四条金吾釈迦仏供養事 建治二年七月一五日 五五歳

釈迦仏開目供養事

第一章 法華経を持つ者は五眼を具す

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 御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。

 開眼(かいげん)の事、普賢(ふげん)(きょう)に云はく「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目(げんもく)なり」等云云。又云はく「此の方等経は是諸仏の眼なり諸仏是に()って五(げん)を具することを得たまへり」云云。此の経の中に得具五(げん)とは一には肉眼、二には天眼、三には()眼、四には法眼、五には仏眼なり。此の五眼をば法華経を(たも)つ者は自然(じねん)相具(あいぐ)し候。譬へば王位につく人は自然に国のしたがうごとし。大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり。華厳・阿含・方等(ほうどう)・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其の義なし。今の法華経には名もあり、義も備はりて候。(たと)ひ名はなけれども必ず其の義あり。

第二章 仏の徳を明かす

 三身の事、普賢経に云はく「仏三種の身は方等より生ず。是の大法印は涅槃海を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の清浄(しょうじょう)の身を生ず。此の三種の身は人天の福田にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云。三身とは一には法身如来、二には報身如来、三には応身如来なり、此の三身如来をば一切の諸仏必ずあひ()()す。譬へば月の体は法身(ほっしん)、月の光は報身、月の影は応身(おうじん)にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。

第三章 真実の開眼供養を明かす

この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず。故に天台大師の云はく「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝へず」云云。此の釈の中に於諸教中と()ゝれて候は、華厳・方等・般若のみならず、法華経より外の一切経なり。秘之不(ひしふ)(でん)とかゝれて候は、法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘して説き給はずとなり。
 されば画像(えぞう)・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。

第四章 仏像の真義を明かす

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 其の上一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰(ごおん)世間、三には国土世間なり。前の二は(しばら)く之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起こる。木と申すは木像是より出来す。此の画木(えもく)魂魄(こんぱく)と申す(たましい)()るゝ事は法華経の力なり。天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。止観の明静(みょうじょう)なる前代にいまだきかずとかゝれて候と、無情仏性惑耳(わくに)驚心(きょうしん)等とのべられて候は是なり。此の法門は前代になき上、後代にも又あるべからず。(たと)ひ出来せば此の法門を偸盗(ちゅうとう)せるなるべし。(しか)るに天台以後二百余年の後、(ぜん)無畏(むい)・金剛智・不空等、大日経に真言宗と申す宗をかまへて、仏説の大日経等にはなかりしを、法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑(おうわく)せしかば、皆人此の事を知らず、一同に信伏(しんぷく)して今に五百余年なり。然る間真言宗已前の木画の像は霊験殊勝なり。真言已後の寺塔は利生(りしょう)うすし。事多き故に(くわ)しく(しる)せず。

 此の仏こそ生身(しょうじん)の仏にておはしまし候へ。優填(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵帝・日月・四天等必定(ひつじょう)して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ給ふべし是一。

第五章 日天子の利生を述べる

 御日記に云はく、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕ヘさせ給ふ事、大日天子と申すは宮殿七宝(しっぽう)なり。其の(おお)きさは八百十六里五十一由旬なり。其の中に大日天子居し給ふ。勝・無勝と申して二人の(きさき)あり。左右には七曜・九曜つらなり、前には摩利支(まりし)天女まします。七宝の車を八匹の駿馬(しゅんめ)にかけて、四天下を一日一夜にめぐり、四州の衆の眼目(げんもく)と成り給ふ。他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事、耳にこれをきくとも愚眼(ぐげん)に未だ見えず。是は疑ふべきにあらず、眼前の利生なり。教主釈尊にましまさずば(いか)でか是くの如くあらたなる事候べき。一乗の妙経の力にあらずんば争でか眼前の奇異をば現ず可き。不思議に思ひ候。

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争でか此の天の御恩をば報ずべきともとめ候に、仏法以前の人々も心ある人は、皆或は礼拝(らいはい)をまいらせ、或は供養を申し、皆しるしあり。又逆をなす人は皆ばつ()あり。今内典(ないでん)を以てかんがへて候に、金光明経に云はく「日天子及以(ないし)月天(がってん)()是の経を聞くが故に精気(しょうけ)充実す」等云云。最勝王経に云はく「此の経王の力に由つて流暉(るき)四天下を(めぐ)る」等云云。当に知るべし、日月天の四天下(してんげ)をめぐり給ふは仏法の力なり。彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり。勝劣を論ずれば乳と醍醐(だいご)と、金と宝珠との如し。劣なる経を()しましまして尚四天下をめぐり給ふ。何に況んや法華経の醍醐(だいご)甘味(かんみ)()めさせ給はんをや。故に法華経の序品には普香(ふこう)天子(てんし)とつらなりまします。法師品(ほっしほん)には阿耨(あのく)多羅(たら)三藐(さんみゃく)三菩提と記せられさせ給ふ、火持(かじ)如来是なり。其の上慈父よりあひつたはりて二代、我が身となりてとしひさし。争でかすてさせたまひ候べき。其の上日蓮も又此の天を(たの)みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地(ここち)す。利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず。

第六章 孝養の志を讃む

 是より外に御日記たうと()さ申す計りなけれども紙上に()くし(がた)し。なによりも日蓮が心にたっと()き事候。父母御孝養の事、度々(たびたび)の御文に候上に、今日の御文なんだ()更にとゞ()まらず。我が父母地獄にやをは(御坐)すらんとなげ()かせ給ふ事のあわ()れさよ。仏の弟子の御中に目犍尊者(もっけんそんじゃ)と申しけるは、父をばきっせん(吉占)師子と申し、母をば青提女(しょうだいにょ)と申しけるが、餓鬼道に()ちさせ給ひけるを、凡夫にてをはしける時はしらせ給はざりければ、なげきもなかりける程に、仏の御弟子とならせ給ひて後、阿羅漢となりて天眼(てんげん)()て御らんありければ、餓鬼道におはしけり。是を御らんありて飲食(おんじき)をまいらせしかば、炎となりていよいよ苦をましさせまいらせ給ひしかば、いそぎはしりかへり、仏に此の由を申させ給ひしぞかし。雨の時の御心(みこころ)をおもひやらせ給へ。今貴辺は凡夫なり。肉眼(にくげん)なれば御らんなけれども、もしもさもあらばとなげ()かせ給ふ。()は孝養の一分なり。梵天・帝釈(たいしゃく)・日月・四天も定めてあはれとをぼさんか。華厳経に云はく「恩を知らざる者は多く横死(おうし)()ふ」等云云。
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観仏相海経に云はく「(これ)阿鼻の因なり」等云云。今既に孝養の志あつし。定めて天も納受(のうじゅ)あらんか是一

第七章 難の必然性を説く

 御消息(ごしょうそく)の中に申しあはさせ給ふ事、くはしく事の心を案ずるに、あるべからぬ事なり。日蓮をば日本国の人あだむ。是はひとへにさがみどの(相模殿)あだ()ませ給ふにて候。ゆへ()なき御(まつ)りごとなれども、いまだ此の事にあはざりし時より、かゝる事あるべしと知りしかば、今更いかなる事ありとも、人をあだむ心あるべからずとをもひ候へば、此の心のいのり()となりて候やらん。そこばく(若干)なん()をのがれて候。いまは事なきやうになりて候。日蓮がさどの国にてもかつ()()なず、又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は、たれがたすけぞ。ひとへにとのゝ御たすけなり。又殿の御たすけはなにゆへぞとたづぬれば、入道殿の御故ぞかし。あら()わには()ろし()さねども、定めて御いのりともなるらん。かうあるならば、かへりて又とのゝ御いのりとなるべし。父母の孝養も又彼の人の御恩ぞかし。かゝる人の御内(みうち)如何(いか)なる事有ればとて、すてさせ給ふべきや。かれより度々すてられんずらんはいかゞすべき。又いかなる命になる事なりとも、すてまいらせ給ふべからず。上にひきぬる経文に不知恩の者は横死有りと見えぬ。孝養の者は又横死()るべからず。()と申す鳥の食する(くろがね)()くれども、腹の中の子はとけず。石を食する魚あり、又腹の中の子はしなず。栴檀(せんだん)の木は火に焼けず、浄居(じょうご)の火は水に消へず。仏の御身をば三十二人の力士火をつけしかどもやけず。仏の御身よりいでし火は、三界の竜神(りゅうじん)雨をふらして消しゝかどもきえず。殿は日蓮が功徳をたすけたる人なり。悪人にやぶらるゝ事かたし。もしやの事あらば、先生(せんじょう)に法華経の行者をあだみたりけるが今生(こんじょう)むく()ふなるべし。此の事は如何なる山中海上にてものがれがたし。不軽菩薩の杖木(じょうもく)の責めも、目犍(もっけん)尊者の竹杖(ちくじょう)に殺されしも是なり、なにしにか歎かせ給ふべき。

第八章 細心の用心を説く

 但し横難(おうなん)をば忍ぶにはしかじと見へて候。此の文御覧ありて後は、けっして百日が間をぼろげならでは、どうれひ(同隷)ならびに他人と()が宅ならで夜中の御さかもり(酒盛)りあるべからず。主の()さん時はひるならばいそぎいそぎまいらせ給ふべし。
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夜ならば三度までは頓病の由申させ給ひて、三度にすぎば下人又他人をかたらひて、つじ()をみせなんどして御出仕あるべし。かうつゝ()ませ給はんほどに、むこ(蒙古)人もよせなんどし候わば、人の心又さきに()きかへ候べし。かたきを打つ心とゞまるべし。申させ給ふ事は御あやまち()ありとも、左右(さう)なく御内(みうち)を出でさせ給ふべからず。まして、()からんにはなにとも人申せ、くるしからず、をもひのまゝに入道にもなりてをはせば、さきざきならばくるしからず。又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば、なかなか悪縁度々来るべし。このごろは女は尼になりて人をはかり、男は入道になりて大悪をつくるなり。ゆめゆめあるべからぬ事なり。身に病なくともやいと()を一二箇所やいて病の由あるべし。さわぐ事ありとも、しばらく人をもって見せをほせさせ給へ。

 事々くはしくはかきつくしがたし。此の故に法門もかき候はず。御経の事はすゞ()しくなり候ひて、()いてまいらせ候はん。恐々謹言。

 建治二年丙子七月十五日    日蓮 花押
四条金吾殿御返事