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(★744㌻) (★745㌻) |
聖人二管・柑子一篭・菎若十枚・薯蕷一篭・牛房十束、種々の物をお送り戴いた。 得勝・無勝の二童子は仏に砂の餅を供養して閻浮提の三分の一の主となった。阿育大王がそれである。儒童菩薩は錠光仏に五茎の蓮華を供養して仏となった。今の教主釈尊がそれである。 |
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「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て |
法華経の第四の法師品に「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等とある。文の心は、仏を一劫中の間供養するよりも、末代悪世にあって人が強く憎む法華経の行者を供養する功徳の方が優れていると説かれているのである。 | |
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誰がそのような僻事を述べているのかと疑いに思ったら、教主釈尊が自ら仰せになったのである。それを疑おうと信じようとあなたの御心におまかせする。仏の御舌は或は顔を覆ひ、或は三千大千世界を覆ひ、或は色究竟天までも付けられるほどである。過去遠々劫よりこのかた、仏の御言葉に一言も妄語がないゆえである。そのため、ある経に「須弥山はくづるとも大地をばうちかへすとも仏には妄語なし」と説かれている。日が西から出ることがあっても、大海の潮の干満がなくなっても、仏の御言に誤りはないという。その上、この法華経は他経にも優れて真実を説いている経なので、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけて証明されたのである。一字一点も妄語があるはずはない。 |
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其の上殿は |
其の上、殿は幼少であった。亡き父君は武士であったが、強情に法華経を信仰されたので、臨終正念であったとうけたまわっている。その親の跡をつがれて、また、この経を信仰されているので、故聖霊が、どんなにか草葉の陰で喜ばれていることであろう。もしも生きておられたならばどれほど嬉しく思われることであろう。この経を受持する人々は、他人であっても同じ霊山へ参ってまた会うことができるのである。まして故聖霊も殿も、同じく法華経を信仰されているので、必ず同じところに生まれるであろう。他人は五六十になり親子で同じ白髪になる人もいるのに、自分は若い身で親に早く別れ、いろいろ教えてもらえなかったというあなたの御心中を推し量ると涙を押さえることができない。 |
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(★746㌻) |
そもそも、日蓮は、日本国を救おうと深くおもったけれども、日本国の上下万人は一同に、この国が亡ぶためであろうか、用いられない上、度々、迫害を加えられたので、力が及ばず、山林に入ったのである。大蒙古国より攻め寄せて来たと聞いたが、申した事が用いられていたならば、どうだったであろうかと、あはれに思う。すべての人々が、今の壱岐・対馬の人々のようになられるであろう事を思いやると、涙が止まらない。 | |
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みだもとまらず。 念仏宗と申すは亡国の悪法なり。この |
念仏宗というのは亡国の悪法である。この戦いで、多くの人々が自害をしたようである。善導という愚癡の法師が弘め始めて(ついには自らが)自害してしまったために、念仏をよくよく称えると自害をしたくなる心が起きてくるのである。禅宗といい、当時の持斎法師等は天魔の所為である。教外別伝といって、神も仏もないなどという物狂わしい悪法である。真言宗という宗は、本は下劣の経であったのを、世間をたぶらかして法華経にも勝るなどといって、多くの人々が大師・僧正などになりすまして、日本国に大体充満し、上一人からみなが頭を下げるようになってしまった。 | |
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これが第一の |
これが第一の邪事であることを、昔より今にいたるまで知る人がいない。但伝教大師という方がこのことを知っていたけれども、詳しくは述べられなかった。そして、日蓮は、ほぼこの事を知っている。後白河の法皇が太政の入道(平清盛)に攻められたのも、隠岐法王(後鳥羽上皇)の鎌倉(北条義時)に敗れた事も、みな真言の悪法のためなのである。中国にこの法が渡って玄宗皇帝が亡びている。 この悪法が鎌倉に下って、今、鎌倉に流行っている。僧正・法印等がこれである。これらの人々が、このいくさを調伏するならば、百日戦うところが十日に縮まって敗れ、十日の軍は一日にして攻め落とされるに違いない。 |
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今始めて申すにあらず、二十余年が間 文永十一年太歳申戌十一月十一日 日蓮 花押 南条七郎次郎殿御返事 |
このことは、今始めていうのではない。(立宗以来)二十余年が間、音も惜しまず叫んできているのである。あなかしこ、あなかしこ。この御文は大事のことを書き記してある。よくよく人に読ませて、お聞かせなさい。人が謗るであろうが、我等日蓮一門は、それらをものとも思わぬ法師等である。恐々謹言。 文永十一年太歳申戌十一月十一日 日蓮 花押 南条七郎次郎殿御返事 |