大白法・令和7年9月1日刊(第1156号より転載)御書解説(281)―背景と大意

四条金吾殿御返事(1362頁)

別名『陰徳陽報御書・不孝御書』

 一、御述作の由来

 本抄は、弘安(こうあん)二(1279)年四月二十三日、日蓮大聖人様が御年五十八歳の時に身延において(したた)められ、四条金吾頼基(よりもと)に与えられた御書です。()真蹟(しんせき)は、全十二紙のうち第九紙までが欠けており、第十紙が京都の妙覚寺(日蓮宗)、残りの二紙が同じく京都の妙顕寺(日蓮宗)に現存しています。

 以前は、第十紙が「不孝御書」、第十一紙・第十二紙が「陰徳陽報御書」と称されていましたが、後に一書であると判明しました。それぞれの題号は、本抄の御文から後代に名付けられたものです。

 対告衆(たいごうしゅ)である四条金吾は、文永(ぶんえい)十一(1274)年九月、主君・江間(えま)氏を折伏し始めて以後、非常に苦しい時期が続きました。 特に、(けん)()三(1277)年六月の(くわ)()(やつ)間答に端を発した同僚の讒言(ぜんげん)とそれを聞いた主君の(いきどお)りは激しく、金吾は法華経の信仰を捨てる()(しょう)文を書くよう命じられたのです。

 しかし、一時は出仕を許されぬ状況となりながらも、大聖人様の教導によって事態を乗り越え、数力月後、病の主君を投薬治療したことから、やがて信頼を取り戻すに至ります。弘安元(1278)年以降、かつての所領も返還されるなど、金吾と主君との関係は落ち着きを見せていました。

 一方で、同僚からの(ねた)みは消えることがなく、大聖人様が弘安元年(うるう)十月の御手紙に、

敵はねら()ふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か」(御書1292頁)

と仰せのように、無事だったとはいえ金吾の命を狙う者もいたようです。

 本抄御述作の四月には、法華衆徒の四郎男が(にん)(しょう)されるなど、北条得宗(とくそう)家(鎌倉幕府の(しっ)(けん)・北条氏嫡流(ちゃくりゅう)の当主)の所領である富士郡熱原(あつはら)(ごう)(現在の富士市厚原周辺)の弟子檀那に対する弾圧も強まっていました。今後、大聖人門下全体に法難の広がりも予見されるなか、大聖人様から金吾に送られた御手紙が本抄です。

 二、本抄の大意

 先に述べたように、第九紙までが欠落しています。

 まず、何よりも人として恐れなければならないことは、法華経に対する不孝ということであると示されます。

 そして、金吾の兄弟が自ら法華経の(かたき)となって離れていってしまったのだから、兄弟たちは不孝の者であり、金吾の過失ではないと(さと)されています。

 ただし、女性(姉妹)たちを金吾が守らなければ、必ずや不孝の者となってしまうであろうから、広くなった自分の領地へ(つか)わすなどして、一身を()して(いつく)しむよう(いまし)められます。また、そうすることで亡き父母も守ってくださると述べられます。

 次に、大聖人が祈念してきた主従関系について、いよいよ叶う時が来たと仰せになり、そのことでどんなに周囲から悪ロを言われても、聞かぬふりをすること。(かね)て申し伝えていたようにしていれば、今後一層所領も増し、人の信用も出てくるであろうと述べられます。

 さらに、以前から「陰徳あれば陽報あり」と申してきたように、他の家臣たちが主君に讃言し、また主君もそれを()(かん)に思ったとしても、金吾が正直の心で、主君の後生を思う心も強盛に数年来尽くしてきたので、所領の(ほう)()という()(しょう)(利益)を受けられたのであると、述べられます。しかし、これは利生の一分に過ぎず、より大きな果報があると考えられるがよいと、 これまでの労苦をねぎらわれています。続いて、法華衆の一門は、どのような不本意なことがあっても、見ず、聞かず、言わずして、仲睦(なかむつ)まじくし、穏やかに祈っていくよう勧め励まされています。

 最後に、ここまで申したことは、日蓮の私言ではなく、()(てん)の三千巻および仏典の五千巻の肝要を抜き出して書いたのであると述べられて、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

不孝とは法華経に背くこと

 金吾には、大聖人様に帰依し、

左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こし()ごへ()たつ()の口にゆきぬ」(同1060頁)

と、竜ロ(たつのくち)の刑場までお供をするほどの兄弟たちがいました。

 特に弟たちについては、大聖人様から、

弟たちを、実子や郎党のように頼りにしておきなさい。そうして、やがて法華経が弘まった時に金吾殿が健在でいらっしゃれば、弟たちはきっと味方となるであろう(趣意)」(同1198頁)

と教導をいただいていたので、金吾も我が子のように訓育したはずです。

 しかし、本抄を賜った弘安二年には、男の兄弟すべてが、信仰を離れてしまっていたことが拝されます。

 世間では、親によく仕えない、孝行ではないことを不孝・親不孝といいますが、本抄には、「法華経の敵」となることを「不孝」であると示されました。

 大聖人様は『一谷(いちのさわ)(にゅう)(どう)女房御書』に、

国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母(めのと)の如くなる法華経をば口にも(じゅ)し奉らず。是(あに)不孝の者にあらずや」(同828頁)

と仰せになるなど、主師親三徳を(そな)えた仏様と真実孝養の教えである法華経に背くことこそ、不孝であると教えられています。 そして、この「孝」ということが「外典三千、内典五千の肝心の心」であると示されるのです。孝とは、『(ぎょう)()左衛門(じょう)女房御返事』にも、

外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし、内典五千余巻には孝養を眼とせり」(同1503頁)

と仰せのように、世間・仏法を間わず、欠くことのできない肝要です。

 釈尊の教法が用を()さなくなった末法現今においては、主師親三徳兼備の御本仏日蓮大聖人様と、大聖人様が顕わされた御本尊様への尊信が真実孝養の道となるのです。

陽報を確信して信行実践

 本抄に示される、「陰徳あれば陽報あり」とは、前漢の思想書『()(なん)()』等に見られる故事成語で、人知れず善行をする者には、後日はっきりとした善い報いが現われるとの言葉です。このことは『上野殿御消息』にも、

かく()れての信あれば、あらはれての徳あるなり」(同921頁)

と示されています。

 ()同罪(どうざい)(まぬか)れるという側面もあったとはいえ、主君を折伏し三類の強敵を乗り越えた金吾の信心は、門下のなかでも特筆すべきものでした。

 ついには兄弟とも(たもと)を分かつことになりましたが、常にその心中には、主君に真の報恩をいたそう、兄弟たちを正法に導こうとの純粋な信心があったのです。

 金吾は、この長年の陰徳によって、江間四郎の供に加えられた際には鎌倉中から称賛され、所領の返還・加増を受けるという陽報、大きな功徳を戴きました。

 これは以前に大聖人様から、

く受くるは()すく、持つはかた()し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に()ふべしと心得て持つなり」(同775頁)

主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもおかりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ(中略)蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(同1173頁)

と、励まされた通りの信心を金吾が貫いた(あかし)であるといえます。

 末法は受持正行、受持即観心であるとはいっても、(たゆ)まぬ信心修行の持続は、決して容易なことではありません。大聖人様の仏法を受持するには、必ず化他(けた)行である折伏の実践と、それによる三障四魔の(こう)()が伴うからです。

 大聖人様御在世の封建社会にあって、受持の誠を尽くした金吾の姿勢を()(きょう)とし、大果報を確信して日々善行を積む信行が大切です。

 

 四、結  び

 御法主日如上人猊下は、

仏様は全部、御照覧あられるわけだから、やっているか、やっていないかぐらいは、ちゃんと判っていらっしゃるのです。自分で自分をごまかしてもだめなのであって、御本尊様の前では正直になることが大事です」(大白法822号)

と御指南されています。

 特に、折伏・育成の場においては、相手から信頼される言動が不可欠です。そのためには日頃から、自分自身が正直に、そして真剣に信心修行に取り組んでいなかったならば、望んだ結果には(つな)がらないものです。

 信心活動はもちろんですが、日々の生活のなかでも正直を旨とし、御題目を唱えてたくさんの心の財を積み、ともどもに正法広宣流布へ向けての歩みを進めてまいりましょう。