大白法・令和3年11月1日刊(第1064より転載)御書解説(249)―背景と大意
本抄は、建治二(1276)年七月十五日、日蓮大聖人様が御年五十五歳の時、身延において
御真蹟はかって身延にありましたが、現在は第十八紙(一紙十七行)のみ鎌倉
御述作の年次について、文水十一年説、建治三年説など諸説ありますが、録内御書(刊本)に「七月十五日」とあることや、本文中に大聖人様が、主君への恩を説いて金吾に主家を離れてはならないと
本抄の第一段では、四条金吾が造立した釈迦仏の木像一体云々の文を挙げ、釈迦仏造立の意義を示されます。
まず「開眼の事」とし、法華経の結経である『普賢経』 (仏説観普賢菩薩行法経)の「得具五限」の文を挙げ、法華経を持つ者は五眼を自撚に具えること。華厳経・阿含経・方等経・般若経・大日経等には五眼の名目はあっても義(実体)は具わらず、法華経は名・義共に具わると示されます。
次に三身について、『普賢経』の文を挙げ、一切の諸仏が必ず法身・報身・応身の三身を具えることを示されます。
そして、この五眼・三身の法門は法華経以外には全く説かれていないこと。さらに天台大師の「秘之不伝」(法華文句)の文を挙げ、法崋経『寿量品』以外の一切経には教主釈尊が秘して説かなかったことを明かされます。
次いで、こうした意義から画像・木像の開眼供養は法華経・天台宗に限るとして、一念三千の法門における三世間(衆生世間・五陰世間・国土世間)のうち、国土世間は草木世間であり、画像・木像はこれより出たものであること。そして画木の像に魂魄を入れるのは法華経の力に依るのであり、それが天台大師の悟りであると仰せられます。
次に、この法門は衆生においては即身成仏、画木においては草木成仏といい、前代にも後代にもない法門であると述べられます。また、もしあるとすれば、この法門を盗用したもので、天台大師の滅後二百余年後、善無畏・金剛智・不空等が真言宗を開いて、大日経等にはない法華経・天台の釈(法門)を盗み入れ漢土・日本の末学の者を誑惑し、五百年余が経過したことを述べられます。そして、金吾が造立した釈迦仏こそ生身の仏であり、梵帝・日月・四大等の諸天善神も必ず金吾を守るであろうと述べられます。
第二段では、四条家では毎年四月八日から七月十五日までの九十日余の間、大日天子を礼拝していること挙げ、大日天子の利生が勝れているのは、教主釈尊及ひ一乗妙経(法華経)の力に依ることを明かされます。そして、金光明経・最勝王経を引いて、日月天が四天下を巡るのは仏法の力に依ることを述べ、方便経でさえそうなのだから、法華経の醍醐味の功徳はさらに広大であると教示されます。
また、四条冢では大日天子を親子二代にわたって礼拝してきたこと。大聖人様御自身も大日天子を恃み法味を捧げてきたことを挙げ、その利生の勝れることは他と比べようがないと仰せられます。さらに、金吾から届いた日記の内容で、何よりも感心したのは父母への孝養のことであり、父母は地獄にいるのではないかと嘆き悲しむ姿に涙が止まらないとして、目連尊者の故事を挙げると共に、その思いこそが孝養の一分であり、志の篤さに諸天も金吾の願いを聞き人れるであろうと述べられます。
第三段では、金吾の手紙に記されていた主家に対する去就について、けっして主家を離れてはならないと仰せられます。
そして、日本国の人々が日蓮を憎むのは、相模守(北条時頼)が日蓮を憎んでいたからである。それ故、理不尽な政道ではあれ、当初から覚悟していたので、いかなることが起こってもけっして人を恨むことはしないと思ってきた。この心が祈りとなって諸難を脱れ、今は何もなかったように過ごしていると述べられます。
続いて、大聖人様が佐渡の国でも餓え死にせず、これまで身延の山中で法華経を読誦できたのは金吾の助けによる。それはまた金吾の主君・江間入道のお陰でもある。江馬入道は日蓮を助けていることを明らかに知らなくても、その祈りとなっているのであるから、それはかえって金吾の析りともなる。また金吾の父母への孝養も、主君のご恩によるのであるから、大恩ある主君を捨ててはならないと諭されます。
さらに、鵜・魚・栴檀・浄居の火等の譬えを挙げ、金吾は日蓮が法華経を流布する功徳を助けた人であるから、悪人に害されることはない。もし害されることがあるなら、それは過去世に法華経の行者を怨嫉した罪障が今生に報いとして現われたものであり、罪障消滅減の果報として歎くことはないと仰せられます。
最後に、不慮の災難に遭わないよう、辛くても耐えるよう促され、この手紙を見た後百日間は、同僚や他の人と自宅以外で夜の酒盛りをしないこと。主君から召された時は、昼なら急いで出仕し、夜なら三度までは急病として控え、三度を超えたならば、周囲の者の警護を頼みに慎重に出仕すること。こうして身を処するうちに蒙古が攻めて来るようなことかあれば、金吾への悪感情も和らぐであろうから、けっして主君を捨ててはいけないと述べ、さらに日常の振る舞いについても用心するよう指導して、本抄を結ばれています。
本抄において大聖人様は、四条金吾の釈尊像造立を一往称歎されています。これについて、総本山第二十六世日寛上人は『末法相応抄』に、
「一には猶是れ一宗弘通の初めなり、是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり」(六巻抄140頁)
と、その理由を三つ挙げられています。
本宗僧俗は、末法流通の正体として大漫荼羅本尊を御図顕された大聖人様の御本意を体し、未だに釈尊像を本尊として祀る他宗の誤りを破折していくことが大事です。
本抄において大聖人様は、
「かゝる人の
と、主君である江馬入道の恩を忘れず、ど のような迫害に遭っても主家を離れてはならないと教示されています。
四条金吾は、主君を折伏したことにより、 領地を減らされ、また同僚の
凡夫が成仏する時には、必ず三障四魔 (煩悩障・業障・報障の三つの障りと、煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔の四つの魔)が競い起こります。しかし、その時こそ
本抄において大聖人様は、
「もしやの事あらば、
と、過去世の罪障によって今生にその報いを受けることを仰せです。
『佐渡御書』に、
「我今度の御勘気は世間の
と、大聖人様は
末法の本未有善の荒凡夫である我々が、過去世の謗法による罪障を消滅するには、諸難を乗り越え、正法を弘通する以外にはありません。
御法主日如上人猊下は、
「三障四魔をはじめ様々な諸難が襲ってきたときこそ、信心が試されているのであります。(中略)強盛なる自行化他の信心に励んでいくならば、御金言の如く、いかなる困難も、立ちはだかる
と御指南されています。
種々の困難を乗り越え、成仏の境界を得るためにも、強盛な信心を