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(★478㌻) 度々の御 |
たびたびのお便りをいただき、その真心のありがたさは、言い尽くすこともできません。去る十二日の竜口法難の時、あなたは竜口の刑場まで連れそって下さり、そればかりでなく、腹を切るといわれたことは、不思議という以外にいいあらわせないほどである。 |
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日蓮過去に妻子・所領・ |
日蓮は過去に妻子・所領・眷属等のために身命を捨てた所は、どれほど多くあったことであろう。あるいは山に捨て海に捨て、あるいは河、あるいは磯等、また路のほとりであろうか。しかしながら法華経(御本尊)の故、南無妙法蓮華経の題目の故の難ではないので、捨てた身命も、蒙る難等も成仏のためではなかった。成仏のためではないから、身命を捨てたその海や河も仏土ではなかったのであろう。 | |
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今今度法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土に (★479㌻) |
今度、日蓮は、法華経の行者として流罪・死罪にまでなった。流罪は伊豆の伊東、死罪は竜口。相州の竜口こそ日蓮が命を捨てた所である。したがって仏土に劣るものではない。そのわけは、すでに法華経の故に身命を捨てた所だからである。 法華経方便品第二に「十方仏土の中には唯有一乗の法のみあり」(法華経110頁)とあるのは、この意であろうか。この経文に一乗の法と説かれてあるのは、法華経すなわち南無妙法蓮華経のことである。十方仏土の中には、この法華経より外の法は、全くないのである。これを法華経方便品第二には「仏の方便の説をば除く」(同110頁)と説かれている。もしそうであるならば、日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである。娑婆世界の中では日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめおくことは法華経の故であるから、その地は寂光土ともいうべきであろう。法華経神力品第二十一には「若しは林中においても若しは園中においても若しは山谷曠野においても、この中に(中略)般涅槃したもう」(同514頁)と説かれているのはこの原理をいっているのである。 |
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かゝる日蓮に |
このような日蓮にともなって、法華経の行者として腹を切ろうと言われたことは、かの中国の弘演が自分の腹をさいて主人の懿公の肝を入れたことよりも、百千万倍すぐれたことである。 日蓮が霊山に詣でた時には、まず四条金吾こそ法華経の故に、この日蓮と同じように腹を切ろうと言いましたと申し上げよう。 |
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又 文永八年九月二十一日 日蓮 花押 四条金吾殿 |
また、鎌倉殿(北条時宗)の仰せだといって、内々に佐渡の国へ配流されることを聞いています。 三光天子の中で月天子は、光物となってあらわれて竜口の頸の座で日蓮を助け、明星天子は四、五日前に下ってきて日蓮に見参したのである。いまは日天子だけが残っている。必ず守護があると心強く思っている。 法華経法師品第十には「則ち変化の人を遣わして、之が為に衛護を作さん」(同333頁)とある。疑ってはならない。安楽行品第十四には「刀杖も加えず」(同403頁)とあり、観世音菩薩普門品第二十五には「刀尋いで段段に壊れなん」(同569頁)と説かれている。これらの経文はよもよ虚事ではあるまい。強盛な信力こそもっとも尊いことである。恐恐謹言。 文永八年九月二十一日 日蓮花押 四条金吾殿 |