大白法・平成8年12月1日刊(第468号より転載)御書解説(044)―背景と大意
本抄は、文永元(1264)年十二月十三日、大聖人様が四十三歳のときに鎌倉より富士上野の地頭・南条兵衛七郎殿へ与えられた御書です。別名を「慰労書」といい、御真筆は分持されて現存し、日興上人の写本が残っています。
南条兵衛七郎殿は、執権・北条家の御家人であり、駿河国富士郡上方の荘上野郷(現在の大石寺周辺)の地頭です。当時の慣例にしたがって、上野殿と呼称されました。総本山大石寺大檀那・南条時光殿の父に当たる人で、生年は不明ですが、文永二(1265)年三月八日に逝去、法号を行増といいます。このとき、時光殿はわずか七歳の少年でした。
兵衛七郎殿は、鎌倉在勤中に入信したものと推測できますが、本抄を賜った頃は病気療養のため、富士上野に在住されていました。
本抄に、
「一家の人々念仏者にてましましげに候ひしかば、さだめて念仏をぞすゝめむと給ひ候らん」(御書325頁)
とありますから、入信してまだ日が浅かった兵衛七郎殿は、周囲の反対もあって、念仏の執情を完全に捨てきれない状態であったようです。
しかし、大聖人様より賜った本抄を繰り返し拝読して、『法華経』への信仰を確かなものにされました。文永十一(1274)年十一月の『上野殿御返事』に、
「故親父は武士なりしかどもあながちに法華経を尊み給ひしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」(御書745頁)
と仰せられ、念仏の執情を断ち切って、立派な成仏を遂げられたことが拝されます。大聖人様は、このような兵衛七郎殿の信心と人格を愛でられ、わざわざ鎌倉より上野の南条家の墓に詣で、懇ろな回向をされたことが、『春之祝御書』(御書758頁)に見えます。
このような大聖人様の御慈愛と、兵衛七郎殿の信仰を目の当たりにして、南条家の人々の信仰は確たるものになっていったのです。
文永元年の十一月十一日、安房の国東条の地で、地頭・東条景信を中心とする武装した数百人の念仏者によって大聖人様一行は襲撃されました。これが有名な「小松原の法難」です。そのときの有り様を本抄に、
「今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし」(同326頁)
と仰せられ、襲撃のすさまじさが拝されます。
景信は念仏の信者でありますが、大聖人様は建長五年の初転法論で、堂々たる態度をもって、理路整然と念仏を破折されました。景信は、自身の信仰する念仏を破折される大聖人様に対して怨念を懐いたのでした。
そんな折り、大聖人様の久しぶりの帰郷を知った景信が、この機会を見逃すはずはありません。まさに『法華経」の文の「悪鬼入其身」そのものの姿を現出したのです。末法御出現の御本仏に傷を負わせた景信は、その後、日ならずして狂死しました。
これにつき、大聖人様は『報恩抄』に、
「彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失せぬ」(御書1030頁)
と、法華の現罰に依るものであると仰せです。
はじめに兵衛七郎殿の病気を慰労されます。
そして、教・機・時・国・教法流布の先後の五義判(宗教の五綱)によって、法華最勝の所以を御教示されます。
まず、釈尊一代五十年の教説を、先判・後判の権実に分かれることを示され、我等衆生にとって三徳有縁の仏である釈尊の仰せに背く者は不孝第一の者であると、実経たる『法華経』を捨てることの罪を御教示されます。
次に、末代の三毒強盛の鈍根の衆生は、実大乗たる『法華経』(三大秘法)によってのみ成仏できる機根であり、念仏は時に合わない教えであると破折されます。
そしてさらに、日本国は『法華経』有縁の国であることを示され、念仏の教えを捨てなければ成仏は叶わないと御教示されます。
さらに、仏法流布の次第を述べられ、重ねて念仏を破折され、悪知識に負けないよう、訓誡されています。
続いて、小松原の法難の実情を述べられ、大聖人様は日本第一の「法華経の行者」であることを示され、後生の安心と、病気本復の激励をされ、再会して直々に御法門を申し上げたい旨を述べられ、本抄を結ばれます。
はじめに、小松原の法難は、
「文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手をうちをらる」(御書1396頁)
と仰せられ、本抄に、
「弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり」(同326頁)
と仰せのように、ご自身は、額に傷を受けられ、左手の骨を折られ、弟子の鏡忍房と、天津の領主・工藤吉隆は殉難するという、まさに身命に及ぶ大難でありました。
大聖人様は、『法華経』を文の如く行ぜられ、『法華経』に命を捧げられたのです。
まさに本抄の、
「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」
ゆえであり、御本仏の大慈大悲のお振舞でした。大聖人様は、本抄に、
「もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ」
と仰せのように、法華色読の忍難弘経の大確信から、兵衛七郎殿の信心を励まされたのでした。
ポイントの第二は、病気に対する心構えです。
『妙心尼御前御返事』に、
「又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か」(御書900頁)
と仰せのように、病気は過去世の謗法罪障消滅と、臨終正念を得るまたとない機会なのです。人間として生まれた以上、誰人であれ病は免れません。要は道心を起こして、病を罪障消滅と受け止め、敢然と立ち向かう強盛な信心が大切なのです。
最後に、教・機・時・国・教法流布の先後の五義判(宗教の五綱)です。
『教機時国抄』に、
「此の五義を知りて仏法を弘めば日本国の国師とも成るべきか」(御書271頁)
と仰せのように、五義は宗教を批判選択し、宗旨を決定する原理であり、この五義を諦めることによって、大聖人様の正法(宗旨の三箇)を明確にする教判です。
本抄は、権実相対して念仏の邪義を破り、『法華経』の正義を立てられておりますが、大聖人様は末法万年の衆生成仏のために、教綱の究竟として宗旨の三箇である本門の本尊・戒壇・題目の三大秘法を建立されました。
私たちは、この大聖人様の大慈大悲に万分の一でもお応えすべく、いかなる難にも屈することなく、唱題を根本に、正々堂々と正法正義を実践してまいりましょう。
「開拓の年」の本年も、残すところあとわずかです。本年初頭に発表された「実践五項目」は、満足のいく実践ができたでしょうか。五項目のうち、特に家庭訪問は、各地で大きな成果を挙げています。
明年は「充実の年」と決まりました。年末に当たり、各自もう一度本年初頭の決意に立ち返り、足りなかった部分を補い、本年の実践五項目を力一杯実践し、御法主上人猊下の御指南のもと、平成十四年をめざして真剣に精進いたしましょう。