大白法・平成28年11月1日刊(第944号)より転載 御書解説(203)―背景と大意

富木殿御返事(御書584頁)

 

 一、御述作の由来

 本抄は、文永九(1272)年四月十日、日蓮大聖人様が御年五十一歳の時に、佐渡の一谷で述作された御書です。
 御真蹟は、中山法華経寺(日蓮宗)に現存しています。
 本抄は、富木常忍氏が佐渡の大聖人様のもとへ御供養を届けられたことに対する返礼の御消息で、大聖人様が人本尊開顕の書である『開目抄』を述作された二カ月後に著されました。

 

 二、本抄の大意

 初めに御供養金を数の通り受け取られ、その志は申し尽くし難いと愛でられます。
 次に、法門のことは、先に四条金吾殿に書いて持たせたので、その書『開目抄』を熟読玩味するよう勧められます。
 そして、およそ経文を考えみるとき、大聖人様御自身が、末法出現を予証された法華経の行者であることは疑いないと宣言されます。
 次に、法華経の行者でありながら、未だに諸天の加護を蒙らないのは、
一には、諸天善神がこの悪国を去ってしまったためか
二には、善神が法味を味わわないために威光勢力がないためか
三には、大悪鬼が三類の強敵の心中に入って梵天や帝釈天も力が及ばないためか
等のことが考えられるが、その一つひとつの文証や道理は追って書いて示そう、と仰せられます。
 そして、御自身の生涯は、法難、迫害はもとより覚悟の上で、今になって翻ることなどなく、後悔もないとして、諸々の悪人は、かえって御自身の化導において善知識であると御教示されます。
 さらに、末法の今、摂受を修すべきか折伏を行ずべきかの二義は、仏説によったものであり、けっして私見を交えたものではない。万事は霊山浄土を期してのことであるとして、本抄を結ばれます。
 なお追伸として、御自身の臨終は一分も疑いなく、頭を刎ねられるときは、とりわけ喜ぶべきであると述べられ、それは大盗賊に襲われて、大毒を宝珠に交換するようなものだからである、と仰せられています。

 

 三、拝読のポイント

 大聖人様こそ主師親三徳の仏

 本抄においては、『開目抄』を前提として、大聖人様こそ末法の法華経の行者であり、末法下種の主師親三徳兼備の仏であることを明示されています。
 それは、本文の初めに、
「法門の事は先度四条三郎左衛門尉殿に書持せしむ。其の書能く能く御覧有るべし」
とあることから明らかです。文中の「其の書」とは、四条金吾に持ち帰らせた『開目抄』を指します。法本尊開顕の書である『観心本尊抄』の本文には一回も記されていない「日蓮」の文字を、『開目抄』には三十四カ所にもわたって示されています。これは、大聖人様が末法の法華経の行者であり、御自身こそが人本尊であると開顕されたものです。
 さて、『開目抄』に説かれた五重相対の法門は、あらゆる教えを五段階に分け従浅至深して、末法の時に適った最高最勝の教えを導き出す教相判釈です。この第五重の種脱相対により、釈尊の仏法は既に久遠に植えた仏種を脱せしめるための脱益仏法であり、それを説く教主釈尊は、根源の仏種を植える本仏の垂迹の仏であることが明らかとなります。そして、その根源の妙法の本種を植える御本仏こそが末法の法華経の行者日蓮大聖人様であると教示されるのです。
 この点、大聖人様が、本抄において、
「粗経文を勘へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか」
と、大聖人様こそ末法出現を予証された法華経の行者であると仰せられるのです。
 末法出現を予証される法華経の行者について、『勧持品』二十行の偈には、三類の強敵の難に遭うことが説かれますが、その「数々見擯出(二度以上の配流)」等の経文をことごとく身に当てて読まれた方は、大聖人様以外、古今東西、誰もいません。
 正しく『顕仏未来記』に、
 「日蓮無くんば仏語は虚妄と成らん」(御書677頁)
と仰せのように、大聖人様が法華経を身をもって読まれなければ、仏説が虚妄となったことでしょう。
 こうして、大聖人様は伊豆配流に続き、佐渡配流にも処され、「数々見擯出」等の『勧持品』二十行の偈文をことごとく身読し、ついに御自身が末法の法華経の行者であることを証明されたのです。
 大聖人様は、佐渡配流の赦免後、いったん、鎌倉に戻られ、三度目の国主諌暁をされました。しかし、幕府が聞き入れなかったため、末法万年の御弘通と弟子の育成を期して、日興上人の弘通の縁により身延に入られたのです。そして弘安二(1279)年十月十二日、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御建立あそはされました。
 私たちは、末法の一切衆生救済のため、忍難弘通あそばされた御本仏の大慈大悲の御化導を拝し、大御本尊への信と自行化他の実践により、競い起こる三類の強敵や己心の魔を打ち破って大きく境界を開いていくことが大切です。

 神天上の法門

 本抄においては、日本国の諸人が、諸天善神の加護を蒙らないことについて、①諸天善神がこの悪国を去ってしまったからであり、②善神が法味を味わわないために威光勢力がないからであり、③大悪鬼が三類の強敵の心中に入って大梵天や帝釈天も力が及ばないからであると示されています。
 これは、『立正安国論』に示される神天上の法門を、より具体的に示されたものです。すなわち、同抄には、
 「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(同234頁)
と、日本に善神の守護がないことは、ひとえに、日本一国が正法に背いて邪法に帰依するためだと御教示されています。つまり、本来、全国の社にいるべき善神が正法の法味に飢えて天宮の本処に帰ってしまったことから、全国の社に悪鬼・魔神が便りを得て棲みつき、災難が頻発していると仰せなのです。
 私たちは、法華守護の諸天善神が本来の力を発揮するよう、広宣流布をめざして唱題と折伏に遇進し、妙法の功徳が充満する安穏な仏国土を一日も早く建設していくことが大事です。

 末法の修行は折伏逆化

 本抄において大聖人様は、末法の現在、摂受を修行すべきか、折伏を行ずべきかについては仏説によるべきであり、自我の見解で判断してはならないと仰せです。その結果が折伏であることは、『開目抄』等の御教示から明らかです。
 また『如説修行抄』には、天台の「法華折伏破権門理」の文を引いて、
  「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(同673頁)
と御指南されています。
 権教実教が雑乱し、謗法が充満する末法濁世においては、摂受ではなく、諸宗の人・法に対して折伏を行じて謗法を破折することが、時に適った正しい修行なのです。
 いかに罵られようとも、けっして臆することなく、むしろ誹謗中傷や迫害を受けることが末法の折伏逆化の修行を実践している証拠であると覚悟し、そこに即身成仏の大功徳があると、歓喜の心をもって臨むことが肝要です。

 

 四、結び

 御法主日如上人猊下は、
「よく『自折折他』と言いますように、他の人を折伏することは、また自分自身を折伏していることになるのです。ですから、これは非常に大事な修行なのです。信心から折伏を取ってしまったら、我々の一生成仏の修行にはなりません。仏道修行というのは、まさしく折伏なのです。
 折伏をするのは、大聖人様の御遺命である一天広布を目指す、その仏道修行ですから、その大聖人様の御遺命をないがしろにしてしまっては、いくら信心をしても、全く意味のないことになってしまいます」(大白法 九四二号)
と御指南されています。
 私たちは、一切の謗法を破折することは自身の謗法をも破折することであると確信し、平成三十三年の御命題達成に向け、一人でも多くの人を折伏してまいりましょう。