|
(★1038㌻) (★1039㌻) 而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智 |
法華経第一方便品第二に「諸仏の智慧は甚深無量である」と説かれている。天台大師の釈には「境の淵が無辺であるので甚深といい智慧の水が測り難いので無量という」とある。 そもそもこの経文と釈の意は、仏になる道は境智の二法にある。ということである。すなわち、境というは万法の体をいい。智と云うは自体顕照の姿をいうのである。 しかるに境の淵が広大で深い時は、智慧の水がながれるのに滞ることがない。この境智が合うならば即身成仏するのである。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えであるので成仏ができない。 今、法華経では境智が一如であるから、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのである。この内証には、声聞や辟支仏は全く及ばないことを、次下に「一切の声聞・辟支仏は知ることができない」と説かれたのである。 |
|
此の境智の二法は何物ぞ。 |
この境智の二法は何であるかというと、ただ南無妙法蓮華経の五字である。この五字を釈尊は地涌の菩薩を召し出して結要付属させたのである。これを本化付属の法門というのである。 | |
|
|
しかるに上行菩薩等は末法の始の五百年に出生して、この境智の二法である五字を弘められるであろうということが経文に赫赫である明々たである。だれがこれを論ずる者があろうか。 日蓮はその人でもないし、その御使いでもないけれども、まず先序としてあらあら弘めているのである。 すでに上行菩薩が釈迦如来から妙法の智慧の水を受けて、末代悪世のいまだ善根のない衆生に流れ通わすのである。これは智慧の義である。 釈尊から上行菩薩に譲り与えられたのである。しかるに日蓮はまた日本国においてこの法門を弘めている。 |
| 又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。譬へば大海の水を家内へくみ来たらんには、家内の者皆縁をふるべきなり。然れども汲み来たるところの大海の一滴を閣きて、又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり、大愚癡なり。法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。 |
またこれには総別の二義がある。総別の二義を間違えるならば成仏は思いもよらない。生死に輪廻するもととなるのである。 たとえば、大通智勝仏の第十六番目の王子である釈迦如来に下種された在世の声聞は、全く阿弥陀如来や薬師如来に遭っても成仏しないのである。 譬えば、大海の水を家の中に汲んできたならば、一家の者は皆それに潤うことができる。しかしながら、汲んできた大海の水の一滴を差し置いて、また別によその大海の水を求めることは、大変間違ったことであり、大変愚かなことである。 法華経の大海の智慧の水を受けた根源の師を忘れて、他へ心を移すならば、必ず生死に輪廻する禍となるのである。 |
|
経に云はく「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」と。又云はく「若し法師に 建治二年丙子八月二日 日蓮 花押 曽谷殿 |
法華経に「在在諸の仏土に常に師と倶に生まれる」と説かれ、また「もし法師に親近するならば、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒沙の仏を見ることができる」と説かれている。 釈には「もとこの仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住する」とあり、また「初めこの仏・菩薩に従って結縁し、またこの仏・菩薩によって成就する」とある。 かえすがえすも本従を間違えないで、成仏していきなさい。釈尊は一切衆生の本従の師であって、しかも主と親の徳を備えておられる。 この法門を日蓮が申すゆえに、忠言は耳に逆らうの道理であるから、流罪にされたり、命にも及んだのである。しかしながら末だこりていない。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである。もしこれらの義を間違えるならば、日蓮も貴殿の後生を助けることができないであろう。恐恐謹言。 建治二年丙子八月三日 日蓮花押 曾谷殿 |