大白法・平成30(2018)年10月1日刊(第990号)より転載 御書解説(222)―背景と大意

春之祝御書(758頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、文永十二(1275)年一月、大聖人様が五十四歳の御時、身延において(したた)められ、南条時光殿に与えられた御消息です。()真筆(しんせき)は総本山大石寺に現存しています。

 本抄は末尾が欠損しており、系年の記述がありませんが、その内容から文永十二年正月であることが判ります。

 大聖人様は、佐渡流罪から御赦免(しゃめん)になり鎌倉に帰って、幕府に三度目の諌暁(かんぎょう)(第三国諌(こくかん))をなされましたが、その時、幕府は敵国調伏(ちょうぶく)を祈るなら()(らん)堂舎(どうしゃ)を寄進するとの懐柔(かいじゅう)策に出てきました。これに対し、大聖人様は天変(てんぺん)()(よう)の元凶である謗法の破折が先であると退けられ、「三度国を(いま)めても用いずは国を去るべし」との故事にならい、鎌倉を去って身延に入られたのです。そして初めて迎えられた正月のことと拝されます。

 対告衆(たいごうしゅ)の南条時光殿は、前年の七月にも、身延に入られて間もない大聖人様のもとに、御供養の品々を(たずさ)えて参詣しています。

 大聖人様と時光殿の出会いは、時光殿の父・南条兵衛七郎殿が鎌倉に滞在し、入信した時で、時光殿が五、六歳の頃と思われます。

 兵衛七郎は文永二年三月八日に亡くなりますが、その時、大聖人様は墓参のために、鎌倉から駿河国(するがのくに)富士上野(静岡県富士宮市)の南条家の墓所まで足を運ばれたことが本抄に記されています。この時、時光殿は七歳でした。

 その後、九年間、大聖人様から南条家への御消息はありませんが、その間も、時光殿は母・上野殿後家尼御前の信心に支えられ、父の遺志を受け継いで、純粋な信心を貫いていたことがうかがわれます。

 二、本抄の大意

 まず初めに、新春の祝いは毎年のことで、言い古されたことではあるが、御同慶の至りであると述べられます。

 次に、故南条兵衛七郎殿とは久しい間の交際ではなかったが、種々なことに触れて慕わしい心があったので大事に思っていたところ、また齢が盛んであるのに亡くなられたことはたいへん残念であると述べられ、その別れを悲しく思ったので、鎌倉から駿河国富士郡上野郷まで墓参をさせていただいたと述懐されます。

 そして、その後は駿河国に用事があれば、墓参をしたいと思っていたが、このたび身延に下って来たのは、幕府の目もあり、人目を忍んで来たので、思うように墓参も叶わず、素通りしたことが心残りで、気にかかっていたと述べられます。

 そして、その心を遂げるため、「此の御房」すなわち御弟子を正月のうちに遣わして、墓前にて法華経『寿量品』の自我偈一巻を読誦させようと思って行かせたのであると述べられ、故殿(南条兵衛七郎)の御形見もないなどと嘆いていたが、時光殿を留め置かれたことは、まことに喜ばしい限りであると仰せられます。

 最後に、故殿は今では木のもと、草むらの陰で人が通うこともなく、仏法を聴聞することもないことから、いかに寂しいことであろうと嘆かれ、それを思いやると涙も止まらないが、時光殿が法華経の行者(大聖人様の御弟子)と共に、墓前に参られたならば、故殿はどんなに嬉しいことであろうかと、故殿を(とむら)うことの大事を示されて、本抄を締め括られています。

 三、拝読のポイント

 大聖人様の大慈大悲

 大聖人様は、本抄より半年前の文永十一年七月二十六日に執筆された『南条後家尼御前御返事』に、

かまくら(鎌倉)にてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をも()わす()れさせ給はざりける事申すばかりなし。()うへ()()どの(殿)だにもをは()せしかば、つね()に申しうけ給はりなんとなげ()きをもひ候つるに、をん()かた()()に御みをわか()くしてとゞめをかれけるか。すがた(姿)たが()わせ給はぬに、御心さえ()られける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はか()にまいりて候ひしなり」(御書741頁)

と、本抄と同様、形見として時光殿を留め置かれたこと、また以前、故南条兵衛七郎殿の墓参をされたことについて教示されており、信徒の追善を心より願われる大聖人様の御慈悲をここにも拝することができます。

 しかし、大聖人様が佐渡赦免後の文永十一年に身延に入られた際には、

「人にしの()びてこれ()ヘきたりしかば、にしやま(西山)の入道殿にもしられ候はざりし上は力をよばずとを()りて候ひし」(同頁)

と墓参が叶わなかった旨を本抄に仰せられています。

 このことについて、本抄より十カ月後に執筆された『減劫(げんこう)御書』を拝読すると、

「此の大進()(じゃ)()を故六郎入道殿の御はか()へつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきて其のはか()に自我偈よみ候はんと存じて候。しかれども当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、其の日に一国にきこへ、又かまくらまでもさわぎ候はんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人()ををそれぬべし。(中略)其の由御心へ候へ」(同926頁)

と、駿河国富士郡賀島に住していた高橋六郎兵衛入道の死去の際にも、大聖人様が御自ら墓参されず、弟子の大進阿闍梨を遣わされたことが示されており、その理由を、当時の状況を踏まえ、特に富士下方(しもかた)庄は北条得宗(とくそう)家の所領であったことなどから、幕府による迫害が信徒に及ばないように配慮した結果であることを明かされています。まさにそれは大聖人様の大慈大悲の御振る舞いであったことが拝されます。

 日興上人と時光殿

 大聖人様は本抄に、

「心をとげ()んがために此の御房は正月の内につか()わして、御はかにて自我偈一巻よま()せんとをもひてまい()らせ候」

と、御弟子を正月のうちに遣わすことを仰せられていますが、この時に大聖人様の代僧を任された御弟子は、後の南条家との関わりから推して第二祖日興上人であったと考えられます。

 以後、日興上人の陣頭指揮により、時光殿も富士方面の折伏に大いに尽力し、妙法弘通に貢献しました。特に熱原法難の際には、時光殿の働きに対して、大聖人様は「上野賢人」との称号を与えられています。

 また、時光殿が弘安五(1282)年二月、二十四歳で重病を(わずら)った時、その頃、大聖人様御自身も体調を崩されていましたが、時光殿の病状を御聞きになるや、側にいた日朗に『伯耆公御房消息』を代筆させ、かつて大聖人様の御母堂が()(せい)されたことを()げられて、御秘符を添えて激励されています。

 そして、さらにその三日後、大聖人様は病をおして御自ら筆を取られ、

又鬼神めらめ(中略)此の人のやまいを(たちま)ちになをして、かへりてまぼ()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか」(同1591頁)

と時光殿に病をつけている鬼神を叱責(しっせき)され、病魔を退散させて、時光殿の命を救われました。大聖人様の御慈悲を賜り、諸天の加護を得た時光殿は、五十一年もの寿命を得、以後、正法外護の任を全うしました。

 宗祖両祖にお仕えし、一生涯にわたりこの信仰を貫き通した時光殿は、大聖人様の御入滅後、日興上人が身延を離山されたとき、直ちに日興上人をお迎えし、広大な太石ヶ原の地を寄進して、総本山大石寺の(かい)()(だん)()となりました。

 また、大聖人様は本抄において、

 「との(殿)ゝ法華経の行者うち()して」

と、代理として遣わされた日興上人を「法華経の行者」と仰せられています。この御教示から日興上人と時光殿との仏法上の深い因縁を拝することができます。

 御本仏大聖人様は、三世を通達する上から、血脈付法の大導師たる日興上人と、『日蓮一期弘法付嘱書』に御示しの、

富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同1675頁)

との御遺命の戒壇建立の地の寄進をも含め、本抄執筆時に、十六歳の若さであった時光殿の将来の姿を見出されていたものと拝されます。

 四、結  び

 私たちは、本抄の対告衆であり、総本山大石寺の開基檀那である南条時光殿の正法外護の信心を(かがみ)とし、本門戒壇の大御本尊様への絶対の信を根本に、血脈付法の御法主日如上人猊下の御指南に信伏随従して折伏弘通に邁進することが最も大切です。

 御法主日如上人猊下は、

異体同心の団結こそ、勝利の(かぎ)(中略)異体同心とは、けっして単なる仲良しを言うのではなくして、講中の一人ひとりがそれぞれ性格、姿、形は異なれども、広宣流布の一点に焦点を合わせ、心を同じくして戦っていくことであります」(大白法932号)

と御指南されています。

 八十万人体勢構築の御命題達成に向け、すべての講員が異体同心の団結をもって折伏を実践し、何としても本年度の折伏誓願目標を完遂してまいりましょう。