大白法・令和6(2024)年12月1日刊(第1136号より転載)御書解説(278)―背景と大意

上野殿御返事(1349頁)  弘安二年一月三日  五八歳

 

 一、御述作の由来

 本抄は、弘安(こうあん)二(1279)年一月三目、日蓮大聖人様が御年五十八歳の時、()(のぶ)において(したた)められ、駿河(するが)国富士郡上野郷の()(とう)南条時光殿に与えられた御手紙です。御真蹟は京都の妙覚寺(日蓮宗)ほかの三カ所に蔵されています。
 時光殿から正月の御供養が届けられたことに対する御礼を述べられるとともに、全国的に(えき)(びょう)()(きん)が続いていたにもかかわらず、常に真心からの御供養に徹せられた時光殿の強盛な信心を(たた)えられています。

 二、本抄の大意

 冒頭、(もち)九十枚、薯蕷(やまのいも)五本を使いの者に持たせて、正月三日の(ひつじ)(こく)(午後二時ごろ)、身延の山中まで送ってくれたことに謝意を述べられます。
 次いで、海辺では樹木が(たから)であり、山中では塩が財であること。また旱魃(かんばつ)には水が財であり、暗闇(くらやみ)のなかでは灯火が財であること。さらに妻には夫が財であり、夫には妻が命であること。王は民を親(国家繁栄のもと)とし、民は食物を天のように貴く思うことを例に()げて、御供養の品の有り難さを仰せられます。
 続いて、この二、三年の間、日本国中に疫病が流行して人口が半分に減少し、さらに去年の七月から大飢謹で、人里から遠く離れて暮らす者や、山中に住む僧侶などは命を保つことが難しい状況であると述べられます。
 その上、大聖人は法華経を()(ぼう)する国に生まれて正法を弘通してきたが、それはあたかも()(おん)王仏(のうぶつ)の末法に法華経を(ひろ)めて迫害に()った()(きょう)()(さつ)か、もしくは(かん)()(ぞう)益仏(やくぶつ)の末法の世に命を惜しまず正法を護持(ごじ)した覚徳(かくとく)比丘(びく)のようであると仰せられます。そして、国主からも憎まれ、民からも(あだ)まれ迫害されているから、衣も薄く、食物も(とぼ)しいので、(ぬの)()でも錦のように、草の葉でも(かん)()のように感じられると仰せられます。
 それのみならず、去年の十一月から身延山中には雪が降り積もって山里に通う路も途絶えたため、新年を迎えても、鳥の声が聞こえるばかりで訪ねてくる人はいない。親しい友でなければ誰が訪ねてくるであろうかと心細く過ごしていたところに、正月三が日のうちに満月のような十字(むしもち)(蒸し餅)が九十枚届けられ、心の中も明るくなり生死の闇も晴れたようであると、時光殿からの真心の御供養に重ねて感謝の言葉を述べられます。
 最後に、亡くなられた時光殿の父・(ひょう)()七郎殿こそ優れた立派な武士であると人から言われていたが、その子息である時光殿は、その信心を(いや)()し受け継がれた良い男であると仰せられ、「青は(あい)より出でて藍よりも青く、 氷は水より出でて水よりも冷たい」というがその通りで、誠に有り難いことであると仰せられ、本抄を結ばれています。

 三、拝読のポイント

 真心からの御供養

 大聖人様は本抄の冒頭に、時光殿から正月三が日の間に餅・薯預の御供養が届けられたことを記されています。時光殿をはじめ南条家の人々が、常々大聖人様に(あつ)い信心をもって真心からの御供養をされていたことは、南条家に与えられた御書を拝せば明らかです。特に、文永十一(1274)年五月に大聖人様が身延に入山されて以降、時光殿は自らの生活も顧みず、精いっぱいの御供養をされています。
 弘安三(1280)年十二月の『上野殿御返事』には、
 「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食とも()しかるらんとおもひやらせ給ひて」(御書1529頁)
とあります。
 法難に遭った富士方面の法華講衆を守ったために多くの公事(くじ)を課せられた時も、また時光殿自身が病を(わずら)った時も、大聖人様に対し、常に御報恩謝徳の御供養を欠かさなかったことが拝されます。
 私たちも、この時光殿の尊い浄業の精神を範とし、常に正法の護持興隆に努め、御本尊様に真心からの御供養を申し上げていくことが大事です。

 一閣浮提第一の法華経の行者

 本抄において、大聖人様は、
 「日蓮は法華経()(ぼう)の国に生まれて()(おん)王仏(のうぶつ)の末法の不軽菩薩のごとし。はた又歓喜増益仏の末の覚徳比丘の如し
と、妙法を弘通する故に数々の迫害(法難)に遭われた御身について、過去の不軽菩薩や覚徳比丘を例に挙げられています。
 『撰時抄』には、
 「今は謗法を用ひたるだに不思議なるに、まれまれ諫暁(かんぎょう)する人をかへりてあだをなす。一日二日・一月二月・一年二年ならず数年に及ぶ。彼の不軽菩薩の杖木(じょうもく)の難に()ひしにもすぐれ、覚徳(かくとく)比丘(びく)殺害(せつがい)に及びしにもこえたり」(御書863頁)
と仰せられ、末法濁悪(じょくあく)の世においては、謗法を責める法華経の行者への迫害の度合いが、過去の不軽菩薩や覚徳比丘の時よりも大きく激しいことを示されています。
 その上で、大聖人様は同抄に、
 「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすい()せよ。漢土・月支にも一(えん)()(だい)の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(同864頁)
と、御自身こそ一閣浮提第一の法華経の行者であるとの大確信を述べられています。
 大聖人様の教えを信じ行ずる私たちは、いかなる迫害に遭おうともけっして(ひる)むことなく、自他ともの成仏のため、さらなる折伏弘通に遭進していくことが肝要です。

 従藍而青の信行を

 大聖人様は、本抄の終わりに、時光殿の父・故南条兵衛七郎殿の信心の篤きことを称えられるとともに、子息である時光殿の信心を、
 「くれない()()きよしをつたへ給へるか
と、父を上回る強盛な信心を()でられて、「あい()よりあお()く、水よりもつめ()たき氷かな」と『(じゅん)()』「勧学篇」にある「出藍(しゅつらん)(ほま)れ」、すなわち、
 「(あお)(これ)(あい)あいより()りて、藍よりも青く、(こおり)は水(これ)()すも水よりも(つめ)たし
の取意をもって賞賛されています。
 この成旬は、本来、(おこた)らず学問に励むことでさらに発展することを述べたものですが、大聖人様はこれを法華経の信心と功徳にあてはめられ、『上野殿後家尼御返事』に、
 「法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげ()むをまこと()の道心者とは申すなり。天台云はく「従藍(じゅうらん)()(しょう)」云云。此の釈の心はあい()は葉のときよりも、なを()むればいよいよあを()し。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし」(御書337頁)
と仰せられ、また『乙御前御消息』に、
 「いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出でたれども水よりもすさ(凄冷)まじ。青き事は(あい)より出でたれどもかさ()ぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり()(しょう)もあるべきなり」(御書897頁)
と教示されています。
 この『乙御前御消息』の御文について、第六十六世日達上人は、
 「同じ法華経ではあってもその信心の厚薄によって、その利生、ご利益、功徳というものは自然と違ってくるのであります。ますます信心が強盛であるならば、他の人よりももっと勝れて利益がある、功徳があるということはまちがいないのであります」(日達上人全集2-4)
と御指南されています。

 四、結  び

 御法主日如上人貌下は、
 「一日一日を大事に題目を唱え、一日一日を化他行に励む、自行化他の信心に励んでいくところに、一つの成果が現れるのです。また、そこに御仏智も用くのです。だから、一夜漬けのような信心ではだめです。一日一日、しっかりとお題目を唱えて、自行化他の信心に励んでいただきたい」(大白法944号)
と御指南されています。
 本年「折伏前進の年」も残りーカ月となりました。本宗僧俗は、本年度の折伏誓願目標達成に向け、最後まも(あきら)めず、異体同心して日々、信行を積み重ねていくことが肝要です。
 私たちは、大御本尊様を信仰の根本として日々、信・行・学の錬磨に努め、従藍而青の信行を実践してまいりましょう。そして、その功徳と実証を示してまいりましょう。

 

【南条時光殿ならびに南条家からの正月の御供養】
 南条時光殿が、常々大聖人様に御供養の誠を尽くしていたことは賜っている御書の数からも明らかですが、本抄の拝読に際して特筆すべきは、大聖人様が文永十一年五月に身延に入山されて以降、ほぼ毎年の正月に、時光殿または南条家から御供養がなされていたことです。
 現在、拝することができる正月御供養に対する賜書は、系年順に
・文永十二(1275)年一月『春之祝御書(報南条氏書)』(御書758頁)
・建治二(1276)年一月十九日『南条殿御返事(初春書)』(同948頁)
・建治三(1277)年一月三日『上野殿御返事』(平成校定御書1332頁) 
*建治四(1278)年の正月については賜書が見当たらず
・弘安二(1279)年一月三日『上野殿御返事(上野書)』(御書1349頁)
・弘安三(1280)年正月三日『上野殿御返事(報南条氏書)』(同1446頁)
・弘安四(1281)年正月十三日『上野尼御前御返事(報南条氏書)』(同1552頁)
・弘安五(1282)年正月十一日『上野郷主等御返事』(同1587頁)
・同年正月二+日『春初御消息(上野書)』(同1588頁)
があります。