まず、大田氏の呼び名であるが、御書ではさまざまな呼称を用いられている。「太田殿」、「太田入道殿」、「大田左衛門尉殿」、「大田金吾入道殿」、「乗明聖人」、「乗明法師妙日」、「大田金吾殿」などが主なところであろう。このうち、大田、あるいは太田が姓であることは明らかである。
次に、左衛門尉、金吾という呼称であるが、これは本来は、武士としの職務に関する呼称である。
まず、左衛門は左衛門府の略で、六衛府の一つ。六衛府は、律令制度の成立と変遷を経て、弘仁二(811)年に成立したもので、近衛府、兵衛府、衛門府のそれぞれに左右が設けられ、六衛府となったものである。その名の示すとおり、朝廷の門の警備や護衛、人や物の通行に際して、検査するなどの任務を主とするものであるが、守護する門の違いによって、三府が立てられた。
しかし、鎌倉時代には、武士はその棟梁である将軍の本拠である鎌倉に中心を移し、実際には朝廷守護の任務を負わなくなるのであるが、建て前のうえで天皇のもとにあるとの意義から、すべての武士に旧来の職務上の呼称が与えられたのである。
また、尉は令制における職務の位階の名称で、督、佐、尉、志の四等のうちの一つである。さらに、金吾は左右衛門府の中国・唐の令制における呼び名である。
以上が左衛門尉の呼称の意味であるが、乗明は名で、大田乗明で姓名となる。ここで、乗明の読み方が「ノリアキ」か「ジョウミョウ」かのいずれであるかは不明である。
妙日は入道に際し、日蓮大聖人からいただいた法名と考えられる。乗明聖人、乗明法師、妙日などの呼び名は、いずれも入道になってからのものであることは明らかである。
「弘安元(1278)年戊寅四月廿三日」の日付のある太田左衛門尉御返事に
「御状に云はく、某今年は五十七に罷り成り候へば大厄の年かと覚へ候」(御書1221頁)
とあることから、大田乗明の出生の年は、貞応元(1222)年と考えられる。本化別頭仏祖統紀によると、没年については弘安六(1283)年四月二十六日とある。
出身地や父母などの出自については諸説があるが、いずれも確たる根拠はなく、確かなことはいえない。
太田左衛門尉は、鎌倉幕府の問注所の役人で、正式には太田五郎左衛門尉乗明と称しますが、大田乗明、大田金吾ともいいます。同僚の富木常忍の折伏によって大聖人様に帰依され、下総(現在の千葉県)の中山を中心に、弘教を進めた篤信の檀越です。
弘安元年頃には入道し、大聖人様から「妙日」の号を賜りました。後年自らの館を「本妙寺」(後に富木邸を寺とした法華寺と合併し、中山法華経寺となる)とし、富木常忍と共に、大聖人様の御書の保管に努めました。かの『三大秘法抄』は大田氏の賜書です。
大田乗明の妻も大聖人から弘安三(1280)年七月二日に賜った「太田殿女房御返事」の内容からいって、信心においても仏法教理の理解という点でも優れた婦人であったと推察されます。
転重軽受法門に
「修利槃特と申すは兄弟二人なり。一人もありしかば、すりはんどくと申すなり。各々三人は又かくのごとし。一人も来たらせ給へば三人と存じ候なり」(同480頁)
とあり、この御書は「大田左衛門尉殿 蘇谷入道殿 金原法橋御房」となっている。ここで「蘇谷入道」とは曾谷入道を指すと考えられる。
また、富木殿御返事に
「鵞目二貫給び候ひ了んぬ。太田殿と其れと二人の御心か」(同679頁)
とあり、ここで「其れ」は富木常忍であることはいうまでもない。
さらに、問注得意抄では、「三人御中」とあて名されている。この「三人」を富木常忍・四条金吾・大田乗明とする説と富木常忍・大田乗明・曾谷教信とする説などがあり、定かではないが、以上の三編の御書から、ともかく、大田乗明と富木常忍、曾谷教信、金原法橋は密接な交友関係にあったと見ることができる。
また、大田乗明と富木常忍の親近関係を物語る説として、富木常忍の最初の妻は大田乗明の姉であるとするものもある。
富木常忍が下総国葛飾郡八幡荘若宮に居住していたことは確かであり、現在の中山法華寺の奥の院の寺域がその館跡とされている。現在も中山、曾谷、八幡、若宮の地名が残っていることから、少なくとも富木常忍と曾谷教信とは近くに居住していたことは間違いない。
しかし大田乗明の住居については、現存する資料からは場所を特定できないが、数々の伝承から、大田乗明と富木常忍の屋敷はすぐ隣接していて、両方を併せたものが中山法華寺の現在の境内地になっていると考えられる。
すなわち、乗明亡きあと、大田乗明の子息の帥阿闍梨・日高がその屋敷跡を本妙寺とした。さらにその後、富木常忍がその邸内に建立していた法華堂を法華経寺と改めたうえで、両寺を併せて、中山法華経寺としたとする伝承がある。
なお、乗明聖人御返事に
「相州鎌倉より青鳧二結、甲州身延の嶺に送り遣はされ候ひ了んぬ」(同1116頁)
とあり、大田乗明が鎌倉から使者を通じて身延の大聖人に御供養を送っていることを示す一節であるが、ここから、大田乗明の居住地が鎌倉にあったとする推測も可能であろう。
だが、この一節は居住地もさることながら、大田乗明が鎌倉幕府の問注所の役人であったとする推測と大いにつながりがあると考えられる。
大田乗明が鎌倉幕府の機構のなかの問注所の役人を務めていたとする伝承が有力である。といっても、それを客観的に裏づける史料があるわけではないので、断定はできないが、大聖人から与えられた諸御書を拝しても、問注所にかかわる立場にいたことを推測させるものがある。
その一つが問注得意抄である。前述したように、この御書の末尾に「三人御中」とあって、大田乗明が含まれているかどうかは定かではない。この問注得意抄は、文永八(1269)年五月の御書であるが、翌年の十一月、大田金吾あてにこれと関連すると思われる御抄を送られており、おそらく三人のなかに大田乗明も入っていたと想像される。
問注所とは、訴訟の受理などを扱った役所で、問注得意抄は、十一通御状であわてた諸寺の僧たちが大聖人を陥れるべく訴え出たのをいち早く知った富木・大田両氏らが大聖人にお知らせしたことに対する御返事である。
大田乗明あての御抄、例えば、大田殿許御書(諸経中王書)・太田入道殿御返事(転重軽受事)・慈覚大師事等には、大田乗明が日蓮大聖人に帰依するまでは、真言宗の熱心な信者であったことをうかがわせる内容が確認できる。
特に、太田入道殿御返事(転重軽受事)の一節に
「抑貴辺は嫡々末流の一分に非ずと雖も将又檀那所従なり。身は邪家に処して年久しく、心は邪師に染みて月重なる。設ひ大山は頽るヽとも、設ひ大海は乾くとも此の罪消え難きか。」(同913頁)
とある。これは厳しく真言宗を破折された直後に、「貴辺は」として大田乗明自身に言及されたところである。ここから大田乗明が真言宗を支える嫡々末流の一分でないとしても、その周辺に位置する立場にあったということが推測できる。
さらに、大田乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で
「而るに風聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ」(同790頁)
とあるところからも明白なように、曾谷教信と大田乗明は越中に所領があったことが分かる。
以上