大白法・平成29年4月16日刊(第955号)

御法主日如上人猊下 御説法

御霊宝虫払大法会の砌(平成29年4月6日)

宗祖日蓮大聖人、『報恩抄』にのたまわく、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたヽかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。」(御書1036頁)     (題目三唱)

 本日は、恒例の総本山御霊宝虫払大法会を奉修いたしましたところ、法華講大講頭・法華講連合会委員長・星野浩一郎殿をはじめ、代表の御信徒各位には多数の御登山、御報恩の法会を執り行うことができまして、まことに有り難く、厚く御礼を申し上げます。

 さて本夕は、ただいま拝読いたしました『報恩抄』の御文について少々申し上げたいと存じます。
 ただいま拝読申し上げました『報恩抄』は、建治二(1276)年七月二十一日、大聖人御年五十五歳の時、先に三月十六日に亡くなられた旧師・道善房の追善供養のために身延において認められ、民部日向に持たせて、安房清澄寺の浄顕房・義浄房のもとに送られた御抄で、故道善房の墓前と嵩が森の頂との両所で読み上げるよう書き添えられています。
 『報恩抄送文』には、

「道善御房の御死去の由、去ぬる月粗承り候(中略)此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ」(御書1038頁)

とあり、その大事について、総本山第二十六世日寛上人は『文段』に、

「今当抄の中に於て、通じて諸宗の謗法を折伏し、別して真言の狂惑を責破し、正しく本門の三大秘法を顕わす。是れ則ち大事の中の大事なり、故に『大事の大事』と云うなり。吾が祖は是れを以て即ち師恩報謝に擬したもうなり」(御書文段379頁)

と、甚深の御指南をあそばされています。
 また、当抄の題号については、

「此の抄の題号は即ち二意を含む、通別なり。通はわく、四恩報謝の報恩抄。別は謂わく、師の恩報謝の報恩抄なり」(同㌻)

と仰せられています。
 すなわち、本抄は通じては父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国王の恩の四恩について述べられておりますが、別しては師・道善房の恩、つまり師匠の恩について述べられているのであります。
 また、本抄は『四恩抄』に明かされる四恩、すなわち父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩と異なり、衆生の恩に代わり師匠の恩が説かれていますが、これは本抄が別して師匠の恩を報ぜんがために認められた御状なるが故であります。
 したがって、本抄においては、衆生の恩については合して父母の恩のなかに置き、もって四恩としているのであります。すなわち、その意は心地観経に、

「故に六道の衆生は是れ我が父母なり」

と仰せられ、また『法蓮抄』に、

「然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給はず」(御書815頁)

と仰せの如く、「一切衆生は皆父母」なるが故に、父母の恩のなかに衆生の恩を入れているのであります。
 次に、別して言えば、総結の文に、

「されば花は根にかへり、真味は土にとゞまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(同1037頁)

と仰せの如く、本抄御述作の意は、最初に通じて四恩を報じ、別しては師の恩を報ずべきことを述べられているのであります。

 次に、当抄の梗概について少々申し上げますと、当抄は今申し上げましたように、最初に、通じて四恩すなわち、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国王の恩を報じ、別しては初発心の師である故道善房の恩を報ずべきことを述べられ、大恩を報ずるためには仏法を習い究め智者となることが肝要であり、そのためには出家して一代聖教を学ばなければならないとされています。しかし、一代聖教を学ぶ明鏡となるべき十宗すなわち、俱舎・三論・律・法相・華厳の南都六宗、および天台、真言、浄土、禅宗等が、それぞれ自説を主張しているため、いずれが仏の本意であるか解らず、そこでインド・中国・日本の各宗の教義を挙げて破折され、一代聖教のなかでは法華経が最も勝れ、法華経の肝心は題目にあることを示され、さらに末法の法即人の本尊および題目・戒壇の三大秘法を整足して明かされ、この三大秘法は末法万年のほか未来までも流るべしと御教示あそばされています。
 また本抄では、特に真言密教を破折され、天台でありながら真言に転落した慈覚や智証については厳しく破折されているのであります。
 最後に「此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と述べられ、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法を信じて、これを流布し、一切衆生を救済することが、師の大恩を報ずる道であると説かれているのであります。
 以上、当抄の梗概について申し上げましたが、この御文中、

「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(同1036頁)

との御文について、第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』に、

「汎く教主釈尊を論ずれば則ち多義有り」(御書文段467頁)

として、三蔵の教主釈尊、通教の教主釈尊、別教の教主釈尊、法華経迹門の応即法身の教主釈尊、法華経本門の応仏昇進色相の教主釈尊、寿量文底本因妙の教主釈尊のましますことを明かされています。
 さらに、同じく『文段』には、

 次に文相に消せん。「本門の教主釈尊」とは、これ標の文にして人の本尊なり。「所謂宝塔」の下は、これ釈の文にして法の本尊なり。即ち本尊抄に同じ。文少しく略なるのみ。すでに人の本尊を標して、法の本尊を以てこれを釈す。故に知んぬ、「本門の教主釈尊」とは、即ちこれ人法体一の久遠元初の自受用報身、本因妙の教主なることを。意に云く、本因妙の教主釈尊の全体、即ちこれ一念三千の法の本尊なるが故に本尊と為すべしと云云。若し色相荘厳の脱仏を以て「本門の教主釈尊」と名づけば、既にこれ人法体別にして勝劣もまた雲泥なり。何ぞ一念三千の法の本尊を以てこれを釈すべけんや。これを思え。故に知んぬ、「本門の教主釈尊」とは本門寿量文底の本因妙の教主釈尊なること、その義転た明らかなることを。(同468頁)

と甚深の御指南をあそばされているのであります。
この「本因妙の教主釈尊」とは、すなわち『百六箇抄』に、

「本因妙の教主本門の大師日蓮」(御書1685頁)

と仰せの如く、さらにまた『文底秘沈抄』に、

「釈尊はち是れ熟脱の教主なり、蓮祖は即ち是れ下種の教主なり、故に本因妙の教主と名づくるなり」(六巻抄52頁)

と御指南せられるように、末法御出現の宗祖日蓮大聖人のことであります。
 されば『文底秘沈抄』には、

「血脈抄に云わく『釈尊久遠名字即の御身の修行を、末法の日蓮が名字即の身に移せり』云云。又云わく『今の修行は久遠名字の振る舞いにりも相違無し』云云。是れ行位全同を以て自受用身即ち是れ蓮祖なることを顕わすなり。故に血脈抄に云わく『久遠元初の唯我独尊は日蓮是れなり』云云。日順の詮要抄に云わく『久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべきなり』云云」(同50頁)

と御指南をあそばされているのであります。
 以上『報恩抄』ならびに「本門の教主釈尊」について、あらあら申し上げましたが、次に、ただいま拝読した御文について申し上げたいと思います。

 初めに「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」と仰せでありますが、この御文以下は、先に三箇の秘法を明かされたのに続いて、宗祖日蓮大聖人様の三徳を明かされている御文であります。
 すなわち「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」とは、主師親の三徳のなかには親徳を明かされ、「日本国の一切衆生の盲目をひらける」とは師徳を明かし、「無間地獄の道をふさぎぬ」とは主徳を明かされ、もって宗祖日蓮大聖人様こそ主師親三徳兼備の本因妙の教主なることを明かされているのであります。
さらに『文段』には、

 凡そ主師親の三徳を本尊と為すべしとは、諸抄の明文、皎として目前に在り。然るに上に本因妙の教主釈尊を本尊と為すべしと明かし已って即ち自身の三徳を明かしたまう。故に知んぬ、本因妙の教主釈尊とは、豈蓮祖聖人に非ざらんや。故に知んぬ、上に「本門の教主釈尊」というは本因妙の教主なること、転た以て分明なることを。当流の深義、諸流の及ぶ所に非ず。仰いでこれを信ずべし。付してこれを思うべし云云。(御書文段470頁)

と甚深の意をもって、主師親三徳兼備の本因妙の教主たる宗祖日蓮大聖人様を末法の人本尊とすべしと御指南あそばされているのであります。
 されば『開目抄』には、

「日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(御書540頁)

と仰せられ、『一谷入道女房御書』には、

「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ」(同830頁)

と明かされ、『開目抄』には、

「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(同577頁)

と明かされ、『産湯相承事』には、

「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」(同1710頁)

と明かされているのであります。
かくの如く、宗祖日蓮大聖人様こそ主師親三徳兼備の本因妙の教主にして、末法の御本仏であることを示されているのであります。

 

 次に「此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・にもすぐれたり」と仰せでありますが、「此の功徳」とは、すなわち日本乃至世界の一切衆生の盲目を開き、無間地獄への道をぐ功徳にして、この功徳は伝教大師、天台大師にも越え、竜樹菩薩、迦葉尊者にも勝れていると仰せであります。これは功徳の軽重に寄せて、末法の御本仏たる主師親三徳兼備の宗祖大聖人の、正像過時の天台大師、竜樹菩薩等に勝れたることを示されているのであります。
されば、『聖愚問答抄』には、

「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし」(同408頁)

と仰せられ、『新尼御前御返事』には、

「此の五字の大を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。 乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(同764頁)

と仰せられ、『乙御前御消息』には

「一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。んや日本国の一切衆生のをあけて候はん功徳をや。に況んや四けて候はんをや」(同898頁)

と仰せられ、功徳の軽重に寄せて、御本仏大聖人の天台、伝教、竜樹、迦葉等に勝れていることを御教示あそばされているのであります。

 

 次に「極楽百年の修行はの一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ」と仰せでありますが、「穢土」とは、浄土に対してれた国土、煩悩に汚れた者が住む迷いの世界、様々な煩悩から脱することができない衆生が苦しみ堪えて生きていく世界、すなわち娑婆世界のことであります。
  この御文意は、極楽でする百年の修行は、娑婆世界でする一日の修行の功徳に及ばないということであります。
 これは、双観経のに、

「心を正し意を正して、斎戒清浄一日一夜すれば、無量寿国に在って善をすこと百歳なるに勝れり」

とあり、また宝積経には、

「若し衆生あって彼の仏土において億百千歳、諸の梵行を修せんは、此の娑婆世界において一弾指頃、諸の衆生において慈悲心を起こさんにかず」

とあります。
 「一弾指頃」とは、指を一度弾くことで、転じて一度指を弾くほどの極めて短い時間を指し、極楽世界において億千万年もの長い間、梵行、欲を断ち切る行を修するよりも、この娑婆世界において、一度指を弾くほどの極めて短い時間に、諸々の衆生のために慈悲心を起こすことには及ばない、と仰せられているのであります。
 つまり、この娑婆世界にあって、わずかでも妙法を唱えていくことが、いかに尊く勝れているかを御教示あそばされているのであります。
 したがって、次下に「正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」と仰せられ、時に約して、末法今時の修行がいかに勝れているかを御教示あそばされているのであります。
  次いで「是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ」と仰せでありますが、時については『撰時抄』に、

「仏法を学せん法は必ずづ時をならうべし」(御書834頁)

と仰せられ、『如説修行抄』には、

「国中の諸学者等、仏法をあらあらまなぶと云へども、時刻相応の道理を知らず。四節四季取り取りに替はれり。夏はあたゝかに冬はつめたく、春は花さき秋は菓成る。春種子を下して秋菓を取るべし。秋種子を下して春菓実を取らんに豈取らるべけんや。極寒の時は厚き衣は用なり、極熱の夏はなにかせん。涼風は夏の用なり、冬はなにかせん。仏法も亦是くの如し。」(同672頁)

と、仏法においていかに時が大事であるか説かれていますが、正しく時を知って正しく法を弘めていくことが極めて大事であると御教示あそばされているのであります。

 

 よって、次下において「春は花さき秋は菓なる、夏はあたゝかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや」と仰せられているのであります。
 そこで『如説修行抄』を拝しますと、

「然るに正像二千年は小乗・権大乗の流布の時なり。末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり。敵有る時は刀杖弓箭を持つべし、敵無き時は弓箭兵杖なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり。天台云はく『法華折伏破権門理』と、良に故あるかな。」(同頁)

と仰せであります。
 まさしく今、末法は、正像過時の釈尊の仏法は隠没し、純円一実の法華経すなわち、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の三大秘法の仏法によってのみ、一切衆生が救われる時であります。
されば『持妙法華問答抄』には、

「寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(同300頁)

と仰せであります。
 私どもは、この大聖人の御金言を拝し、異体同心・講中一結して破邪顕正の折伏を行じていくことが、今、最も肝要であると知るべきであります。
 なかんずく、今、宗門は来たるべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向かって僧俗一致・異体同心して力強く前進をしております。この時に当たり、我らは一人ひとりが御本仏日蓮大聖人の弟子檀那として、確固たる信念と自覚を持って、目標達成へ向けて精進していくことが最も肝要と存じます。
 皆様方の、いよいよの信心倍増と御健勝をお祈り申し上げ、本日の法話といたします。
『聖愚問答抄』にのたまわく、

「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同403頁)