大白法・令和6(2024)年12月1日刊(第1136号より転載)御書解説(278)―背景と大意
本抄は、
時光殿から正月の御供養が届けられたことに対する御礼を述べられるとともに、全国的に
冒頭、
次いで、海辺では樹木が
続いて、この二、三年の間、日本国中に疫病が流行して人口が半分に減少し、さらに去年の七月から大飢謹で、人里から遠く離れて暮らす者や、山中に住む僧侶などは命を保つことが難しい状況であると述べられます。
その上、大聖人は法華経を
それのみならず、去年の十一月から身延山中には雪が降り積もって山里に通う路も途絶えたため、新年を迎えても、鳥の声が聞こえるばかりで訪ねてくる人はいない。親しい友でなければ誰が訪ねてくるであろうかと心細く過ごしていたところに、正月三が日のうちに満月のような
最後に、亡くなられた時光殿の父・
大聖人様は本抄の冒頭に、時光殿から正月三が日の間に餅・薯預の御供養が届けられたことを記されています。時光殿をはじめ南条家の人々が、常々大聖人様に
弘安三(1280)年十二月の『上野殿御返事』には、
「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食
とあります。
法難に遭った富士方面の法華講衆を守ったために多くの
私たちも、この時光殿の尊い浄業の精神を範とし、常に正法の護持興隆に努め、御本尊様に真心からの御供養を申し上げていくことが大事です。
本抄において、大聖人様は、
「日蓮は法華経
と、妙法を弘通する故に数々の迫害(法難)に遭われた御身について、過去の不軽菩薩や覚徳比丘を例に挙げられています。
『撰時抄』には、
「今は謗法を用ひたるだに不思議なるに、まれまれ
と仰せられ、末法
その上で、大聖人様は同抄に、
「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもって
と、御自身こそ一閣浮提第一の法華経の行者であるとの大確信を述べられています。
大聖人様の教えを信じ行ずる私たちは、いかなる迫害に遭おうともけっして
大聖人様は、本抄の終わりに、時光殿の父・故南条兵衛七郎殿の信心の篤きことを称えられるとともに、子息である時光殿の信心を、
「
と、父を上回る強盛な信心を
「
の取意をもって賞賛されています。
この成旬は、本来、
「法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心を
と仰せられ、また『乙御前御消息』に、
「いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出でたれども水よりも
と教示されています。
この『乙御前御消息』の御文について、第六十六世日達上人は、
「同じ法華経ではあってもその信心の厚薄によって、その利生、ご利益、功徳というものは自然と違ってくるのであります。ますます信心が強盛であるならば、他の人よりももっと勝れて利益がある、功徳があるということはまちがいないのであります」(日達上人全集2-4)
と御指南されています。
御法主日如上人貌下は、
「一日一日を大事に題目を唱え、一日一日を化他行に励む、自行化他の信心に励んでいくところに、一つの成果が現れるのです。また、そこに御仏智も用くのです。だから、一夜漬けのような信心ではだめです。一日一日、しっかりとお題目を唱えて、自行化他の信心に励んでいただきたい」(大白法944号)
と御指南されています。
本年「折伏前進の年」も残りーカ月となりました。本宗僧俗は、本年度の折伏誓願目標達成に向け、最後まも
私たちは、大御本尊様を信仰の根本として日々、信・行・学の錬磨に努め、従藍而青の信行を実践してまいりましょう。そして、その功徳と実証を示してまいりましょう。
【南条時光殿ならびに南条家からの正月の御供養】
南条時光殿が、常々大聖人様に御供養の誠を尽くしていたことは賜っている御書の数からも明らかですが、本抄の拝読に際して特筆すべきは、大聖人様が文永十一年五月に身延に入山されて以降、ほぼ毎年の正月に、時光殿または南条家から御供養がなされていたことです。
現在、拝することができる正月御供養に対する賜書は、系年順に
・文永十二(1275)年一月『春之祝御書(報南条氏書)』(御書758頁)
・建治二(1276)年一月十九日『南条殿御返事(初春書)』(同948頁)
・建治三(1277)年一月三日『上野殿御返事』(平成校定御書1332頁)
*建治四(1278)年の正月については賜書が見当たらず
・弘安二(1279)年一月三日『上野殿御返事(上野書)』(御書1349頁)
・弘安三(1280)年正月三日『上野殿御返事(報南条氏書)』(同1446頁)
・弘安四(1281)年正月十三日『上野尼御前御返事(報南条氏書)』(同1552頁)
・弘安五(1282)年正月十一日『上野郷主等御返事』(同1587頁)
・同年正月二+日『春初御消息(上野書)』(同1588頁)
があります。