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(★597㌻) 日蓮が諸難について御 |
日蓮があった種々の大難について御見舞下さり、前々より変わらないあなたの志ありがたいことである。法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しくは思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また三悪道・四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。 |
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天台・伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘め給ふすら、なお |
天台・伝教等は、法華経迹門の理の一念三千の法門を弘められたことですら、なお怨嫉の難にあわれた。日本においては、伝教より義真・円澄・慈覚等が法を相伝して弘められた。第十八代の座主は慈慧大師である。御弟子は数多くいた。その中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜という四人の高弟がいた。法門もまた二つに分かれていた。檀那僧正は教相の法門を伝え、慧心僧都は観心の法門を学んだ。一体、これら二つの法門を較べると、教相と観心の法門とでは太陽と月のようなものである。教相は浅い法門であり、観心の法門は深い。それゆえ、檀那僧正の教相法門は広くて浅い。慧心僧都の法門は狭くて深いのである。 | |
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今日蓮が弘通する法門は |
今、日蓮が弘通する法門は狭いようではあるが、実は甚だ深いのである。その理由は彼の天台・伝教等の弘通された法門よりは、さらに一重立ち入っているからである。法華経の本門寿量品の三大事とはこのことなのである。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いようである。しかしながら、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生が皆仏道を成するための指南であるから、最も深いのである。 |
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経に云はく「 (★598㌻) 諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智の二法なり。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智 |
法華経第二方便品ににいわく「諸仏の智慧は甚深無量なり」(法華経88頁)と。この経文にある諸仏とは、十方三世の一切の諸仏のことであり、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀仏、ならびに諸宗および諸経の仏・菩薩、過去・未来・現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏の一言で説きあげ、そして次に智慧といっている。 この智慧とは何か。それは諸法実相、十如果成の法体である。ではその法体とは、また何か、南無妙法蓮華経がこれである。釈はこれを指して「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といっている。 その諸法実相というのも釈迦多宝の二仏であると相伝しているのである。諸法を多宝仏に約し、実相をば釈迦仏に約す。これまた境智の二法である。多宝は境であり、釈迦仏は智である。境と智とは二であってしかも不二であるというのが仏の内証である。これは非常に大事な法門である。煩悩即菩提・生死即涅槃と云うのもこのことである。まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。 |
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まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩脳即菩提・生死即涅槃と云ふなり。生死の当体不生不滅とさとるより |
まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。 生死の当体は不生不滅であると悟ることのほかに生死即涅槃はないのである。普賢菩薩行法経に「煩悩を断ぜず、五欲を離れず、諸根を浄めることができて諸罪を滅除する」(610頁)とあり、摩訶止観の第一には「無明の塵労は即ち菩提であり、生死は即涅槃である」と説いている。 法華経如来寿量品第十六には「毎に自ら是の念を起こす、どのようにして一切衆生を無上道に入らしめ、速かに仏身を成就させることができるか」(法華経443頁)と説き、同、方便品第二には「世間の相は常住である」(同119頁)等と説いている。これが煩悩即菩提・生死即涅槃の意である。このように法体といっても、全く他のものではなく、ただ南無妙法蓮華経のことである。 |
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かゝるいみじく |
このような非常に尊い法華経を過去において、膝の下に置いたり、あるいはあなどり、にがにがしげに口をゆがめ、あるいはこの経を信じなかった。あるいは法華経の法門を習い一人の人でも教化して、法の命を継ごうとする人を、悪心をもって何かにつけて愚弄し嘲笑したりした。あるいは後生の大事なつとめではあるけれども、まず今生は叶いがたいので、しばらく止めておけなどと際限ないほど忌み嫌った。このように法華経を謗じたことによって、今生において日蓮は種々の大難にあうのである。諸経の頂上である法華経を低く置いた罪で、現世において、人に卑しめられ用いられないのである。法華経譬喩品第三に「人に親しみ近づいても、その人は心にかけて不便に思ってくれないであろう」と説かれている。 |
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然るに貴辺法華経の行者となり、 |
ところがあなたは法華経の行者となり、ついには大難にもあい、日蓮を助けて下さった。法華経法師品第十に「化の四衆、すなわち比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を遣わして」と説かれているが、このなかの優婆塞とは、あなたのことでなければ、誰のことをさすのであろうか。なぜなら、あなたは、すでに法華経を聞いて信受し、違背するところがないからである。大変不思議なことである、不思議なことである。 | |
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(★599㌻) 多宝塔中にして二仏 |
若しあなたが法師品の優婆塞であるならば、日蓮は法華経の法師であることは疑いないといえまいか。経文に説かれる「則ち如来の使」にも似た資格をもち、その行動は「行如来事」を行じていることになるであろう。 多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのである。このことはすなわち、日蓮は上行菩薩の御使いといえるのではないか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人に話されている。これこそ法華流通の義ではないか。 |
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法華経の信心をとをし給へ。火をきるに 五月二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |
法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。強盛な大信力を出して法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。 悪名でさえ流すものだ。まして善き名を流すのは当然である。ましてや法華経ゆへの名においてはいうまでもない。 女房にもこのことをいいふくめて、日月・両眼・双の翼のように、二人がしっかり力を合わせていきなさい。日月が共にあるならば、冥途の闇があるはずはない。両眼あれば、釈迦・多宝・十方分身の三仏の御顔を拝見できることは疑ない。双の翼があれば、寂光の宝刹へ飛ぶことはほんの瞬間である。委しくは、またまた申し上げる。恐恐謹言。 五月二日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |