法華証明抄  弘安五年二月二八日  六一歳

別名『死活抄』

 

第一章 法華経信受の絶大なる福徳を述べる

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          法華経の行者 日蓮花押
 末代悪世に法華経を経のごとく信じまいらせ候者をば、法華経の御鏡にはいかんがうか()べさせ給ふと拝見つかまつり候へば、過去に十万億の仏を供養せる人なりとたしかに釈迦仏の(こん)()の御口より出でさせ給ひて候を、一仏なれば末代の凡夫はうたがいやせんずらんとて、此より東方に、はるか()の国をすぎさせ給ひておはします宝浄世界の多宝仏、わざわざと()(ゆき)ならせ給ひて釈迦仏にをり向かひまいらせて、妙法華経皆是真実と証明せさせ給ひ候き。
 
          法華経の行者 日蓮花押
 末代悪世に法華経を経文のごとく信じ行ずる者を、法華経の御鏡にはどのように映しだされているかと拝見してみると、過去に十万億の仏を供養した人であると、たしかに釈迦仏の金口の御口より御断言されているのを、一仏の御言葉では末代の凡夫が疑いを起すであろうと、この世界より東方に、甚だ多くの国を過ぎた所にある宝浄世界の多宝仏が、わざわざ御出でになって釈迦仏に相向かわれて「妙法華経皆是真実」と証明されたのである。
 此の上はなにの不審か残るべき。なれどもなをなを末代の凡夫はをぼつかなしとをぼしめしや有りけん、十方の諸仏を召しあつめさせ給ひて、広長舌相(ぜっそう)と申して無量劫よりこのかた永くそらごとなきひろくながく大なる御舌を、(しゅ)()(せん)のごとく()(くう)に立てならべ給ひし事は、をびたゞしかりし事なり。かう候へば、末代の凡夫の身として法華経の一字二字を信じまいらせ候へば、十方の仏の御舌を持つ物ぞかし。    此の上は何の不審か残るであろうか。しかし、それでもなおさら末代の凡夫はをぼつかないと思われてか、十方の諸仏を召し集められ、広長舌相といって無量劫よりこれまで一度も虚言を言われたことのない広く長い大きな御舌を、須弥山のように虚空に立てならべたことはただならぬ事であった。このような次第で、末代の凡夫の身として法華経の一字二字を信じ行じていくならば、十方の仏の御舌を持つ物といえるのである。
 いかなる過去の宿習(しゅくじゅう)にてかゝる身とは生まるらむと悦びまいらせ候上、
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経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候ける者が、法華経計りをば用ひまいらせず候ひけれども、仏()やう()の功徳莫大なりければ、謗法の罪に依りて貧賤の身とは生まれて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候。
   どのような過去の宿習で、このような身に生まれたのであろうかと、喜んで経文を拝するに、過去に十万億の仏にお会いし供養をしたが、法華経計りは用いなかったけれども、仏に供養した功徳が莫大であったから、謗法の罪によって貧しく賤しい身とは生まれたが、又この法華経を信ずる人となったと説かれている。
 此をば天台の御釈に云はく「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云。地にたう()れたる人はかへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地にはたうれ候へども、かへりて法華経の御手にかゝりて仏になるとこと()わられて候。    このことを天台大師の御釈に「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等とある。地に倒れた人は反対に地よって起きる。法華経を謗法した人は、地獄・餓鬼・畜生の三悪並びに人界・天界の地に倒れても、還って(それが逆縁となり)法華経の御手にかかって仏になることができる、と道理を明かされているのである。

 

第二章 時光を悩ます鬼神を呵責する

 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば或は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ()・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるひはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。    しかるに、この上野の七郎次郎は末代の凡夫で、(戦いで人を殺したりする)武士の家に生まれて悪人というべきではあるが、心は善人である。そのゆえは、日蓮の法門を上一人より下は万民にいたるまで信じないのみか、たまたま信ずる人があれば或は所領、或は田畠等に禍が生じて、あげくに命に及ぶ人々もあり。信心することは難しいのに、父の故上野殿は信仰された。又七郎次郎は故上野殿の嫡子となって、誰も法華経を勧めないのに心中から信仰されて、上下万人から、或は諫められ、或は脅されながら、結句捨てる心がなくておられるので、もはや成仏しそうになったので、天魔・外道が病をつけて脅かそうとしているのであろう。命にはかぎりがある事であり、すこしも驚いてはならない。
 又鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを(たちま)ちになをして、かへりてまぼ()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破七分の(とが)に行はれ、後生には大無間地獄に()つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が(ことば)をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし。
  二月二十八日
 伯耆房に下す
   鬼神めらめ、この人(時光)を悩ますのは、剣を逆さに飲むか、大火を抱くか、あるいはまた、三世十方の仏の大怨敵となろうとするのか。この人の病をたちまちに治して、かえって守護の善神となって鬼道の大苦を免れるべきではないか。そうでなければ、現在には頭破七分の科を受け、後生には大無間地獄に堕ちるであろう。よくよく心にとどめるべきである。日蓮の申すことを卑しむならば必ず後悔するであろう、後悔するであろう。
  二月二十八日
 伯耆房に下す