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(★469㌻) 雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候。殊に御文の趣有り難くあはれに覚え候。 |
雪のように白い白米を一斗・古酒のような油一筒・御布施一貫文、これらの品々をわざわざ使者をもって盆料としてお送りいただきました。とくにお手紙の趣まことに感銘深く覚えました。 |
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| 抑盂蘭盆と申すは、源目連尊者の母青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生餓鬼道にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。 | そもそも盂蘭盆というのは、もと目連尊者の母・青提女という人が慳貪の業によりて五百生の間、餓鬼道に堕ちたのを目連尊者が救ったことから起ったのである。しかしながらその時は母を成仏させることはできなかった。そのわけは目連自身が、法華経の行者でなかったために母を成仏させることができなかったのである。その後、霊山八箇年の説法の席で、目連は法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱えて多摩羅跋栴檀香仏となり、この時母も仏になった。 | |
| 又施餓鬼の事仰せ候。法華経の第三に云はく「飢ゑたる国より来たって、忽ちに大王の膳に遇うが如し」云云。此の文は中根の四大声聞、醍醐の珍膳をおとにもきかざりしが、今経に来たって始めて醍醐の味をあくまでになめて、昔のうゑたる心を忽ちにやめし事を説き給ふ文なり。若し爾らば餓鬼供養の時は此の文を誦して、南無妙法蓮華経と唱へてとぶらひ給ふべく候。 | また、お手紙に施餓鬼のことをいわれているが、法華経第三の授記品第六には「飢饉の国から来て、いきなり大王の膳に遇うようなものである」と。この文は、中根の四大声聞が醍醐の珍膳の名さえ聞かなかったのが、法華経に来て始めて醍醐の味を飽きるほどなめて、それまでの飢えた心をたちまちに止めることができたのを説いた文である。それゆえ餓鬼供養の時には、この文を誦して南無妙法蓮華経と唱えて弔うべきである。 |
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日蓮此の業障をけしはてゝ未来は霊山浄土にまゐるべしとおもへば、種々の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦とおもはず。かゝる日蓮が弟子檀那となり給ふ人々、殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なり、いかでか餓鬼道におち給ふべきや。定んで釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん。是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ。あはれいみじき子を我はもちたりと、釈迦仏とかたらせ給ふらん。 法華経に云はく「若し善男子善女子あって妙法華経の提婆達多品を聞きて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の処には常に此の経を聞かん。若し人天の中に生ずれば勝妙の楽を受け、若し仏前に在らば蓮華より化生せん」云云。此の経文に善女人と見えたり、妙法聖霊の事にあらずんば誰が事にやあらん。 (★471㌻) |
日蓮は法華弘通によりこれらの業障を消し果てて未来は霊山浄土に往くことができると思っているから、種々の大難が雨のように降り、雲のようにわいても、それは法華経のためであるので、苦をも苦と思わない。 このような日蓮の弟子檀那となった人々、とくに今月十二日が命日にあたる妙法聖霊(四条金吾の母)は法華経の行者であり、日蓮の檀那である。どうして餓鬼道に堕ちることがありましょうか。きっと釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏の御宝前におられるであろう。そして、これらの仏は「これこそ四条金吾殿の母よ母よ」と皆同じ慈愛の心を込めて頭をなで、悦びほめておられることであろう。妙法聖霊は「ああなんとすばらしい子を私は持ったことでしょう」と釈迦仏と語られているであろう。 法華経提婆達多品第十二に「若し善男子、善女人がいて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄い心で信敬して疑惑を生じない者は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちないで十方の仏前に生まれるであろう。しかも生まれる所には常にこの法華経を聞くことであろう。若し人天のなかに生まれれば勝妙の楽を受け、若し仏前にあるならば蓮華から化生するであろう」(同361頁)と、この経文に善女人ととある。妙法聖霊のことでないならば誰のことであろうか。 |
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又云はく「此の経は持つこと難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す。諸仏も亦然なり。是くの如きの人は諸仏の歎めたまふ所」云云。日蓮讃歎したてまつる事はものゝかずならず、諸仏所歎と見えたり。あらたのもしや、あらたのもしやと、信心をふかくとり給ふべし、信心をふかくとり給ふべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐々謹言。 七月十二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |
また見宝塔品第十一にいわく「此の法華経は持つことは難しい。若ししばらくも持つ者は、我は歓喜する。諸仏もまた同様である。このような持者は諸仏の歎められるところである」(同354頁)と。日蓮が讃歎することはものの数ではない。十方の諸仏が歎めるというのだから、まことにたのもしいことであると信心を深くとりなさい。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。 七月十二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |