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そもそも、狐は決して生まれた古塚を忘れず、老いて死ぬときにも必ず首を古塚に向けるといわれ、また ゆえに昔、中国の |
| 此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか。譬へば衆盲をみちびかんには |
しからば、この大恩を報ぜんために、いかにすればよいのか、それには必ず仏法の奥底を学び修行して、智者とならなければならない。たとえていえば、多くの盲人の道案内をして、橋や河を渡ろうとするのに、自分があき盲の身では、決して道案内はできない。また、風の方向を知らぬ船頭の舟が、どうして多くの商人を誤りなく宝の山へ導きえようか。 そのように、仏法を習いきわめ智者となるためには、仏道修行に時間をかけて打ち込むべきである。さらに、むだな時間を惜しんで仏道修行に励もうと思ったならば、父母・師匠・国主等に左右され、従っていては、絶対に目的を果たすことはできない。ともかく、成仏の境涯に立ち、永遠の幸福をつかもうと思ったならば、父母・師匠の心に従ってはならないのである。 このようにいえば、人々はみな驚き「これは大変なことだ。これでは世間の道徳にもはずれ、仏法の精神にも背くことになるではないか」と思うであろう。しかし、外典の孝経には「父母・主君の心に従うべきでないときは、従わずして、かえって父母・主君を諌めていくのが真の忠臣・孝人である」と説かれている。また内典の仏経には「父母に対する恩愛の情を捨てて、成仏を願って、仏道に入るものは真実の報恩である」等と示されている。 殷の紂王の臣・比干は、暴逆な王命に従わず、かえって賢人の名を高めた。釈尊は悉達太子といった時代に、父の浄飯大王の心に背いて出家し、ついに三界第一の孝子となった等も、同じ例である。すなわち、父母の心に反して仏道に入ってこそ、忠孝をつらぬき、真実の報恩を果たしたのである。 |
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かくのごとく存じて父母・師匠等に随はずして仏法をうかヾいし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等をもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照らせりと。小乗の三宗はしばらくこれををく。民の消息の是非につけて、他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば、此を習ひほどひて我がみも助け、人をもみちびかんとをもひて習ひみるほどに、 (★1000㌻) 大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智顗不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をきわめたりと云云。 |
このように、父母・師匠等に随わないで、仏法を習おうとするのに、現在の日本には次のような十宗がある。 すなわち、釈尊五十年の聖教の真髄をうるのに、明鏡とすべき教えが十あることになる。それは倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗の十宗である。 世間の学者たちは、これらの十宗を明師として釈尊の一切経の真髄を知るべきであると思っている。また、この十の鏡となる教えは、いずれも正しく仏の説かれた道をさし示していると思っている。 しかし、そのなかで倶舎宗・成実宗・律宗の三宗は小乗であるから、いまは論じない。これらは、ちょうど、他の国へ手紙を出す場合、一個人の資格であっては、権威がないのと同じである。 大乗教の七つの教えこそ、生死の大海を渡って成仏の岸に着けてくれる大船である。ゆえに、これを習いきわめて、自分も成仏し、人をも導こうと思って習学したところが、大乗の七宗いずれも「わが宗こそ一代聖教の真髄を得た」とそれぞれ自慢している。 いわゆる華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等である。これらの人々は、みな各自の宗旨の拠りどころである経典や論釈をタテにとって、「われこそ一切経の奥底を悟った」、「われこそ仏の本懐をきわめたのである」といっている。 |
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| 彼の人々の云はく、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云はく、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云はく、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随ふがごとし。 |
彼らのなかで、華厳宗は「一切経のなかで華厳経が第一である。それに比すれば、法華経や大日経等は臣下のごときものである」といっている。 真言宗は「一切経のなかで大日経が第一である。他の経は月に対する星のごとき存在である」という。 禅宗がいうには「一切経の中では楞伽経が第一である」と。 その他の宗も同様に、おのおの自宗が第一なりと誇っている。しかも、いままで挙げたところの諸師は、世間の人々から尊敬されること、ちょうど諸天がその王である帝釈を尊敬し、衆星が日月に随っているような姿である。 |
| 我等凡夫はいづれの師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに各々我も我もといへども国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ。 |
我らがごとき凡夫には、いずれの師であっても、信ずるときには不足がないように思われる。したがって、人々はただ、それぞれ最初に信じた教えを仰いで、当然であるように思っている。けれども、そんなことでは日蓮自身の疑いは晴れない。 なぜならば、世間をみるのに、各宗派が「我が宗こそは」といって力を誇示していようとも国主というものは、一国に一人であるべきであって、二人になったら、その国には争乱が起きる。一家に二人の主人がいるならば、必ずその家は滅びてしまう。 一切経もまた、これと同じはずである。諸宗所依の多くの経典中、いずれかの一経のみが、一切経のなかには真の大王の教えであるはずである。 ところが、十宗・七宗が互いに第一であると争っているのは、ちょうど国に七人・十人の大王があって、互いに勢力を争い、万民が平和でありえないのと同じである。こうした実情を知っては、おのおのの教えに勝手に随うわけにはいかないが、いかにすればよいかと悩んだすえに、一つの願いを立てたのである。 |
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我八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。 |
「自分は八宗や十宗の勝手な所説には随うまい。天台大師がただ仏の経文を師匠として、釈尊一代の教々の勝劣を考えたように、あくまで虚心坦懐に仏の本意をきわめよう」と、一切経を開いてみた。ところが、涅槃経には「法に依つて人に依らざれ」とあった。 「依法」の法とは一切経のことであり「不依人」の人とは、仏以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩とか、その他、前にあげた諸宗の人師たちでる。 次にまた、涅槃経には「了義経に依つて不了義経に依らざれ」とある。この涅槃経の示すところによれば「了義経」とは法華経であり「不了義経」とは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経をいうのである。 しかも、この涅槃経は仏の最後の説法であり、仏の遺言の教えにあたる。この仏の遺言を信ずるなら、ただ法華経を鏡として、一切経の真髄を知る以外にないように思われるのである。 |
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随って法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、 (★1001㌻) 諸仏の頂上に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。されば専ら論師・人師をすてヽ経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給へることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり。 |
ゆえに仏説にしたがって、法華経を開いてみれば、薬王品には「この法華経は諸経の中で最上位である」と説かれている。この法華経の文によるならば、須弥山の頂には帝釈がいるように転輪聖王の頂には如意宝珠があるように、多くの木の上には月がクッキリと浮かぶように、諸仏の頭には肉髻があるように、法華経こそは華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上に居するところの如意宝珠である。 それゆえに、もっぱら論師・人師の所見や所説を捨てて、仏の経文にただちによるならば、法華経が大日経や華厳経等に勝れていることは、ちょうど晴れわたった日に、いやしくも目あるものならば、天地を見るのにその高下は明らかなように、まことにはきりしている事実である。 |
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| 又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文一字一点もなし。或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に対して中道をほめたり。譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。 | また大日経や華厳経等の一切経を見るのに、この法華経のようなすぐれた文に似ている文は、一字一点といえども見当たらない。彼らのなかに、いくぶん似た文があっても、ただ小乗経の劣に対して大乗経の勝を説き、あるいは種々の空・仮の二諦に対して中道の勝れたることを説くにすぎない。ちょうど小国の王が、自分の臣下に対しておのれを大王というようなものである。法華経の王は、諸経の小王に対して大王というのであるから、最高に勝れているわけである。 | |
| 但涅槃経計りこそ法華経に相似の経文は候へ。されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ勝るととひて、又法華経に対する時は「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記莂を授くることを得て大果実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。我と涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。 | ただし涅槃経にのみは法華経に似ている勝れたる経文を見だす。ゆえに、天台大師以前の南北の十師は、それに迷って、法華経は涅槃経に劣るなどといっていた。しかるに、もっぱら経文をすなおに拝見してみれば、無量義経に説かれているように、華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の諸経をあげて、これを涅槃経みずからに比較して、しかも涅槃経には四十余年の爾前経に勝れたりと説いているのである。また、法華経と比較するときは、この涅槃経の説かれたゆえんは「法華経の中で八千の声聞が未来に成仏するという記別を得たのは菓実がりっぱに実ったようなものである。この涅槃経では、その菓実を秋にとりいれ、冬のための蔵入れも終わっているようなもので、さらになすべきことはなく、わずかにこぼれを拾うようなものである。」といって、みずから「涅槃経は法華経に劣る」と説いた文がある。 | |
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かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷ふて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとヾむべし。此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。而るを経文にこそ迷ふとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人々はしりぬべき事ぞかし。然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし、いわうや余宗の人々をや。 |
このように経文は明らかにその勝劣を説いているが、中国の南三北七の大智者たちも迷ったほどであるから、末代の学者たちは、よくよく意を留めて熟読すべきである。この経文は、ただ法華経と涅槃経の勝劣を説いているばかりでなく、これによってあらゆる十方世界の一切経の勝劣も知ることができるのである。 しかるに、世の学者どもが経文を正しく読みきれないで迷うのは、まだ仕方ないとしても、天台大師・妙楽大師・伝教大師等が、経文の意はかくのごとしと明白に諸経の勝劣を厳然と示されたのちは、心あるものは、それを了知しなければならないはずである。しかれども天台宗の人たる慈覚・智証でさえ、この経文の真意を理解できないのであるから、まして他宗の人々が迷うのは当然というべきか。 |
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或人疑って云はく、漢土日本にわたりたる経々にこそ法華経に勝れたる経はをはせずとも、月氏・竜宮・四王・日月・・利天・兜率天なんどには恒河沙の経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給ふ御経やましますらん。答へて云はく、一をもって万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。 (★1002㌻) 山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。 |
かくいえば、ある人は疑つていうであろう。「中国、日本に渡来した経々の中には、法華経よりも勝れている経はないかもしれないが、月氏・竜宮・四天王・日天・月天・忉利天・都率天などには、恒河沙ほどの経があるといわれるゆえに、その中には、法華経より勝れた経典もあるのではないだろうか」と。 答えて言う。いやしくも智人であるならば、一をもって万を察し、門を出ずして天下の形勢を知るということは、これである。愚かな者は、疑いが深くて南の空だけを見て東西北の三天を見ず。その三方の空には自分らの見る太陽と別の太陽が照らすであろうかと、考えるようなものである。また山のかなたに立つ煙を見て、煙は確かに上がっているが火は見えないから火はないかもしれないというようなものである。今の質問もかくのごとき愚者のことばであり、また、これこそが不審謗法の人であり、生盲に異ならぬというべきである。 |
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| 法華経の法師品に、釈迦如来金口の誠言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云はく「我が所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり」等云云。此の経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東方より来たりて真実なりと証明し、十方の諸仏集まりて釈迦仏と同じく広長舌を梵天に付け給ひて後、各々国々へかへらせ給ひぬ。 |
法華経の法師品第十四で釈迦如来はみずから五十年間の一切経の勝劣を定めて「わが所説の経典は、実に無量千万億であって、已に説き、今説き、当に説かんとするものの、まことに多くの経典があるが、その中で、この法華経こそ、最も難信難解であり、最高の経典である」と説かれている。 この法華経の経文は、たとえ釈迦如来・一仏の説であろうと、等覚以下のすべての菩薩は、ただ仰いで信ずべきである。しかるにその上に、釈迦仏のほか多宝如来は東方の宝浄世界から飛んで来て「この法華経は、すべて真実なり」と明白に証明し、さらに十方の諸仏までも、無数に集まって、釈迦如来と同じ広長舌を梵天につけて真実を証明した。そして終わって後、多宝仏も十方の分身仏もみなおのおのの本国へ帰ったのである。 |
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| 已今当の三字は、五十年並びに十方三世の諸仏の御経一字一点ものこさず引き載せて、法華経に対して説かせ給ひて候を、十方の諸仏此の座にして御判形を加へさせ給ひ、各々又自国に還らせ給ひて、我が弟子等に向かはせ給ひて、法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はヾ、其の土の所化の弟子等信用すべしや。 | このように十分な証明があって説かれた法華経の已今当の三字は、釈迦五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を全部、その一字一点も残さずにこれを総括し、法華経と比較して、しかも法華経こそ最高なると説かれたのである。十方の諸仏は、これを明らかに認めて「真実なり」との判を押したのである。ゆえに、もしも諸仏がおのおのの国に帰ってから、たとえ自分の弟子たちに向かって「じつは法華経より勝れた経文があったのだ」と説いたとしても、その弟子たちは信用するはずがあろうか。 | |
| 又我は見ざれば、月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に、法華経に勝れさせ給ひたる経やおはしますらんと疑ひをなさば、反詰して云へ、されば今の梵釈・日月・四天・竜王は、法華経の御座にはなかりけるか。若し日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば大誑惑の日月なるべし。 | まだ自分は見ないけれども、月氏・竜宮・四天・日天・月天等の宮殿には、法華経より勝れたる経があるだろうという人がいれば、まず次のことを知りなさい。梵天・帝釈天・日天・月天・四天・竜王等は法華経の座にいなかったどうか。じつは、この諸天善神はすべて厳然と法華経の座につらなっていたのである。もしも日天・月天の諸天が「じつは法華経に勝るところの経があるのだが汝はそれをしらぬのだ」というならば、まさに大誑惑の日月天というべきである。 | |
| 日蓮せめて云はく、日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに、大地の上にどうとおち候はんか。無間大城の最下の堅鉄にあらずば留まりがたからんか。大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給ふべからずと、せめたてまつるべし。 | 日蓮はこれを責めていうであろう。「日天・月天が虚空に住して、われらのようにいまだに大地に住しないということは、上品というすぐれた不妄語戒を持った力によるのである。それであるのに、もし今、法華経より勝れたる経文がある等と大妄語あるならば、おそらくは壊劫の時期を待つまでもなく、大地の上に、どうと転落してしまうであろう。そして、大地裂けて無間地獄の最下位の堅鉄まで転落しなければ止まりがたいであろう。このような大妄語の日天・月天であるならば、須臾の間も、天に懸かって四天下を照らすべきではない」と、厳然と責めるであろう。 | |
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而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智顗不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵・大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給ふは、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをす処は、豈諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽梨もものならず。大天・大慢外にもとむべからず。彼の人々を信ずる輩はをそろしをそろし。 |
以上のごとく、法華経の最勝は明々の理であるのに、華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の智者といわれる三蔵大師等が、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立てている。わが分際斉には及ばぬ事で批判の限りではないけれども、仏法は道理である。仏説による大道理から見るならば、みな諸仏の大怨敵ではないか。釈尊を殺そうとした彼の大逆悪の提婆達多や瞿伽梨尊者等も問題ではない。まことに大天・大慢バラモン以上の大悪逆のものである。このような誑惑の師を信ずる人々もまた、恐ろしいことである。 |
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(★1003㌻) 問うて云はく、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏、乃至弘法・慈覚・智証等を、仏の敵との給ふか。答へて云はく、此大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼をもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設ひいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若し又をそれをなして指し申さずば、一切経の勝劣空しかるべし。 |
問うて言う。華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の善無畏ないし弘法、慈覚、智証等を一様に仏敵とわれるのか。 答えて言う。この疑難は、実に重大なことである。仏法における第一の大事である。経文のさし示すところを、私が観察すれば「法華経よりも勝れた経がある」という人は、たとえ、なにびとたりとも謗法の罪はまぬかれること、経文に明白な事実である。もし、それを恐れて、その謗法を破折しなかったならば、釈尊の一切経の勝劣浅深は、総くずれになってしまうのである。 |
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| 又此の人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼の宗々の末の人々の云はく、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計らひにはあらず、祖師の御義なり。戒行の持破、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがふ事なしと申せば、彼の人々にとがなし。 | また彼ら諸宗の祖の権威を恐れて、末代の門下たちばかりを仏敵として破折すれば、それらの諸宗の人々はいうであろう。「法華経よりも大日経が勝れているということは、私のことばではない。われらの祖師の説なのである。祖師とわれらとでは、戒行をたもつか破るか、智慧が勝れるか劣るか、身分の上下等の差別はあったとしても、学んだところの法門には、なんの異なりもない。われらは祖師の教えどおりにやっているのでる」というであろう。かくいわれれば、末代の門下の人々には、根本の罪がないということになる。 | |
| 又日蓮此を知りながら人々を恐れて申さずば「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さヾれ」の仏陀の諫暁を用ゐぬ者となりぬ。いかんがせん、いはんとすれば世間をそろし、黙示さんとすれば仏の諫曉のがれがたし。進退此に谷まれり。宜なるかなや、法華経の文に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と。又云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。 | かくのごとく、根本的には、諸宗の元祖に重大なる罪のあることを知った。しかるに日蓮、かの諸宗の元祖を恐れ世間の批判を気にして、彼らの謗法を明らかにしなかったならば「身命を喪うとも、正しい教えを匿してはならぬ」と仏意仏勅を用いぬものになってしまう。いかにしたらよかろうか。それをいうならば、世間の非難迫害は、当然、受け切らなければならぬ。黙ってこれをいわぬならば、仏の諌暁をどうすべきか。進退ここにきわまったというべきである。しかし、このような難は当然であって、法華経法師品には「この経を説こうとすれば、釈尊在世でさえもなお怨嫉が多かった。まして仏の滅度の後においてをや」と。また法華経安楽行品には「一切世間のものは怨嫉が多くして、この法華経を信じがたい」といわれるゆえんである。 | |
| 釈迦仏を摩耶夫人はらませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとをし見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持ち候大医ありとのヽしりて、大毒を后にまいらせつ。 | ここで仏在世のようすをみるに、摩耶夫人が釈迦仏を懐妊なさったときに、第六天の魔王は摩耶夫人のお腹の子を通し見て、非常に恐れおのおき、「われらの大怨敵である法華経の利剣を身ごもったのである。出産前に、なんとかして、これを失うようにせねばならない」と決心した。そして第六天の魔王みずからが大医師と姿を変え浄飯王宮にはいり「ご安産の大良薬を持参してきた大良医である」といって、夫人に毒をさしあげたのである。 | |
| 初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかりし、如来現在猶多怨嫉の大難ぞかし。 | さらに、生まれたときから、すぐに石をふらせてつぶそうとした。乳には毒を入れて殺そうとはかった。また出家のために城を出られるときは、黒い毒蛇となって道を邪魔し、あるいは提婆達多・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身中にはいって、あるいは大石を投じて仏の身から血を出さしめ、あるいは釈尊の同族を殺し、あるいは仏の弟子等を殺すという大難がつづいた。これらの大難は、みな遠くは、法華経を釈尊に説かせまいとする計画的な迫害であった。そしてこれが「如来の現在にすら猶怨嫉多し」の大難である。 | |
| 此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞかし。況滅度後と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。 | しかし、これは釈尊誕生以前からの遠き大難、久しい昔からの大難というべきである。そして、近き難、すなわち後々の大難としては、舎利弗・目連・諸大菩薩等も、爾前経が説かれた四十余年のあいだは、みな法華経の弘通を妨害した大怨敵のものたちであった。これらは仏在世の難であった。しかし、法華経には「いわんや滅度の後をや」と説かれ、未来には、仏在世のときよりも、よりいっそうの大難があると説かれている。 | |
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(★1004㌻) 仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か、提婆が長三丈、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべきとはをもへども、彼にもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値ふ人をこそ、滅後の法華経の行者とはしり候わめ。 |
いかなる大難がこようとしているのか。しかも仏でさえ忍びがたい大難を、凡夫はいかにして忍んでいかれるのであろうか。いわんや仏在世よりも大なりといわれる大難なのである。どんな大難であろうとも、提婆が長さ三丈、広さ一丈六尺という大石投じて殺そうとした大難や、阿闍世王が酔象をもって踏みつぶそうとした大難等にも超越する大難があるであろうかとも思うが、また彼の仏在世にすぎた大難であるならば、自分にはなんの小失もないのに、たびたび在世以上の大難にあうならば、まさにその人こそ、仏滅後、末代の法華経の行者であるとしりうるであろう。 | |
| 付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使なり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、仏陀蜜多・竜樹菩薩等は赤幡を七年・十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをもひじにヽ死す。此等は正法一千年の内なり。 | 仏滅後の付法蔵の二十四人の人々は、いずれも四依の菩薩であり、仏の御使いである。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられた。また仏陀密多は十二年間、竜樹菩薩は七年間、ともに赤幡を押し立てて、外道ならびに邪宗の元凶に破折を加えた。馬鳴菩薩は、金銭三億をもって敵国に売られ、如意論師は外道の横計のために、思い死にしてしまったのである。これらは、すべて正法一千年の間の難であった。 |
| 像法に入って五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始は智顗、後には智者大師とがうす。法華経の義をありのまヽに弘通せんと思ひ給ひしに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども、詮じて十流となりぬ。所謂南三北七なり。十流ありしかども一流をもて最とせり。所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。 | 像法時代にはいって五百年、仏滅後一千五百年の時に、中国に一人の智人があった。初めは智顗、後に天台智者大師と号した。法華経の実義をありのままに弘通しようと思い種々それ以前の人々の説を調べた。それによれば、天台大師以前の智者といわれる百千万人の人々が、種々に釈尊の一代仏教を研究して、それぞれ教判を立てたが、おもなものは十流であった。それは南の三派、北の七派の十流であったけれども、所詮はその中の一派のみがもっとも勢力があった。それはいわゆる南の三派中の第三、光宅寺の法雲法師の教判である。 | |
| 此の人は一代の仏教を五にわかつ。其の五つの中に三経をえらびいだす。所謂華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとし。此より已下は万民のごとし。 | この光宅寺法雲は、一代の仏教を五時に分けた。五時の教えの中で、三経を選び出した。すなわち、華厳経・涅槃経・法華経である。光宅寺法雲は、その三経について、勝劣浅深を説き「一切経の中では華厳経が第一であって、大王のごとく、涅槃経は第二であって摂政関白のごとく、第三の法華経は公卿等のごときものである。この三経より以下の経々は万民のごときものである」とした。 | |
| 此の人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習ひ伝へ給はるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわりて法華経・涅槃経・華厳経の功をつもりし上、梁の武帝召し出だして、内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけて此の法師をあがめ給ふ。法華経をかうぜしかば天より花ふること在世のごとし。 | そもそも光宅寺法雲は、生来智慧が勝れているうえに、仏法のことは慧観、慧厳、僧柔、慧次という大学匠から学んでよく解していた。しかも南北の諸師の義を論破するのみでなく、静かに山林に交わって、法華経、涅槃経、華厳経の研究をつくした。梁の武帝は、光宅寺法雲の名声を聞いて、召し出して法を聞き、内裏のなかに寺を建て、光宅寺と名づけて住せしめ、一方ならず法雲をあがめた。法華経を説法すれば天から花のふること、釈尊在世の説法のごとくであったという。 | |
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天監五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の「其雨普等・四方倶下」と申す二句を講ぜさせ給ひし時、天より甘雨下りたりしかば天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王ををそるヽがごとく我とつかへ給ひし上、或人夢みらく、 (★1005㌻) 此の人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり。法華経の疏四巻あり。此の疏に云はく「此の経未だ碩然ならず」と。亦云はく「異の方便」等云云。正しく法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。 |
また天鑒五年に大旱魃のあった時、この法雲法師に請うて祈雨せしめた。その時、法華経を講じたが、薬草喩品の「其の雨普しく四方に倶に下る」の文を講じた時、干天より甘雨が沛然と降ってきた。天子は御感のあまり法雲を僧正に任じ、以来諸天が帝釈につかえるごとく、万民の国王を畏れるごとく、みずから供養し仕えたという。またある人の夢に、「この法雲は過去世の日月燈明仏の時から法華経を講じている人である」と顕われたという。 また法雲は、法華経の疏を四巻作った。この疏のなかには「この法華経はまだはっきりせぬ」とか「異の方便である」等といっている。これは法華経がいまだ仏の法理を究めつくしたものではないとのことである。 |
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| 此の人の御義仏意に相ひ叶ひ給ひければこそ、天より花も下り雨もふり候ひけらめ。かヽるいみじき事にて候ひしかば、漢土の人々、さては法華経は華厳経・涅槃経には劣るにてこそあるなれと思ひし上、新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて、大体一同の義にて候ひしに、法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳の始めに、智顗法師と申す小僧出来せり。 | こうしたことも、この人の義意が仏意に相いかなったればこそ、天から花も降り、また雨も降ったのであろう。このようなすばらしい奇瑞があったのであるから、中国の人々は「さて法華経は、華厳経や涅槃経には劣る教なのであろう」と思ったのである。その上、中国の祖師たちがこうであるから、新羅、百済、高麗等の朝鮮や日本まで、この光宅寺法雲の疏が弘まっていった。法雲法師が死去して間もなく、梁の末・陳の始めに、智顗法師すなわち天台大師が出現したのである。 | |
| 南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、一切経蔵に入って度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、此の三経の中に殊に華厳経を講じ給ひき。別して礼文を造りて日々に功をなし給ひしかば、世間の人をもはく、此の人も華厳経を第一とをぼすかと見えしほどに、法雲法師が、一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんありけるなり。 | 天台大師は南岳大師と申す人の弟子であったが、師匠・南岳大師の義も不審であると思われたかのゆえに、一切経蔵の中にはいってたびたび一切経を研究していた。そして、一切経の中にも、華厳経、涅槃経、法華経の三経をもっとも大事な経として選び出し、この三経の中でも、ことに華厳経の講義に力を入れられた。別して華厳経の礼文を作って、日夜、華厳経に力を入れたので、そのために、世間の人々は「この天台大師も華厳経を第一と立てるのか」と思っていたのである。しかし天台大師の考えはそうではなかった。すなわち法雲法師が「一切経の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三」と立てたのが、あまりにも不審であったので、それを確認するために、華厳経を、とくに、くわしく研究されたのである。 | |
| かくて一切経の中に、法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給ひてなげき給ふやうは、如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導くこと人師の誤りによれり。 | かくして、あらゆる研鑽のすえに、天台大師は、「一切経の中には、法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三」と決定されたのである。しかして天台大師は、さらに嘆いていうには「釈迦如来の聖教は多く中国にわたってきたけれども、少しも人々を利益することはない。かえって一切衆生を悪道に導くことになった。これは、ひとえに、仏教を解釈した人師たちの誤りによるものである」と。 | |
| 例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐいだしぬれば万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なりといわばもちうることなき上、我が長の心に叶はんがために今の人をのりうちなんどすべし。いかんがせんとはをぼせしかども、さてもだすべきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法によて地獄に堕ちぬとのヽしらせ給ふ。其の時南北の諸師はちのごとく蜂起し、からすのごとく烏合せり。 | たとえば一国の指導者が、東を西といい、天を地というならば、万民はみな、それに従うであろう。それより後に身分の賤しいものが出現して「汝らの信ずる西は、実は東であり、汝らの信ずる天は地なのでる」といっても、世の人々は、それを用いることがないばかりでなく、指導者の心に迎合するために、そのものを罵詈し打擲するであろう。天台大師は、そこで、どうしようかと思案されたが、絶対に黙っているべきではないと決意されて「光宅寺の法雲法師は、謗法の科によって、地獄に堕ちた」と強く叫ばれた。その時は、南北の諸師は、あたかもハチの巣をつついたごとく騒然となり、烏の群れがつどうがごとく集まって天台大師を攻撃した。 |
| 智顗法師をば頭をわるべきか国をうべきか、なんど申せし程に、陳主此をきこしめして南北の数人に召し合わせて、我と列座してきかせ給ひき。法雲法師が弟子等慧栄・法歳・慧曠・慧なんど申せし僧正・僧都已上の人々百余人なり。各々悪口を先とし、眉をあげ眼をいからし手をあげ拍子をたヽく。 | 南三北七の邪師たちは、天台法師の破折に憤り「天台大師を殺せ」あるいは「天台大師を流罪にせよ」とののしった。そのことを聞いた陳の国主は彼ら南三北七の数人と天台大師を公場対決させ、みずから君臨して、両者の主張を聞いたのである。そのとき、法雲法師の弟子の慧栄・法歳・慧曠.慧恆等の僧正・僧都以上の人々百余人が集まった。彼らはおのおの、ただ天台の悪口をいい、眉をあげ眼をいからし手をあげ柏子をたたき、罵り騒ぐだけであった。 | |
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(★1006㌻) 而れども智顗法師は末座に坐して、色を変ぜず言を誤らず威儀しづかにして諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへす。をしかへして難じて云はく、抑法雲法師の御義に第一華厳・第二涅槃・第三法華と立てさせ給ひける証文は何れの経ぞ、慥かに明らかなる証文を出ださせ給へとせめしかば、各々頭をうつぶせ色を失ひて一言の返事なし。 |
しかし、天台大師は、当時無官であったため末座に坐ったまま顔色も変えず、言葉も静かに、威儀を正して彼らの一々を取っては、みごとに、これを責め返し押し返したのである。 そして逆に彼らを難じていうのに「法雲法師の義に、第一は華厳、第二は涅槃、第三は法華と立てられたのは、いかなる経文によるのか。たしかに明らかな文証を示せ」と責められたので、おのおの頭をたれ、顔色を失って、一言の返答もできなかったのである。 |
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| 重ねてせめて云はく、無量義経に正しく「次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空」等云云。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給う。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候。いかに心えさせ給ひて、華厳経をば一代第一とは候ひけるぞ。各々御師の御かたうどせんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此に勝れたる経文を取り出だして、御師の御義を助け給へとせめたり。 | 天台大師は重ねてせめていわく「無量義経には、次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説く等とある。仏みずからが華厳経の名をあげられて、無量義経に対して未顕真実と打ち消したのである。法華経より劣るところの無量義経にすら、華厳経は責められているのである。法雲法師は、これをどのように思って、華厳経を一代経中第一などといったのでろうか。おのおのも、また法雲法師の味方をしようとするならば、この無量義経の文を破るところの勝れた経文を示して、彼の師の義を助けるべきである」と責められた。 | |
| 又涅槃経を法華経に勝ると候ひけるは、いかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり。所謂経文に云はく「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞、記莂を受くることを得て大菓実を成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。経文明らかに諸経をば春夏と説かせ給ひ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども、法華経をば秋収冬蔵大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始め捃拾の位と定め給ひぬ。 | また「涅槃経が法華経より勝れるという経文はどこにあるのか。涅槃経第十四には華厳・阿含・方等・般若経等をあげて、涅槃経に対して勝劣は説いてはいるが、法華経と涅槃経との勝劣はまったく見えない。ところが、涅槃経のその前の第九の巻には法華経と涅槃経の勝劣が明らかに示されている。すなわちこの涅槃経の文には『この涅槃経が世に出ずるのは、乃至、法華経の中で八千の声聞が未来に成仏するという記別を得たのは、菓実がりっぱに実ったようなものである。この涅槃経では、その菓実を秋にとりいれ、冬のための蔵入れも終わっているようなもので、さらに作すべきことはなく、わずかにこぼれを拾うようなものである。』とある。経文は、明らかに、諸経を春夏と説き、涅槃経と法華経とを、菓実の位とは説かれているが、法華経を秋収冬蔵大菓実の位、涅槃経を秋の末、冬の始めの捃拾の位(落穂拾いの位)と定めている。 | |
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此の経文、正しく法華経には我が身劣ると、承伏し給ひぬ。法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並びとの経々に勝れたるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ。すでに教主釈尊かく定め給ひぬれば疑ふべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑ひおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給ひしかば、多宝仏大地よりをどり出でて「妙法華経皆是真実」と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給ひ、広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給ふ。 |
ゆえに、この経文は、明らかに涅槃経みずから法華経に劣ると頭を下げているのである。法華経の文には已説・今説・当説とあって、この法華経は、法華以前の経や、法華経にならぶように見える無量義経等に勝れるだけではなくして、後に説かかれる経々にも勝れると仏は定められた。すでに教主釈尊が、かく定められた上は、なんの疑うべき余地はないけれども、仏の滅後のことを心配されて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人と定められたので、多宝如来は大地から躍り出て『妙法華経は皆是れ真実である』と証明した。またその上に十方の分身の諸仏も集まってきて、広く長い舌を大梵天につけ、法華経に誤りなきを証明し、また教主釈尊も同じく広長舌を大梵天につけて法華経真実を宣言した。 | |
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然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各々本土にかへらせ給ひて後、多宝・分身の仏もをはせざらんに、教主釈尊、涅槃経を (★1007㌻) といて法華経に勝ると仰せあらば、御弟子等は信ぜさせ給ふべしやとせめしかば、日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく、漢王の剣の諸侯の頚にかヽりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低れたり。天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり。かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞こへ、月氏大小の諸論も智者大師の御義には勝たれず、教主釈尊両度出現しましますか、仏教二度あらわれぬとほめられ給ひしなり。 |
そうして後、多宝如来は宝浄世界に帰り、十方の諸仏もおのおの本土に帰られてしまい、多宝仏も十方分身の諸仏も、だれもいないところで、教主釈尊ひとり涅槃経を説いて、涅槃経は法華経にすぐれているとおおせられても、御弟子たちは、これを信ずるだろうか」 かくのごとく天台大師は南三北七の諸師を責められので、法雲の弟子たちは、日月の大光明が修羅の眼を照らすがごとく射すくめられ、また漢の高祖の剣が、諸侯の首を切らんとかかったごとく両眼を閉じ、頭をたれて聞き入った。その時の天台大師の威容こそは、あたかも師子王が狐や兎の前ではほえるがごとく、鷹や鷲が鳩や雉を捕らえようとするのに似ていた。 このようなことがあって、初めて世間の人々は、さては法華経が華厳経や涅槃経より勝れているのだということを知って、中国全土に流布したのみでなく、かえってインドにまで流伝したのである。ためにインドの大小の論師たちも、中国の天台智者大師の義には勝てず、教主釈尊が二度出現されたのか、はたまた仏教がふたたびあらわれたのかと賛嘆したのである。 |
| 其の後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代はりて唐の世となりぬ。章安大師も御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習ひ失せし程に、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人、貞観三年に始めて月氏に入り同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす。 |
その後、天台大師も隋の開皇十七年に六十歳で入滅され、陳隋の時代も過ぎて、やがて唐の代となった。天台大師の第一の弟子、章安大師も入滅された。 かくして天台大師の仏法は、ようやくすたれ、その教学もまさに滅びんとした。時に唐の太宗の御宇に、玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年に中国を発してインドに入り、貞観十九年に中国に帰ってきた。玄奘はインドの仏教をたずね尽くして、その中に法相宗がもっとも優れているといってこれを中国に伝えた。 |
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| 此の宗は天台宗と水火なり。而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして、法華経は一切経には勝れたれども深密経には劣るという。而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智慧の薄きかのゆへにさもやとをもう。 | この法相宗は、天台宗とは、水火のごとく相反する教えであった。しかも玄奘は、天台大師がいまだご覧にならなかったところの深密経・瑜伽論・唯識論等を持ち帰ったと称し、しかも「法華経は一切経には勝れた経ではあるけれども、深密経には劣る」と主張した。天台の末学たちは、智慧、学識も浅かったために、天台大師の真意を解すすべもなく、天台大師はご覧にならなかったのだからと思い、玄奘のいうことを、そうであろうとそのまま受け入れてしまった。 | |
| 又太宗は賢王なり、玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時の威ををそれて申す人なし。法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり。 | また、唐の太宗は賢王であると人々に思われ、玄奘の御帰依はまた一通りではなかったので、玄奘に対していいぶんをもった人々も、世の常として、時の皇帝の権力を恐れて、それをいい出す人がいなかった。真実の法華経を投げ捨てて、「三乗は真実、一乗方便、五性各別」と主張したことは、まことに残念なことであった。 | |
| 天竺よりはわたれども月氏の外道が漢土にわたれるか。法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚しくなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。 | 玄奘の持ち帰った経文は、インドから伝えたものであるが、その邪義なることは、インドの外道が中国にやってきたかのごとくであった。法華経は方便であり、深密経は真実であるといったので、釈迦・多宝・十方の諸仏の証言も、かえってムダになってしまい、逆に玄奘やその弟子の慈恩等が生身の仏のごとく思われるという、とんでもないことがおこったのである。 | |
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其の後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもって、天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。此の宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。 (★1008㌻) 南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳、今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。 |
玄奘が法相宗を伝えた後、しばらく経って、唐の則天皇后の時代に、法蔵法師が出た。法蔵法師は、天台大師によってせめおとされた華厳経に、その後訳された新訳の華厳経を助けとして華厳宗を開いた。法蔵の気持ちは前に華厳が天台大師によって打ち破られた、その恨みを晴らすためであった。 この華厳宗の主張は、「華厳経は仏陀最初の説法であるから根本法輪であり、法華経は最後の説であるから枝末法輪である」というのである。また、前の南三北七の諸師は、一華厳・二涅槃・三法華であった。天台大師は一法華・二涅槃・三華厳でり、法蔵の立てた華厳宗のいいぶんは、一華厳・二法華・三涅槃であった。 |
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| 其の後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵大日経・蘇悉地経をわたす。金剛智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵に弟子あり不空三蔵なり。此の三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひそいてゆヽしかりしかば、天子かうべをかたぶけ万民掌をあわす。 | その後、唐の玄宗皇帝の時に、インドから善無畏三蔵が中国にわたってきて、大日経・蘇悉地経を伝えた。さらに金剛智三蔵は、金剛頂経を伝えた。また金剛智三蔵の弟子に不空三蔵というのがあり、この不空三蔵もわたってきた。これらの三人は、いずれもインドの人で、種姓も高貴であり、人柄も中国の僧より優れていた。その説く法門も、後漢の世に仏教初めて伝来してより、今日にいたるまで見聞しなかったところの印と真言という、まったく新しいものをあいそえて教えを説いた。それが、まことに堂々としてりっぱであったので、上は玄宗皇帝から下は万民にいたるまで、すべて深く頭を垂れ、また手を合掌して帰依したのである。 | |
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此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分なり。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、此の経は天子の一言なり。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てヽも及ばず。但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ。されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此の経は天子の正言なり。言は似たれども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕はす人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて、菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。 |
この人々の説によれば、「華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は、顕教の内の勝劣であり、釈迦如来の説法の範囲である。いまこの大日経は大日如来の説法であって、法華経の顕教と相対すれば、彼の諸経は民の万言、この大日経は天子の一言である。華厳経・涅槃経等は大日経に梯を立ててもおよびもつかない。ただ法華経のみは大日経に相似た経といえよう。しかし、彼の法華経は釈迦如来の説であって、民の正言にすぎぬが、この大日経は大日如来の説、天子の正言である。 正言である点は似ているけれども、仏の資格は、釈尊と大日如来とでは天地雲泥である。たとえば釈尊は濁水に映る月影のごとく、大日如来は清水に宿る月影のごとく月は同じであるが水に清濁があるようなものである」等と勝手な論を吐いたのである。しかも、この誤りをだれひとり尋ねあらわす人がなかった。諸宗は皆落ち伏して真言宗になりさがってしまったのである。善無畏・金剛智の死去の後、不空三蔵はふたたびインドに立ち帰り、菩提心論と申す論を中国にもってきたので、いよいよ真言宗は盛んになるばかりであった。 | |
| 但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは六代二百余年の後なれども智慧賢き人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひたりけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に云はざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。 | ただし、天台の陣営にも妙楽大師という人が出現していた。天台大師より後、二百余年に出現した人であるが、ひじょうにの智慧の優れた人で、天台大師の解釈をくわしく究めつくしていた。ゆえに天台の釈された真意は、その後にわたってきた深密経や法相宗、また初めて漢土に立てられた華厳宗、また新しく伝来した大日経を依経とするところの真言宗、これらのいずれにも、格段にすぐれているのが法華経であるということを明白に知っていた。しかるに、天台の末学たちは、その智解がそこまでいたらないのか、あるいは玄奘・法蔵・善無畏等を恐れるのか、あるいはそれらの邪義に帰依した、時の皇帝の威力を恐れたのか、なにもいい出せなかった。このままに打ち過ぎるならば、天台の正義も滅び去ってしまうであろう。 | |
| 又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして三十巻の末文を造り給ふ。所謂弘決・釈籖・疏記これなり。此の三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。 | また彼らの唱える邪義は、陳隋以前の南三北七の邪義にも越える大邪義である。妙楽大師は、これは絶対に捨てておくわけにはいかぬと堅く決心して、天台大師の本疏については、註釈書を三十巻つくられた。いわゆる摩訶止観輔行伝弘決、法華玄義釈籤、法華文句疏記である。この三十巻の書は、本書の中で重複しているところは一方を削り、意味の明瞭でないものをはっきりさせただけではなく、天台大師時代になかったために、天台の破折をのがれていた法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時に論破せられた偉大な書なのである。 |
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又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像をわたす。 (★1009㌻) 又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。 |
また、日本国において、人王第三十代・欽明天皇の御宇、十三年壬申十月十三日に、百済の国より一切経ならびに釈迦仏の像が渡ってきた。 その後、用明天皇の御宇に、聖徳太子が仏教の研究を始められ、とくに、和気の妹子という臣下を中国てに遣わして、先生に所持したところの法華経を取り寄せて、持経と定められた。 その後、人王第三十七代・孝徳天王の時代に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗が渡来してきた。 次に人王第四十五代聖武天王の時に、律宗が伝えられた。以上で六宗となった。孝徳天皇から第五十代桓武天皇にいたるまで、十四代の百二十余年のあいだは、いまだ天台宗・真言宗の二宗はなかったのである。 |
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| 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始めとして六宗を習ひきわめぬ。而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。此の国に渡りたるか、又いまだわたらざるかと不審ありしほどに、有る人にとひしかば、其の人の云はく、大唐の揚州竜興寺の僧鑑真和尚は天台の末学道暹律師の弟子、天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈を持ち来たりながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。 |
桓武天皇の時代に伝教大師最澄という小僧がいた。山階寺の行表僧正の弟子である。法相宗をはじめとして六宗を学び尽くした。しかし、いまだ仏法の真髄は得られなかったので、華厳宗の祖・法蔵法師が説いた起信論の疏を見られた。その書の中に天台大師の釈が引用されてあった。 そこで最澄は、この書こそおおいに子細ありそうだ、ぜひそれを読みたいが、その書が日本にわたっているか、あるいはまだわたっていないかどうか不審であったがゆえに、ある人にそのことを話していうには「中国の揚州竜興寺の住僧で鑑真和尚という人がいる。鑑真は天台の末学であり、また道暹律師の弟子である。天宝年間の末に日本にやってきて、小乗の戒律をひろめたが、天台の書物は持ちきたりながらひろめずに終わってしまった。それは第四十五代聖武天皇の御代のことである」と。 |
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| 其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて生死の酔ひをさましつ。此の書をもって六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。忽ちに願を発して云はく、日本国の人皆謗法の者の檀越たるが、天下一定乱れなんずとをぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。 | これを聞いた最澄は、すぐにその本を見たいと申されたので、即座に取り出して見せたところ、一度にして生死の迷いをさまされた。しかもこの書によって、六宗をたずねられたところ、ぜんぶ邪見であることがわかった。そこで、たちまち願をおこし「六宗の邪義によって、日本国中の人々が、みな謗法の者の檀那となっているゆえに、かならず天下は乱れるであろう」といって、六宗を責められたので、南都の七大寺・六宗の学者たちは蜂起して、京都中に烏合して、ために天下の大騒動となって、七大寺六宗の人々は、伝教大師を憎み、悪心ははなはだ強盛であった。 | |
| 而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を召し合はす。華厳・三論・法相等の人々、各々我が宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒を取りて、本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせめしかば一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。 | しかし、延暦二十一年正月十九日に、桓武天皇はみずから高雄寺に行幸になって、そのさい、七大寺の学僧である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合わせ、対論を命じられた。これ、有名な伝教大師の公場対決である。彼ら華厳・三論・法相等の学者たちは、おのおの自宗の元祖の立義に固執した。しかし伝教大師は、六宗の人々の立義を一々に取り上げて、法華経や天台大師の論釈、その他の経や論釈に照らし合わせて責めたので、六宗の人々は唖然と口をつぐんで鼻のごとく、一言も答えることができなかった。 | |
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天皇をどろき給ひて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して十四人をせめ給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。 (★1010㌻) 其の書に云はく「七箇の大寺、六宗の学匠、乃至初めて至極を悟る」等云云。又云はく「聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此理を争って其の疑ひ未だ解けず。而るに此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。又云はく「三論・法相、久年の諍ひ、渙焉として氷のごとく解け、昭然として既に明らかにして、猶雲霧を披いて三光を見るがごとし」云云。 |
天皇も驚かれて、伝教大師に詳しくお尋ねがあり、重ねて勅宣を下して十四人の学者たちを厳しく責められたので、みな帰伏の謝り状を奉った。 その謝表には「七大寺六宗の学者達は、初めて純円一実の至極の法門を知りました」また「聖徳太子が仏法をひろめられてから、今日にいたるまで二百余年のあいだ講ぜられたところの経文や論釈は数多い。しかし彼此とたがいに勝劣を争っていまだその疑いが解けなかった。しかも、この最妙の法華の円宗はいまだひろまらなかった」と。 また「三論と法相との長い間の争いは、あたかも氷がさらりと解けるがごとく照然として明らかにその解決をみたことは、ちょうど雲や霧を開いて、日・月・星の三光を見るようである」等といっている。 |
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最澄和尚、十四人が義を判じて云はく「各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振るひ、賓主三乗の路に徘徊し、義旗を高峰に飛ばす。長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の轍を改めず、白牛を門外に混ず。豈善く初発の位に昇り、阿荼を宅内に悟らんや」等云云。 |
伝教大師は十四人の邪義を批判していわく、「六宗の人々は、おのおの法華経の一軸を講ずるのに、自宗の立義によっている。ゆえに、法鼓を深い谷にひびかせて盛んに法門を論談するのであるが、ことごとく、主客ともに声聞・縁覚・菩薩の三乗を徘徊して、成仏の道を歩めないのである。しかし、なお義旗を高山に立てて人々を集めている。なるほど、長幼の学者や三有の煩悩を破折するのはよいが、しかし、なお長き歴劫修行をしなければならぬという権経の教えを説いている。これでは大白牛車たる法華経と、いやしい車の権経を混同するようなものである。かかる六宗の教えでは、どうして初発心の位から、ただちに成仏得道の境涯を得ることができようか」と。 | |
| 弘世・真綱二人の臣下云はく「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢く。一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ」等云云。又十四人の云はく「善議等牽かれて休運に逢ひ、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云。 | この論議の席に参加していた和気清磨呂の子、和気弘世・真綱の二人の兄弟は「霊鷲山の釈尊の妙法を、南岳大師によって聞くことができ、いままた総持の妙悟を天台大師によって聞くことができた。しかるに今の人々は、この妙法を聞くことができず、権乗にいろどられた一乗の法であることを嘆き、三諦円融の義いまだ顕われないことを悲しむものである」と嘆いた。また六宗の十四人の学者たちのいわく、「善議等は幸いなことに、良縁にひかれ福運つよく、今日の奇特な講義を聞くことができた・これ宿世の深縁でないならば、どうして今日の聖代に生まれることができたでろうか」と。 | |
| 此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一つなり。而るに十四人、彼の邪義をすてヽ伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か、華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。 | これらの十四人の人々は、これまでは、いずれも華厳宗の法蔵、審祥、三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩、道昭、律宗の道宣、鑑真等の中国・日本における、それぞれの宗の元祖の法門を次から次へと伝承していったので、あたかも、瓶は変わっても、中の水は異ならぬようなものであった。これらの十四人が、それぞれの邪義を捨て、伝教大師の説かれる法華経に帰依した上は、それより以後の人々は、だれが華厳・般若・深密経等は法華経より勝れているということができようか。小乗の成美・倶舎・律の三宗は、彼ら十四人がとうぜん学んだところであって、大乗の三宗が破れた以上は、小乗の三宗がごときが、何やかやいうべきではない。 | |
| 而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし。 | しかるに今日でもこの子細を知らぬ六宗の者どもは、自宗はいまだ法華経には破れぬのだろうと思っている。これは、たとえば盲人が天の日月を見ることができず、聾人が雷の音を聞くことができず、ために天に日月がなく、空に声なしと思うのに等しいのである。 |
| 真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄昉等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。 |
真言宗という宗は、わが国第四十四代、元正天皇の時代に、中国から善無畏三蔵がやってきたが、大日経の経典だけを渡して弘通せずに中国へ帰った。 その後、玄昉等の僧も大日経義釈十四巻を伝えた。さらに東大寺の得清大徳も真言を伝えた。 |
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此等を伝教大師御らんありてありしかども大日経・法華経の勝劣いかんがとをぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去ぬる延暦二十三年七月御入唐、西明寺の道邃和尚、仏瀧寺の行満等に値ひ奉りて止観円頓の大戒を伝受し、 (★1011㌻) 霊感寺の順暁和尚に値ひ奉りて真言を相伝し、同じき延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面、宣旨を下して六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。 |
これらの書を御覧になった伝教大師は、法華経と大日経の勝劣について、彼らのいうことに不審を持たれていたゆえに、去る延暦二十三年七月の御入唐のさい、西明寺の道邃和尚、仏滝寺の行満等から、止観の法門、円頓の大戒等を伝受し、加えて霊感寺の順暁和尚にあい真言を相伝されたのである。 かくして同延暦二十四年六月に帰朝されて、桓武天皇に御対面になり、宣旨を下して六宗の学生たちに止観真言を習ばしめ、これを七大寺におくことにされた。 |
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| 真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多くの子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知ろしめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。 | 真言と天台の二宗の勝劣については、中国にも種々の主張があり、また、大日経の義釈にも、法華の理と大日経の理はともに諸法実相だから等しい。しかし印と真言が大日にはあるから事相において勝る、というような、理同事勝の邪論もあったけれども、伝教大師は、「それらはぜんぶ善無畏三蔵の誤りである。大日経は法華経にまったく劣っている」と知ったため、奈良の六宗の上に、天台宗を加えて七宗とはしたが、真言宗を入れて八宗とするということはしなあったのである。しかも大日経をば、法華天台宗の傍依の経とされて、華厳・大品・般若・涅槃等と同列におかれたのである。 | |
| 而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に立てう立てじの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか。但し依憑集と申す文に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。 | しかしながら当時は、大事な大乗別受戒の大戒壇をわが日本国に建立するために、これをめぐって大戒壇を立てる立てないと、諸宗との諍論が激しい時代であったがゆえに、また対真言との争いにかかっては、大事な目的である円頓の戒壇建立に支障をきたすおそれがあると考えてのことであろうか、天台・真言の二宗の勝劣については、弟子たちにも分明には教えられなかったようである。ただし、伝教大師の依憑集という本には、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとって大日経に引き入れ、大日経の意とし、理同などという邪義を唱えたという意があるのである。ゆえに彼の真言宗は、天台宗に降伏した宗なのである。 | |
| いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ、月氏へ渡し給へとねんごろにあつらへし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然なり。 | ましてや不空三蔵は、善無畏、金剛智三蔵が入滅した後インドに行き、竜智菩薩に会った時、竜智は、「インドには仏の本意を明かした教えがない。中国には天台がいて、その釈こそまことによく邪正を正し、偏円を明らかにした文である。であるならば、ぜひこれをインドに持ってきて伝えてほしい」と竜智は不空に頼んだ。このことは、不空の弟子含光というものが、妙楽大師に話したということが法華文句記の十の末にある。またその文が伝教大師の依憑集に載せてあるのである。これを見れば、大日経は法華経よりも劣るということが伝教大師の御心である、ということが明白になるのである。 | |
| されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には、法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。大智度論を能く能く尋ぬるならば、此の事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて、此の事に迷惑せるか。 |
ゆえに、釈尊も天台大師も、妙楽大師も、伝教大師も、みな一様に大日経等の一切経に比して、法華経が最勝であると考えられたことは明瞭である。 また真言宗の元祖であるという竜樹菩薩のお心も同じである。大智度論をよくよくたずねてみるならば、このことは明らかであるのに、不空が書いた誤りの多い菩提心論に多くの人が迷わされ、竜樹菩薩のお心も見失うこととなったのである。 |
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又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦廿三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智顗善無畏の両三蔵の第三の御弟子、恵果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎょ、平城天王に見参し御用ゐありて御帰依他にことなりしかども、 (★1012㌻) 平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れて有りし程に、伝教大師は嵯峨の天王、弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より、弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てヽ東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始まる。 |
また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という者があり、後に弘法大師と号した。 この人は、さる延暦二十三年五月十二日に中国の地において金剛智・善無畏両三蔵の第三代目の弟子である慧果和尚から、金剛界および胎蔵界の真言を伝受した。そして平城天皇の大同二年十月二十二日に帰朝した。 その時は、すでに桓武天皇は崩御されて、平城天皇の代であったが、平城天皇にたびたび面会して上奏した。平城天皇も深く信用して帰依した。 しかし、まもなく平城天皇は退位され、嵯峨天皇が即位した。嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に、伝教大師は入滅された。 同じく弘仁十四年から、いよいよ弘法大師は嵯峨天皇の師となり、真言宗を打ち立てて、東寺をたまわり真言和尚となり、世に認められて、日本における仏教の八宗として出発したのである。 |
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| 一代の勝劣を判じて云はく、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向かふれば無明の辺域と申して、皇帝と俘囚とのごとし。天台大師は盜人なり、真言の醍醐を盜んで、法華経を醍醐というなんどかヽれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。 |
弘法は、釈尊一代の教法を判じていわく、「第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃である」等と。 しかも弘法は「法華経は、阿含経・方等経・般若経等に対すれば真実の経であるけれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法である。法華経を説かれた教主釈尊は、仏ではあるけれども、大日如来に比すれば、無明の辺域の仏である。あたかも皇帝と俘囚のごときである。 天台大師は盗人である。真言の醍醐味を取って法華経の醍醐という」等と書いたので、彼のいうことを聞いていると、みな内心では法華経は勝れた教えだとは思うけれども、弘法大師にあえば、物の数でないことになってしまう。 |
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| 天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が、法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例へば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆藪天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出だされべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。 | インドの外道の邪義であることはさておいて、中国の南三北七の邪師が、法華経は涅槃経に比すれば邪見の法だといったよりも、はなはだしい謗法であり華厳宗のものが、法華経は華厳経に対すれば、枝末の教だと説いたよりも過ぎている。たとえば、彼のインドの大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくって、その上にのぼって種々の邪法をひろめたのにひとしい。もし、かりに、伝教大師が御存生であったならば、かならずや破折のことばを出されたにちがいないのである。後入滅なされた伝教大師はともかく、伝教大師に師事したところの、義真・円澄・慈覚・智証等は、弘法の所説に不審をいだかなかったのであろうか。これまことに奇怪であるが、このことこそ、まさに、天下第一の大凶、大不幸というべきである。 |
| 慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならう。法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全・元政等の八人の真言師には、法華経と大日経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広修・維蠲等に習ひしには、大日経は方等部の摂等云云。 | 慈覚大師は、去る承和五年に入唐、彼の中国で十年のあいだ、天台・真言の両宗を学んだのである。法華経と大日経との勝劣について、法全・元政等の八人の真言師に学んだところが、法華経と大日経とはその所詮の理は等しいけれども、事相たる印と真言においては大日は勝れ、法華経は劣るという理同事勝をとなえていた。また、天台宗の志遠・広修・維蠲等に学んだところは、大日経は釈尊一代五時説法中の第三方等部の部類であり、法華経より格段劣ると説いていた。 | |
| 同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下る。法華・大日経等の勝劣は、漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏七巻、蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻。此の疏の心は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と、法華経の義は、其の所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とは、真言の三部経すぐれたりと云云。 | こうして慈覚は、承和十三年九月十日に帰朝した。その翌々年の嘉祥元年六月十四日に、真言の灌頂の事を願い出たところが、行ってもよいという宣旨が下った。慈覚は法華経と大日経等の勝劣については、中国に学んだあいだは、知ることができなかった。ゆえに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、合して十四巻の疏を作ったのであるが、この疏の意は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の説く義と、法華経の義は、その説き明かす所詮の理は同じであるが、事相たる印と真言においては、真言の三部経が勝れ、法華経は劣っているというのである。 | |
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此は偏に善無畏・金剛智顗不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。然れども、我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけてんけれども、人の不審をはらさんとやをぼしけん。 (★1013㌻) 此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて、御祈請ありき。かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされると御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽ちに夢想あり。 |
この所見は、まったく善無畏、金剛智、不空の意によったもので、彼らの大日経の疏意と同じである。しかし、このように書いたものの、わが心になお不審が残っていたためか、また自分の心では決めていても、他の人々の不審をはらそうと思ったのであろうか。 慈覚は、この十四巻の疏を、本尊の宝前に安置して祈請したのである。すなわち、自分はこの疏に意見をしたためたのであるが、仏意のほどはなかなかはかりがたい。大日経の三部が勝れるのか、法華経の三部が勝れるのか、験をたまわりたいと祈ったところが、五日目の午前四時ごろに夢想があった。 |
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青天に大日輪かヽり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転してすでに地に落ちんとすとをもひて、うちさめぬ。悦んで云はく、「我に吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶ひけり」と悦ばせ給ひて、宣旨を申し下して日本国に弘通あり。 |
それは、青天に大日輪がかかり、矢をもってこれを射たところ、矢飛んで空に上り、日輪の中に当たったので、日輪は動転して地に落ちんとした時に夢さめたのでる。夢さめて慈覚は、ひじょうに喜んでいうのには、「われにとってまさに吉夢である。法華経に真言勝るという所見は、すでに仏意にかなっている証拠である」と喜んでいった。そこで宣旨を得て、日本全国にひろめたのである。 | |
| 而も宣旨の心に云はく「遂に知んぬ、天台の止観と真言の法義とは理冥に符へり」等云云。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。 | しかし妙なことに、この宣旨には、「ついに天台の止観と、真言の法義とは、その所詮の理は冥合である」といっている。祈請の意は、「大日経は勝れ、法華経は劣る」というのであるから、宣旨を申し下した「法華経と大日経とは同じ」という内容と、ぜんぜん違い、まことに奇怪千万なことである。 |
| 智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は、大体此の国にして学し給ひけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に、漢土へは渡り給ひけるか。去ぬる仁寿二年に御入唐、漢土にしては、真言宗は法全・元政等にならはせ給ひ、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。 | 智証大師は、入唐前、日本において義真和尚・円澄大師・別当の光定・慈覚等の弟子であった。ゆえに顕密の二道は、だいたいこの日本国において勉学し終わった。しかるに天台・真言の二宗の勝劣に不審の念をいだき、それを解決するために中国へ渡ったのであろうか。去る仁寿二年に入唐し、中国においては真言宗は法全・元政等に学んだが、だいたいにおいて、大日経の勝劣については、慈覚の邪義のごとく、同じく理同事勝の邪義であった。 | |
| 天台宗は良諝和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華には及ばず等云云。七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰に云はく「法華尚及ばず、況んや自余の教をや」等云云。此の釈は法華経は大日経には劣る等云云。又授決集に云はく「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門なり」等云云。普賢経の記・論の記に云はく「同じ」等云云。 | 天台宗については良諝和尚に学びとり、真言・天台の勝劣においては、大日経は華厳・法華等にはおよばぬという教えを学んだ。七年のあいだ、中国において研究し、去る貞観元年五月十七日に帰朝した。その所見を発表した大日経旨帰にいわく「法華経でさえ大日経にはおよばない。ましてそお他の教法においてをや」と。すなわち、この釈では、法華経は大日経に劣ることを説いている。また授決集にいわく「真言や禅宗が、乃至もし華厳や法華・涅槃等と比較するならば、摂引門にあたり、大日経等は法華に入らしめるためでる」と。その他、普賢経の記、および法華論の記にも同じく書かれている。 | |
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貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を申し下して云はく「如聞、真言・止観両教の宗、同じく醍醐と号し、倶に深祕と称す」等云云。又六月三日の勅宣に云はく「先師既に両業を開いて以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝へざること莫し。在後の輩、豈旧迹に乖かんや。 |
また、貞観八年丙戌四月廿九日壬申に勅宣を申し下して「聞くところによれば、真言・止観の両教は同じく醍醐の教えであり、ともに深秘の法である」といっている。また六月三日の勅宣にいうには「先師伝教大師は、すでに止観・遮那の両業を開いて、もってわが天台家の修道とされた。したがって、代々の天台宗座主はみなこれを相承して、両業を兼ね伝えることはなかった。後人のやから、またこの旧来の義に違背すべきではない。 | |
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如聞、山上の僧等、専ら先師の義に違いて偏執の心を成す。殆ど余風を扇揚し、旧業を興隆するを顧みざるに似たり。凡そ厥師資の道、一を欠くも不可なり。伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや。 (★1014㌻) 今より以後、宣しく両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し、立てヽ恒例と為すべし」云云。 |
聞くところによれば、近来の比叡山の僧等は、もっぱら先師の義に違背して、自分勝手な偏執の心をおこしている。しかして、ほとんど古来からの余風を扇揚し、旧業を興隆することを顧ようとしないのである。およそ、師資の道がそのまま一つ欠けてもならないのである。伝弘のつとめは、先師のごとく兼備していかなければならない。いまより以後は、よろしく顕密両教に通達する人をもって、延暦寺の座主として立てることを恒例とする」と。かくのごとく、智証のいうことは、あるいは真言が勝れ、あるいは法華が勝れ、あるいは同じなどと、すべて矛盾に終始しているのである。 |
| されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は、違勅の者といましめられたり。 | されば慈覚と智証の二人は、伝教の弟子であり、また義真の弟子である。しかも、ともに中国に渡っては、天台宗や真言宗の明師に会って学んでいるのであるが、天台・真言の二宗の勝劣については、決定し兼ねたのか、あるいは真言がすぐれているといい、あるいは法華経がすぐれるといい、あるいは理同事勝である等といっている。宣旨を申し下した文の中には、天台・真言の二宗の勝劣を論ずるものは違勅の罪人であるといましめている。 | |
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此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用ゐじと見へて候。但し二宗の斉等とは、先師伝教大師の御義と、宣旨に引き載せられたり。抑伝教大師何れの書にかヽれて候ぞや、此の事よくよく尋ぬべし。 慈覚・智証と日蓮とが、伝教大師の御事を不審申すは、親に値ふての年あらそひ、日天に値ひ奉りての目くらべにては候へども、慈覚・智証の御かたふどをせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。 |
これらは、みな自語相違というべきである。真言宗のほかの他宗の人々は、もはや信用しないであろう。しかして天台真言の二宗は斉しいということは、先師伝教大師の御義である等と宣旨に引きのせられているが、いったい伝教大師のいずれの書物に書かれていることか、よくよくたずねてみるべきである。 慈覚・智証と日蓮大聖人とが伝教大師の御事を、いろいろ詮索するのは、親に会い親の前でその年をいいあらそうようなものであり、日天に向かって自分の目が太陽よりも明るいというようなものである。すなわち慈覚・智証は伝教大師の直弟であり、日蓮大聖人は後世の者であるからでる。しかし、慈覚・智証の味方をする人々は、もっとも明らかなる証文をいだすべきである。ということは、つまりは真実の確信を得んがためのものである。 |
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| 玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累の先後をば漢土の人みねども、誤りといゐしぞかし。設ひ慈覚の伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証大師は義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。 | 昔、玄奘三蔵はインドで婆沙論を見た人であるが、インドにも行かぬ宝法師に攻められた。法護三蔵はインドの法華経を見たけれども、嘱累の先後については正しくこれを見ることができなかった。ゆえに中国の人々から、彼は誤ったといわれたのである。たとい慈覚は伝教大師にあいたてまつって習学したとしても、また智証は義真和尚から直接に口決の相承を受けたとしても、伝教大師・義真大師の確証たる正文に相違するならば、慈覚・智証の義に不審を懐かざるをえないではないか。 | |
| 伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の祕書なり。彼の書の序に云はく「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠し、沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れて称心の酔ひを覆ふ。著有の法相は濮陽の帰依を非し、青竜の判経を払ふ等。乃至、謹んで依憑集一巻を著はして同我の後哲に贈る。某時興ること、日本第五十二葉弘仁の七丙申の歳なり」云云。 | 伝教大師の著に依憑集という一巻の書がある。この書は伝教大師における第一の重要な意義をもつ秘書である。この依憑集の序にいわく「新来の真言宗は、すなわち筆授の相承の教義を泯亡するものである。旧到の華厳宗はすなわち天台の影響をうけ、天台を軌範としたことを隠している。空に沈むところの三論宗は昔、天台の学徒より論破された屈恥を忘れて、章安の講義に心酔したことをかくしている。有相に執着する法相宗のものは撲揚が天台の教義に帰依したことを否定し、また青竜寺の良賁が天台の判教によったことを忘れている。いま、つつしんで依憑集一巻を著わして同我の後賢に贈る。日本国第五十二代・弘仁の七丙申の歳」と。 | |
| 次下の正宗に云はく「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞いて、渇仰して訪問す」云云。次下に云はく「豈中国に法を失って之を四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」等云云。 | ついで次下の正宗文には「インドの名僧がいうには中国に天台の教迹があって、まことによく邪正権実を簡ぶということだから、ぜひ見たいと思ってたずねた」とある。また、次下には「じつに仏法の中国たるインドに仏法を失って四周の他国に仏教を求めるものではないか。ところが、天台の国の人々は、これほどの大法が自分の国にあることを知っている者は、ほとんどいない。ちょうど、それは魯国の人が自分の国の孔子の偉大さを知らなかったようなものである」と。 | |
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此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり。天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。 (★1015㌻) 而も不空三蔵等をば、魯人のごとしなんどかヽれて候。善無畏・金剛智顗不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。又天竺の真言が天台宗に同じきも、又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、中国に正法なしとはいうべき。 |
依憑集は法相・三論・華厳・真言の四宗を論破したところの書である。天台・真言の二宗が同一味ならば、どうして真言を攻めるわけがあろうか。 しかも不空三蔵のことを「魯人」とまでいわれているのである。 善無畏・金剛智・不空等の主張する真言宗がりっぱであるならば、どうして伝教大師が「魯人」などと悪くいわれるわけがろうか。 またインドにある真言が天台宗に同じか、または勝れるならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に依頼し「インドには彼の正法がないゆえにこれを釈せ」といったのだろうか。 |
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| それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。其の故は此の書に云はく「謹んで依憑集一巻を著はして、同我の後哲に贈る」等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ。我と申し下さるヽ宣旨に云はく「専ら先師の義に違ひ偏執の心を成す」等云云。又云はく「凡そ厥師資の道、一を欠けても不可なり」等云云。此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまとにかけてせめ候なり。 |
いずれにしても、慈覚・智証の二人は言葉では伝教大師の御弟子と名のっているけれども、心はけっして伝教大師の弟子ではないのである。そのわけは依憑集には「謹んで依憑集一巻をあらわして同我の後哲に贈る」とある。同我という二字の意味は、真言宗は天台宗に劣る教えであると心得てこそ同我というのである。しかして慈覚等が申し下した宣旨には「もっぱら先師伝教大師の義に違うて偏執の心を成す」といい、「おおよそ師資の道というものは、一を闕いても成り立たない」とある。この宣旨によるならば、慈覚・智証こそもっぱら先師伝教大師にそむくものではないか。 かくいって責めることは恐れ入ることではあるけれども、このように責めなければ、大日経と法華経の勝劣が転倒してしまうと思い、命をかけてこの義を公言し邪義を責めるしだいである。 |
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此の二人の人々の、弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候ひけるなり。されば粮米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給ふべかりけるにや。されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。 |
このようなわけであるから、この慈覚・智証の二人が、弘法大師の邪義を責めなかったのは、まことに当然のことである。されば彼らは多くの費用を浪費し、数多くの人々の労力を使って中国へ渡ることよりも、本師・伝教大師の御義を徹底してよくよく研究すべきであった。比叡山の仏法は、ただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代の時までで、以下の天台座主はまったく真言の座主に転落してしまったのである。ゆえにその名と所領とは天台山であるが、その主人は真言師である。 されば慈覚大師・智証大師は「已今当」の経文を破壊した以上は、釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵になるのであって、いままでは弘法大師こそが第一番の謗法者だと思っていたが、彼の慈覚・智証の両師は、弘法以上の僻見者であった。 |
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| 其の故は、水火天地なる事は僻事なれども人用ふる事なければ、其の僻事成ずる事なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ふる事なし。事相計りは其の門家なれども、其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智顗不空・慈覚・智証の義にてあるなり。慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。 |
そのわけは、水と火・天と地ほど相違した僻事はだれもこれを見破り、人は信用することがないから、その僻事は成功することはない。弘法大師のいう義は、あまりの僻見であるから、弘法の弟子たちも信用しないのである。 弘法の門下たちは、その事相だけはその門流であるが、教相においては、弘法の義は依用しがたいから、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義を用いている。慈覚・智証の義こそ真言と天台の理は同じだなどというから、なにびともそうであろうと思っている。 |
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かうをもうゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、 (★1016㌻) 日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師と尼と、黒きと青きとはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、愚人もあやまり候ひて、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州、皆謗法の者となりぬ。 |
こう思うところから、事に勝れた印と真言について、天台宗の人々も画像・木像の開眼は、一様にこの事相によれねばならぬとしている。かくして日本一同、真言宗へと転落して、真の天台宗のものは一人もいなくなった。 このように、天台の末学が誤りをおかした原因は彼らに黒白を区分することができなかったからでもあるが、またそれほど酷似していたといえよう。たとえば法師と尼と、黒と青とはよく似ているので、目の悪いものは迷ってしまうのせある。僧と俗人、白と赤とは目の悪いものでも迷わない。ましてや目が健全なものは迷うわけがない。慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒と青のごとくであるから、智人も迷うのである。ましてや愚人はなおさら誤ってしまうのである。かくして四百余年間、比叡山・園城寺・東寺は無論のこと、奈良の諸大寺も、五畿七道のものも、日本全国みな真言のものとなった。ゆえにみな大謗法の者となったのである。 |
| 抑法華経の第五に「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」云云。此の経文のごとくならば、法華経は大日経等の一切経の頂上に住し給ふ正法なり。 | そもそも法華経の第五の巻安楽行品第十四に「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵である。諸経の中において最も其の上にある」とある。この経文のごとくであるならば、法華経は大日経等の諸経の頂上に位するところの正法である。 | |
| さるにては善無畏・金剛智顗不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給ふべき。法華経の第七に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。 | であるならば、善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、この経文をいかに解しているのだろうか。法華経の第七の巻薬王品第二十三には「この経を受持るものも、またかくのごとく一切衆生の中で第一人者である」と。この経文の通りであるならば、法華経の行者は川流・江河中の第一の大海であり、衆山中第一の須弥山であり、衆星中第一の月天子であり、多くの光明中第一の日天子、諸の小王第一の転輪王、三十三天中第一の帝釈天、一切諸王中第一の大梵天王のごとくである。 | |
| 伝教大師の秀句と申す書に云はく「此の経も亦復是くの如し。乃至、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て、亦為れ第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給ひて、次下に云はく「天台法華玄に云はく」等云云已上玄文と、かヽせ給ひて、上の心を釈して云はく「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其の能く経を持つ者も、亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」等云云。次下に譲る釈に云はく「委曲の依憑、具に別巻に有るなり」等云云。依憑集に云はく「今吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開かん」等云云。 |
伝教大師の法華秀句という書には「この経も、またまた、かくのごときである。乃至、多くの経法の中で法華経が最もこれ第一の経である。よくこの経を受持する者もまたかくのごとく一切の衆生の中で第一の衆生なり」と。 以上経文であると引き入れておいて、その以下にはそれを解釈した「天台法華玄に云く」としてその文を示し、已上玄文と書かれて、その心を釈していうには「まさに知るべし、他宗所依の経は、まだこれ第一ではない。その経を受持するものも第一ではない。天台法華宗所持の法華経こそ、最もこれ第一であるゆえに、よく法華経を受持するものはまた、衆生の中の第一である。これは明らかに仏説によるのであって、決して自分の独りよがりではない」と、いっている。 同じく伝教大師は法華秀句の巻末に「諸宗の諸師が天台大師に依憑している仔細のことは別巻にある」と記された。その依憑集には「今わが天台大師が法華経を説き、法華経を解釈することは、南三北七の諸群聖に秀で、中国全土に独歩するものである。これまことに如来の使いである。ゆえに如来の使いたる天台大師を賛嘆するものは福を安明よりも高く積み、これを誹謗するものは無間地獄におちるという大罪をうけるであろう」とある。 |
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法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。月氏には教主釈尊、 (★1017㌻) 宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。 |
以上、釈尊の法華経、また、天台大師、妙楽大師、伝教大師、こうした人々の経釈の心からするならば、いま日本国には法華経の行者は一人もいないことになる。 昔、インドで、釈尊が法華経を説かれたが、その宝塔品の時、いっさいの諸仏を雲集せしめられ、大地の上に集められた。その時、釈尊は多宝仏の塔中にあったが、大日如来は、宝搭中の南の下座に座し、釈尊は北の上座に着座された。しかもこの大日如来は、大日経に説くところの胎蔵界の大日如来、金剛頂経に説く金剛界の大日如来、この両界の大日如来の主君なのである。かくのごとく両部の大日如来を郎従とする多宝如来のさらに上座に、教主釈尊は席をとられたのである。この釈尊こそ、法華経の行者なのである。インドにおけるありさまは、かくのごとくであった。 |
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| 漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて、現身に大師となる。「群に特秀し唐に独歩す」というこれなり。日本国には伝教大師六宗にせめかちて、日本の始め第一の根本大師となり給ふ。 | 中国では、陳の時、天台大師が南三北七の諸師に攻め勝って、現身に大師として尊敬せられた。これは伝教大師が法華秀句の中で「群賢に秀で唐土に独歩す」といったゆえんである。日本では伝教大師は六宗のものを降伏せしめて、日本における最初第一の根本大師となられた。 | |
| 月氏・漢土・日本に但三人計りこそ「一切衆生の中に於て亦為れ第一」にては候へ。されば秀句に云はく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは、丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加へ奉りて已上三人なり。 | このように、インド・中国・日本において、釈尊・天台・伝教の三人だけが、法華経にいう「一切衆生中第一」なる人なのである。ゆえに、伝教大師の法華秀句には「浅きは易く深きは難しとは、釈尊の説きたもうところである。浅きを去つて深きにつくのが丈夫の心である。天台大師は釈迦に信順して法華宗を中国に弘布し、比叡山の伝教大師一門は天台大師に相承して、法華宗を日本にひろめたのである」と。仏滅後、一千八百余年、この間に法華経の行者は、中国に天台一人、日本に伝教一人、以上二人であり、釈尊を加えたてまつって、以上三人だけである。 | |
| 外典に云はく「聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。黄河は・渭ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清む」と申すは一定にて候ひけり。 | 中国の外典の書にも、聖人は一千年に一度出で、賢人は五百年に一度出るという。また黄河は涇河、渭河と流れを別にしているが、五百年には、その流れの半分が清み、千年には全流が清むという。まことに、たとえのとおりで、彼の三人は聖人であり、賢人であるといえる。 |
| 然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半ばは伝教の御弟子、半ばは弘法の弟子なり。 | しかるに日本国を見るに、比叡山は法華経の山であるが、伝教大師の御在世中だけ、法華経の行者がおられたにすぎない。義真、円澄は、第一、第二の座主である。第一の義真だけが、伝教大師に似て正法をたもった。第二の円澄は、半分は伝教大師の弟子、半分は弘法の弟子である。 | |
| 第三の慈覚大師は、始めは伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其の跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にはあらず。而れども円頓の戒計りは、又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず、梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食らひ、持者の母をかめるなり。日をいるとゆめにみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。 | 第三の慈覚大師は、最初は伝教大師の弟子のようであった。しかし、年四十にして中国に行ってからは、名は伝教大師の弟子であるが、しかも、その弟子として伝教大師の跡を継いだのであるが、その説くところの法門は、まったく弟子の分際ではなかった。しかし、円頓戒だけは、まだ弟子であったようである。これはあたかも蝙蝠のようである。蝙蝠が鳥でもなく鼠でもないようなものである。また母を食う梟のごとく、父を害する破鏡のごときものである。第三の慈覚こそ、父たる法華経を食らい、母たる法華経の持者を害するものである。慈覚が日輪を射た夢を見たのは、まったくこの父母の殺害を意味するものである。こうした大罪を犯した彼であるから、死後も、まことに情けない姿であった。 | |
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智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、 (★1018㌻) 大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかんぜり。但中堂計りのこれり。 |
また、智証門流の園城寺と、慈覚門流の比叡山とは、修羅と悪竜のごとく争いを繰り返している。あるいは園城寺を焼き、時には比叡山を焼いたのである。そのために、智証大師の本尊である弥勒菩薩も焼けてしまった。慈覚大師の本尊も大講堂で焼けてしまった。慈覚や智証は、現身に無間地獄を感じているのである。このような中で、ただ一つ、伝教大師の建立された根本中堂だけが残ったのである。 | |
| 弘法大師も又跡なし。弘法大師の云はく「東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず」等、御いましめの状あり。しかれども寛平の法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして、我が寺には叡山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は、鑑真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず、戒は伝教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。 |
弘法大師のあとも、またひどいものである。弘法大師は「鑑真が建てた東大寺の戒壇を踏まないものは、東寺の長者としてはならない」といい残した。 しかし、彼の寛平法王は、仁和寺を建立して、そこに東寺の真言の僧を移されたが、後、「わがこの仁和寺には比叡山の円頓戒を受持しないものをば住させてはならぬ」と明白な宣旨があった。 これによれば、いまの東寺のものは鑒真が弟子でもなく、弘法の弟子でもない。戒律においては、伝教の弟子である。ところが伝教の弟子とすることもできない。なぜなら伝教大師の法華経に違背するからである。 |
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去ぬる承和二年三月廿一日に死去ありしかば、公家より遺体をばほらせ給ひ、其の後誑惑の弟子等集りて御入定と云云。或はかみをそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんどよりなげたりといゐ、或は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといゐ、或は伝教大師に十八道ををしえまいらせたりといゐて師の徳をあげて智慧にかへ、我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。 |
弘法大師は、さる承和二年三月二十一日に死去した。そのときは、公家において遺体を葬った。ところがその後、誑惑の弟子たちが集まって評議して「弘法大師は入定されたのであって入滅ではない」といいだした。 またあるものが、「入定した弘法大師の遺骸の頭髪が、あまりに伸びたので、そりたてまつった」といい、あるものは「弘法大師が唐から帰られる際、日本に向かって、三鈷を投げられた。それがいまの高野山の地に留まったのである」といった。あるものは「弘法大師が疫病を祈られたら、日輪が夜中に現れた」といい、あるものは「弘法大師は現身に大日如来を現じ給うた」といい、「伝教大師に十八道を教授した」といった。こうした弘法一派の邪義は、いずれも師匠の徳をあげることによって、わが智慧にかえ、わが師の邪義を助けて、王臣の帰依を得ようとする謀計である。 | |
| 又高野山に本寺・伝法院といヽし二つの寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此の本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二つの禍の出現せるか。 | また高野山には、本寺と伝法院の二寺がある。本寺は弘法の建立した金剛峯寺で、大塔の大日如来を本尊とする。伝法院は正覚房の建立するところで、金剛界の大日日如来を本尊とする。この本末の二寺は、当初から今日にいたるまで、つねに合戦している。ちょうど比叡山と園城寺の争うかのごときものである。これらは、彼らの長年の誑惑が積もって、わが日本に叡山と園城、高野と伝法院の二つの禍いとして出現したのであろうか。 | |
| 糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞のかなり。大妄語を集めて仏とがうすれども、但無間大城なり。尼犍が塔は、数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばりは、多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙菩薩にせめられてやぶれぬ。 | たとえば、いかに糞を集めて栴檀と称しても、これを焼いてみれば、やはり糞の香ばかりである。そのごとく大妄語を集めて、いかの仏の教えと称しても、ただ無間大城へ堕するのみである。尼犍外道の塔は、数年のあいだ利益も多かったが、馬鳴菩薩に礼拝されたら、たちまちに崩落してしまった。鬼弁婆羅門は多年のあいだ、人々をたぶらかして信仰されたけれども、阿湿縛窶沙菩薩のために責められて、その邪義をあらわしたのである。 | |
| 拘留外道は石となって八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし、王莽が位をうばいしがごとく、法華経の位をとて大日経の所領とせり。法王すでに国に失せぬ、人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり、一人として謗法ならざる人はなし。 | 拘留外道は化石となって八百年、陳那菩薩に責められて水となった。中国の道士は、中国の人々を数年のあいだも、たぶらかしてきたが、迦葉摩騰・竺の法蘭の二人に責められたとき、仙経は焼けて、道教に法力がないことを示した。趙高が主君を廃してその国を奪い取り、王莽が、主人の地位をうばって王と称したように、法華経の王位を横取りして大日経の所領としてしまった。法王すでに、その所領を失ったのであるから、人王また安静でありえようか。日本国は、みな、慈覚・智証・弘法の亜流となってしまった。ゆえにひとりとして、謗法でないものはない。 |
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但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。 (★1019㌻) 威音王仏の末法には改悔ありしすら猶千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。「如是展転、至無数劫」疑ひなきものか。かヽる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給ひぬ。 |
しかして、この日本一国謗法の姿を、つらつら考えてみれば、まことに、過去世の大荘厳仏における末法のごとく、同じく一切明王仏における末法のごとくである。また威音王仏の末法には、不軽菩薩の折伏によって、後に改悔したものすら、なお千劫の長いあいだ、阿鼻地獄に落ちて大苦を受けたのである。いかにいわんや、日本国の真言師や禅宗・念仏者等は、それに反して一分の改悔心もないゆえに、法華経不軽品に「是の如く展転して無数劫に至る」とあるがごとく、永遠に無間地獄をさまようことは疑いなしというべきものか。かかる謗法の国なるがゆえに、諸天も日本国を捨てたのである。諸天が捨てたゆえに守護の善神も、その祠を焼き払って、寂光の都に帰りたもうたのである。 | |
| 但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈、或は悪口、或は杖木、或は刀剣、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十二日には頚を切らんとす。 | このことを知るのは、ただ日蓮大聖人おひとりである。もし日蓮大聖人が、諸天善神の捨て去った後に、ただひとり、この国にとどまって、このことを知らせ示せば、国主は日蓮大聖人を怨み、数百人の人々は、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは杖木をもって打ち、あるいは刀剣をもって切らんとし、あるいは各戸ごとに門を閉じ、あるいは家ごとに日蓮大聖人を追い払ったのである。それでもダメだと知って、みずから手を下して、日蓮大聖人を二度まで流罪したのである。すなわち伊豆の流罪と佐渡の流罪である。また、去る文永八年九月の十二日には竜の口において、首を切らんとした。 | |
| 最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来たって国人喪乱に遭ふ」等云云。大集経に云はく「若しは復諸の刹利国王諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖もって打斫し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、我等彼をして自然に卒かに他方の怨敵を起こさしめん。及び自界の国土にも亦兵起こり、病疫飢饉し、非時に風雨し闘諍言訟せしめん。又其の王をして久しからずして復当に已が国を亡失せしむべし」等云云。此等の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで脱れ給ふべき。去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ等云云。 |
最勝王経にいわく「悪人を尊敬し、善人を治罰するがゆえに、他国の怨賊が攻めきたって、その国の人々が喪乱にあうのである」と。 大集経には「諸々の刹利種たる国王があって、種々の非法なることをなし、仏の声聞の弟子を悩乱し、またはののしり、または刀杖をもって打ち、および僧衣や鉢など種々の修行の器具を奪い去り、あるいは仏弟子に布施するものを迫害する。これらの留難をなすならば、われら諸天善神は、その王のために、自然に他国の怨賊をおこして攻めさせ、および自国にも内乱をおこさせ、病気を蔓延させ、飢饉におとし入れ、非時の風雨、諍い、訴訟などをおこさしめよう。また、その王をして久しからずして、必ず自国を滅亡させるであろ」と。 これらの経文のごときは、日蓮大聖人がこの国におわしまさぬなくば、かならずやいつわりの経文となり、仏は大妄語の人となって、大阿鼻地獄に堕さなければならぬことになったであろうか。 さる文永八年九月十二日、竜の口に引かれる前、日蓮大聖人は、平の左衛門頼綱および数百人のものに向かって、厳然と宣言した。「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことは、日本国の柱を倒すのである」と。 |
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| 此の経文に智人を国主等、若しは悪僧等がざんげんにより、若しは諸人の悪口によて失にあつるならば、にはかにいくさをこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。去ぬる文永九年二月のどしいくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来たりしは、偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑ふべき。 |
前に挙げた最勝王経・大集経には「国主らが悪僧の讒言を信じたり、諸人の悪口を取り入れて、国を憂い国を救わんとする智人を、迫害するようなことがあったら、たちまち戦争が起こったり、また大風が吹いたり、あるいは他国から攻められて塗炭の苦しみを味わうであろう」と説かれている。 すなわち、去る文永九年二月の北条時宗・時輔が争った大内乱、同じく十一年の四月の大風、文永十一年十月の大蒙古の襲来は、まさしく末法唯一の大智人・日蓮大聖人を迫害したゆえではないか。いわんや、このことは前々から、天下に予言していたことである。ゆえに、誰人もこのことを否定できようか。 |
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弘法・慈覚・智証の誤り、並びに禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。太政入道が国ををさへ、承久に王位つきはてヽ世東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼は謗法の者は国に充満せりといへども、さヽへ顕はす智人なし。 (★1020㌻) かるがゆへになのめなりき。 |
弘法・慈覚・智証の仏法上の誤りは、すでに長く日本国を大苦難におといいれた、その上、禅宗と念仏宗とのわざわいが重なって、そのため日本の国主は、逆風に大波が重なり、その上に大地震が重なったような大災害にみまわれることになったのである。されば、いよいよ日本の国は衰微していくのである。しかし昔は現在ほどのひどい謗法、災害はなかった。昔のことを思えば、太政入道の平の清盛が国政をすべて左右し、さらに承久の乱の後には、京都の朝廷の威令が達せず、政治の中心は東国の鎌倉にうつった。これらは一応、事件ではあったが、しかし、その時は、ただ国内の動乱のみであって、いまだ他国よりの侵略はなかった。また、あの当時は、正法に反対する謗法の者は多かったけれども、まだ当時の正法たる天台の教えも残っていた。智人出現をあらわす諸難もなく、世はまずまず平穏であった。 | |
| 譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅き流れは櫓をさヽへざれば波たかヽらず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加へざればさかんならず。謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。 | このことは、たとえば、眠れる獅子に手をつけなければ、獅子は吼えることはない。いかに急流とはいえ、流れに櫓を支えなければ、波は立つことがない。いかなる盗人といえども、これをとがめなければ騒ぎ立てることはない。また、火は、新しく薪を加えなければ、盛んに燃ゆることはない。同じく、謗法はあっても、これを指摘し破折する人が出なければ、この智人を迫害する大謗法は世に起こらず、したがって、一国の政治もしばらくのあいだは、そのまま保ちえて、おだやかなままに過ぎていくであろう。 | |
| 例せば日本国に仏法わたりはじめて候ひしに、始めはなに事もなかりしかども、守屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさうをこり、兵乱つヾきしがごとし。此はそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめかヽる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。 | たとえば、日本国に仏法が伝来した最初のころは、別になにごとも起こらなかった、しかし、その後、物部守屋等が仏法を憎んで、仏像を焼き僧をとらえ、仏法の堂や搭などを焼くという謗法をかさねたため、天より火の雨が降って御所を焼き、国内には伝染病たる疱瘡が流行し、その上、兵乱が続出したようなものである。しかし、このたびのことは、かの仏法伝来の時のようになまやさしいものではない。謗法のものは国内に充満している。これを折伏する日蓮大聖人の大義も強く、邪宗にせめかかった。ちょうど修羅と帝釈との争い、仏と魔王との合戦にも、けっして劣るものではない。 | |
| 金光明経に云はく「時に隣国の怨敵是くの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云。又云はく「時に王見已はって、即ち四兵を厳ひて彼の国に発向し、討罰を為さんと欲す。我等爾の時に、当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し、彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。最勝王経の文、又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。 | 金光明経には「時に応じて隣国の怨賊が、かくのごとき念をおこすであろう、まさに歩兵・馬兵・車兵・象兵の四兵をうごかして、彼の謗法を壊滅すべし」と。また同じく金光明経には「時に彼の外敵の王は、見終わって、四兵を動員し、彼の謗法の国に押し寄せて討罰加えんと欲す。われら諸天善神も、その時に、まさに眷属の無量無辺の多くの薬叉諸神を動かし、各形をかくして王を援護し、彼の謗法の怨敵をしぜんに降伏させるようにいむけるであろう」と。最勝王経の文も、これと同じえある。大集経にも、仁王経にも「破仏・破国の因縁のゆえに七難がおこる」と説かれている。 | |
| 此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失ひしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失ひし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしヽ王、みな賢王にせめられぬ。 | これ等の経文のごとくであるならば、国主が正法を行ずるものに仇をなし、邪法を行ずるものの味方となって擁護するならば、大梵天王・帝釈天・日天・月天・四天等が、隣国の賢王の身に入りかわって、その謗法の国をせむるであろうというのである。たとえば、 訖利多王が仏法破滅を策したゆえに、雪山下王がこれを攻め滅ぼし、大族王が仏教徒を殺害したゆえに、幻日王がこれを打ち滅ぼしたごとき姿となるのである。すなわち訖利多王と大族王とは、インドの仏法を迫害した国王であることを忘れてはならぬ。かくのごとく中国においても、仏法を滅ぼした国王は、みな隣国の賢王にせめられて、滅び去ってしまった歴史がある。 | |
| これは彼にはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失ふ法師のかたうどをするゆへに、愚者はすべてしらず。智者なんども常の智人はしりがたし。天も下劣の天人は知らずもやあるらん。されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。 | しかるに、今時の日本は、これらインド・中国の例よりも、なおひどい姿である。すなわち、仏法の味方のように見せかけて、じつは仏法を滅ぼす邪宗の坊主を保護し、正法の行者を迫害しているのである。あまりにも狡猾なるため、愚者はみなこのことを知らず、智者といわれる人も、普通の智人では、この真実のことを、なかなか知りえないであろう。 諸天も、さぞ、下劣の天人は、このことを知らずにいることであろう。されば、いにしえの中国・インドの乱れよりも、現在の日本の乱れ方が、限りなく大きいというべきである。 |
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法滅尽経に云はく「吾般泥・の後、五逆濁世に、魔道興盛し、魔沙門と作って吾が道を壊乱せん。乃至悪人転多く海中の沙の如く、善者は甚だ少なくして、若しは一、若しは二」云云。涅槃経に云はく「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは、爪上の土の如し。乃至是の経を信ぜざるものは、十方界の所有の地土の如し」等云云。 (★1021㌻) 此の経文は予が肝に染みぬ。 |
法滅尽経に、釈尊は次のごとく説いている。すなわち、「われ、入滅ののち、五逆濁世に悪魔の邪義が盛んになり、魔が僧侶の姿となって出現し、わが仏法を乱し破壊してしまうであろう。また悪人の数は海中の砂のごとく多くして、しかも善者ははなはだ少なく、わずか一人か二人にすぎぬであろう」と。 同じく釈尊は涅槃経に「このような涅槃経典を信ずるものは、爪上の土のごとく少なく、乃至、この大乗経を信じないものは十方界の所有の地土のごとく多いであろう」と説かれている。 この経文はまことに時にあたって尊く、日蓮大聖人の肝に染むるものである。 |
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| 当世日本国には、我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば、一人も謗法の者なし。此の経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人の云はく、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。 | 当世の日本国には「われも法華経を信じたり、我も信じたり」という人は多い。この諸人のことばのごとくであるならば、日本国一人も謗法のものはいないことになる。この仏説たる涅槃経の経文には、「末法悪世においては、謗法のものは、十方の土よりも多く、正法のものは爪上にのせうる土よりも少なし」等と説いている。経文と日本当世の姿をくらぶるに、水火のごとき相違がある。世間の人々のいわく「日本国には、日蓮法師ひとりのみが謗法の者である」と。 | |
| 又経文には天地せり。法滅尽経には善者は一・二人。涅槃経には信ずる者は爪上の土等云云。経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上の土、一・二人にては候へ。経文をや用ふべき、世間をや用ふべき。 | しかるに釈尊の経文には「謗法のものは大地より多いであろう」と説かれている。すなわち、法滅尽経には「善者は、わずか一人、二人にすぎない」と。涅槃経には「正法の信者は爪上の土よりも少なし」と。もし経文のごとくであるならば、日本国には、ただ日蓮大聖人おひとりのみが「爪上の土、または一人、二人のみ」といわれた正法のものでり、善者というべきである。されば、心あらん人々は、仏説たる経文を用ゆべきか、世間の凡夫のことばを用ゆべきか、よくよく考えるべきである。 | |
| 問うて云はく、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云、如何。答へて云はく、涅槃経に云はく「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云はく「大経自ら法華を指して極と為す」等云云。大経と申すは涅槃経なり。涅槃経には法華経を極と指して候なり。而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは、法華経をよむを申すなり。譬へば賢人は国主を重んずる者をば、我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下げて我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給ふ。 |
問うて言う。涅槃経の文には、「涅槃経の行者は爪上の土」等とあって、けっして法華経の行者は爪上の土等とは説いていない。しかるに、汝が義は法華経の行者を正法のものとしているのは、いかなるわけか。 答えて言う。涅槃経には「法華の中のごとし」等と説いている。また妙楽大師のいわく「大経はみずから法華をさして極としている」と。この釈の中の大経と申すのは、涅槃経であり、涅槃経には法華経を極の法とさしているのである。しかるに涅槃宗の人々が、「涅槃経のほうが法華経よりも勝る」などというのは、あたかも、主人を所従とけなし、下郎を上郎という人と同じである。涅槃経をよむということは、法華経を真実によむことである。 たとえば賢人というものは、たとえわれを下げても、国主を重んずる人をば喜ぶのである。そのように、涅槃経の精神は法華経を下げて、涅槃経をほむる人をば、敵として憎むのである。 |
| 此の例をもって知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむは、彼々の経々の心にはそむくべし。此をもって知るべし、法華経をよむ人の此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。 | この涅槃経の例をもって知りなさい。同じく、華厳経、観経、大日経等を読む人も、もし法華経をそれらの経より劣ると読むのは、彼の華厳経や観経や大日経等の経々の心にそむくことである。これをもって知りなさい。法華経を読む人が、たとえこの法華経を信じているような姿をしても、もしも、法華経以外の諸教でも得道があると思うのは、この法華経を正しく読まぬ人というべきである。 | |
| 例せば、嘉祥大師は、法華玄と申す文十巻を造りて法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云はく「毀其の中に在り、何んぞ弘讃と成さん」等云云。 | 例をあげれば、中国の三論宗の開祖、嘉祥大師は「法華玄論」という十巻の疏釈を作って、法華経を賞賛したけれども、妙楽大師は嘉祥大師を責めていうには、「いかに法華経を賛嘆しているように見せかけても、法華経に対する毀りが、その中にあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折している。 | |
| 法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひて法華経をよまず、我経をよむならば悪道まぬがれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。 | すなわち、じつには、嘉祥大師は、法華経を破る人なのである。されば嘉祥大師は、後に降伏改悔して天台大師に仕えた。しかして、「われ法華経を読まず。もしわれ法華経を読むならば、元のように悪道に落ちること、まぬがれがたし」といって、七年間、あるときは、天台大師を背負って河を渡るなど、我が身を橋として、天台大師に仕えきったのである。 | |
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慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり。伝教大師せめて云はく「法華経を讃むると雖も還って法華の心を死す」等云云。此等をもってをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。 (★1022㌻) 嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。 |
また法相宗の開祖、慈恩大師は「法華玄賛」という、法華経を賛える十巻の疏釈を作った。しかし伝教大師はかの慈恩太師をせめて法華秀句にいわく「法華経を讃むるといえども、かえって法華経の心を死す」等と。 これによって、つくづくと思うのは、むしろ法華経を読み法華経を賛嘆する人々の中に、かえって無間地獄におちる人が多くあるのである。先にあげた、中国の嘉祥大師・慈恩大師という人々こそ、法華経を一応は賛えているけれども、じつには、すでに法華一乗を誹謗する人たちである。いわんや弘法・慈覚・智証とかいうものどもがどうして法華経を蔑視する謗法の人でないわけがあろうか。 |
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| 嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて、千劫阿鼻に堕ちぬ。 | すでに、嘉祥大師のごとく、前の自身の講を廃して、いままで嘉祥に師事していた大衆を散じて、しかも、わが身を橋として天台大師を背負って河を渡るなど誠心誠意、天台大師に仕えたけれども、なお以前の法華経誹謗の大罪は、簡単に消えることはなかったのであろう。たとえば、過去世、威音王仏の像法時代に二十四文字の法華経を説く不軽菩薩を軽しめ迫害した大衆は後に不軽菩薩に信伏随従したけれども、法華経誹謗の重罪はいまだ残るゆえに、千劫のあいだも阿鼻地獄に堕して苦しまざるをえなかった。 | |
| されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも、尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行ひ、朝暮に伝法せしをや。 | されば、弘法・慈覚・智証は法華経誹謗の大重罪人は、たとい万一、謗法の心をひるがえし法華経を賛嘆したとしても、なお彼等が法華経を読むならば、以前の重罪は消え難いのである。いわんや、彼らは謗法をひるがえす心は微塵もないではないか。またその上、法華経を誹謗し失わせ、真言の邪教を昼夜に修行し朝暮に伝法するにいたっては、まことにその謗法は消えがたしというべきである。 | |
| 世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども、阿含経をばたわぶれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて、小乗をやぶり給ひき。 | 昔、インドの世親菩薩や馬鳴菩薩は、小乗経をもって大乗経を破った謗法罪を後悔して、その舌をば切って詫びようとまでしたのである。ゆえに世親菩薩は、阿含経はたとえ仏説なれども、小乗経であるゆえに、たわむれの舌の上にもてあそばず一言でも言うまいと堅く誓った。また馬鳴菩薩は、懺悔のために、大乗を賛嘆する大乗起信論を作って、小乗を打ち破った。 | |
| 嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして、五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかうぜじ、弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力の此の経を知るににたりとて、天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるとき、をひまいらせて河をこへ、かうざにちかづきてせなかにのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまいらせ給ひて、小児が母にをくれたるがごとくに、足をすりてなき給ひしなり。 | 嘉祥大師は後に天台大師に帰依し天台大師に請い奉って、百余人の智者の前で、わが五体を地に投げ、全身に汗を流し紅の涙をたたえて、誓っていうには「いまよりわれは弟子を指導いたしますまい。法華経を講ずることもやめましょう。もしや弟子の前をかざって、法華経の講義をつづけるならば、自分は法華経の極意を知らないのに知っているかのような錯覚を世間の人に与えるであろう」と。しかして、嘉祥大師は、天台大師よりも年長で高僧老僧のような姿ではあったが、わざと自分のかっての弟子や知人等が見ている前で、天台大師を背負って河を渡り、また高座のそばでは、天台大師を背中にのせて高座にのぼらせるなど、誠心誠意、天台大師に仕えたのである。ついに、天台大師の御臨終のときには、隋の皇帝の前にあって、あたかも幼児が母にさきだたれるような思いで、足ずりして泣いたといわれる。 | |
| 嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは、門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か。華厳の澄観も、真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一つとこそかヽれて候へ。嘉祥とがあらば、善無畏三蔵も脱れがたし。 | いったい嘉祥大師の法華玄論を見ると、ひどく法華経を誹謗したという疏釈ではない。ただ「法華経と諸大乗経とは、はいるべき門には浅深はあるけれども、その根本の心は一つである」と書いてあるが、このことばが謗法の根本であるといえようか。しかるに華厳の澄観も、真言の善無畏も、「大日経と法華経とは、理は同じである」ということを説いたのである。もし、かくのごとく嘉祥大師に仏法上の過失があるならば、どうして善無畏三蔵も、のがれることができようか。 |
| 弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏祈雨して七日が内に雨を下らす。但し京中にふりて田舎にそヽがず。次に弘法承け取りて一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気真綱を使者として、御幣を神泉苑にまいらせたりしかば、雨下る事三日。此をば弘法大師並びに弟子等、此の雨をうばひとり、我が雨として、今に四百余年、弘法の雨という。 | 弘法大師は、去る天長元年の二月、大旱魃のあったとき、祈雨の命をうけた、その時は、まず初めに守敏が祈雨をして七日のうちに雨を降らした。しかし、ただ京都の内に降ったのみで、地方には降らなかった。次に弘法が引きつづいて祈ったが、一週間はぜんぜん雨は降らなかった。二週間、すなわち十四日たっても雲すら見えなかった。三週間、すなわち二十一日たったとき、天子から和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にたてまつったところが、そのためであろうか、沛然と雨ふること三日間であった。この雨を弘法大師ならびに弟子たちが奪いとって、弘法が祈ったために降った雨として、すでに四百余年たったけれども、いまだに弘法の雨と宣伝している。 | |
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慈覚大師の夢に日輪をいしと、弘法大師の大妄語に云へる、弘仁九年の春大疫をいのりしかば、夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に日輪をいるとゆめにみるは、吉夢という事有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其の矢かへりて我が眼にたつ。 |
慈覚大師は、日輪を射た夢を見たという。また弘法大師は、弘仁九年の春、大疫病の治癒を祈っていたら、夜中に大日輪が出現したと大妄語、大嘘をいっている。まったく、この地球ができた成劫の初めよりこのかた、住劫の第九の減の今日まで、二十九劫が間に、日輪が夜中に出たなどという例は絶対になかったのである。 また慈覚大師は、日輪を射た夢を見たというが、仏教典五千巻・七千巻、外典三千余巻の中に、日輪を射たという夢が吉夢であるということを、一か所でも説いてあるかどうか。阿修羅王はあるとき帝釈天を怨んで敵対し、日天に向かって矢を射た、しかし、その矢は、日天にあたらないで、かえって、わが目にあたったではないか。 |
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| 殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云はく、我はこれ日天の子孫なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。 | 中国古代の悪王、殷の紂王は、日天を的として矢を射てわが身を滅ぼしたではないか。日本においても、神武天皇の時代、度美長と五瀬命と合戦したとき、大和朝廷側の五瀬命の手に矢が立った。そのとき五瀬命のいわれたことは、「われは日天の子孫である。しかるに、われ北から南に攻め上り日に向かって弓を引いた。ゆえに日天の責を受けて破れたのである」といった。次には南より迂回して日天を背にして戦い、大勝利をえたという故事がある。 | |
| 阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎょしんなりしが、をどろいて諸臣に向かって云はく、日輪天より地に落つとゆめにみる。諸臣の云はく、仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。 | またインドの阿闍世王は、いままでの邪見をひるがえして釈尊に帰依し、宮廷の内裏に帰って就寝したのであるが、やがて驚いて飛び起き、諸臣に向かっていうには「われ、日輪が天より地に落つという夢を見たり」と、諸臣は、「これこそ仏の御入滅であろうか」といいあった。はたして、そのとおりであったという。須跋陀羅の夢も、これと同じであった。昔のことは、みなかくのごとくであった。 | |
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我が国は殊にいむべきゆめなり。神をば天照という、国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立てヽ釈迦仏をすて、 (★1025㌻) 真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此の夢出現せり。 |
しかして、わが日本国においては、日輪を射るということは、ことに忌むべき夢である。わが国においては、神をば天照大神という。また教主釈尊をば日種と申している。すなわち摩耶夫人が日をはらむ夢を見て、誕生したのが悉達太子であり、教主釈尊である。 まことに慈覚大師は、権経の大日如来を比叡山にまつり、教主釈尊を捨て、さらに邪教真言の三部経をあがめて、法華経の三部経を敵にした大謗法のゆえに、日輪を射るというような下剋上の悪夢を見たのである。 |
| 例せば漢土の善導が、始めは密州の明勝といゐし者に値ひて法華経をよみたりしが、後には道綽に値ひて法華経をすて観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生・百即百生と定めて、此の義を成ぜんがために、阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢の中に常に一の僧有り、来たって指受すと云云。乃至一経法の如くせよ。乃至観念法門経等云云。 | 次に、悪夢凶夢の例をあげてみよう、一例として、中国の善導は、初めは密州の明勝というものに会って、法華経を学んだのである。しかるに、後に道綽に会ってより、法華経を捨て観経を用いるようになった。すなわち観経により疏を作り、法華経は「千中無一」であり「法華経によって成仏するものは千人の中に一人もなし」と誹謗し、念仏は「十即十生・百即百生」すなわち、「十人が十人、百人が百人往生する」と定めたのである。そしてこの義を成就するために、阿弥陀仏の前で祈誓をなした。仏意にかなうかどうか。毎夜、夢の中に、いつも一人の僧が出現して教授し指導したので、この書を完成したのだという。ゆえに観経疏は、つねに「仏の教法のごとくせよ」といわれ、彼の著「観念法門」も経のごとく尊敬せよといわれているのである。 | |
| 法華経には「若し法を聞く者有れば一として成仏せざるなし」と。善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火なり。善導は観経をば十即十生・百即百生と。無量義経に云はく観経は「未だ真実を顕はさず」等云云。無量義経と楊柳房とは天地なり。 | 法華経方便品には「もし法華経を聞くものがあれば、ひとりとして成仏しないことはない」と説かれている。しかるに、善導は「千中無一」すなわち「法華経を信じても、千人のうち一人も成仏するものはいない」といっている。法華経の説くところと、善導のいいぶんは、まったく水火のごとき相違がある。善導は、観経は「十即十生・百即百生」の経と説いている。しかるに無量義経には「四十余年の中に説いた観経は、いまだ真実を顕わしていない」等と説かれている。善導は、後に楊柳の枝に首をくくって自殺したが、仏説たる無量義経と、この楊柳房とは、まったく天地の差がある。 | |
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此を阿弥陀仏の僧と成りて、来たって真なりと証せば、あに真事ならんや。抑阿弥陀は法華経の座に来たりて、舌をば出だし給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。 |
これをもって思うのに、善導が夢の中に、阿弥陀仏が僧となって出現して、「汝が説いた疏は真なり」と証明したということは、どうして真実のことといえようか。そもそも阿弥陀如来は、三世十方の諸仏のひとりであるべきなのに、法華経の座にきて「法華経は皆是れ真実なり」という証明の舌を出さなかったのでろうか。また、観音・勢至の二菩薩も、迹化他方の菩薩として、法華経の座にいなかったのであろうか。もし、法華経の座にいたならば、善導の夢にあらわれるはずはないではないか。これをもって、善導の夢は、大妄語であったことは明白である。これをもって思うのに、同じく慈覚大師の日輪を射る夢も悪夢であり、凶夢である。これこそおおいなるわざわいと知るべきである。 |
| 問うて云はく、弘法大師の心経の秘鍵に云はく「時に弘仁九年の春天下大疫す。爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予購読の撰に範りて経旨の宗を綴り未だ結願の詞を吐かざるに、蘇生の族途に彳ずむ。夜変じて日光赫々たり。是愚身の戒徳に非ず、金輪の御信力の所為なり。但神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ。昔、予、鷲峰説法の筵に陪して、親しく其の深文を聞きたてまつる。豈其の義に達せざらんや」等云云。 |
問うて言く。弘法大師の「般若心経の秘鍵」や「孔雀経の意義」や、あるいは「弘法大師の伝」には、弘法大師についての多くの奇瑞が出ている。どうして、弘法大師を信じてはならぬといい、弘法大師が阿鼻地獄に落ちたというのか。 すなわち、初めに弘法大師の般若心経秘鍵の跋文にいわく「弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。ここに天皇は、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を握って、紺紙金泥の般若心経一巻を書写せられた。自分は、この般若心経を講読する命をうけて、経旨の趣を書きつづった。しかも、いまだ結願の詞をのべ終われぬのに、この大疫病の流行はとまり、蘇生した人たちは道にたたずんでいる。また夜変じて世中に太陽が赫々と輝いている。これ、自分がごとき愚かな身の戒徳のゆえにあらず、ひとえに金輪聖王たる天皇の御信力のたまものである。ただし、今後は、神社に参詣するものたちも、この般若心経秘鍵の文を読みたつるべきである。昔、自分が霊鷲山の説法の座に列していたとき、眼前にその深意を聞いたのである。ゆえに、どうして、この経の意義に達しないわけがあろうか」と。 |
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| 又孔雀経の音義に云はく「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲し、諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑ふ。大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我我入の事、即身頓証の疑ひ、此の日釈然たり。然るに真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼の時より建立しぬ」と。 | また、孔雀経の音義にいわく「弘法大師は、唐より帰朝の後、真言宗を立てんと思われ、諸宗の代表を朝廷に集めて論議した。みな真言宗の即身成仏の義を疑っていた。そのとき、弘法大師は智拳の印を結んで南方に向かったところが、弘法大師の面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那と化し、すなわち毘盧遮那の本体にたち還った。これによって、入我・我入の教意、すなわち、諸仏をわが身中に引入したまま、我が身を諸仏に引入すること、即身に仏果を証すること明らかになったので、衆人の疑いは、たちまちに氷解したのである。しかして、真言瑜伽の宗・秘密曼荼羅の道はこの時から建立されたのである」と。 | |
| 又云はく「この時に諸宗の学徒大師に帰して、始めて真言を得て、請益し習学す。三論の道昌、法相の源仁、華厳の道雄、天台の円澄等、皆其の類なり」と。 | 同じく、孔雀経の音義には、またいわく「この時に諸宗の学徒は、弘法大師に帰伏して初めて真言を得て、請益し、習学したのである。すなわち三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台宗の円澄などが、みなこのたぐいであった」と。 | |
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(★1026㌻) 弘法大師の伝に云はく「帰朝泛舟の日発願して云はく、我が所学の教法若し感応の地有らば、此の三鈷其の処に到るべしと。仍って日本の方に向かって三鈷を抛げ上ぐるに遥かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」云云。 |
弘法大師伝には、次のように、弘法大師をたたえている。「いよいよ中国から日本に帰り帰朝のため、舟を出す日、弘法大師が発願していうには、わが学んだところの教法をひろめるに適した感応の地があるならば、いまから投げ上げるこの鈷がかならず、その他に落ちるであろうと。そして日本の方に向かって鈷を抛げ上げた。三鈷は、はるかに飛んで、雲の中にはいった。しかして、その年の十月に帰朝した」と。 | |
| 又云はく「高野山の下に入定の所を占む。乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云。此の大師の徳無量なり。其の両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此の人を信ぜずして、かへて阿鼻地獄に堕つるといはんや。 | 同じく弘法大師伝にいわく「高野山の下に弘法大師が入定すべき場所を決定した。乃至かの海上で投げ上げた三鈷が、いま、あらたにここに落下してあった」等と。 この弘法大師の徳というものは、まことに無量である。その二・三を示しても、かくのごとき大徳があるのである。どうして、この弘法大師を信じてはならないとし、また弘法大師を信じたら、かえって阿鼻地獄に落ちると、あえていうのであるか。 | |
| 答へて云はく、予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其れにはよらず。外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひほし、或は日月を手ににぎり、或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢ををこして生死の業とこそなりしか。 | 答えて言う。私も、弘法大師の徳を仰いで信じたてまつろうと思うのである。しかし、いにしえの人々も、不可思議の徳をもっていたのである。しかし、仏法の邪正は、けっして、このような奇事にはよらないのである。インドのバラモン外道は、あるいは恒河の水を、耳に十二年とどめ、あるいは大海を一日にしてすい干し、あるいは日月を手ににぎり、あるいは釈尊の弟子を牛や羊のごとくなすなどということをしたけれども、いよいよ大慢心をおこして、生死の業となったにすぎないではないか。 | |
| 此をば天台云はく「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ。光宅が忽ちに雨を下らし須臾に花を感ぜしをも、妙楽は「感応此くの若くなれども猶理に称はず」とこそかヽれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下らせ、伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしてをはせしも、其れをもって仏意に叶ふとはをほせられず。 | このことを天台大師は、法華玄義にいわく「名聞名利をもとめるもので、見愛を増したにすぎぬ」とこそ、解釈されたのである。光宅法雲がたちまち雨を降らし、法華経説法の時には、須臾に花を咲かせ降らしたのに対しても、妙楽大師は「なるほど、感応はかくのごとくであったけれども、なお理にかなわざるものだ」とこそ書かれたのである。されば、天台大師が法華経を読んで「須臾の間に甘雨を降らせ」伝教大師は三日間のうちに甘露の雨をふらせたのであるが、それをもって、なお仏意にかなったなどとは、おおせられなかったのである。 | |
| 弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかヽせ給へる御ふでは、智慧かしこからん人は用ふべからず。 | もしも、与えて、弘法大師に、いかなる徳があったとしても、法華経を戯論の法と定めたり、釈迦仏を無明の辺域と書いた筆跡を、智慧のすぐれた人は、絶対に用いてはならないのである。 |
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(★1027㌻) いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり。「弘仁九年の春天下大疫」等云云。春は九十日、何れの月何れの日ぞ、是一。又弘仁九年には大疫ありけるか、是二。又「夜変じて日光赫々たり」云云。此の事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史右史の記に載せたりや、是三。 |
いかにいわんや、いままでげた徳などには、多くの不審があるのである。まず弘法の般若心経秘鍵に「弘仁九年の春、天下大疫す」等とあるが、春といっても一月から三月まで九十日間ある。いずれの月の、いずれの日だったのか。これ第一の不審である。また弘仁九年に、はたして大疫病がまん延した事実があったのであろうか。これが第二の不審である。同じく般若心経秘鍵に「弘法大師が般若心経の経旨の宗を書いただけで、『夜変じて日光赫赫たり』」という。このことは第一の大事である。弘仁九年といえば嵯峨天皇の御代である。しかし、このようなことは、左史・右史の書にも、載っているであろうか。これ第三の不審である。 | |
| 設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間にいまだ無き天変なり。夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出づべしとは三皇五帝の三墳五典にも載せず。仏経のごときんば減劫にこそ二つの日三つの日乃至七つの日は出づべしとは見ゆれども、かれは昼のことぞかし。夜日出現せば東西北の三方は如何。 | たとえ左史・右史の書に載せてあったとしても、このことは、まったく信じられない。なぜなら、この世界で、成劫二十劫・住劫九劫、以上二十九劫の間に、いまだかってなかった天変である。夜中に太陽が出現するということは、いったい、いかなることだろうか。また釈迦如来、一代五十年の聖教にも、このようなことは見えないのである。「未来に、世中に太陽が出現するだろう」などとは、中国の三皇五帝の三墳五典の書にも、まったく載っていないのである。仏経典の説によれば、壊劫にはいった時こそ二つの太陽・三つの太陽、あるいは七つの太陽が出現があるだろうとは説かれているけれども、これは昼に出るとのおおせである。もし、全世界に夜、太陽が出現したならば、東西北の三方の世界はいかなることになるのだろうか。 | |
| 設ひ内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出づるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならばすこし信ずるへんもや。 | たとえ内典・外典に記していないとしても、判然と弘仁九年の春、いずれの月の、いずれの日の、いずれの夜の、いずれの時間に、太陽が出現したという、公家、諸家、叡山等の日記があるならば、少しは信ずることもできようが、それにも、ぜんぜんないではないか。 | |
| 次下に「昔、予、鷲峰説法の筵に陪して、親しく其の深文を聞く」等云云。此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か。されば霊山にして法華は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難・文殊が誤りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨らす雨を、三七日まで下らさヾりし人は、かヽる徳あるべしや、是四。 | 般若心経秘鍵の次ぎ下の文に「昔、弘法大師が霊鷲山で般若心経の説法の座につらなっていて、まのあたり、その深遠な経文を聞いた」等とある。この般若心経秘鍵の書を人に信じさせるためにかまえた大妄語ではないか。されば霊鷲山において、釈尊が「法華経は戯論の法、大日経は真実の法」と説いたのを阿難や文殊菩薩が誤って「妙法華経は真実なり」と反対のことを書いたというのか。まさに、いうもおろかな昔の婬女や破戒の法師などが、歌をよんで降らした雨を、三週間も祈りつづけて降らすことのできなかった弘法などに、法華経聴聞の徳があるはずがあろうか。これ第四の不審である。 | |
| 孔雀経の音義に云はく「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。此又何れの王、何れの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして緇素の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。又次に云はく「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云。抑円澄は寂光大師、天台第二の座主なり。其の時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召さヾりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。 |
また孔雀経の音義にいわく「弘法大師が智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。これまた、いずれの王、いずれの年時であるか。中国においては建元の年号を初めとし、日本においては大宝の年号を初として、かならず年号があり、しかも、仏法に関してのことも一般の世間のことも大事の文章には、かならず年号を記載するのがならわしである。しかるに、これほどの大事に、どうして王も臣も年号も日時も記載していないのか。 同じくまた孔雀経の音義にいわく「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄などは、弘法大師に帰依し修学した」と。そもそも、円澄寂光大師は天台宗第二の座主である。そのとき、どうして第一の座主である義真大師、また根本大師たる伝教大師を招かなかったのであるか。円澄は天台宗第二の座主であり、伝教大師の弟子であるけれども、また弘法大師の弟子となりさがった。弟子を招くよりも、また三論宗・法相宗・華厳宗よりも天台宗の伝教大師・義真大師の二人を招くべきではなかったのか。 |
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而も此の日記に云はく「真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅道彼の時より建立しぬ」等云云。此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。其の時は此の二人現にをはします。又義真は天長十年までおはせしかば、其の時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり、信じがたし。又邪見の者が公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。 |
しかも、この日記すなわち、孔雀経の音義にいうには「真言瑜伽の宗を、秘密曼荼羅を、かの時より建立したのである」等と。この書は伝教大師、義真大師の御存生の時の書と思われる。弘法は、平城天皇の大同二年に帰朝したときから弘仁十三年伝教大師が入滅されるまでは、盛んに真言の教えを弘めた人である。 その時は、この伝教大師と義真大師の二人は、現にまだ御存生であった。しかも義真大師は天長十年まで御存生であられたから、そのときまでは、弘法の真言は弘まらなかったというのか。これについて、まだいろいろな不審がある。すなわち、 孔雀経の音義は弘法の弟子、真済が自記である。ゆえに、はなはだ信じられない書である。また邪見者が公家・諸家・円澄の記を引けるわけがあろうか。また道昌・源仁・道雄の記をたずねてみるべきである。 |
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| 「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。面門とは口なり、口の開けたりけるか。眉間開くとかヽんとしけるが誤りて面門とかけるか。ぼう書をつくるゆへにかヽるあやまりあるか。「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。 | 同じく孔雀経音義には、「面門にわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等とある。面門とは口のことである。弘法の口が開いたというのか。これは眉間が開くと書こうとしたのであるが、誤って面門と書いてしまったのであろう。謀書を書いたゆえに、このような誤りがあるのであろうか。孔雀経音義にいわく「弘法大師が智拳の印を結んで南方に向かったところ、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那となる」等と。 | |
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涅槃経の五に云はく「迦葉、仏に白して言さく、世尊我今是の四種の人に依らず。何を以ての故に、瞿師羅経の中の如き、 (★1028㌻) 仏瞿師羅が為に説きたまはく、若し天・魔・梵・破壊せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳し、円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、乃至左の脇より水を出だし右の脇より火を出だす」等云云。 |
涅槃経の五の巻にいわく 「迦葉、仏に申していわく、仏世尊よ、われ今、この四種の人を依拠としない。何となれば、瞿師羅経の中のごときは仏が瞿師羅のために説いていわく、もし天魔が梵を破壊せんと欲するがゆえに変じて仏の像となり、三十二相・八十種好を具足し、荘厳し、円光一尋・面部円満なること、なお月の盛明なるごとくであり、眉間の毫相白く輝くことは珂雪にこえ、乃至、左の脇より水を出し、右の脇より火を出した」等と。 |
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| 又六の巻に云はく「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸く当に我が之の正法を沮壊すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云。 | 同じく、また涅槃経の六の巻にいわく「仏は迦葉に告げていうには、われ般涅槃して、乃至、後に是の魔や波旬が、ようやくまさに我が正法を沮壊せんとしている。乃至、化して阿羅漢の身および仏の色身となり、魔王はこの有漏の形をもって、無漏の身となり、わが正法を破壊するであろう」と。 | |
| 弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃経には魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらんと記し給ふ。涅槃経の正法は法華経なり。故に経の次下の文に云はく「久しく已に成仏す」と。又云はく「法華の中の如し」等云云。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身を現じて、華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。 |
弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論である等といった。しかも、孔雀経音義によれば、仏身のごとき相を現わしているという。これ涅槃経には「魔が有漏の形をもって、仏となつて、わが正法を破壊するのであろう」と記されているとおりである。涅槃経でいう正法とは、法華経のことである。ゆえに、涅槃経の次ぎ下の文にいわく「久しくすでに成仏している」と。涅槃経に、また、いわく「法華の中のごとし」と。 釈迦・多宝・十方の諸仏、一切経に対して「法華経は真実であり、大日経等の一切経は不真実である」といっている。しかるに、弘法大師は、仏身を現じながら、華厳経・大日経に対して「法華経は戯論である」といっている。仏説がまことであるならば、弘法大師は天魔ではないか。 |
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| 又三鈷の事殊に不審なり。漢土の人の日本に来たりてほりいだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみけん。いわうや弘法は日本の人、かヽる誑乱其の数多し。此等をもって仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。 | また、三鈷を中国から投じたということも、ことに不審きわまることである。中国の人が事情を知らない日本に来て、三鈷を掘り出したとしても、そういうことは信じられぬことである。堀り出す以前に、人をそこにつかわして、三鈷を埋めたのではなかろうか。いわんや、弘法は日本の人であり、どんな工作もできる立ち場にある。そして、このような誑乱は、数多くいままでにもあったことである。これらのことをもって、弘法は仏意にかなう人であるという証拠にはならないのである。それどころかまったくの邪義・邪経の人である。 |
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されば此の真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来たる程に、人王第八十二代尊成隠岐の法王、権大夫殿を失はんと年ごろはげませ給ひけるゆへに、国主なればなにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照大神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申させ給ひしに、二日三日だにもさヽへかねて、佐渡国・阿波国・隱岐国等にながし失せて終にかくれさせ給ひぬ。調伏の上首御室は、但東寺をかへらるヽのみならず、眼のごとくあひせさせ給ひし第一の天童勢多伽が頚切られたりしかば、調伏のしるし還着於本人のゆへとこそ見へて候へ。これはわづかの事なり。此の後定んで日本の国臣万民一人もなく、乾草を積みて火を放つがごとく、 (★1029㌻) 大山のくずれて谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるヽ事出来すべし。 |
されば、これからの真言・禅宗・念仏等などの邪教がようやく盛んになってきたころ、人王八十二代・尊成・隠岐の法皇が北条時頼を滅ぼそうと年来、努力されていた。この上皇は、大王であり、国主であるから、どんなことがあっても、師子王が兎をとるように、鷹の雉をとるように、北条氏をほろぼすことは容易であると思われた。その上に、比叡山・東寺・園城・奈良七大寺・天照太神・正八幡大菩薩・山王・加茂・春日神社等に数年の間、あるいは北条氏の調伏を命じ、あるいはあらゆる神社に祈願をかけた。しかるに朝廷方は、わずか二・三日間も北条幕府の軍勢を阻止することができなくて総くずれとなり、かえって三上皇は佐渡の国、阿波の国、隠岐の国等に流罪され、ついにそこでなくなられたのである。 しかも、北条幕府を調伏した上首たる御室は、ただ東寺を追われるのみではなく、目に入れても痛くないほどかわいがっていた第一の天童・勢多伽が首を切られたゆえに、調伏の結果は、かえって還著於本人となって、自分の災いが重なったことがわかるのである。 これらは、弘法の邪義、真言の邪法からすれば、まったくわずかの現証にしかすぎないのである。真言の邪法を用いつづけるならば、その後、かならずや、日本の諸臣万民は一人もなく乾草を積んで火を放ったごとく、大山がくずれて谷をうずめてしまうがごとく、わが日本国が他国に攻められるという未曾有の大事がおこるであろう。 |
| 問うて云はく、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。答へて云はく、華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其の経の肝心なり。大は大につけ小は小につけて題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等亦復かくのごとし。仏も又かくのごとし。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通仏・雲雷音王仏、是等も又名の内に其の仏の種々の徳をそなへたり。今の法華経も亦もってかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。 |
問うて言う。法華経一部・八巻・二十八品の中には、なにものが、もっとも肝心であるのか。 答えて言う。華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、雙観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。 かくのごとく、一切経はみな、如是我聞の上にある題目が、その経の肝心である。大乗経は大乗として、小乗は小乗なりに、ともかく、題目をもって肝心としているのである。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等もまた、かくのごとくその経の題目が肝心である。 仏についても、また同じことがいえるのである。大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏、これらの仏も、また仏の名のなかに、その仏の種々の徳をそなえているのである。いまの法華経も、また同じである。 如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は、すなわち法華経一部八巻の肝心である。またそれだけではなく一切経の肝心である。さらにいっさいの諸仏・菩薩・二乗・天・人・修羅・竜神などの頂上の正法である。 |
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問うて云はく、南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱ふると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱ふると斉等なりや、浅深の功徳差別せりや。答へて云はく、浅深等あり。 (★1032㌻) 疑って云はく、その心如何。答へてはく、小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども大河ををさめず。大河は露乃至小河を摂むれども大海ををさめず。阿含経は井江等露涓をおさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河をおさむる大河なり。法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一渧ももらさぬ大海なり。 |
問うて言う。「南無妙法蓮華経」とその経の心も知らないで唱えるのと、同じく「南無大方広仏華厳経」と、その経の心も知らないで唱えるのとでは、その意義は等しいか。功徳の浅深、差別があるのか。答えて言う。それは明白に功徳の浅深がある。 疑つて言う。しからば、その心はいかん。 答えて言う。小さい河は、露や涓や井戸の水や、渠の水、江の水などは収めるけれども、大河の水を収めることはできない。大河は露や、乃至、小河の水は収めるけれども、大海の水を収めることはできない。阿含経は井江等や露涓などを収めた小河のようなものでる。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経などは、小河の水を収めた大河のようなものである。しかして、法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨などの一切の水を一渧ももらさず収めた大海のようなものである |
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| 譬へば身の熱き者の大寒水の辺にいねつればすヾしく、小水の辺に臥しぬれば苦しきがごとし。五逆謗法の大一闡提の人、阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし。法華経の大雪山の上に臥しぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽ちに散ずべし。されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各々経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり。 | たとえば身体が熱くてたまらない者が、大寒水のほとりに、いつづければ、涼しくなるが、小水のほとりに伏せれば熱くて苦しいようなものである。五逆罪・謗法の大きな一闡提人が、阿含・華厳・観経・大日経等の小水のほとりにいるのでは、大罪の大熱を散ずることはできない。しかし法華経の大雪山の上に伏せば、五逆罪・正法誹謗・一闡提等の大熱がたちまちに散ずるであろう。されば、すべての愚者は必ず法華経を信じて功徳を受けるべきである。おのおの経々の題目は、たやすいことである。同じようなことであるといっても、愚者なれども、法華経の題目を唱える功徳は勝れ、智者なれども権経の題目を唱える功徳は劣る。その相違はまさに天地雲泥である。 | |
| 譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてばたやすくこれをきる。譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし。利剣をもてば小刀も破りぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども命をのべず。 | たとえば、大綱は大力のものでも切ることができない。しかし小力なれとはいえ小刀をもって切れば、たやすく切ることができる。大網とは五逆謗法である。小刀とは法華経の題目である。また、たとえば、堅い石を、やわらかい鈍刀をもってしては、大力のものも破ることはできない。しかし、堅い利剣をもてば小力のものでも破ることができる。利剣とは法華経の題目である。また、たとえば、薬は、その効能などを知らなくても、服しただけで病気はなおる。しかし、単なる食物では、いかに服しても病気はなおらない。薬とは法華経の題目である。また、たとえば、仙薬は寿命を延ばし、凡薬は病気をなおすが寿命を延ばすことはできない。仙薬とは法華経の題目である。 |
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疑って云はく、二十八品の中に何れか肝心なる。答へて云はく、或は云はく、品々皆事に随ひて肝心なり。或は云はく、方便品・寿量品肝心なり。或は云はく、方便品肝心なり。或は云はく、寿量品肝心なり。或は云はく、開・示・悟・入肝心なり。或は云はく、実相肝心なり。 問うて云はく、汝が心如何。答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。其の証如何。答へて云はく、阿難・文殊等、如是我聞等云云。問うて曰く、心如何。答へて云はく、阿難と文殊とは八年が間此の法華経の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかヽせて次に如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。されば過去の灯明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝へんとして前題に一部を挙ぐるなり」等云云。 (★1033㌻) 霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云。章安大師の云はく、記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」等云云。此の釈に文心とは題目は法華経の心なり。妙楽大師云はく「一代の教法を収むること法華の文心より出づ」等云云。 |
疑つて言う。法華経二十八品の中には何が肝心であるのか。答えて言う。ある人がいわく「法華経二十八品の、品々はみな事に随って肝心である」ある人がいわく「方便品・寿量品が肝心である」ある人がいわく「方便品が肝心である」ある人がいわく「寿量品が肝心である」ある人がいわく「開示悟入が肝心である」ある人がいわく「実相が肝心である」と。 問うて言う。汝が心はどうであるのか。 答えて言う。南無妙法蓮華経が肝心である。 問うて言う。その証拠はどうであるのか。 答えて言う。阿難・文殊等は「如是我聞」等と言っている。 問うて言う。その心はどうか。 答えて言う。阿難と文殊とは、八年の間、この法華経の無量の義を、一句・一偈・一字も残さず聴聞したのである。そして、釈迦仏の滅後、一切経の結集の時、九百九十九人の阿羅漢が、筆を染めたが、まず初めに妙法蓮華経と書いた。次に如是我聞と唱えたのは、妙法蓮華経の五字は、一部・八巻・二十八品の肝心であるという証拠ではないか。ゆえに、過去の日月燈明仏のとき以来、法華経を講じたといわれる光宅寺の法雲法師は「如是とは、まさに所聞の法を伝えようとしているのである。しかして、前題に法華経一部をあげたのである」等といっている。 霊鷲山において、薬王菩薩出現し、まのあたりに法華経を聴聞した天台大師は「如是とは所聞の法体である」といっている。さらに章安大師は、記者である章安大師がさらに天台大師の解釈を釈していわく「蓋し序王とは、法華経の玄意を叙述したのであり、その玄意は文心を述したものである」と。この釈に「文の心」というのは、題目は法華経の心であるという意味である。妙楽大師のいわく「一代の教法を収むることは、法華の文より出たことである」と。 |
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| 天竺は七十箇国なり、総名は月氏国。日本は六十箇国、総名は日本国。月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。 | 天竺は七十箇国である。総名は月氏国という。日本は六十箇国である。総名は日本国という。月氏の名なかに七十箇国はもちろん、人間も畜生も珍宝もみな含まれている。日本という名の中に六十六箇国いる。出羽に産する鳥の羽も、奥州の金も、また国の珍宝・人間・畜生等、さらに寺塔も神社も、みな日本という二字の名の中にすべて収まっているのである。 | |
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天眼をもっては、日本と申す二字を見て六十六箇国乃至人畜等をみるべし。法眼をもっては、人畜等の此に死し彼に生ずるをもみるべし。譬へば人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。 |
天眼をもつて日本という二字を見るならば、日本の六十六国あるいは人間・畜生等を見ることができる。法眼をもつて見るならば、人間や畜生などが、ここに死し、かしこに生れるのを見ることができる。たとえば、人の声を聞いて、その体を知ることができ、足跡を見れば、その人の大小を知ることができ、蓮の花の大小を見て、池の大小をはかり知ることができ、雨のようすを見て竜の姿を想像することができる。これらは、みな一つの姿にいっさいの姿が現われているという道理を示しているのである。 | |
| 阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし。例せば華さいて菓ならず、雷なって雨ふらず、鼓あて音なし、眼あて物をみず、女人あて子をうまず、人あて命なし又神なし。 | かくのごとくみれば、阿含経の題目には、おおむねいっさいが含まれているようであるけれども、ただ小乗経の一仏のみであって、他仏は含まれないのである。華厳経・観無量寿経・大日経等などには、一切経が説かれているようであるけれども、じつは声聞・縁覚の二乗を仏にする法門と、久遠実成の釈迦仏とは説いていないのである。これは、たとえば花が咲いても果実がならず、雷が鳴って雨が降らず、鼓があっても音が出ない、目があって物が見えない、婦人でありながら子供を生まない。人間であるが命がなく、また精神活動がないようなものである。 | |
| 大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。彼の経々にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各々当体の自用を失ふ。 | すなわち、大日如来の真言・薬師如来の真言・阿弥陀如来の真言・観世音菩薩の真言なども、同じくこのようなものであり、魂のない姿である。かの大日経・薬師経・阿弥陀経などの経々では、各経の題目は大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣などのように思っているようであるけれども、法華経の題目に対すれば、雲泥ほどの勝劣があるのみでなく、みなおのおの当体みずからの働き、功徳というものを失ってしまうのである。 | |
| 例せば衆星の光の一つの日輪にうばはれ、諸の鉄の一つの磁石に値ふて利精のつき、大剣の小火に値ひて用を失ひ、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値ひて水となり、衆狐が術、一犬に値ひて失ひ、狗犬が小虎に値ひて色を変ずるがごとし。 | それは、たとえば、多くの星が一つの太陽のために光を奪われてしまう。あるいは、多くの鉄があっても、一つの磁石にあうことによって吸いつけられて、たちまち鉄の利性は尽きてしまう。また、大剣はいかに切れ味がよくとも、小火にあっては、なまくらになってしまう。牛乳や驢乳が師子王の乳にあえば水になり、多くのキツネの術も一犬にあって失われてしまう。また狗犬が小虎にあっては、あわて恐れるようなものであう。 | |
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南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたづらものなるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、 (★1034㌻) 秋冬の草のかるヽがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。 |
南無妙法蓮華経ととなえれば、南無阿弥陀仏の働きも、南無大日真言の働きも、観世音菩薩の働きも、みな、ことごとく妙法蓮華経の働きのために力を失ってしまうのである。かの経々は、妙法蓮華経の働きを借りなければ、みな、役に立たない、空しい教えになってしまうのである。これらは、この時代にあって、当然のこととしてうなずける道理である。 日蓮が南無妙法蓮華経ととなえ弘めることによって、南無阿弥陀仏の働きが、あたかも太陽が出て月がかくれるような状態になり、潮が引いていくような姿であり、秋冬の草が枯れていくような、あるいは氷が太陽の光にあって溶けるような、衰えゆくようすを、はっきりと見なさい。 |
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問うて云はく、此の法実にいみじくば、など迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすヽめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく、すヽめ給はざりけるやらん。答へて云はく、此の難は古の難なり、今はじめたるにはあらず。馬鳴・竜樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此の人々世にいでヽ大乗経を弘通せしかば、諸々の小乗の者疑って云はく、迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて正法をひろめ給ひしは、如来一代の肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此の人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴・竜樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏にあひまいらせて解りをえたる人なり。此の人々は仏にあひたてまつらず是二。外道は常・楽・我・浄と立てしを、仏世に出でさせ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此のものどもは常・楽・我・浄といへり是三。されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給ひぬれば第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり。されば仏法のあだをば頭をわれ、頚をきれ、命をたて、食を止めよ、国を追へと諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴・竜樹等は但一・二人なり。昼夜に悪口の声をきヽ朝暮に杖木をかうぶりしなり。 |
問うて言う。この南無妙法蓮華経の仏法が、じつに、そのようにりっぱであるならば、どうして、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、あたかも善導が南無阿弥陀仏とすすめて中国に弘通したごとく、また慧心・永観・法然などが日本国をみな阿弥陀仏の信者にしたように、南無妙法蓮華経をひろめなかったのか。 答えて言う。このような疑難は昔からある疑難であって、いま急にいわれはじめたものではない。馬鳴・竜樹菩薩は、釈迦仏の入滅後、六百年から七百年ごろに出現した大論師である。これらの人々が世に出で大乗経を弘通したので、多くの小乗経信仰のものたちが疑っていうには、 「迦葉・阿難等は、釈迦仏の入滅後・二十年・四十年と、この世に住して正法をひろめられたのは、釈迦如来の一代仏法の肝心をこそ弘通されたのであろう。しかるに、この迦葉・阿難という人々は、ただ苦・空・無常・無我の法門をこそ、もっとも詮要とされたのに、馬鳴・竜樹等は、また違った法門を立てている。いま馬鳴・竜樹等が、いかに賢明であるといっても、迦葉・阿難等より勝れているというわけはないであろう。これが第一の理由である。 迦葉は、直接釈迦仏にあって理解をした人である。この馬鳴・竜樹という人々は、仏に会われるということはなかった。これが第二の理由である。外道のものたちが、人生は常・楽・我・浄であると立てたのを、釈迦仏がこの世に出現されて人生は苦・空・無常・無我であると説かせられたのである。これが第三の理由である。しかるにこの馬鳴・竜樹というようなものどもは、また常楽我浄であると唱えたのである。されば、おそらく釈迦仏も御入滅になり、また迦葉らも死なれてしまったゆえに、第六天の魔王が、この馬鳴・竜樹らの身に入りかわって仏法を破り、外道の法としようとしたのであろう。ゆえに、彼の馬鳴・竜樹らは、仏法の怨敵であるから、頭を破り、首を切れ、また命を断て、食をとどめよ、国を追い払ってしまえ」 このように、多くの小乗教の信者たちが叫んでいた。しかして馬鳴や竜樹たちは、ただ一・二名にすぎなかったがゆえに、昼も夜も小乗の徒の悪口の声を聞き、朝に夕暮れに杖や木でうたれたのである。 |
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| 而れども此の二人は仏の御使ひぞかし。正しく摩耶経には六百年に馬鳴出で、七百年に竜樹出でんと説かれて候。其の上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には申すにをよばず。されども諸の小乗のものどもは用ゐず但理不尽にせめしなり。「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり。提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の頚をきられし此の事をもっておもひやらせ給へ。 | しかしながら、事実はこの馬鳴・竜樹のふたりは、釈迦仏のお使いであったのである。まさしく摩耶経には、釈尊滅後六百年に馬鳴が出現し、七百年に竜樹が出現するであろうと説かれているのである。その上、楞伽経に記せられているし、また付法蔵経にあることは申すまでもないことである。しかしながら、多くの小乗経のものどもは、この仏説を用いないのである。ただ理不尽に大乗仏教を攻撃したのである。「この法華経を説くのに、如来の現在すら、なお怨嫉が多い、いかにいわんや如来の滅度の後においてをや」という法華経法師品の経文は、この時にあたって、少しは、馬鳴・竜樹等の身につまされて、知ることができたのである。提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が首を切られたのも、このことをもって、思いやるべきである。 |
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又仏滅後一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代に天台大師出世す。 (★1035㌻) 此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末、数千万人時をつくりどっとわらふ。世の末になるまヽに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はありとも、後漢の永平十年丁卯の歳より、今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり悪道に堕つという者出来せり。あまりのものぐるはしさに、法華経を持て来たり給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ者と申すなり。漢土はさてもをけ、月氏の大論師竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり。此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころすにもすぐべしとのヽしりき。又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、とかくせめしかばこれも又さはぎしなり。 |
また釈迦仏の入滅後、一千五百余年にあたってインドの東の中国という国があった。この中国の陳隋の代に天台大師が出現したのである。 この天台大師のいうには「釈迦如来の聖教に大乗経あり小乗経あり、また顕教あり密教あり、また権教あり実経がある。迦葉・阿難等は、釈迦仏のおおせのままに、いっこうに小乗教を弘めた。馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて、実大乗の法華経をば、あるいは、ただ指をさして義をかくし、あるいは経の面をのべて始中終をのべず、あるいは法華経迹門をのべて本門をあらわさず、あるいは法華経に本門迹門あって観心なし」と説いたので南三・北七の十流の末流が、数千万人、それを嘲笑したのである。 そして、次のようにいった。「世の末になってくると、不思議な僧も出現するものだ。時にあたってわれらを偏執するものはあったとしても、後漢の永平十年丁卯の歳より、今の陳隋の世にいたるまで三蔵・人師・二百六十余人を、物も知らない人々であるというばかりでなく、彼らは謗法で、悪道におちたという。とんでもないことをいう者が出てきた。あまりにも、物狂わしさに、法華経を持ってきた羅什三蔵をも、物知らないものであると申すにいたった。中国における人々はさておき、インドの大論師の竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩たちも、いまだ実義をのべることはなかったというのである。 こうした大悪見のものであったから、「これらの人を打ち殺した人は、鷹を殺したようなものである。鬼を殺したよりもすぐれているのである」と、大声でわめいていた。また、妙楽大師の時代に、インドより法相宗や真言宗が渡ってきて、さらに中国の華厳宗の始まったのを、妙楽大師がとかく責めたので、このことについても、また騒ぎ出したのである。 |
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日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし、国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、修羅と帝釈と、項羽と高祖と一国に並べるなるべし。諸人手をたヽき舌をふるふ。在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にヽき。 (★1036㌻) されば他宗にはそむくべし。我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとのヽしりあえりき。されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱き人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。 |
日本国には、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年にあたって、出現され、天台の御釈を見て、欽明天皇より以来二百六十余年の間に出た六宗を責められたので、人々は「釈尊在世の時の外道や、中国の道士が、いま日本に出現したのだ」といって、伝教大師を誹謗した上、伝教大師が、釈迦仏の入滅後、一千八百年が間、インド・中国・日本になかった円頓の大戒を立てんというのみでなく、西国の観音寺の戒壇、東国下野の小野寺の戒壇、中国大和の国の東大寺の戒壇は、小乗の臭糞の戒である。瓦石のごとくである。それらの小乗戒を持った僧たちは野干・猿猴等のごとくであると」申したので、人々は「ああ、不思議な、法師に似た大蝗虫が日本の国に出現したものである。これでは、せっかくの仏教の苗が、一時になくなってしまうであろう。中国の大悪王である殷の紂王や、夏の桀王らが、法師となって日本に生まれたのであろう。後周の宇文や唐の武宗が、二たび世に出現して、破仏法を強行したようなものである。仏法も、ただいま、滅失してしまい、国も亡びてしまうであろう」とののしる大乗・小乗の二類の法師どもが出現したので、修羅と帝釈が、項羽と高祖が一国に並んで出現したようなものであると、諸人は手をたたき、舌をふるって恐ろしがった。 「釈尊在世には、釈迦仏と提婆達多の二つの戒壇があって、若干の人々が死んだのである。されば、他宗にはそむいてもいいが、わが師、天台大師の立てられなかった円頓の戒壇を立てようという不思議さよ、ああ、恐ろしいことだ」と声高でののしり騒いだのであった。しかしながら、経文に明白にあったがゆえに、とうとう比叡山の大乗戒壇は、すでに立ってしまったのである。ゆえに、内証は同じだとはいっても、仏法の流布からいえば、迦葉・阿難よりは、馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台大師はすぐれ、天台大師よりも伝教大師は超過しているのである。世が末ともなれば、人間の智慧は浅くなり、仏教は深くなるのである。たとえば、軽病は凡薬をあたえ、重病には仙薬をあたえ、弱い人には強い味方があって助けるようなものである。 |
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問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、何物ぞや。答へて云はく、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。例せば風に随って波の大小あり、薪によて火の高下あり、池に随って蓮の大小あり、雨の大小は竜による、根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。 |
問うて言う。しからば天台大師や伝教大師の、いまだ弘通していない正法があるのか。答えて言う。ある。求めて言う。それは、いかなるものか。答えて言う。それは、三つある。これ末法の世のために、仏が留めおかれたものである。これは迦葉や阿難等、馬鳴や竜樹等、天台や伝教等の弘通されなかったところの正法である。求めて言う。その形貌はいかなるものか。答えて言う。一つには本門の本尊である。日本乃至、一閻浮提の人々は一同に本門の教主釈尊を本尊となすべきである。いわゆる、宝塔の内の釈迦、多宝、そのほかの諸仏、ならびに上行等の四菩薩は脇士となるべきである。二つには本門の戒壇である。三つには本門の題目である。日本乃至中国・インド・全世界において、人ごとに有智無智にかかわりなく、一同に、他事をすてて南無妙法蓮華経と唱えるべきである。 このことは、いまだ弘まっていない。一閻浮提の内に、釈迦仏の入滅後、二千二百二十五年の間、一人も唱えなかったのである。ただ日蓮大聖人お一人が、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と、声も惜しまず唱えているのである。たとえば、風にしたがって波の大小があり、薪によって火の高下があり、池の大小にしたがって蓮の大小があり、雨の大小は竜、すなわち雨雲の大小によるようなものである。根が深ければ枝しげく、源遠ければ流ながしというのは、これである。中国の周の代が七百年もの長い間つづいたのは、ひとえに文王の礼孝によるものである。反対に、秦の世が、ほどもなく滅びたのは、始皇帝の無道の行いによるものである。 |
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| 日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたヽかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。 |
日蓮の慈悲が曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか、未来までも流布するであろう。日本国の一切衆生の盲目を開く功徳がある。無間地獄の道をふさぐものである。この功徳は、伝教・天台にも超過し、竜樹・迦葉にも勝れている。極楽百年の修行は、穢土の一日の功徳に及ばない。正像二千年の弘通は、末法の一時の弘通に劣るのである。これはひとえに日蓮の智慧がすぐれているからではない。弘めるべき時節がきたのである。春は花が咲き、秋には果実が実る。夏は暑く冬は寒い。これも時のしからしむるによるところではないか。 御霊宝虫払大法会の砌(平成29年4月6日) |
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(★1037㌻) 「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等をして其の便りを得せしむること無けん」等云云。此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如来とならじ、目犍は多摩羅跋栴檀香仏とならじ、阿難は山海慧自在通王仏とならじ、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦しみをうくべし。いかでかその義あるべき。其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。 |
法華経の薬王品で、釈尊は「わが入滅の後、後の五百歳の中に広宣流布して、全世界において、断絶して悪魔・魔民・多くの天竜・夜叉・鳩槃荼等に、その便りを得せしむるようなことはないであろう」等と予言した。 もしこの法華経薬王品の予言が的中せず、経文むなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならず、迦葉尊者は光明如来とならず、目犍は多摩羅跋栴檀香仏とはならず、阿難は山海慧自在通王仏とならず、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならず、耶輸陀羅比丘尼は具足千万光相仏とはならないであろう。 三千塵点も戯論となり、五百塵点も大妄語となって、おそらくは教主釈尊は無間地獄におち、多宝仏は無間地獄の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を住み家とし、いっさいの菩薩は、一百三十六の地獄の苦しみをうけるであろう。どうして、法華経薬王品の経文がむなしくなるという義があろうか。その義がなければ、日本国は一同に南無妙法蓮華経と唱えるのは決定的である。 |
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されば花は根にかへり、真味は土にとヾまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 建治二年太歳丙子七月二十一日 之を記す 甲州波木井の郷蓑歩の岳より安房国東条郡清澄山浄顕房・義城房の本へ奉送す。 |
されば花は根にかへり、菓は土にとどまる、この功徳は、道善房の聖霊の御身にあつまるであろう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 建治二(1276)年太歳丙子七月二十一日 これをを記した。 甲州波木井郷身延山より安房の国、東条の郡、清澄山、浄顕房、義城房のもとに奉送する。 |