大白法・平成19年7月1日刊(第720号より転載)御書解説(145)―背景と大意

上野殿御返事(1427頁)

別名『竜門御書』

 一、御述作の由来

  本抄は、弘安二(1279)年十一月六日、大聖人様が五十八歳の御時に身延において認められ、上野郷主・南条時光殿に与えられた御書です。御真蹟は総本山大石寺に厳護されています。冒頭に「竜門の滝」の故事を示されていることから、別名を『竜門御書』ともいいます。
 本抄の追伸に、
「此はあつわらの事のありがたさに申す御返事なり」
と仰せのように、熱原法難に際して二十一歳の若き時光殿が、命がけで援護奔走した功を讃嘆し、さらに強盛な信心を貫くことを激励された御消息です。

 二、本抄の大意

 まず、中国の黄河中流にある竜門と呼ばれる滝を、鮒が登りきると竜になるという故事や、日本の平氏一門が、何代もかけて門番から殿上人となり、栄華の頂に昇るまでの労苦を述べられて、
「仏になるみち、これにをとるべからず」
と、成仏得道の至難なことを示されます。
 次に、舎利弗が六十劫の問積み上げた菩薩の修行から退転して二乗の修行に堕ちた例や、大通結縁した者が三千塵点劫もの間生死に沈み、また久遠下種の者が五百塵点劫もの間、同様に悪道を流転したことは、第六天の魔王に誑かされて仏道を退転したためであると示されて、これらを他人事と考えてはならない旨を述べられます。
 そして、疫病、蒙古襲来など騒然とした世にあって、成仏・不成仏の岐路に立つ今、
「願はくは我が弟子等、大願ををこせ」
「をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ」
と、大願を起こして強盛な信行を貫き、妙法に殉じていく覚悟を促されます。
 最後に、熱原法難に際して、時光殿が果たした不惜身命の信心と、見事な外護の任を讃嘆され、「上野賢人殿」と激賞されて本抄を結ばれています。 

 三、拝読のポイント

 熱原法難について

 熱原法難は、大聖人様が本門戒壇の大御本尊を御建立される機縁となった法難であり、弘安二年に駿河国富士郡(静岡県富士市)熱原郷で起きました。これは、本門弘通の大導師たるべき日興上人の教化により、天台宗滝泉寺の住僧・下野房日秀等が帰伏改宗し、それにより多くの農民が大聖人様の信徒となったことに端を発します。
 滝泉寺の院主代・行智は、住僧や農民たちの改宗に対して強い怨嫉を生じ、鎌倉幕府の要人であった平左衛門尉頼綱を後ろ盾として、熱原の法華講衆への弾圧を企てました。
 そして同年九月二十一日、日秀師の田の稲刈りに神四郎等の法華講衆が総出となったのを絶好の機会と捉え、稲盗人の名目を着せて、その場で取り押さえ、鎌倉へと送ったのです。
 平頼綱は、熱原の法華講衆に対し、拷問をもって念仏への改宗を迫りましたが、神四郎らはこれに屈するどころか、さらに声高に御題目を唱え続けたのです。こうした不退の状況に怒り狂った頼綱は、十月十五日、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人(三烈士)を張本人として斬首に処し、他の十七名は釈放となったのです。
 この熱原の法華講衆の結束と、死身弘法の信仰に対し、機運を感じられた大聖人様は、十月十二日、出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされたのです。
 この法難に当たり時光殿は、身命を賭して熱原の法華講衆をかくまい、日興上人をはじめ僧侶方の外護に努めました。こうした法華講衆の支柱的存在であった時光殿は、幕府から不当で過重な公事をせめあてられ、自身が乗るべき馬もなく、家族も逼迫した生活を余儀なくされたのです。そのような中にあっても、大聖人様に御供養の誠を尽くしたことなどから「上野賢人殿」との呼称を賜ったのです。
 私たちは、時光殿や熱原の法華講衆が示した不惜身命の信仰姿勢をお手本として、臆病な心や懈怠の心を自ら誡め、なお一層、正法護持と折伏弘通に向けて勇往邁進していくことが大切です。

 「竜門の滝」の故事

 大聖人様は、仏道を成ずることの難しさを示す例として「竜門の滝」の故事を挙げられています。
 この故事によると、中国の黄河中流に、高さ十丈(約三十メートル)にも及ぶ竜門の滝があり、鮒がこの滝を登り切れば竜になるといいます。このため滝のもとには多くの鮒が集まって登ろうと試みます。ところが、滝の水勢は強く、しかも鮒を狙う漁師や鳥獣が多く構えているため、千万が一も滝を登り切ることのできる鮒はいないのです。このことから中国では、難関を突破して栄達することの譬えとして「登竜門」という呼称が生まれました。
 仏道を行ずる私たちにとって、この故事の示す鮒とは私たちのことであり、その行く手を阻む漁師や鳥獣たちは、成仏を阻む障魔の用きにほかなりません。大聖人様は、たとえ仏法を受持しても、成仏の境界に到達することがいかに難しいかを、この故事をもって示されているのです。
 また、この故事は、平成二十一年の御命題である「地涌倍増」と「大結集」を成就していくべき私たちの信行にもなぞらえることができます。講中一丸となって行く手に立ちはだかる障魔をはね除け、御命題の達成に向かって勇往邁進していきましょう。

 舎利弗や三五塵点の退転の例

 大聖人様は、仏道を持つことの難しさの例として、舎利弗の退転と法華経の三五塵点の退転を挙げられます。
 舎利弗は、六十劫という長い間、菩薩道を行じ、いよいよ布施行が成就する時に、第六天の魔王がそれを妨げようとして婆羅門の姿を現じ、舎利弗に眼を布施するよう求めました。舎利弗は求めに応じて自らの眼を与えたのですが、婆羅門はその眼に唾を吐き、踏みつけてしまいます。
 それを見た舎利弗は、衆生を救済する意味に疑問を感じ、ひたすら自分のみが救われるように修行して、早く生死の苦から解脱した方が得策と考え、菩薩道から退転して二乗の道に堕ちてしまったのです。このことは、いかに仏道を持続することが至難なことであるかを示したものと言えます。
 次に、法華経の『化城喩品第七』に説かれる三千塵点劫と、『如来寿量品第十六』に説かれる五百塵点劫の退転の話です。
 『化城喩品』には、大通智勝仏の第十六王子であった釈迦牟尼仏の法華経覆講によって妙法に結縁した衆生の中に、法華経の修行から退転して三千塵点劫もの間、生死を流転した者が多くいたことが説かれています。
 また『寿量品』には、久遠成道の釈尊から法華経を聴聞し、成仏の種子を下された衆生でも、邪法に執われて退転したために五百塵点劫もの間、六道輪廻を繰り返してきたことが説かれています。その退転したきっかけは、仏道を障礙する第六天の魔王が国主などの身に入って、法華経の修行者を悩ませ、迫害したことによるものと示されています。
 大聖人様は、熱原法難を背景に、
「かれは人の上とこそみしかども、今は我等がみにかゝれり」
と仰せられ、舎利弗をはじめ三千慶点劫や五百塵点劫の退転の例は他人事ではなく、大聖人様とその門下の身の上のことであると仰せです。
 私たちは困難に直面したとき、退転して悪道を流転していくか、不退転の信心を貫いて成仏を遂げていくかという岐路に立たされることがあるでしょう。大聖人様は、そのような時こそ、
「願はくは我が弟子等、大願ををこせ」
と、強く念願されているのです。ですから、私たちはいかなる障魔が競っても、
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書 五七二頁)
との戒めを深く拝し、強盛で弛むことのない信心に立ち、成仏への大道をしっかりと歩んでまいりましょう。

 四、結  び

 御法主日如上人猊下は、仏道を行じていく心構えとして、
  「一人ひとりが『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事』ということを心肝に染めて、一生懸命に折伏を行じることが、我々の一生成仏にとって極めて大事なことであると思う次第であります。
 もちろん『身命を捨てゝ』というのは、わけもなく命を無駄にするという意味ではなく、我ら人間に与えられた寿命という尊い時間を広布のために無駄なく使っていくということです。つまり、その尊い時間を大事にして折伏を行じていくということであります」(大白法 七〇七号)
と仰せられ、仏法のために身命を捨てるということは、限りある寿命という尊い時間を広布のために精いっぱい活用することであると御指南されています。
 平成二十一年の「地涌倍増」と「大結集」の御命題達成は、僧俗が一致して果たしていく誓願であり、使命です。誰もが「死は一定」なのですから、無為に時を過ごしてはなりません。私たちは、大聖人様が『立正安国論』に示される仏国土の顕現という崇高な目的を成就すべく、妙法弘通に向けて日々励んでまいりましょう。