大白法・平成11年1月1日刊(第516号より転載)御書解説(069)―背景と大意
大聖人様は建治元(1275)年九月三日、五十四歳の御時に身延において本抄を
これは、千日尼が「謗法にも
御真筆が佐渡・妙宣寺に存在したと伝えられますが、現在は所在不明となっています。
なお、別名を『
大聖人様は、まず法華経は一切衆生皆成仏道の経典であり、信ずる者は成仏を
次いで、ただしわずかな謗法は、強盛な信心さえあれば、信心の大水で謗法の小火を消すようなものであって、深重の罪を受けることはない、と御教示されています。
さらに、涅槃経の
「謗法の者を見て、破折しなければ仏法中怨の者となる。謗法を責める者こそ、真の声聞である」(趣意)
との文を引かれ、日蓮は種々の大難に値いながらも、この
また、謗法にも浅深があることを示された上で、法華誹謗の者は厳しく呵責すべきであるが、大智慧の者でなければ日蓮の法門は分別しがたいので、『立正安国論』のごとく、相手によってはしばらく差し置くこともある、と教えられています。
続いて、謗法を諌めなければ眼耳の二徳がたちまちに破れ、大無慈悲の者となると誡められた上で、他を利益しようとの心をいよいよ盛んにすることが最も大切である、と仰せられています。
また、軽罪の者は、なかには自然に直る者もいるので、責めるときもあれば捨て置くこともあるが、自分も相手も共に罪を免れるまで謗法を呵責すべきである。それは、もし相手が完全に謗法に染まってしまったならば、さらなる大重罪となるからである、と説かれています。
そして、仏法の道理を語る者は男女僧尼から必ず憎まれるが、法華経には「正法をわずかの間でも
加えて、少しでも謗法不信があれば無間大城に堕ちることは疑いない。したがって今こそ大願を立てて謗法不信を取り除き、信心を堅固にしていきなさい、と信心を励まされています。
最後に、謗法について尋ねられた千日尼の信心姿勢を讃えられた上で、重ねて力の限り謗法を責めていくように
どのような理屈をこねようと、いかにもっともらしい理由を挙げようと、本抄の、
「信ずる者は成仏を
とは、天地法界における絶対的法理です。
ですから、自らが謗法を犯さないように充分留意することはもとより、
「
との仰せのごとく、周囲の人々に対しても謗法をやめるよう、慈悲の心を持って、折伏しなければなりません。
もし自己の栄達や保身に走って、周りの邪義邪宗の人たちをそのまま放置したならば、本抄の、
「見ながら聞きながら置いて
との御言葉のように、自分の目と耳とが、その徳を失ってしまうのみならず「大無慈悲の者」に堕してしまうのです。
もとより、
「仏心とは大慈悲心是なり」(御書1782頁)
ですから、自身の心が大無慈悲となったならば、それは大聖人様の御心とはまったくかけ離れたものであって、まさに謗法者と同様になります。そうであれば、
本抄のごとく、
「少しも謗法不信の
なのですから、せっかく最勝最尊の御本尊様を受持していながら、みすみす無間地獄に堕ちてしまうことになります。
反対に、たとえ世間の謗法に執着する者たちにどれほど憎まれようと、敢然として折伏を行じていく人こそ、大聖人様が『最蓮房御返事』に、
「
と仰せのように、現当二世にわたる不可思議にして絶大な功徳が具わるのです。
しかもそれのみならず、その如説修行の人には、本抄に、
「法華経に云はく『
と大聖人様がお示しのごとく、必ずや厳然たる諸天善神の加護があるのです。
私たちは、折伏を「しないより、した方がよい」などという次元で
「謗法不信のあかをとり、信心のなはてを
と仰せられている正意にほかなりません。
ですから、本抄の結びにおいて、大聖人様が、
「相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし」
と、重ねて千日尼に折伏を勧められているのです。
仏道修行は折伏の実践に尽きる、と言っても過言ではありません。
元来、正邪に中間はありません。大聖人様の教え以外はすべて、人々を地獄に突き落とす邪義です。念仏・禅・真言等の既成宗教はもとより、霊友会・天理教・真光・幸福の科学などの新興宗教も邪宗です。とりわけ創価学会は悪の中の極悪の邪教です。
しかもこれらが諸悪の根元となって、今現在、種々の大災害や諸問題が頻発し、言い知れぬ苦悩と不安を人々に与えているのです。
だからこそ、御法主日顕上人猊下もすでに、総本山客殿新築慶祝記念大法要の砌に、
「平成十四年、宗旨建立七百五十年に向かい、衆生救済のため、三十万人の参詣を目標に、法華講の皆様の充実の信心による、僧俗和合の広布への大前進を開始すべき時であると信ずるものであります」(大白法499号)
と御指南され、僧俗が真に一致和合し、衆生救済のために前進していく時が来ていることを教えられているのです。
また、今年の夏期講習会の砌にも、
「『今まで信心していたけれど、どうもいい加減だった』と自覚すれば、『では、これからしっかりやろう』ということになります。これから是非『一人が一人の折伏』をしっかりやっていこうと心を固める、それが尊いのです。いい加減に考えていた人は、三年、五年経っても一人も折伏できなかった、やらなかったわけです。大聖人様の仏法を我が身に、自ら実践する心を固めるところに大功徳がある。いわゆる『いい加減ではだめだ』ということです」(同514号)
とも仰せられ、折伏を実践する重要性を御指南されました。
よって、仏国土建設に向けて、「出陣の年」を迎えた今という時をしっかりと自覚して、私たちは今こそ、立ち上がるべきです。今まで折伏をしなかった人、二の足を踏んでいた人も、全国の法華講の同志と一緒になって、折伏弘教に挑戦していきましょう。
そこに、必ずや三十万総登山が達成され、折伏を行ずる一人ひとりにもおのずと揺るぎない幸福境界が築かれていくのです。
さあ、まず自分の周囲にいる、親、兄弟、親戚、友人、知人から始めましょう。