四条金吾殿御返事 文永九年五月二日 五一歳

別名『煩悩即菩提書』

 

第一章 文底仏法を展開する

(★597㌻)
 日蓮が諸難について御とぶらひ、今にはじめざる志ありがたく候。法華経の行者としてかゝる大難にあひ候は、くやしくおもひ候はず。いかほど生をうけ死にあひ候とも、是ほどの果報の生死は候はじ。又三悪四趣にこそ候ひつらめ。今は生死切断し仏果をうべき身となればよろこばしく候。
 
 日蓮があった種々の大難について御見舞下さり、前々より変わらないあなたの志ありがたいことである。法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しくは思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また三悪道・四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。
 天台・伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘め給ふすら、なお怨嫉の難にあひ給ひぬ。日本にして伝教より義真・円澄・慈覚等相伝して弘め給ふ。第十八代の座主は慈慧大師なり、御弟子あまたり。其の中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜等と申して四人まします。法門又二に分かれたり。檀那僧正は教を伝ふ。慧心僧都は観をまなぶ。されば教と観とは日月のごとし。教はあさく、観はふかし。されば檀那の法門はひろくしてあさし、慧心の法門はせばくしてふかし。    天台・伝教等は、法華経迹門の理の一念三千の法門を弘められたことですら、なお怨嫉の難にあわれた。日本においては、伝教より義真・円澄・慈覚等が法を相伝して弘められた。第十八代の座主は慈慧大師である。御弟子は数多くいた。その中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜という四人の高弟がいた。法門もまた二つに分かれていた。檀那僧正は教相の法門を伝え、慧心僧都は観心の法門を学んだ。一体、これら二つの法門を較べると、教相と観心の法門とでは太陽と月のようなものである。教相は浅い法門であり、観心の法門は深い。それゆえ、檀那僧正の教相法門は広くて浅い。慧心僧都の法門は狭くて深いのである。
 今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし。其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩・の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり。    今、日蓮が弘通する法門は狭いようではあるが、実は甚だ深いのである。その理由は彼の天台・伝教等の弘通された法門よりは、さらに一重立ち入っているからである。法華経の本門寿量品の三大事とはこのことなのである。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いようである。しかしながら、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生が皆仏道を成するための指南であるから、最も深いのである。

 

第二章 諸仏の智慧の実体を明かす

 経に云はく「諸仏智慧甚深無量」云云。此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて、次に智慧といへり。此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体なり。其の法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり。釈に云はく「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云へり。其の諸法実相と云ふも、釈迦多宝の二仏とならうなり。
(★598㌻)
諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。此等はゆゝしき大事の法門なり。煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふもこれなり。まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふなり。
   法華経第二方便品ににいわく「諸仏の智慧は甚深無量なり」(法華経88頁)と。この経文にある諸仏とは、十方三世の一切の諸仏のことであり、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀仏、ならびに諸宗および諸経の仏・菩薩、過去・未来・現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏の一言で説きあげ、そして次に智慧といっている。
 この智慧とは何か。それは諸法実相、十如果成の法体である。ではその法体とは、また何か、南無妙法蓮華経がこれである。釈はこれを指して「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といっている。 
 その諸法実相というのも釈迦多宝の二仏であると相伝しているのである。諸法を多宝仏に約し、実相をば釈迦仏に約す。これまた境智の二法である。多宝は境であり、釈迦仏は智である。境と智とは二であってしかも不二であるというのが仏の内証である。これは非常に大事な法門である。煩悩即菩提・生死即涅槃と云うのもこのことである。まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。
 生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり。普賢経に云はく「煩脳を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す」と。止観に云はく「無明塵労は即ち是菩提、生死は即ち涅槃なり」と。寿量品に云はく「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめん」と。方便品に云はく「世間の相常住なり」等は此の意なるべし。此くの如く法体と云ふも全く余には非ず、ただ南無妙法蓮華経の事なり。    生死の当体は不生不滅であると悟ることのほかに生死即涅槃はないのである。普賢菩薩行法経に「煩悩を断ぜず、五欲を離れず、諸根を浄めることができて諸罪を滅除する」(610頁)とあり、摩訶止観の第一には「無明の塵労は即ち菩提であり、生死は即涅槃である」と説いている。
 法華経如来寿量品第十六には「毎に自ら是の念を起こす、どのようにして一切衆生を無上道に入らしめ、速かに仏身を成就させることができるか」(法華経443頁)と説き、同、方便品第二には「世間の相は常住である」(同119頁)等と説いている。これが煩悩即菩提・生死即涅槃の意である。このように法体といっても、全く他のものではなく、ただ南無妙法蓮華経のことである。

 

第三章 夫人の信心を称える

 かゝるいみじくたうとき法華経を、過去にてひざのしたにおきたてまつり、或はあなづりくちひそみ、或は信じ奉らず、或は法華経の法門をならうて一人をも教化し、法命をつぐ人を、悪心をもてとによせかくによせおこづきわらひ、或は後生のつとめなれども、先づ今生かなひがたければしばらくさしおけなんどと、無量にいひうとめ謗ぜしによて、今生に日蓮種々の大難にあうなり。諸経の頂上たる御経をひきくをき奉る故によりて、現世に又人にさげられ用ひられざるなり。譬喩品に「人にしたしみつくとも、人心にいれて不便とおもふべからず」と説きたり。    このような非常に尊い法華経を過去において、膝の下に置いたり、あるいはあなどり、にがにがしげに口をゆがめ、あるいはこの経を信じなかった。あるいは法華経の法門を習い一人の人でも教化して、法の命を継ごうとする人を、悪心をもって何かにつけて愚弄し嘲笑したりした。あるいは後生の大事なつとめではあるけれども、まず今生は叶いがたいので、しばらく止めておけなどと際限ないほど忌み嫌った。このように法華経を謗じたことによって、今生において日蓮は種々の大難にあうのである。諸経の頂上である法華経を低く置いた罪で、現世において、人に卑しめられ用いられないのである。法華経譬喩品第三に「人に親しみ近づいても、その人は心にかけて不便に思ってくれないであろう」と説かれている。 

 

第四章 同生同名の二神を述べる

 然るに貴辺法華経の行者となり、結句大難にもあひ、日蓮をもたすけ給ふ事、法師品の文に「遣化四衆・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷」と説き給ふ。此の中の優婆塞とは貴辺の事にあらずんばたれをかさゝむ。すでに法を聞いて信受して逆らはざればなり。不思議なり、不思議なり。    ところがあなたは法華経の行者となり、ついには大難にもあい、日蓮を助けて下さった。法華経法師品第十に「化の四衆、すなわち比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして」と説かれているが、このなかの優婆塞とは、あなたのことでなければ、誰のことをさすのであろうか。なぜなら、あなたは、すでに法華経を聞いて信受し、違背するところがないからである。大変不思議なことである、不思議なことである。
 若し然らば日蓮法華経の法師なる事疑ひなきか。「則如来使」にもにたるらん「行如来事」をも行ずるになりなん。
(★599㌻)
多宝塔中にして二仏並坐の時、上行菩薩に譲り給ひし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり。此即ち上行菩薩の御使ひか。貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ。是豈流通にあらずや。
   若しあなたが法師品の優婆塞であるならば、日蓮は法華経の法師であることは疑いないといえまいか。経文に説かれる「則ち如来の使」にも似た資格をもち、その行動は「行如来事」を行じていることになるであろう。
 多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのである。このことはすなわち、日蓮は上行菩薩の御使いといえるのではないか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人に話されている。これこそ法華流通の義ではないか。
 法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。あしき名さえ流す、況んやよき名をや。何に況んや法華経ゆへの名をや。女房にも此の由を云ひふくめて、日月両眼さうのつばさと調ひ給へ。日月あらば冥途あるべきや、両眼あらば三仏の顔貎拝見疑ひなし。さうのつばさあらば寂光の宝刹へ飛ばん事須臾刹那なるべし。委しくは又々申すべく候。恐惶謹言
  五月二日        日蓮花押
 四条金吾殿御返事
   法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。強盛な大信力を出して法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。
 悪名でさえ流すものだ。まして善き名を流すのは当然である。ましてや法華経ゆへの名においてはいうまでもない。
 女房にもこのことをいいふくめて、日月・両眼・双の翼のように、二人がしっかり力を合わせていきなさい。日月が共にあるならば、冥途の闇があるはずはない。両眼あれば、釈迦・多宝・十方分身の三仏の御顔を拝見できることは疑ない。双の翼があれば、寂光の宝刹へ飛ぶことはほんの瞬間である。委しくは、またまた申し上げる。恐恐謹言。
   五月二日        日蓮花押
  四条金吾殿御返事