大白法・令和6年8月1日刊(第1130号より転載)御書解説(274)―背景と大意
別名『必仮心固神守則強書』
一、御述作の由来
本抄は、弘安元(1278)年閏十月二十二日、日蓮大聖人様が御年五十七歳の時に身延においで認められ、鎌倉の四条金吾頼基に与えられた御書です。御真蹟は現存しません。引用の『弘決』の文より『必仮心固神守則強書』(必ず心の固きに仮って神の守則ち強し書)の異称があります。
対告衆である四条金吾は、文永十一(1274)年五月に大聖人様が身延に入山されたのを機に、主君である江間氏を折伏しました。これにより主君から疎まれるようになると、同僚の家臣たちも讒言などをもって追い落としにかかるようになり、建治二(1276)年九月には、減俸左遷の領地替えを主君から命じられました。
そのようななか、建治三(1277)年六月九日、鎌倉桑ケ谷において極楽寺良観の庇護を受けた竜象房と大聖人様の弟子三位房が法論を行いました(桑ケ谷間答)。
金吾が公務のため遅参して到着したところ、法論はすでに終わっていました。ところが三位房に論破された竜象房は、良観と謀り、金吾の同僚を通じて「金吾が荒武者を率いて説法の場を散々に荒らした」と江間氏に告げさせました。良観の信奉者であった江間氏は、金吾に法華信仰を捨てるという起請文を書くよう迫り、金吾は窮地に追い込まれました。
しかし、江間氏が疫病に罹ったことから、医術の心得のある金吾が召し出されて治療に当たり、病が快癒したことで状況は好転しました。その後、金吾は以前没収された信濃国殿岡(現在の長野県飯田市)の所領を再び与えられ、新たにそれに倍する領地も賜りました。本抄に信濃よりの御供養の品々が届いたことが記されていることから、この頃には信濃国にも所領があったことが判ります。
二、本抄の大意
初めに、十月二十二日に信濃国より御供養の品々が届いたことを述べられます。
続いて、王は民が田畠を耕作することによって食を得られ、民は王の庇護によって田畠を耕作し食を得ることができる。衣は寒暑を防ぎ食は身命を助ける、と仰せられ、それは、油を注ぎ足すことによって火が燃え続け、水によって魚の命が助かるようなものであると述べられます。
続いて、鳥は人が害するのを恐れて木に巣を作るが、餌のために地面に降りて罠にかかる。魚は川底の浅いことを嘆いて穴を掘って住むが、餌に騙されて釣り針をのむ。このように生きるためには身を危険にさらしても食物を採る必要があり、人にとっても飲食と衣薬とに過ぎた宝はないと仰せられ、殊に日蓮は山林に住しており、今年は疫癘飢渇のなか春夏を過ごし、秋冬はなおさら厳しい。また自身の病も重くなったが、御供養の品を届けてくださるたびごとの薬や小袖、種々の治療法によってようやく効果が表われて病が治り、以前より壮健になったと述べられます。
そして、弥勒菩薩の『瑜伽論』、竜樹菩薩の『大論』には、定業の者は薬が変じて毒となるとあり、法華経には毒を変じて薬となるとある。日蓮は不肖の身であるが法華経を弘めようとしているので、天魔が競って食を奪うと覚悟していたが、このたび命が助かったのは、ひとえに釈迦仏が金吾の身に入れ替わって助けられたのだろうと述べられます。
次いで、金吾の帰りの道中のことを、身延を訪れる人々に尋ねるなどたいへん心配したこと、鎌倉への無事の帰着を聞いて安堵したことを述べられます。そして、今後は大事なことがあれば使いを立てるよう促され、敵は忘れた頃を狙うので、もしもの時に備えて供には役に立つ者を連れ、甲冑を着けても堪えられるよい馬に乗るよう仰せられます。
続いて、『魔訶止観』第八の註釈である『弘決』第八の、
「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」の
文を引かれて、神の守りは心の強きにより、法華経はよき剣であるが使う人によると仰せられ、末法における法華経弘通を、二乗や迹化・他方の菩薩に譲られず地涌の菩薩に譲られたのであるから、その地涌の菩薩の眷属である金吾は、よくよく心を鍛えなければならないと述べられます。
そして、李広将軍の「石に立つ矢」の逸話を挙げられ、金吾も、敵が狙っていても法華経の信心が強盛であったので大難も事前に消えたのであろうと仰せられ、敵から身を守ることについても、よくよく信心に励むよう諭され、本抄を結ばれています。
三、拝読のポイント
末法の法華経弘通は地涌の菩薩の使命
地涌の菩薩とは、法華経『従地涌出品』第十五において、釈尊の久遠の開顕を助けるため、上行菩薩、無辺行菩薩、常行菩薩、安立行菩薩の四菩薩を上首として大地より涌出した、六万恒河沙の大菩薩のことです。これらの菩薩衆は久遠己来の弟子(本化の菩薩)で、衆生に尊崇の念を起こさせる相好である三十二相の大威徳を具えています。釈尊は『如来神力品』第二十一に至って上行菩薩に結要付嘱し、末法における法華弘通を託されました。
本抄にも示されていますが、釈尊は煩悩のうちの見惑・思惑の二惑を断じて六道を出離した二乗(縁覚・声聞)に、滅後末法における法華経弘通を許されていません。
また、四十二品の無明のうち、四十一品の無明を断じた菩薩であっても弘通を許されませんでした。
その理由は、迹化の菩薩では三類の強敵による難に耐えられないからです。それほどに、末法における法華経弘通は難事です。その難事を耐え法華経を弘通できるのは、本化の菩薩である地涌の菩薩なのです。ゆえに釈尊は地涌の菩薩を召し出し、結要付嘱されたのです。
大聖人様が『諸法実相抄』に、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや」(御書666頁)
と仰せのように、末法において大聖人様の御当体たる本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、広宣流布に遭進する者は、皆、地涌の菩薩の巻属です。
御本尊様に向かって一心に題目を唱え、力強く自行化他の信行に励むことが、地涌の菩薩の使命を果たすことになります。
確信をもって励む
本抄には、李広将軍の逸話が述べられています。史記李広伝にある逸話で、「石に立つ矢」としても知られています。
李広は、中国前漢の武将で矢の名手であり、敵国の匈奴から飛将軍と呼ばれ、恐れられていました。李広は、母を虎に殺され(『日女御前御返事』では父の仇との説を引かれています)、その仇を討つ決意をしました。ある時、草むらで虎を見つけて、母の仇との強い一念をもって矢を射ると見事に命中し、突き刺さりました。ついに仇を討てたと思い近づくと、それは石でした。その後、李広がいくら石に向かって矢を射ても、突き刺さることはありませんでした。
このことから「石に立つ矢」は、「一心を込めて事を行えば、不可能なことはないということのたとえ」(日本国語大辞典)として使われるようになりました。
また本抄には、この逸話の前に妙楽大師の『弘決』にある「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」の文が引かれています。 これは、人の両肩に同生天・同名天いう常に人を護る二神がいて、その人の心が堅固であれば守護の力も強くなることを説いたものです。御本尊様を信ずる心が強ければ強いほど、善神の守護も強くなるのです。
大聖人様は『日厳尼御前御辺事』に、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」(御書1519頁)
と御教示です。
四、結 び
李広将軍の逸話、妙楽大師の釈からも判るように信心で重要なことは一念の強さ、信ずる心の強さです。御本尊様の仏力・法力と私たちの信力・行力という妙法の四カが相俟って、所願成就の大きな功徳を得ることができるのです。
御法主日如上人貌下は、
「御本尊様を信じきって、大聖人様の仰せのままに広布に生きることが、信力・行力を増すことになるのであり、それはお題目を唱え、折伏をしていくことに尽きるということであります」(大白法890号)
と御指南されています。
四条金吾が、強盛な信心をもって大聖人様にお仕えし、諸難に遭っても揺らぐことなく信心を貫いたように、私たちも諸難を乗り越え、地涌の菩薩の巻属たる自覚をもって信行に遭進しましょう。