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(★924㌻) 減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつゞまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもて、民の心をとゝのへてよをば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるき事はかしこくなりしかば、外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし。外経をもって世をさまらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき。此はひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり。当時の外典と申すは、本の外経の心にはあらず。仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかども、やうやく外経まけて王と民と用ひざりしかば、外経のもの内経の所従となりて立ちあうことなくありしほどに、外経の人々内経の心をぬきて智慧をまし、外経に入れて候を、をろかなる王は外典のかしこきかとをもう。 |
減劫というのは人の心の中にある。貪欲・瞋恚・愚癡の三毒が次第に強盛になってゆくことによって、次第に人の寿命も縮まり、身長も小さくなってゆくのである。 中国や日本国は仏法渡来以前には三皇・五帝・三聖等の外道の経書をもって民心を整えて世を治めていたが、そのうちに、次第に人の心は善い事にははかなく悪い事には巧妙になってくると、外道の経書の智慧は浅薄であるため悪の深い失をおさえがたくなった。外経の経書をもってしては世が治まらなくなったために、だんだん仏教経典を渡して世間を治めたところ世の中は穏やかになった。これはひとえに仏教のすぐれた智慧によって人民の心を委しく説き明かしているからである。 現在の外典というのは、もとの外経の経書の心とは違っている。仏法が渡ってきたときは外道の経書と仏教経典と争ったが、だんだんに外道の経書が負けて王と民とが用いなくなったので、外道の経書を信奉する者は仏教の従者となって勝負を争うこともなくなった。ところが、そのうちに外道の経書を持つ人々が仏経の心を抜き取って智慧を増し、外道の経書に混入するようになり、それを愚かな王は外典が勝れていると思っているのである。 |
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| 又人の心やうやく善の智慧ははかなく、悪の智慧かしこくなりしかば、仏経の中にも小乗経の智慧世間ををさむるに、代をさまることなし。其の時大乗経をひろめて代ををさめしかば、すこし代をさまりぬ。其の後、大乗経の智慧及ばざりしかば、一乗経の智慧をとりいだして代ををさめしかば、すこししばらく代をさまりぬ。 | また、人の心も次第に善の智慧ははかなく悪の智慧が優れるようになると、仏経のなかでも小乗経の智慧で世間を治めようとしても、世の中は治まることがなかった。その時に大乗経を弘めて世を治めたところ、少し世の中は治まった。その後、大乗経の智慧が及ばなくなったので、一乗経の智慧を取り出して世を治めたところ、少し暫くの間世の中は治まった。 |
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今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆへいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり。又鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもをとらず。ふくろうがみゝのかしこき、とびの眼のかしこき、すゞめの舌のかろき、りうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・ (★925㌻) 愚癡のかしこさは、いかなる賢人聖人も治めがたき事なり。其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し、瞋恚をば慈悲観をもて治し、愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給ふに、いまは此の法門をとひて、人ををとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり。譬へば火をば水をもってけす、悪をば善をもって打つ。しかるにかへりて水より出でぬる火をば、水をかくればあぶらになりて、いよいよ大火となるなり。 |
今の世は外道の経書も小乗経も大乗経も一乗法華経等も、治めることが叶わない世となった。理由はなぜかといえば、衆生の貪欲・瞋恚・愚癡の心の甚だしいことが、仏の大善にすぐれているのと同様であるからである。たとえば、犬は鼻がすぐれている事では人にまさっており、また鼻が鳥や獣を嗅ぎわけることは、大聖の鼻の通力にも劣らない。ふくろうの耳のすぐれていることは、みな賢人よりもすぐれている。そのように末代濁世の人の心の貪欲・瞋恚・愚癡の甚だしさは、どのような賢人・聖人であっても治めがたいことなのである。 その故は、貪欲を仏は不浄観という薬をもって治し、瞋恚を慈悲観をもって治し、愚癡を十二因縁観をもってこそ治めれれたのであるが、今はこの法門を説くことによって人を陥れて貪欲・瞋恚・愚癡を増してしまうのである。たとえば、火に対しては水をもって消す。悪に対しては善をもって打ち破る。ところが、逆に水より出た火に対しては水をかければ油をかけたようになって、ますます大火となるのと同じである。 |
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| 今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をすゝれば、いよいよ代のほろぶる事出来せり。今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり。 | 今、末代悪世には世間の悪よりも出世の法門に従うことによって大悪が生じている。これを知らないので今の人々が善根を積むものと思って諸宗の教えを修しているので、いよいよ世が亡びる事態が出来しているのである。今の世の天台宗・真言宗等の諸宗の僧等を供養することは、外見は善根を積むように見えるけれども内実は十悪業・五逆罪にも越えた大悪の行為なのである。 |
| しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、一向に善根をとゞめ、大悪をもて八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或はせをとゞめ、或は頭をはねてこそ代はすこしをさまるべきにて候へ。 | それゆえ、世の中が治まるには、仏のような智慧をもった智人が世にいて仙予国王のような賢王と寄り会って、ひたすらにそうした善根の行為を止めをとどめ、大悪をもつて八宗の智人と思われている者を責め、あるいは流罪し、あるいは布施を止め、あるいは頭をはねてこそ、世の中は少し治まるであろう。 | |
| 法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏与仏乃能究尽」ととかれて候はこれなり。本末究竟と申すは、本とは悪のね善の根、末と申すは悪のをわり善の終はりぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり。天台云はく「夫一心に十法界を具す」等云云。章安云はく「仏尚此を大事と為す、何ぞ解し易きことを得べけんや」と。妙楽云はく「乃ち是終窮究竟の極説なり」等云云。法華経に云はく「皆実相と相ひ違背せず」等云云。天台之を承けて云はく「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」等云云。智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり。殷の代の濁りて民のわづらいしを、太公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使ひとして民をたすけしなり。外経の人々はしらざりしかども、彼等の人々の智慧は、内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。 | 華経の第一の巻の方便品第二に「諸法実相」また「ただ仏と仏とが能く究め尽くされたところのもの」と説かれているのはこれである。本末究竟というのは本とは悪の根本・善の根本であり、末というのは悪の終わり、善の終わりのことである。善悪の根本から枝葉までを悟り極めているのを仏というのである。天台大師は「一瞬の生命に十法界を具している」等といっている。章安大師は「仏はこれを一大事としている。どうして理解しやすいことがあるだろうか」と言っている。妙楽大師は「これが最終究極の極説である」等といっている。法華経法師品第十九には「諸の法はみな実相と相違しない」等と言っている。天台大師はこれを承けて「すべての世間の政治・経済は、みな実相と相違しない」等と言っている。智者とは世間の法以外において仏法を行ずることはない。世間の治世の法を十分に心えているのを智者というのである。殷の世が濁乱して民衆が苦しんでいた時に大公望が世に出て殷の紂王の頚を切って民の嘆きを止め、二世王が民衆の生活を苦しめたときには、張良が出て世の中を治め、民の生活を豊かにした。これらは仏法以前であるけれども教主釈尊の御使として民衆を助けたのである。外道の経書を持った人々は意識しなかったけれども、それらの人々の智慧は実際には仏法の智慧を含みをもっていたのである。 |
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(★926㌻) 今の代には正嘉の大地震、文永の大せひせひの時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用ひつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の太公望をむかへしがごとく、殷の高丁王の傅悦を七里より請ぜしがごとくすべかりしぞかし。日月は生き盲の者には財にあらず、賢人をば愚王のにくむとはこれなり。しげきゆへにしるさず。法華経の御心と申すはこれてひの事にて候。外のこととをぼすべからず。大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ。 |
今の世において、正嘉元年の大地震や文永元年の大彗星のとき、もし智慧のすぐれた国主がいたならば日蓮を用いたにちがいないのである。それがなかったにしても、文永九年の北条一門の同士打ちや文永十一年の蒙古の襲来の時は、周の文王が大公望を迎えたように、また殷の高丁王が傅悦を七里の先より招請したようにすべきであったのだ。日月は盲目の者には財ではなく、賢人を愚王が憎むというのはこれである。繁雑しているので詳しくは記さない。法華経の心というのは、このようなことなのである。外のことと思ってはならない。大悪は大善の来る前兆である。一閻浮提が打ち乱れるならば「閻浮提のなかに広く流布せしめる」というのは、よもや疑いあるまい。 |
| 此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候。しかれども当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、其の日に一国にきこへ、又かまくらまでもさわぎ候はんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人めををそれぬべし。いまゝでとぶらい候はねば、聖霊いかにこひしくをはすらんとをもへば、あるやうもありなん。そのほどまづ弟子をつかわして御はかに自我偈をよませまいらせしなり。其の由御心へ候へ。恐々謹言。 |
この大進阿闍梨を故六郎入道殿のお墓へ行かせることにした。昔、この法門を聞いている人々に対しては関東の内であるならば自ら行って、そのお墓に自我偈を読んでさしあげようと思っていた。しかしながら現在の状況は日蓮がそこへ行くならば、その日のうちに一国に伝わり、また鎌倉までも騒ぐであろう。信心のある人であっても自分が行った先の人は人目を心配しなければならないであろう。 今まで訪れていないので聖霊がどんなに恋しがっていらっしゃるであろうと思うと、何かできることもあるであろうと考え、それでまず弟子を派遣して、お墓に自我偈を読ませ申し上げることにしたのである。その事情を御了承ください。恐々謹言。 |