大白法・令和4年11月1日刊(第1088号より転載)御書解説(258)―背景と大意
本抄は、
事の発端は、建治三年六月九日に鎌倉の
この問答で、当時衆目を集めていた、
三位房は、闘答に先立ち頼基のもとを訪ねて間答の場に誘いましたが、頼基は公用のため同行できませんでした。ただ御法門のことでもあったので、公用を済ませた後に頼基は、その場に参じて
本抄の末段に述べられている事柄、及び陳状を主君に提出する時の注意点やその後の対応等について詳細に指示された『四条金吾殿御返事』(御書1161頁)を拝すると、下し文には頼基に法華経の信仰を捨てることを誓う
下し文を突きつけられた頼基は、即座に身延の大聖人様に、発端となった桑ヶ谷問答の
内容は、江馬氏からの下し文に記される条文を挙げて、頼基がそれに応える形式をもって、順次その潔白を証明して主君江馬氏の誤解を解き、頼基に対する起請文提出の命令を取り下げると共に、
冒頭、建治三年六月二十三日に島田左衛門入道と山城民部入道の両人の取り次ぎにより主君江馬氏から下し文が発せられ、二十五日に頼基のもとに届いた経過を記されます。
この下し文には、頼基に対する事実無根の事柄や、讒言に煽られた不当な命令が記されていたため、以下、下し文の条文を内容ごとに引用しながら、頼基への
①竜象房の説法所に乱入との嫌疑
まず最初に下し文の「頼基が桑ヶ谷間答の場に
続いて、桑ヶ谷間答における一連の
◆桑ヶ谷での問答は、以前から竜象房が「もし不審がある者は私の所へ来て問答し、その不審を晴らしなさい」と吹聴していたことによるのであり、六月九日も竜象房が説法中に同様の言葉を豪語し、その説法が終わってから質疑に人ったこと。そこで三位房が、法華経と爾前経の正邪についての問いを皮切りに、竜象房の邪義を破折し始めたこと。
◆問答が進む中、返答に窮した竜象房が「古の賢人哲人を疑うのはいけない」「弘法大師や法然上人を悪く言うと聴衆等が怒り乱れるので、これ以上の問答はできない」等、言い逃れをしながら狠狙し、最終的には、進退極まって口を閉ざしてしまったこと。
◆三位房が法華経の経又等を挙げ、「真の智者ならば、世に悪法が弘まるのを見過ごさずに諫めるべきであり、真の聖人ならば自らの身命を惜しまず、世間や人を憚らず、正法を弘めて正義に導くべきである」「私の師匠である日蓮大聖人は、身命を惜しず、幾多の難に遭おうとも、正法弘通に徹してこられた正師である」等と述べた上で、竜象房に向かって、「あなたの法門理解の程度で説法をするならば、人を救うどころかかえって師檀共に無間地獄に堕ちてしまうため、今後このような説法は止めるべきである。本来ならば、このような発言は控えるべきとも思ったが、あなたの無責任な説法を聴聞している人々が悪道に墮ちることが不憫に思われたので敢えて申し上げた」と警告して問答が終結したこと。
以上、三位房と竜象房による問答の応酬について詳しく記された上で、頼基自身は法座に遅れて参じた一傍聴人に過ぎず、武装して乱人するなどなし得ない旨を強調すると共に、問答のあった桑ヶ谷付近で頼基を知らない者はいないため、頼基を妬む人による讒言であると考えられるので、実際に讒訴した者たちと双万を召し合わせて、真相の糾明を果たしたいと要求されます。
②主君の信奉する良観を批判した件
次に、下し文の「賴基は主君が信奉する極楽寺良観を批判した」との指摘に対し、まず良観房の実像を示されます。殊に良観は、表向きは高憎を装い、周囲から尊敬を得ているが、実には天魔が身に入った悪僧であり、大聖人に怨嫉憎悪を懐き、権力者を煽動してまで大聖人を断罪するように仕向けた人物であること。またその本性が露わになった文永八(1271)年六月十八日からの祈雨の勝負の顛末を明かして、良観がいかに蠍瞞と誑惑に満ちた悪侶であるかを訴え、江間氏に対し、良観への妄信を改めるよう勧められます。
③良観が称贇する竜象を批判した件
次に、極楽寺良観と共謀する竜象房の虚像を暴かれます。桑ヶ谷問答で三位房に論破された竜象房は、かつて比叡山に住む天台宗の学匠でありながら、真言密教の修法として人肉を食していたことが発覚し、比叡山の山門派の衆徒等によって誅罰されるところを逃げて行方を晦ましていたこと。それが数年を経て鎌倉に出没し、鎌倉でも人肉を食しているため、人々から怖れられていること等を明かして、実に憎侶の装いをなして世間を欺く破戒の者に他ならないことを述べて、重ねて主君の迷妄を指摘します。
④主君に従わないのは「非礼」について
さらに下し文の「主親の所存に随従することは、仏神の冥加にも世間の礼儀にも手本であるのに、頼基はそれに随従しない」との条文に対し、世法における孝養の大切さや、仏法で説く報恩の大事を弁えつつも、もし主君や親が道義に反する場合は、忠孝の義より、臣下や子から諫言すべきこと。さらに仏法の報恩の意義に照らして、重恩の主親に誤りがあるならば、それを諌めることこそ真の主従関係であると示されます。
その先例として、阿闍世王に仕えていた耆婆大臣が、阿闍世王の悪法への妄執を諌言して救った故事を引かれ、今、頼基も主君の妄信を破り正法に導く決意で諫言していること、さらに主君の謗法を諌めずに放置するならば、頼基も与同罪を蒙ることを述べて、主君に捨邪帰正の大事を訴えます。
そして、四条家は父
さらに、平安時代以降、日本を害してきた真言に加え、鎌倉時代に至って禅や念仏の悪法までも
続いて、日蓮大聖人の正義に比べて、良観房の律宗は小乗戒に
さらに、このたびの竜象房や良観房の策謀による讒言を
最後に、頼基に事寄せて大事を引き起こそうと
竜象房について、本抄には、
「彼の竜象房は
とあり、天台僧であったにもかかわらず、京都市中にて真言密教の修法として人肉を食していたことが発覚し、建治元年四月に、比叡山の山門派の衆徒等によって住坊を焼き払われ、所を追われていたことが判ります。
これに関しては『天台座主記』の建治元年の項目にも、
「四月二十七日、山門の衆徒、群下りて東光寺に集会し、公友並びに
とあり、上文中の「竜象上人」と、鎌倉へ流れてきた竜象とが同一人物であったことは間違いありません。しかも「上人号」を受けるほどの高僧でもありました。
また、人肉を食すという修法については、『
「真言師・禅宗・
とあることから、当時、真言密教の修法が全国的に行われていたようです。
竜象房は、比叡山の衆徒から誅罰されそうになる直前に逃亡し、二年ほど影をひそめていましたが、建治三年ごろに鎌倉へ出没し、
それが三位房との問答で徹底的に破折されたために、ついには良観と
しかし、頼基はいかなる苦難に遭遇しても、大聖人様の御指南を仰ぎながら、正々堂々と法華経の信仰を貫きました。その結果、虚偽の讒言による疑いも次第に晴れ、建治四年の一月頃には主君からの勘気も解けて、新たに三カ所の領地を授かりました。
本抄に、
「重恩の主の悪法の者にたぼらかされましまして、悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり」
等と記されるように、四条金吾頼基は、主君への報恩のため、江馬氏を悪法から救い、大聖人様の正法に導くため、破邪顕正の折伏を実践していきました。
その最中、竜象房が桑ヶ谷問答で大敗を
しかし、この苦境にあっても頼基は動揺することなく、直ちに大聖人様の御指示を仰ぎ、常に仏法の正義を軸としながら主君への忠誠を尽くすことに徹しました。そのため、一時は所領没収等の処遇に遭いましたが、その後、
どれほどの苦境や困難に遭っても、大聖人様の御教導に従い、身軽法重・死身弘法の折伏実賤を貫き通し、見事に妙法受持の大功徳を顕わした頼基の姿こそ信仰の模範です。
本宗僧俗は、血脈付法の御法主上人猊下の御指南に信伏隨従し、広宣流布をめざして折伏を実践し抜くところに、一切の苦境を根本から打開する道があることを確信し、破邪顕正の折伏に精進することが肝要です。
御法主日如上人猊下は、
「本年、宗門は『今こそ 折伏の時』の標語のもとに、僧俗一致して前進をしておりますが、その行く手にはあらゆるに障魔が竸い起こることは必定であります。しかし、(中略)魔が競い起きた時こそ信心決定の絶好の機会と捉え、一人ひとりが妙法受持の大功徳を確信して、決然と魔と対決し、粉砕していくことが大事であります」
(大白法1077頁)
と御指南されています。
いかなる障魔や困難が競い起ころうとも、大御本尊様への絶対信をもって、いよいよ信心強盛に唱題に励み、僧俗異体同心の団結をもって、最高の報恩行である折伏実践に邁進してまいりましょう。