 しかしながら、七・八歳になって、身も肥え、血管も太く、上体の発達が勝り、四肢の発達が遅れていたときには、小船に大石を積んだように、小さい木に大きな果実がなったように、多くの病気が出てきて、人の役にも立たず、力も弱く、命も短い。
 諸天善神も、また同様である。成劫の初めには過去世の果報が優れた衆生が生まれてくるうえに、人界に悪もないので、身の光沢も鮮やかに、心も潔く、日や月のように鮮やかに輝き、獅子や象のように力強いが、成劫が次第に過ぎて住劫になるにつれて、先の諸天善神は年をとって下旬の月のようになってしまう。今、生まれてくる諸天善神は果報が衰え減じ、下劣の衆が多く出現してくる。
 そのため、天下に三災が次第に起こり、世の中に七難が多く出現したので、一切衆生は初めて苦と楽と痛感したのである。

 

第二章 小乗・権大乗は末法に無益

 此の時仏出現し給ひて、仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給ひしかば、灯に油をそへ老人に杖をあたへたるがごとく、天神等還って威光をまし勢力を増長せし事、成劫のごとし。仏経に又五味のあぢわひ分れたり。在世の衆生は成劫ほどこそなかりしかども、果報いたうをとろへぬ衆生なれば、五味の中に何れの味をもなめて威光勢力をもまし候ひき。仏滅度の後、正像二千年過ぎて末法になりぬれば、本の天も神も阿修羅・大竜等も年もかさなりて身もつかれ心もよはくなり、又今生まれ来たる天人・修羅等は、或は小果報或は悪天人等なり。小乗・権大乗等の乳・酪・生蘇・熟蘇味を服すれども、老人に麁食をあたへ、高人に麦飯等を奉るがごとし。  このときに仏が出現されて、仏教という薬を天と人と神に与えられると、燈に油を差し、老人に杖を与えたように、諸天善神等は再び威光を増し、成劫の時のように勢力を増長したのであった。
 仏教は、また五種の味に分かれており、釈尊在世の衆生は成劫ほどではなかったけれども、果報がそれほど衰えていない衆生なので、五種の味のなかのどの味を嘗めても威光勢力を増した。
 仏滅度の後、正法・像法の二千年が過ぎて末法になると、元の天も神も阿修羅や大竜等も年をとって、身も疲れ、心も弱くなり、また、今、生まれてくる天人や修羅等は小果報、あるいは悪天人等であり、小乗教や権大乗教等の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味を服しても、老人に粗末な食べ物を与え、高貴な人に麦飯等を差し上げるようなものである。
 而るを当世此を弁へざる学人等、古にならいて日本国の一切の諸神等の御前にして、阿含経・方等・般若・華厳・
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大日経を法楽し、倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・浄土・禅等の僧を護持の僧とし給へる。唯老人に麁食を与へ小児に強飯をくゝめるがごとし。
   ところが当今の世に、これをわきまえない学者等が昔に倣って、日本国の一切の諸神等の前で阿含経・方等経・般若経・華厳経・大日経等を奉納し、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗等の僧を護持僧としている。
 ちょうど老人に粗末な食べ物を与え、小児に固い飯を食べさせるようなものである。

 

第三章 漢土・日本諸宗の迷妄を破す

 何に況んや今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗とは、古の小大乗の経宗にはあらず。天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじはれり。宗々は又天竺・漢土の論師・人師、或は小を大とあらそひ或は大を小という。或は小に大をかきまじへ或は大に小を入れ、或は先の経を後とあらそひ、或は後を先とし或は先を後につけ、或は顕経を密経といひ密経を顕経という。譬へば乳に水を入れ、薬に毒を加ふるがごとし。    ましてや、今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗は昔の小乗・大乗の経や宗ではない。
 インドから仏法が中国に渡った時、小乗・大乗の諸経は仏の金言に私言がまじってしまった。諸宗もまた、インド・中国の論師や人師を小乗を大乗といって争ったり、大乗を小乗といったり、あるいは小乗に大乗を書きまじえたり、大乗に小乗を入れたり、あるいは 先に説かれた経を後といって争ったり、後のを先としたり、あるいは先のを後につけたり、あるいは顕経を密経といい、密経を顕経といったりしている。たとえば乳に水を入れ薬に毒を加えるようなものである。
 涅槃経に仏、未来を記して云はく「爾の時に諸の賊、醍醐を以ての故に之に加ふるに水を以てす、水を以てすること多きが故に乳・酪・醍醐一切倶に失す」等云云。阿含小乗経は乳味のごとし。方等・大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし。般若経等は生蘇味の如く、華厳経等は熟蘇味の如く、法華・涅槃経等は醍醐味の如し。設ひ小乗経の乳味なりとも仏説の如くならば、争でか一分の薬とならざるべき。況んや諸の大乗経をや。何に況んや法華経をや。    涅槃経に仏が未来を予言して「その時にもろもろの賊は、醍醐味に水を加える。水を多く加えたために乳味・酪味・醍醐味の一切がともに失われる」等と説いている。
 阿含経である小乗経は乳味のようであり、方等経の大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のようであり、般若経等は生蘇味のようであり、華厳経等は熟蘇味のようであり、法華・涅槃経等は醍醐味のようである。たとえ、小乗経の乳味であっても、仏説のとおりに行ずるならば、どうして一分の薬とならないことがあろうか。ましてもろもろの大乗経、まして法華経においてはなおさらである。
 然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり。其の中に羅什三蔵一人を除きて、前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入れたる人々なり。此の理を弁へざる一切の人師末学等、設ひ一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離るゝ事かたし。又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず。    ところが、インドから中国に経典を渡した翻訳者は百八十七人である。そのなかで羅什三蔵一人を除いて前後の百八十六人は、純粋乳に水を加え、薬に毒を加えた人々である。この道理をわきまえない一切の人師や末学等が、たとえ一切経を読誦し、十二分経を学び尽しているようであったとしても、生死の苦しみを離れることは難しい。
 また、現在に一分の効験があるようであっても、天神地祇が知るほどの効験のある祈りとはなるわけがない。魔王・魔民等が守護を加えて、法に効験があるようであったとしても、最後にはその身も檀那も安穏ではないのである。
 譬へば旧医の薬に毒を雑へてさしをけるを、旧医の弟子等、或は盗み取り、或は自然に取りて人の病を治せんが如し。いかでか安穏なるべき。当世日本国の真言等の七宗並びに浄土・禅宗等の諸学者等、弘法・慈覚・智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二・第三等の私の水を入れたるを知らず。仏説の如くならばいかでか一切倶失の大科を脱れん。大日経は法華経より劣る事七重なり。
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   例えば、先輩の医師が薬に毒を混ぜておいたのを、その医師の弟子らが盗み取ったり、あるいは自然に手に入れて、人の病を治そうとするようなものである。どうして安穏でありえようか。
 当世の日本国の真言等の七宗、ならびに浄土宗や禅宗等の諸学者等は、弘法や慈覚や智証等が法華経最第一の醍醐味に法華第二・第三等の我見の水を入れたのを知らないでいる。仏説のとおりであるならば、どうして「一切倶に失われる」という大罪を免れることができようか。大日経は法華経より劣ること七重である。
 而るを弘法等、倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通せるは、法華経一分の乳に大日経七分の水を入れたるなり。水にも非ず乳にも非ず、大日経にも非ず、法華経にも非ず。而も法華経に似て大日経に似たり。大覚世尊是を集めて涅槃経に記して云はく「我が滅後に於て〇正法将に滅尽せんと欲す。爾の時に多くの悪を行ずる比丘有らん。乃至牧牛女の如く、乳を売るに多利を貪らんと欲するを為ての故に二分の水を加ふ。乃至此の乳水多し〇爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時に当に諸の悪比丘有って是の経を抄略し分って多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん。乃至前を抄りて後に著け、後を抄りて前に著け、前後を中に著け、中を前後に著けん。当に知るべし、是くの如き諸の悪比丘は是魔の伴侶なり」等云云。    それなのに、弘法等が顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通したのは、法華経という一分の乳に大日経という七分の水を入れたようなものである。それは、水でもなく乳でもない。大日経でもなく法華経でもない。しかも法華経に似て大日経に似ている。
 釈尊はこのことを涅槃経に記して「我が滅後に正法が滅尽しようとするときに多くの悪を行ずる僧があるであろう。乃至。牛飼い女が、乳を売るにあたり、多くの利益を得ようと思って二分の水を加えるようなもので。乃至。この乳水気が多い。そのときに、この経(南無妙法蓮華経)が全世界に流布するであろう。このときにもろもろの悪僧がいて、この経ををかすめ取り、多くに分けて、よく正法の色・香・美味を滅失するであろう。このもろもろの悪人は、また、このような経典を読誦するといっても、仏の深密の根本の教えを滅除することになる。乃至。前の部分を取って後に付け、後の部分を取って前に付け、前後の部分を中に付け、中の部分を前後に付けるであろう。このようなもろもろの悪僧は魔の仲間であると知るべきである」等といっている。

 

第四章 謗法責めぬ氏神を梵釈が治罰

 今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ。旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ、威光勢力も衰へぬらん。仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに、仏法の味は皆たがひぬ、齢はたけぬ。争でか国の災を払ひ、氏子をも守護すべき。其の上謗法の国にて候を、氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば、仏前の起請を毀つ神なり。しかれども氏子なれば、愛子の失のやうにすてずして守護し給ひぬる程に、法華経の行者をあだむ国主・国人等を、対治を加へずして守護する失に依りて、梵釈等のためには八幡等は罰せられ給ひぬるか。此の事は一大事なり。秘すべし秘すべし。    今、日本国を考えてみるに、代が始まってから既に久しい時が経った。昔から守護の善神は、きっと福運も尽き、寿命も減ち、威光勢力も衰えているであろう。
 仏法の法味をなめてこそ威光勢力も増長するのに、仏法の法味は皆、違ったものとなってしまっている。歳はとってしまった。どうして、国の災いをはらい、氏子を守護することができようか。
 そのうえ、謗法の国であるのを、氏神だからといって大罪を戒めずに守護したので、仏前の誓いを破る神となったのである。
 そもそも氏子なので愛しい子の過ちのように身捨てずに守護してきたので、法華経の行者を怨む国主や国民等を対治を加えずに守護する罪によって、梵天や帝釈天等から八幡大菩薩は罰せられたのであろうか。このことは一大事であり秘すべきである。秘すべきである。
 有る経の中に、仏此の世界と他方の世界との梵釈・日月・四天・竜神等を集めて、我が正像末の持戒・破戒・無戒等の弟子等を第六天の魔王・悪鬼神等が、人王・人民等の身に入りて脳乱せんを、見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾もすごすならば、必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加ふべし。若し氏神治罰を加へずば、梵釈・四天等も守護神に治罰を加ふべし。梵釈又かくのごとし。梵釈等は必ず此の世界の梵釈・日月・四天等を治罰すべし。若し然らずんば三世の諸仏の出世に漏れ、永く梵釈等の位を失ひて無間大城に沈むべしと、釈迦・
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多宝・十方の諸仏の御前にして起請を書き置かれたり。
   ある経のなかに「仏はこの世界と他方の世界の梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・竜神等を集めて『我が正法・像法・末法の持戒や破戒・無戒等の弟子等を、第六天の魔王や悪鬼神等が人王や人民等の身に入って悩まし乱すのを、見ながら聞きながら治罰しないで、しばらくの間も過ごすならば必ず梵天・帝釈天等が使いをやって、四天王に命じて治罰を加えよ。もし氏神が治罰を加えないならば、梵天・帝釈天や四天王等も守護神に治罰を加よ』と仰せられたところ、他方の世界の梵天・帝釈天も同じく『必ず、この世界の梵天・帝釈天や日天・月天や四天等を治罰するであろう。もし、そうでなければ、三世の諸仏の出世に生まれ合うこともなく、永く梵天・釈釈天等の位を失って無間大城に沈むであろう』と釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の御前で誓いを書き置かれた」とある。

 

第五章 八幡が伝教大師に法衣を捧げた故事

 今之を案ずるに、日本小国の王となり神となり給ふは、小乗には三賢の菩薩、大乗には十信、法華には名字五品の菩薩なり。何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも、法華経の名字を聞かず、一念三千の観法を守護せずんば、退位の菩薩と成りて永く無間大城に沈み候べし。
 故に扶桑記に云はく「又伝教大師、八幡大菩薩の奉為に、神宮寺に於て自ら法華経を講ず。乃ち聞き竟はって大神託宣すらく、我法音を聞かずして久しく歳年を歴る。幸ひ和尚に値遇して正教を聞くことを得たり。兼ねて我か為に種々の功徳を修す。至誠随喜す。何ぞ徳を謝するに足らん。兼ねて我が所持の法衣有りと。即ち託宣の主、自ら宝殿を開いて手ずから紫の袈裟一つ・紫の衣一つを捧げ、和尚に奉上す。大悲力の故に幸に納受を垂れたまへと。是の時に宜・祝等各歎異して云はく、元来是くの如きの奇事を見ず聞かざるかなと。此の大神施したまふ所の法衣、今山王院に在るなり」云云。
   今、このことを考えてみると、八幡が日本という小国の王となり神となられたのは、小乗教では三賢の位の菩薩、大乗では十信の位の菩薩、法華経では名字即・五品の位の菩薩である。どのような氏神がいて、尽きることがないほどの功徳を修したとしても、法華経の名を聞かず、一念三千の観法を守護しないならば、退位の菩薩となって、永く無間地獄に沈むであろう。
 ゆえに扶桑略記には「また伝教大師は八幡大菩薩のために神宮寺で自ら法華経を講じた。そこで大神は聞き終わって、お告げして『私が正法を聞かなくなって久しい歳月が経っている。幸いに和尚に遇って正教を聞くことができた。まえまえから私のために種々の功徳を修してくれた。心から喜んでいる。どのようにしたら、その徳を謝すことができよう。前から私の所持している法衣がある』といって、すなわちお告げの主は自ら宝殿を開いて、自分の手で紫の袈裟一つと、紫の衣一を捧げ、『大悲力をもって納めていただければ幸いです』と和尚に差し上げた。このとき禰宜や祝人等は各々感嘆し不思議がって『今まで、このような珍しいことを見たことも聞いたこともない』と述べた。この大神の施された法衣は、今、山王院にある」と記されている。 
 今謂はく、八幡は人王第十六代応神天皇なり。其の時は仏経無かりし。此に袈裟・衣有るべからず。人王第三十欽明の治三十二年に神と顕はれ給ひ、其れより已来弘仁五年までは宜・祝等次第に宝殿を守護す。何の王の時、此の袈裟を納めけると意うべし。而して宜等が云はく、元来見ず聞かず等云云。此の大菩薩いかにしてか此の袈裟・衣は持ち給ひけるぞ。不思議なり不思議なり。    今、思うに、八幡大菩薩は人王第十六代の応神天皇である。その時代は仏経がなかったので、ここに袈裟や衣があるはずがない。
 人王第三十代の欽明天皇の治三十二年に神と顕れられ、それ以来弘仁五年までは、禰宜や祝人等が順次に宝殿を守護してきている。どの王の時に、この袈裟を納めたと理解したらよいのか。
 禰宜等は「もとから見たこともないし、聞いたこともない」等と言っている。この大菩薩はどのようにして、この袈裟と衣を持っておられたのか。不思議である。不思議である。
 又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代、仏法は二百六十余年なり。其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗日本国に渡りて、八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人々其の数を知らず。又法華経を読誦する人も争でか無からん。又八幡大菩薩の御宝殿の傍らには神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂、大師より已前に是あり。其の時定めて仏法を聴聞し給ひぬらん。何ぞ今始めて、我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託宣し給ふべきや。幾の人々か法華経一切経を講じ給ひけるに、何ぞ此の御袈裟・衣をば進らさせ給はざりけるやらん。    また欽明天皇以来、弘仁五年に至るまでは、王は二十二代を経、仏法は二百六十余年経っている。その間に三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗等の六宗七宗が日本国に渡っており、八幡大菩薩の御前で経を講ずる人々は数知れない。また法華経を読誦する人も、どうしてないことがあろう。
 また八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺といって法華経等の一切経を講ずる堂が、伝教大師以前にあったのである。そのとききっと仏法を聞かれたことであろう。
 どうして、今初めて「私が正法を聞かないで久しく歳月が経っている」等とお告げになられたのであろうか。
 どんなにか多くの人々が法華経や一切経を講じられたのに、どうしてこの御袈裟と衣を差し上げられなかったのであろうか。

 

第六章 伝経以前は法華の実義顕れず

 当に知るべし、伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども、
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其の義はいまだ顕はれざりけるか。去ぬる延暦廿年十一月の中旬の比、伝教大師、比叡山にして南都七大寺の六宗の碩徳十余人を奉請して、法華経を講じ給ひしに、弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云はく「一乗の権滞を慨み三諦の未顕を悲しむ」。又云はく「長幼三有の結を摧破し、猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云。其の後、延暦廿一年正月十九日に高雄寺に主上行幸ならせ給ひて、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合せられて宗の勝劣を聞こし食しゝに、南都十四人皆口を閉ぢて鼻のごとくす。後に重ねて怠状を捧げたり。其の状に云はく「聖徳の弘化より以降今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此理を争ひ其の疑未だ解けず。而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。此をもって思ふに、伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕はれざりけるか。八幡大菩薩の不見不聞と御託宣有りけるは指すなり、指すなり。白なり、白なり。
   まさに、伝教大師以前の人は法華経の文字だけは読んだけれども、その義はいまだあらわれていなかったと理解すべきであろう。
 去る延暦二十年十一月の中旬ごろ、伝教大師が比叡山で南都七大寺の六宗の碩徳十余人を招請して、法華経を講じられたところ、和気弘世と真綱の二人の臣下はこの法門を聞いて、嘆いて「法華一乗が権教にさえぎられとどこおっていたのを嘆き、三諦円融の理がいまだあらわれていなかったのを悲しむ」と言い、また「年のいった者も、いかない者も、三界の煩悩を砕き破りながら、いまだ権教で説く歴劫修行の轍を改めていない」等といっている。 その後、延暦二十一年正月十九日に高雄寺に桓武天皇が出かけられ、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合わされて、宗旨の勝劣をお聞きになられたところ、南都の十四人は皆、口を閉ぢて鼻のようにしてしまい、後に重ねて詫び状を献上したのである。その状には「聖徳太子が仏教を弘め教化されて以来、今に至る二百余年の間、講じられた経論の数は多い。お互いに法理の優劣を争い、その疑問は解けず、しかも、最妙の円宗はいまだ明らかになっていなかったのである」等とある。このことから思うに、伝教大師以前には法華経の御心はいまだあらわれていなかったということである。八幡大菩薩が「これまで見たことも聞いたこともない」と言ったのは、まさしくこのことをさしていることが明らかである。
 法華経の第四に云はく「我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも法華経を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。乃至如来則ち衣を以て之を覆ひたまふ為し」等云云。当来の弥勒仏は法華経を説き給ふべきゆへに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使として衣を送り給ふ。又伝教大師は仏の御使として法華経を説き給ふべきゆへに八幡大菩薩を使として衣を送り給ふか。    法華経第四の法師品第十には「わたしの入滅の後に、よくひそかに一人のためにも法華経を説くならば、まさに、この人は如来の使いである、と知るべきである。乃至。如来はすなわち衣をもって、この人を覆われるであろう」等とある。
 末来の弥勒仏は法華経を説かれるがゆえに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使いとして衣を贈られたのである。また伝教大師は仏の御使として法華経を説かれたがゆえに、八幡大菩薩を使として衣を贈られたものであろうか。

 

第七章 謗法治罰せぬ八幡を叱責

 又此の大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども、先生の善根に依りて大王と生れ給ひぬ。其の善根の余慶、神と顕はれて此の国を守護し給ひけるほどに、今は先生の福の余慶も尽きぬ、正法の味も失ひぬ。謗法の者等国中に充満して年久しけれども、日本国の衆生に久しく仰がれてなじみをし、大科あれども捨てがたくをぼしめし、老人の不孝の子を捨てざるが如くして天のせめに合ひ給ひぬるか。又此の袈裟は法華経最第一と説かん人こそかけまいらせ給ふべきに、伝教大師の後は第一の座主義真和尚、法華最第一の人なればかけさせ給ふ事其の謂れあり。第二の座主円澄大師は伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子なり、すこし謗法ににたり。此の袈裟の人には有らず。
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 第三の座主円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれども、心は弘法大師の弟子、大日経第一法華経第二の人なり。此の袈裟は一向にかけがたし。設ひかけたりとも法華経の行者にはあらず。其の上又当世の天台座主は一向真言座主なり。又当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏、或は東寺の末流、此等は遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵、近くは伝教大師の讐敵なり。譬へば提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし。又猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし。当世叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給ひて候ひし御袈裟をかけて、法華経の所領を奪ひ取りて真言の領となせり。譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給はざる、一の大科なり。
   またこの大菩薩は伝教大師以前には、水を加えて薄めたような法華経を服しておられたけれども、前世の善根により大王として生まれられた。
 その善根の余光で神と顕れてこの国を守護されているうちに、今では前世の福徳も余光も尽きてしまい、正法の法味もなくなった。
 謗法の者等が国中に充満して年久しくなるけれども、日本国の衆生に長いあいだ尊まれ、なじんできたために、衆生に大罪があっても見捨てがたく思われ、年とった者が不幸な子を見捨てないようにしていて、天の責めにあわれたものであろうか。
 また、この袈裟は法華経最第一と説く人こそが懸けるべきで、伝教大師の後は、第一代座主・義真和尚は法華最第一となした人なので懸けられて当然である。
 第二代座主・円澄大師は、伝教大師の御弟子であるけれども、また弘法大師の弟子でもあり、少し謗法のようにみえる。この袈裟を懸けるべき人ではない。
 第三代座主の円仁・慈覚大師は、名は伝教大師の御弟子であるけれども、心は弘法大師の弟子であり、大日経を第一・法華経を第二とする人である。この袈裟は全く懸ける資格がない。たとえ懸けても法華経の行者ではない。
 そのうえ、また、今の世の天台座主は全く真言の座主である。また、今の世の八幡神社の別当は園城寺の長吏か、あるいは東寺の末流の者である。これらは遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵であり、近くは伝教大師の讐敵である。例えば、提婆達多が大覚世尊の御袈裟を懸けたようなものであり、また、猟師が仏の衣を着て獅子の皮を剥いだようなものである。
 今の世の比叡山の座主は、伝教大師が八幡大菩薩からいただいた御袈裟を懸けて、法華経の所地を奪い取って真言の領地としている。例えば、阿闍世王が提婆達多を師としたようなものである。
 そうであるのに、八幡大菩薩がこの袈裟を剥ぎ、奪い返さないのは第一の大きな過ちである。

 

第八章 法華行者の受難傍観を難ず

 此の大菩薩は法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請をかきながら、数年が間法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の出現せるを来りて守護こそなさざらめ、我が前にして国主等の怨する事、犬の猿をかみ、蛇の蝦をのみ、鷹の雉を、師子王の兎を殺すがごとくするを一度もいましめず。設ひいましむるやうなれども、いつわりをろかなるゆへに、梵釈・日月・四天王等のせめを、八幡大菩薩かほり給ひぬるにや。例せば欽明天皇・敏達天皇・用明天皇、已上三代の大王、物部大連第守屋等かすすめに依りて宣旨を下して、金銅の釈尊を熱き奉り、堂に火を放ち僧尼をせめしかば、天より火下りて内裏をやく。其の上日本国の万民とがなくして悪瘡をやみ、死ぬること大半に過ぎぬ。結句三代の大王・二人の大臣・其の外多くの王子・公等、或は悪瘡、或は合戦にほろび給ひしがごとし。其の時日本国の百八十神の栖み給ひし宝殿皆熱け失せぬ。釈迦仏に敵する者を守護し給ひし大科なり。    この大菩薩は法華経の会座で、法華経の行者を守護するとの誓いを書きながら、数年のあいだ法華経の大怨敵を治罰しなかったことは不思議であるのに、そのうえ、たまたま法華経の行者が出現したのに、来て守護もしないのみでなく、自分の目の前で、犬が猿を噛み、蛇が蛙を飲み、鷹が雉を、師子王の兎を殺すかのように。国主等が法華経の行者を迫害しているのを、一度も戒めず、たとえ戒めるようであっても本心からではないゆえに梵天・釈釈・日天・月天・四天等のせめを八幡大菩薩が受けられたのであろう。
 例えば欽明天皇・敏達天皇・用明天皇という三代の大王が、物部大連・守屋等の勧めによって、命令を下して金銅の釈尊を焼き、堂に火を放ち、僧尼を責めたので、天から火が降ってきて内裏を焼いてしまった。そのうえ日本国の万民は罪なくして悪性のできものを病んで、死ぬ者は大半を超えた。結局、三代の大王・二人の大臣・その他、多くの王子や公卿等が、悪性のできものか、あるいは合戦によって滅んでしまわれたようなものである。そのとき日本国の多くの神が住まわれていた宝殿は皆、焼失してしまった。釈迦仏に敵対するものを守護された大罰である。
 又園城寺は叡山已前の寺なれども、智証大師の真言を伝へて今に長史とがうす。叡山の末寺たる事疑ひなし。而るに山門の得分たる大乗戒壇を奪ひ取りて園城寺に立て叡山に随はじと云云。譬へば小臣が大王に敵し、
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子が親に不孝なるがごとし。かゝる悪逆の寺を新羅大明神みだれがわしく守護するゆへに度々山門に宝殿を焼かるゝがごとし。今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給ひぬるか。例せば秦の始皇の先祖襄王と申せし王、神となりて始皇等を守護し給ひし程に、秦の始皇大慢をなして三皇五帝の墳典をやき、三聖の孝経等を失ひしかば、沛公と申す人、剣をもて大蛇を切り死しぬ。秦皇の氏神是なり。其の後秦の代ほどなくほろび候ひぬ。此も又かくのごとし。あきの国いつく嶋大明神は平家の氏神なり。平家ををごらせし失に、伊勢大神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。此又かくのごとし。
   また園城寺は比叡山以前の寺であるけれど、智証大師の真言を伝えている寺で、今は長吏と称している
 比叡山の末寺であることは疑いないのに、比叡山の得分である大乗の戒壇を奪い取って園城寺に建立して、比叡山に従うまいとしたことは、例えば、小臣が大王に敵対し、子が親に逆らうようなものである。このような悪逆の寺を新羅大明神が誤って守護するゆえに、たびたび比叡山の僧徒によって宝殿を焼かれたのである。
 同様に、今、八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して、天の火に焼かれたのであろう。例えば、秦の始皇の先祖の襄王という王は神となって始皇帝等を守護されたが、秦の始皇帝は大慢心を起こして三皇五帝の典籍を焼き、三聖の孝経等を失ったので、沛公という人が剣をもって秦王朝の氏神である大蛇を切り殺した。その後、秦の代は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。
 安芸の国の厳島の大明神は平家の氏神であるが、平家をおごらせた罪によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩等に神罰を受けて征伐され、その後、平家は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。

 

第九章 世間の目を抉る大科を責む

 法華経の第四に云はく「仏滅度の後に能く其の義を解せんは是諸の天人世間の眼なり」云云。日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は、諸天世間の眼にあらずや。眼には五あり。所謂肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼なり。此の五眼は法華経より出生せさせ給ふ。故に普賢経に云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり。諸仏は是に因って五眼を具することを得たまえり」等云云。此の方等経と申すは法華経を申すなり。又此の経に云はく「人天の福田、応供の中の最なり」等云云。此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼、二乗・菩薩の眼、諸仏の御眼なり。而るに法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじる者なり。其の人を罰せざる守護神は、一切の人天の眼をくじる者を結構し給ふ神なり。而るに弘法・慈覚・智証等は正しく書を作るや、法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず、後に望むれば戯論と作る、力者に及ばず、履者とりにたらずとかきつけて四百余年、日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給ふは、
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あに八幡大菩薩の結構にあらずや。 
   法華経の第四宝塔品第十一に「仏の滅度の後に、能く其の義を解する人は諸の天人世間の眼である」等と説かれている。日蓮が法華経の肝心である題目を日本国に弘通しているのは、これすなわち「諸の天人世間の眼」ではないか。
 眼には五ある。すなわち肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼である。この五眼はみな法華経から生ずるのである。ゆえに観普賢菩薩行法経に「この方等経は、これ諸仏の眼である。諸仏はこれによって五眼を具えることができたのである」等と説かれている。このなかで「方等経」とあるのは法華経をいうのである。また同じく普賢菩薩行法経に「人天の福田であり応供のなかの最たるものである」等と説かれている。
 これらの経文のごとくであれば、妙法蓮華経は人天の眼であり、二乗や菩薩の眼であり、諸仏の御眼である。ゆえに法華経の行者を怨む人は人天の眼をえぐる者であり、その人を罰しない守護神は一切の人天の眼をえぐる者の味方をしている神である。
 しかるに弘法・慈覚・智証等は、間違いなくその著書に「法華経は無明の分際で明の分位ではない」「後の勝れた経に比べれば戯れの論である」「力者に及ばず。履物取りにも足りない」と書きつけている。それ以来四百余年、日本国中の上一人から下万民に至るまで法華経を侮らせ一切衆生の眼をえぐる者を守護しているのは八幡大菩薩ではないか。
 去ぬる弘長と又去ぬる文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申す大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給ひしは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。其のいましめとをぼしきは、たゞどしうちばかりなり。日本国の賢王たりし上、第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよもをはせじ、又偏頗はよも有らじとはをもへども、一切経並びに法華経のをきてのごときんば、この神は大科の神なり。    去る弘長元年の伊豆流罪と文永八年九月の十二日の竜の口の法難は日蓮にはいささかの失もないのに、ただ南無妙法蓮華経と唱えたことを大科に、国主の計らいであるとして八幡大菩薩の御前を引き回し、国中の謗法の者どもに日蓮を嘲笑させたのは、八幡大菩薩の大科でなくしてなんであろうか。八幡大菩薩が謗法者を戒められたと思われるのは、ただ北条一門の同士打ちぐらいなものである。
 八幡大菩薩は日本国の賢王であったうえ、第一・第二を争う神であるから、八幡大菩薩に勝れた神はよもやいまい。また偏頗なことはよもやあるまいと思うけれども、一切経ならびに法華経の文にある定めに照らせば、謗法の者を厳然と処罰しないこの神は、大科の神である。

 

第十章 真言による開眼供養を破す

 日本六十六箇国二つの島、一万一千三十七の寺々の仏は皆或は画像、或は木像、或は真言已前の寺もあり、或は已後の寺もあり。此等の仏は皆法華経より出生せり。法華経をもって眼とすべし。所謂「此の方等経は是諸仏の眼なり」等云云。妙楽云はく「然も此の経は常住仏性を以て咽喉と為し、一乗の妙行を以て眼目と為し、再生敗種を以て心腑と為し、顕本遠寿を以て其の命と為す」等云云。而るを日本国の習ひ、真言師にもかぎらず諸宗一同に仏眼の印をもって開眼し、大日の真言をもって五智を具足すと云云。此等は法華経にして仏になれる衆生を真言の権経にて供養すれば、還って仏を死し、眼をくじり、寿命を断ち、喉をさきなんどする人々なり。提婆が教主釈尊の身より血を出だし、阿闍世王の彼の人を師として現罰に値ひしに、いかでかをとり候べき。八幡大菩薩は応神天皇小国の王なり。阿闍世王は摩竭大国の大主なり。天と人と、王と民との勝劣なり。而れども阿闍世王、猶釈迦仏に敵をなして悪瘡身に付き給ひぬ。八幡大菩薩いかでか其の科を脱るべき。    日本六十六ヵ国、二つの島にある一万一千三十七の寺々の仏は皆、画像であれ木像であれ、また真言宗以前の寺であれ、それ以後の寺であれ、すべて、法華経から出生した仏であって、法華経をもって眼とするはずである。このことは「この方等経はこれ諸仏の眼である」等と観音普賢菩薩行法経に説かれ、妙楽大師も「しかもこの経は、常住仏性をもって咽喉とし、一乗の妙行をもって眼目とし、再生敗種をもって心腑とし、顕本遠寿をもってその命となす」等といっているとおりである。
 しかるに日本国で、真言師だけでなく諸宗そろって仏眼の印をもって開眼し、大日の真言をもって五智を具すとしているのは、法華経によって仏になった衆生を、真言の方便権経をもって供養するのであるから、かえって仏を殺し、眼をくじり、命を断ち、喉を裂いたりしている人々である。提婆達多が教主釈尊の身から血を出し、阿闍世王が提婆達多を師として現罰を受けたのに比べても劣らないであろう。
 八幡大菩薩は応神天皇で小国の王である。阿闍世王は摩竭陀国という大国の大王であり、天と人、王と民ほどの勝劣がある。しかるに、阿闍世王さえ釈迦仏に敵対して身に悪瘡を病んだのである。八幡大菩薩がどうしてその科をまぬかれることができようか。 
 去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて、日本国の兵を多くほろぼすのみならず、八幡の宮殿すでにやかれぬ。其の時何ぞ彼の国の兵を罰し給はざるや。まさに知るべし、彼の国の大王は此の国の神に勝れたる事あきらけし。襄王と申せし神は漢土の第一の神なれども、沛公が利剣に切られ給ひぬ。    去ぬ文永十一年に、大蒙古国が寄せてきた日本国の兵を多数、攻め亡ぼしただけでなく、八幡大菩薩の宮殿も焼かれてしまった。そのときになぜ、蒙古国の兵を罰せられなかったのか。これらのことから推量して、彼の国の大王が日本国の神の力に勝っていたことは明らかである。襄王という神は漢土第一の神であったが、沛公が利剣によって切られてしまった。

 

第十一章 謗者を守護し梵釈の責めを受く

 此をもってをもうべし。道鏡法師、称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時、清丸、八幡大菩薩に祈請せし時、八幡の御託宣に云はく「夫神に大小好悪有り乃至彼は衆く我は寡なし。邪は強く正は弱し。乃ち当に仏力の加護を仰いで為に皇緒を紹隆すべし」等云云。当に知るべし、八幡大菩薩は正法を力として王法をも守護し給ひけるなり。叡山・東寺等の真言の邪法をもって権の大夫殿を調伏せし程に、権の大夫殿はかたせ給ひ、
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隠岐の法皇まけさせ給ひぬ。還著於本人とは此なり。
   このことをもって考えるべきである。道鏡法師が称徳天皇の寵愛を得て天皇になろうとしたこき、和気の清丸が祈請したが、そのとき八幡大菩薩の御託宣に「神に大小好悪が有る。乃至。彼は多くは寡い。邪は強く正は弱い。ゆえに仏力の加護を仰いで皇位継承を紹隆すべきである」等とある。
 このことから八幡大菩薩は正法を力として王法を守護されたことが明らかである。
 承久の乱において朝廷方は比叡山や東寺等の真言の邪法をもって北条義時殿の調伏を祈願されたので、かえって北条義時側が勝ち、隠岐の法皇は負けてしまわれたのである。
 経文に説かれている「還著於本人」はこのことである。
 今又日本国一万一千三十七の寺並びに三千一百三十二社の神は国家安穏のためにあがめられて候。而るに其の寺々の別当等、其の社々の神主等は、みなみなあがむるところの本尊と神との御心に相違せり。彼々の仏と神とは其の身異体なれども、其の心同心に法華経の守護神なり。別当と社主等は、或は真言師或は念仏者、或は禅僧或は律僧なり。皆一同に八幡等の御かたきなり。謗法不孝の者を守護し給ひて、正法の者を或は流罪、或は死罪等に行はするゆへに、天のせめを被り給ひぬるなり。

   今また、日本国の一万一千三十七の寺、ならびに三千一百三十二社の神は、国家安穏のために崇められているが、それらの寺々の別当等、それらの社々の神主等は皆々、彼らが崇めるところの本尊や神の御心に相違している。その仏と神とはさまざまで、その身は異体ではあるが、心は同一で、皆、法華経の守護神なのである。ところが、別当と社主等はあるいは真言師であったり、念仏者であったり、禅僧であったり、律僧であったりして、皆、一同に八幡大菩薩の敵となっている。
 それなのに、八幡は謗法や不孝の者を守護されて、正法の法華経を持つ行者を流罪、あるいは死罪等に行わせたために、天の責めを被られたのである。

 

第十二章 尼俱律陀長者の故事を引く

 我が弟子等の内、謗法の余慶有る者の思ひていわく、此の御房は八幡をかたきとすと云云。これいまだ道理有りて法の成就せぬには、本尊をせむるという事を存知せざる者の思ひなり。    我が弟子等のなかで、謗法の残りがある者が考えていうのに「この御房は八幡大菩薩を敵にしている」云々と。これらの非難は、道理があるにもかかわらず祈りの法が成就しない場合は本尊を責める、ということを、いまだ知らない者が考えることである。
 付法蔵経と申す経に大迦葉尊者の因縁を説ひて云はく「時に摩竭国に婆羅門有り、尼倶律陀と名づく。過去の世に於て久しく勝業を修し〇多く財宝に饒かにして巨富無量なり〇摩竭王に比するに千倍勝れりと為す〇財宝饒かなりと雖も子息有ること無し。自ら念はく、老朽して死の時将に至らんとす。庫蔵の諸物委付する所無し。其の舍の側に於て樹林神有り。彼の婆羅門子を求むるが為の故に即ち往ひて祈請す。年歳を経歴すれども微応も無し。時に尼倶律陀大いに瞋忿を生じて樹神に語りて曰く、我汝に事へてより来已に年歳を経れども都て為に一の福応を垂るゝを見ず。今当に七日至心に汝に事ふべし。若し復験無くんば必ず相焼剪せん。明らかに樹神聞き已って甚だ愁怖を懐き、四天王に向って具に斯の事を陳ぶ。是に於て四王往いて帝釈に白す。帝釈、閻浮提の内を観察するに福徳の人の彼の子と為るに堪ふる無し。即ち梵王に詣で広く上の事を宣ぶ。    付法蔵経という経に大迦葉尊者が因縁を説いてい云うのに「時に摩竭国に婆羅門がいて、尼倶律陀という名であった。過去の世において久しく勝れた業を修した功徳によって、現世に豊かな財宝を有し、巨万の富を蔵していた。摩竭陀国王に比べても、千倍も勝る財宝であった。ところが、財宝は豊かではあったが子供がなかった。彼は“老衰して死が近づいてきたが、庫に蔵した財法を譲る者がいない。何としても子供を得たいものだ”と思った。尼倶律陀婆羅門の近くに樹林神が祭ってあった。尼倶律陀は子供がほしい一心で、その樹林神に詣で祈請した。ところが年月を経ても、なんの験もなかった。尼倶律陀は大いに怒り、樹林神に向かって『我は汝に仕えて既に、数年を経るが、およそ一つの福報も垂れていない。今また七日間、誠実に汝に仕えてみるが、もしそれでも効験がなければ、汝の祠を焼き払うであろう』といった。樹林神はこれを聞いて大いに憂え、四天王に詳しく申し述べた。四天王は更に帝釈天のところに行って言上した。帝釈天が閻浮提のうちを観察したところ、福徳の尼倶律陀の子となるに堪える人が見あたらなかった。そこで帝釈天は梵天王に詣で、詳しくこのことを申し上げた。
 爾の時に梵王天眼を以て観見するに、梵天の当に命終に臨むべき有り。而して之に告げて曰く、汝若し神を降さば宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし。梵天対へて曰く、婆羅門の法、悪邪見多し。我今其の子と為ること能はざるなり。梵王復言はく、彼の婆羅門大威徳有り。
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閻浮提の人往いて生ずるに堪ふる莫し。汝必ず彼に生ぜば、吾相護りて終に汝をして邪見に入らしめざらん。梵天曰く、諾。敬んで聖教を承けんと。是に於て帝釈即ち樹神に向って斯くの如き事を説く。樹神歓喜して尋いで其の家に詣って婆羅門に語らく、汝今復恨みを我に起こすこと勿れ。劫って後七日当に卿が願を満すべし。七日に至って已に婦娠むこと有るを覚え、十月を満足して一男児を生めり。乃至今の迦葉是なり」云云。
   そのとき梵天王は天眼をもって観る梵天でまさに命終に臨む者があった。そこで梵天王はその梵天に告げていうのに『汝がもし梵天界に降りたならば、彼の閻浮提界の尼倶律陀婆羅門の家に生まれよ』と。梵天が答えていうのに『婆羅門の法には悪見・邪見が多いから、私はそのような者の子となることはできません』と。梵天王がまたいうのに『彼の婆羅門は大威徳があって、閻浮提の人で、彼の子となって生まれるに堪えるものがいない。汝がもしその子となって生まれたならば、。我は汝を護り、汝をして邪見に入らぬようにしてあげよう』と梵天がいう。『承知しました。仰せのとおりにいたします』。
 そこでこのことを帝釈天に、帝釈天が樹木神に伝えた。樹木神は歓喜して尼倶律陀婆羅門の家に行っていうには『汝は、もはや我を怨んではならない。これから七日後に卿が願を満たすであろう』と。七日して、はたして婆羅門の妻が身ごもり、十月を経て男子を産んだ。それが今の大迦葉である」云々と。
 「時に応じて尼倶律陀大いに瞋忿を生ず」等云云。常のごときんば、氏神に向って大瞋恚を生ぜん者は、今生には身をほろぼし、後生には悪道に堕つべし。然りと雖も尼倶律陀長者は氏神に向って大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子をまうけ給ひぬ。当に知るべし、瞋恚は善悪に通ずる者なり。    ここに「尼倶律陀は大いに瞋りを生じた」等とある。
 普通ならば、氏神に向かって大瞋恚を生ずる者は今生には身を滅ぼし、後世には悪道るであろう。しかし、
 尼倶律陀長者は氏神に向かって大悪口・大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子を設けられたのである。このことからも瞋恚は善悪に通ずるものであることを知るべきである。

 

第十三章 八幡を諌暁する資格あるを示す

 今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。此又時の当らざるにあらず、己に仏記の五五百歳に当れり。天台・伝教の御時は時いまだ来らざりしかども、一分の機ある故に少分流布せり。何に況んや今は已に時いたりぬ。設ひ機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ。只不軽のごとく大難には値ふとも、流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏に依りて無智の国主留難をなす。此を対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背くべしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。蘇悉地経に云はく「本尊を治罰すること鬼魅を治するが如し」等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしばり或は打ちなんどせよととかれて候。相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか。此は他事にはにるべからず。日本国の一切の善人が或は戒を持ち、或は布施を行ひ、或は父母等の孝養のために寺塔を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて諸僧に供養をなし候に、
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諸僧謗法者たるゆへに、謀反の者を知らずしてやどしたるがごとく、不孝の者に契りなせるがごとく、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ち候べきを扶けんとする身なり。而るを日本国の守護の善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに、此をせむるは経文のごとし。道理に任せたり。 
   今、日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日から今年弘安三年十二月に至るまで二十八年の間、他事は一切ない。
 ただ、妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入ようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである。
 このような法華経の弘通はこれは時節が到来したからであって、今はすでに仏記の第五の五百年にあたっている。天台大師や伝教大師の御時は、いまだその時期に至っていなかったが、一分の機類があったから法華経を少々、流布したのである。ましてや今は、すでに時期が到来している。たとい機がなくて水火のように反発してきたとしても、どうして法華経を弘通せずにはいられようか。
 ただ不軽菩薩のように、大難にあつたとしても、この大法が流布することは疑いないのに、真言・禅・念仏者等の讒奏によって無智の国主等が迫害して難を加えている。これを対治すべき氏神の八幡大菩薩は彼ら謗法者を治罰しないので、日蓮が氏神を諌暁するは道理に背くことであろうか。これは尼倶律陀長者が樹神を諌めたのと道理は同じである。
 蘇悉地経に「本尊を治罰することは鬼魅を対治するごとくせよ」等とある。文の心は、経文のとおり所願を成就するために、数年の間修行しても成就しない場合は、本尊をあるいは縛り、あるいは打つなどして責めよ、というのである。相応和尚が不動明王を縛り上げたのはこの経文を見たからであろう。
 日蓮の場合は、他に比較するものがないくらいである。日本国のあらゆる善人は、あるいは戒を持ち、あるいは布施を行じ、あるいは父母等の孝養のために寺塔を建立し、あるいは成仏得道のために妻子を養うべき財を節約して諸僧に供養したりしているが、その僧が謗法の者であるために、あたかも謀反人であることを知らずに宿を貸し、不孝の者と知らずに夫婦になったようなもので、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ちるべきところを日蓮は助けようと努めているのである。
 それを日本国を守護すべき善神等が彼ら謗法の者に味方をして、正法の敵となってしまっているから、これを責めるのは経文のとおりであり、道理にかなっていることである。

 

第十四章 諸宗破折に寄せる疑難を破す

 我が弟子等が愚案にをもわく、我が師は法華経を弘通し給ふとてひろまらざる上、大難の来たれるは、真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊との給ふゆへなり。例せば道理有る問注に悪口のまじわれるがごとしと云云。日蓮我が弟子に反詰して云はく、汝若し爾らば我が問を答へよ。一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗等に向って南無妙法蓮華経と唱へ給へと勧進せば、彼等が云はく、我が弘法大師は法華経と釈迦仏とをば戯論・無明の辺域・力者・はき物とりに及ばずとかゝせ給ひて候。物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも、其の口に我が小呪を一反も見つべし。一切の在家の者の云はく、善導和尚は法華経をば千中無一、法然上人は捨閉閣抛、道綽禅師は未有一人得者と定めさせ給へり。汝がすゝむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障りなり。我等設ひ悪をつくるともよも唱へじ。一切の禅宗の云はく、我が宗は教外別伝と申して一切経の外に伝へたる最上の法門なり。一切経は指のごとし、禅は月のごとし。天台等の愚人は指をまぼて月を亡ひたり。法華経は指なり禅は月なり。月を見て後は指は何のせんかあるべきなんど申す。かくのごとく申さん時は、いかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬をば彼等が口には入るべき。    我が弟子のなかに愚かな思案をして「我が師が法華経を弘通しようとして広まらないうえ、大難がきているのは『真言は国を亡ぼし、念仏は無間地獄に堕ち、禅は天魔の所為であり、律僧は国賊である』といわれているからである。たとえば当方に道理があるのに訴訟のなかに、わざわざ悪口雑言をまじえるようなものである」などという者がいる。
 そうした弟子に反詰して日蓮がいう。「汝、もしそれならば我が問いに答えよ。一切の真言師、一切の念仏者、一切の禅宗等に向かって南無妙法蓮華経と唱えよと勧めよと、彼らのなかの真言師は『我が弘法大師は法華経を戯論といい、釈迦仏を無明の辺域の明の分際でないといい、力者に及ばず、履物取りにも及ばないといわれている。そのような用に立たない法華経を読誦するよりも、それを唱える口で我が真言の小呪を一遍でも唱えたほうがよい』と。一切の在家の者は『善導和尚は法華経をば千中無一と下し、法然上人は捨閉閣抛、道綽禅師は未有一人得者と定め置かれた。汝が勧める南無妙法蓮華経は我が念仏の障りとなるから、我らはたとえ悪業をつくることがあっても法華経の題目だけは唱えない』といい、一切の禅宗は『我が宗は教外別伝といって、一切経の外に伝えられた最上の法門である。一切経は月をさす指のようなものであり、禅の法門は月そのものである。天台等の愚人は指にとらわれて月を見失っているようなものである。法華経は指であり、禅は月である。月を見て後、指はなんの用があるというのか』などという。このように申すときには、どうして南無妙法蓮華経の良薬を彼らの口に入れられるというのか」と。

 

第十五章 釈尊も小乗・権教を厳しく破折

 仏は且く阿含経を説き給ひて後、彼の行者を法華経へ入れんとたばかり給ひしに、一切の声聞等阿含経に著して法華経へ入らざりしをば、いかやうにかたばからせ給ひし。此をば仏説いて云はく「設ひ五逆罪は造るとも、五逆の者をば供養すとも、罪は仏の種とはなるとも、彼等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給ひしか。小乗・大乗はかわれども同じく仏説なり。大が小を破して小を大となすと、大を破して法華経に入ると、
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大小は異なれども法華経へ入れんと思ふ志は是一なり。されば無量義経に大を破して云はく「未顕真実」と。法華経に云はく「此の事は為めて不可なり」等云云。仏自ら云はく「我世に出でて華厳・般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃せば、愛子に財ををしみ、病者に良薬をあたへずして死したるがごとし」と。仏自ら記して云はく「地獄に堕つべし」と云云。不可と申すは地獄の名なり。況んや法華経の後、爾前の経に著して法華経へうつらざる者は、大王に民の従がはざるがごとし、親に子の見へざるがごとし。設ひ法華経を破せざれども、爾前の経々をほむるは法華経をそしるに当たれり。妙楽云はく「若し昔を称歎せば豈今を毀るに非ずや」文。又云はく「発心せんと欲すと雖も偏円を簡ばず、誓いの境を解らざれば未来に法を聞くとも何ぞ能く謗を免れん」等云云。
   仏は、しばらく阿含経を説かれて後、阿含経を修行する行者を法華経へ導き入れようと計られたとき、一切の声聞等がただ阿含経に執着して、法華経に入らなかったのに対し、どのように計られたであろうか。このことについて仏は「たとい五逆の罪はつくっても、また五逆を犯した者を供養するとも、その罪悪が仏となる種子とはなっても、彼ら、阿含経を修行する二乗の善根は仏種とはならない」と説かれたのである。小乗・大乗の違いはあっても同じ仏説である。大乗が小乗を破折して、小乗の者を大乗にひきいれようとされたのと、さらに大乗を破折して実大乗の法華経に入れようとするのと、破折の対象である法が大乗小乗の違いはあっても、法華経に導き入れようとする志は一つである。
 したがって無量義経に権大乗教を破折して「未顕真実」と説かれ、法華経には「このことはまことに不可である」と説かれている。等云云、 仏自ら云く「我世に出でて華厳・般若等の諸経を説き、法華経を説かないで涅槃に入るならば、愛子に財を惜しみ、病者に良薬を与えずして死ぬようなものである。我は自ら地獄に堕ちるであろう」と仰せられている。ここで「不可」というのは地獄の名である。
 いわんや法華経が説かれた後も、爾前の諸経に執着して法華経に心を移さない者は、大王の命に臣民が従わないようなものであり、親に子が会おうとしないようなものである。たとえ法華経を破折していなくても、爾前の諸経を賛嘆するのは法華経を謗ることにあたる。
 妙楽大師は法華文句記で「もし、昔、爾前を称歎するならば、これは今、法華経を毀謗することではないか」と、また「発心しようと思っても、偏円の区別をせず、仏の誓いの境を解らなければ、未来に法を聞くとしても、どうして謗法を免れることができようか」といっている。

第十六章 中国・日本の真言師の罪科

 真言の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は、設ひ法華経を大日経に相対して勝劣を論ぜずして大日経を弘通すとも、滅後に生まれたる三蔵・人師なれば謗法はよも免れ候はじ。何に況んや善無畏等の三三蔵は、法華経は略説、大日経は広説と同じて、而も法華経の行者を大日経えすかし入れ、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論なんどとかゝれて候を、大科を明らめずして此の四百余年一切衆生皆謗法の者となりぬ。    真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は、たとえ法華経を大日経と比較相対し、その勝劣を論じないで、ただ大日経を弘通しただけであったとしても、仏滅後に生まれた三蔵であり人師であるから、とうてい謗法を免れることはできない。
 ましてや善無畏等の三三蔵は、「法華経は略説で、大日経は広説である」として両経を同等にして、しかも法華経の行者を大日経へ欺き入れた者である。弘法等の三人は、法華経の名を挙げて戯論などと書いており、その大なる誤りを隠して、この四百余年の間に一切衆生を皆、謗法の者としてしまった。
 例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由他の人を皆無間地獄に堕とせると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・うばそく・うばいを皆阿鼻大城に導きしと、今の三大師の教化に随ひて、日本国四十九億九万四千八百二十八人或は云はく、日本記に行基数へて云はく、男女四十五億八万九千六百五十九人と云云。の一切衆生、又四十九億等の人々、四百余年に死して無間地獄に堕ちぬれば、其の後他方世界よりは生まれて又死して無間地獄に堕ちぬ。かくのごとく堕つる者大地微塵よりも多し。此皆三大師の科ぞかし。
   例えていえば、大荘厳仏の末の時代の四比丘が、六百万億那由佗の人々を皆、無間地獄に堕としたのと、師子音王仏の末の勝意比丘が、無量無辺の持戒の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆、阿鼻大城に導いたのと、今の三大師の教化に従って日本国の四十九億九万四千八百二十八人、あるいは日本紀に行基がゆう人数、男女四十五億八万九千六百五十九人云々の一切衆生、また四十九億等の人々が、四百余年の間に、死んで無間地獄に堕ち、その後他方世界から生まれてきた人々も、また死んでは無間地獄に堕ちてしまったのである。
 このようにして、無間地獄に堕ちた者は大地微塵よりも多い。これらは皆、三大師の科なのである。 
 
 此を日蓮此等を大いに見ながらいつわりをろかにして申さずば、倶に堕地獄の者となて、一分の科なき身が十方の大阿鼻地獄を経めぐるべし。いかでか身命をすてざるべき。涅槃経に云はく「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。    このようなありさまを日蓮が大いに見ながら、知らぬふりをして言わなければ、ともに堕地獄の者となって、一分の科もない身が十方の大阿鼻地獄を経ぐることになるであろう。どうして身命を捨て、謗法を責めずにいられようか。涅槃経には「一切衆生の種々の苦しみを受けるのは、ことごとくこれ如来一人の苦である」等と説かれている。
 日蓮も同じく「一切衆生の同一に受ける苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦である」と言うのである。

 

第十七章 八幡大菩薩は正直の人を守護

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 平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云はく「我は是日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王を守護せん誓願有り」等云云。今云はく、人王八十一・二代隠岐の法皇、三・四・五の諸皇已に破られ畢んぬ。残る二十余代今捨て畢んぬ。已に此の願破るゝがごとし。日蓮料簡して云はく、百王を守護せんといふは正直の王百人を守護せんと誓ひ給ふ。八幡の御誓願に云はく「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭らず」等云云。
   平城天皇の治世に、八幡大菩薩の託宣には「我は日本の鎮守の八幡大菩薩である。百王を守護する誓願をもっている」等とある。
 今、人がいうのに「人王八十一代・八十二代隠岐の法皇、八十三・八十四・八十五の諸王が、臣下のために破られ、その後二十余代の諸王も今では、捨ててしまわれた。八幡大菩薩の誓願は破られてしまったようである」と。
 日蓮が考えていう。「百王を守護するというのは、正直の王を百人守護すると誓われたのである。八幡大菩薩の御誓願に『正直の人の頂をもってすみかとし、諂曲の人の心をもって宿らず』等といわれているからである。 
 夫月は清水に影をやどす、濁水にすむ事なし。王と申すは不妄語の人、右大将家・権の大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖む百王の内なり。
 正直に二あり。一には世間の正直、王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく。天・人・地の三は横なり。たつてんは縦なり。王と申すは黄帝、中央の名なり。天の主・人の主・地の主を王と申す。隠岐の法皇は名は国王、身は妄語の人、横人なり。権の大夫殿は名は臣下、身は大王、不妄語の人、八幡大菩薩の願ひ給ふ頂なり。 
   月は清水に影を映すが、濁水に映すことはない。王というのは元来、不妄語の人である。源頼朝や北条義時殿は不妄語の人であったから、八幡大菩薩が正直の頂にすむといわれた百皇のなかに入っているのである。
 正直には二ある。一には世間の正直である。王の字には天・人・地の三を貫くという義があり、それを王と名づけるのである。天・人・地の三は横で、貫いている点はなりたつ縦である。王というのは黄帝のことで中央の名である。天の主・人の主・地の主を王という。
 隠岐の法皇は名は国王であったが、身は妄語の人で道に外れた人であった。北条義時殿は名は臣下であったが、身は大王であり、不妄語の人であったから、八幡大菩薩がすみかとしたいと願われた頂であった。

 

第十八章 八幡大菩薩の本地を明かす

 二には出世の正直と申すは爾前七宗等の経論釈は妄語、法華経天台宗は正直の経釈なり。本地は不妄語の経の釈迦仏、迹には不妄語の八幡大菩薩なり。八葉は八幡、中台は教主釈尊なり。四月八日寅の日に生まれ、八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給ふ。豈教主の日本国に生まれ給ふに有らずや。大隅の正八幡宮の石の文に云はく「昔は霊鷲山に在って妙法華経を説き、今は正宮の中に在って大菩薩と示現す」等云云。法華経に云はく「今此三界」等云云。又「常在霊鷲山」等云云。遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり。今日本国の一切衆生は八幡を恃み奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまって体をあなづる、子に向いて親をのるがごとし。本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ。
   二には出世の正直というのは、爾前の諸経や七宗等の経論釈は妄語であり、法華経ならびに天台宗は正直の経釈である。本地はこの不妄語の経を説かれた釈迦仏で、垂迹には不妄語の八幡大菩薩である。八葉の蓮華は八幡大菩薩であり、中台は教主釈尊である。四月八日、寅の日に生誕され、八十年を経て二月十五日、申の日に入滅されたことは、教主釈尊が日本国に八幡大菩薩と生まれ給うたものではないのか。
 大隅の正八幡宮の石の文に「昔は霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現す」等と記されている。法華経の譬喩品第三にに「今此三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等と説かれ、また如来寿量品第十六には「常に霊鷲山に在って説法教化す」等と説かれている。
 それゆえ、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子であり、近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子である。今、日本国の一切衆生は八幡大菩薩を頼りにして大事にしながら、釈迦仏を捨てているのは、影を敬って体を侮り、子に向かって親を罵っているのと同じである。本地は釈迦如来として、月氏国に出現されて正直捨方便の法華経を説かれ、垂迹は八幡大菩薩として日本国に生まれて、正直の頂にすまわれるのである。
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 諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり。所謂髪倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し、鴦掘摩羅は生々に殺生を示す、舎利弗は外道となり、是くの如く門々不同なる事は、本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後、化他門に出で給ふ時、我が得道の門を示すなり。妙楽大師云はく「若し本に従って説かば、亦是くの如し。昔殺等の悪の中に於て能く出離す。故に是の故に迹中にも亦殺を以て利他の法門と為す」等云云。
 
 もろもろの権化の人々の本地は法華経の一実相であるが、垂迹の法門は無量である。いわゆる跋倶羅尊者は、三世にわたって不殺生戒を示し、鴦崛摩羅は生々世々に殺生を示している。舎利弗は外道となった。このように各門が不同であることは、もと凡夫であったときの初発得道の始めを、成仏して化他門に向かうときに、我が得道の門はこれであったと示すためである。
 妙楽大師は「若し本地に従って説くならば、かくのごとく過去世に殺生等の悪業の因縁によって、よく生死を出離したのであるから、垂迹の場合においてもまた、これをもって利他の法門とするのである」等といっている。

 

第十九章 八幡は法華行者の住処に栖む

 今の八幡大菩薩は本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。    八幡大菩薩は本地身としては月支国において不妄語の法華経を説かれ、その垂迹身として、日本国において彼の法華経を正直の二字として「賢人の頂き宿らん」と誓われたのである。
 したがって、この大菩薩は宝殿を焼いて天に昇られても、法華経の行者が日本国にあるならば、その行者の住処をすみかとされるはずである。
 法華経の第五に云はく「諸天、昼夜に常に法の為の故に、而も之を衛護す」文。経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。又第六の巻に云はく「或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」文。観音尚三十三身を現じ、妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云はく「即ち是形を十界に垂れて種々の像を作す」等云云。
   法華経の第五の巻、安楽行品第十四に「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに、これを衛護する」と説かれている。 
 この経文のとおりであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天・帝釈天・日月・四天等が昼夜にこれを守護されるのである。
 また第六の巻、如来寿量品第十六には「あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、あるいは己身を示し、 あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいはは他事を示す」とある。
 観音菩薩は三十三身を現じ、妙音菩薩はまた三十四身を現じられる。教主釈尊がどうして八幡大菩薩と現じられないことがあるだろうか。天台云大師は「すなわち、形を十界に垂れて種々の像を作す」等といわれている。

 

第二十章 仏法西遷の定理を明かす

 天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり。仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。
弘安三年太歳庚辰十二月日          日蓮花押
   天竺国を月氏国というのは、仏の出現し給うべき国名である。扶桑国を日本国という。どうして聖人が出現されないはずがあろうか。月は西より東に向かうものであるが、それは月氏の仏法の東方へ流布する相である。日は東より出る。日本の仏法の月氏国へ還るという瑞相である。月はその光が明らかではない。それとおなじように仏の在世はただ八年である。日の光明は月に勝っている。これは五の五百歳・末法の長き闇らを照す瑞相である。
 仏は法華経を謗法する者を治されることはなかった。それは在世に謗法の者がいなかったからである。末法には必ず一乗法華経の敵が充満するであろう。ゆえに不軽菩薩の折伏逆化によって利益するのである。おのおの我が弟子等、ますます信心に励まれるべきである。

  弘安三年太歳庚辰十二月日          日蓮花押