大白法・平成19年9月1日刊(第724号より転載)御書解説(146)―背景と大意
本抄は、下総の国、国分村曽谷(現在の千葉県市川市)の郷主であった曽谷教信に与えられた御消息であり、建冶元(1275)年四月、大聖人様が五十四歳の御時、身延において認められました。
曽谷教信は、大聖人様より法蓮上人という法名を賜っていたことから、本抄は、その名にちなんで『法蓮抄』と題されています。
本抄には、曽谷教信より慈父の十三回忌に当たり、諷誦の状が送られてきたことが述べられています。ゆえに本抄は、それに対して認められた御消息と考えられます。
まず『法師品』の「仏を毀る罪は軽く、法華経を読誦する在家・出家を毀る罪は重い」との文を挙げられ、末代の法華経の行者を怨むことによって、無間地獄に堕ちるのであると説かれます。また、末代の法華経の行者を讃歎し供養することは、生身の仏を供養することよりも遥かに勝る功徳があると教えられます。
次に、曽谷教信から送られてきた諷誦の状に、慈父の十三回忌の供養のため法華経を五部読誦したこと、また慈父が逝去されてより今日まで、自我偈を読誦し回向してきたことが記されていることに触れ、法華経は一代聖教の骨髄であり、真実の孝養の御経であることが述べられます。
続いて、法華経を持つとはどのようなことか、それは時に随っていろいろであると示され、御自身の御振る舞いを通し、末法における法華経受持の在り方を教えられます。
最後に、法華経を弘通する行者、すなわち大聖人様を王臣人民が怨むため、自界叛逆や他国侵逼の難が起こり、法華経の行者である大聖人様を用いないために天変地夭が起きるのであると教誡されます。
本抄では、仏様を謗ずることと法華経の行者を謗ずることを対比されていますが、この法華経の行者とは大聖人様を指すことは言うまでもありません。すなわち、お釈迦様などの仏を謗ずるよりも、法華経の行者である大聖人様を謗ずる罪は遥かに大きく、その罪によって無間地獄に堕ちると教示されています。
大聖人様御入滅後においては、御本仏の法体たる本門戒壇の大御本尊を信じないことが、そのまま大聖人様を謗ずる罪になることを知らなくてはなりません。ゆえに、謗法の生活をしている多くの人たちに対し、謗法を改め大御本尊様を信受するよう教えていくことが大切です。
また、末代の法華経の行者を讃歎し供養する功徳は、一劫という長い間、三業相応の信心をもって生身の仏を供養するよりも百千万億倍勝れると教示されています。すなわち、末法においては、法華経の行者である大聖人様を讃歎し供養することが大切であり、それによって大きな功徳を積むことができるのです。
本抄には、外典の孝経である孔子の書と内典の孝経である法華経は、その意は同じであると示されています。たしかにその志としては同じですが、『開目抄』を拝しますと、
「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」(御書563頁)
とあり、孔子の教えでは現在の父母を扶けることはできても、後世を扶けることはできないと説かれているのです。
さらに同抄には、
「しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道猶かなひがたし。何に況んや父母をや。但文のみあって義なし。今、法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も顕はれ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり」(同)
とも仰せになっており、爾前経では父母の成仏の文証はあっても実際には叶わないこと、法華経こそ父母の成仏の文証も現証も示された真の孝経であると示されています。
さて本抄で大聖人様は、烏竜と遺竜の故事を通して真の孝養を教えられています。この故事を私たちに当てはめて考えてみますと、たとえ親から御本尊様を受持してはいけないと遺言されたとしても、それに随うことは、むしろ親不孝になってしまいます。逆に、親の遺言に違っても、子が御本尊様を受持するならば、それは真の親孝行となるのです。
大聖人様は、曽谷教信が亡父のために毎朝唱えていた。自我偈の文字が、生身の仏として慈父のもとに届き、
「この自我偈の文字は、あなたの眼ともなり、耳ともなり、足ともなり、手ともなる」(同820頁)
と語り、亡父は、
「我が子息である法蓮は、子ではなく仏果に導いてくれた善知識である」(同)
と、娑婆世界に向かって拝まれるであろうと述べられ、これこそ、真の孝養であると教示されています。
大聖人様が烏竜と遺竜の故事を引かれていることを考えれば、曽谷教信の亡父は大聖人様に帰依していなかったとも考えられます。私たちに置き換えれば、親が日蓮正宗に入信できずに亡くなった場合、子である私たちが、曽谷教信と同じように大聖人様の仏法によって日々供養することが大切であり、これこそ真の孝養になると銘記すべきです。
法華経の受持について、経は一つであるが、受持することは時に随って様々であると教えられます。ある時は楽法梵志のように自分の身を裂いて師に供養することで仏に成ることもあり、また檀王が阿私仙人に身を床として供養したり、喜見菩薩が身を薪として供養するなどして仏に成る時もあれば、不軽菩薩が杖木に打たれて忍辱行を修して仏に成った時もあります。また、このようにしても仏に成れない時もあります。
したがって本抄には、
「智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとへば渇ける者は水こそ用ふる事なれ。弓箭兵杖はよしなし。裸なる者は衣を求む、水は用なし。一をもて万を察すべし。」(同820頁)
と、智者でなければ法華経弘通の時を知ることはできないと教示されているのです。
では末法という時は、法華経をどのように弘通すべきでしょうか。それは、大聖人様が身をもってお示しのように、身命を惜しまずに折伏を行い法華経を弘通すべき時なのです。
したがって、勤行・唱題はもちろんですが、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(同1040頁)
と御教示のように、折伏を行じていくことによって、私たちの成仏が真に叶うのだと心に刻み精進することが大切です。
大聖人様は本抄に、
「夫天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を」(同822頁)
と、また、
「今日本国の王臣並びに万民には、月氏・漢土総じて一閻浮提に仏滅後二千二百二十余年の間いまだなき大科、人ごとにあるなり」(同823頁)
とも仰せのように、天災や地災が生じるのは、その国が天地の鏡に映し出されている状態であると考えなければならないのです。つまり、国主や万民に大科があるからこそ天災や地災があるのです。そして、その大科とは謗法にほかならないことを知るべきなのです。
大聖人様は、
「予は日本国の棟梁なり。我を失ふは国を失ふなるべし」(同822頁)
とも仰せです。すなわち、大聖人様を用いないために自界叛逆や他国侵逼、さらには天災・地災によって国が滅んでいくのです。では今日の状況はどうでしょうか。日本のみならず世界中に競い起こる天災・地災という現証を目の当たりにして、私たちはどう考えるべきでしょうか。
大聖人様が本抄で仰せのように、大聖人様を用いない、つまり正法を立てないために様々な災難が興起するのですから、安穏な国土を建設するためにも、私たちは今こそ折伏行に邁進していくべきです。
夏期講習会に参加された方々は、御法主日如上人猊下並びに、各講師の御講義を受け、それぞれの支部において日夜精進されていることと思います。
本年「行動の年」は、御指南や御指導を身に体し、頭で考えているだけでなく、現実の行動に移すことが肝要です。
厳しい残暑に負けず、いよいよ折伏・家庭訪問に尊い汁を流してまいりましょう。