大白法・令和二年10月1日刊(第1038号より転載)御書解説(240)―背景と大意

瑞相御書(918頁)

 

 一、御述作の由来

  本抄は、建治(けんじ)元(1275)年、日蓮大聖人様が御年五十四歳の時、身延(みのぶ)において述作された御消息とされています。

  ()真蹟(しんせき)七紙がかって身延にありましたが、明治八年の火災で焼失しました。当時既に後部が欠損しており、系年・対告衆(たいごうしゅ)共に不詳です。

  なお、末文に

 「びん(便)ごとの心ざし一度二度ならねば、いかにとも

とあることから、一説には四条金吾殿宛ともされています。

  題号は、本文の内容から後代において付けられたものです。

 

 二、本抄の大意

 初めに()動瑞(どうずい)について述べられます。

 仏が法華経を説く時には五種・六種の瑞相(ずいそう)が現われるが、その中の地動瑞は、大地が六種に震動することで、これについて天台大師の『法華文句』、妙楽大師の『法華文句記』の(しゃく)を引用されます。

 次いで、十方は依報(えほう)、衆生は正報(しょうほう)であることから、衆生の五根が壊れるときは身と心が(おどろ)き動くこと、国土が壊れようとする(きざ)しには、まず山が崩れ、草木が枯れ、河川の水が()きると仰せられます。そして、人の耳目が驚躁(きょうそう)すれば天変が起こり、人の心を動かせば地が動くことを述べられます。

 次に、仏が一切経を説く時には必ず六種震動があるが、法華経を説かれた時の六種震動については、大衆も非常に驚き、弥勒(みろく)菩薩と文殊(もんじゅ)師利(しり)菩薩の問答があった。それは諸経よりも瑞相が大きく長かったからであると述べられます。

 そして、妙楽大師の『法華文句記』の文を引かれ、いかなる経々にも瑞相はあるが、これほど大きな瑞相はないとの釈を()げ、さらに天台大師の『法華玄義』の文を引き、世間の小事ですら前兆があるのだから、仏法の大事に瑞相のないことがあろうかと の釈を挙げられます。

 次に、釈尊は一代四十余年の間なかった大瑞を現じて法華経迹門(しゃくもん)を説かれたが、本門を説かれた時の瑞相は、迹門の時よりも大きな瑞相であったと述べられます。そして、妙楽大師の釈を引かれ、『序品』の放光は東方万八千土、『神力品』の放光は十方世界。 『序品』の地動はただ三千界、『神力品』の大地動は諸仏の世界を皆六種に震動させた。特に『神力品』の大瑞は仏滅後正像二千年過ぎた末法に法華経の肝要が弘まるべき大瑞であると、経証を引かれて迹門と本門の瑞相の違いを示されます。

 続いて、瑞相は吉凶共にあるが、それは一時二時、一日二日、一年二年、長くても七年十二年であるのに、どうして二千年以後の瑞相が現われるのかとの問いを設けられ、その答えとして、周の昭王(しょうおう)の瑞相は千十五年後に現われ、訖利季(きりき)王の夢は二万二千年後に現われたのであるから、二千余年後のことについての瑞相が前に現われても不思議ではないと述べられます。

 さらに、在世よりも滅後の瑞相が大きいのはなぜかとの問いを設られ、その答えとして、まず大地が動ずるのは人の六根が動ずることによるのであり、人の六根の動きの大小によってその震動にも高下があることを示され、爾前(にぜん)の経々では一切衆生の煩悩(ぼんのう)は破れず、法華経は元品(がんぽん)無明(むみょう)を破る故に大動があること。また末代は在世よりも悪人が多い故に、在世の瑞相よりも大きいことを述べられます。

 次に、その証文として法華経『法師品(ほっしほん)』の、

 「(しか)()の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。(いわ)んや滅度の(のち)をや」(法華経326頁)

の経文を挙げられます。そして、正嘉(しょうか)の大地震・文永の大天変は、二千余年の間、日本にはなかった天変(てんぺん)地夭(ちよう)であると仰せられ、人の悪心が盛んであれば、天に凶変、地に凶夭があり、瞋恚(しんに)の大小によって天変地夭に大小があることを明かされます。

 次いで、今日本国には大悪心の衆生が充満しており、その悪心の根本は日蓮によって起こっていると仰せられ、守護(しゅご)国界(こっかい)経の経文に

 「阿闍世(あじゃせ)王が仏に対して、我が国は仏が出現した国なのに大干魃(かんばつ)疫病(えきびょう)等が起こり、他国より攻められるのはなぜかを問うと、仏が答えられるのには、あなたには多くの逆罪があり、その中でも父を殺し、提婆(だいば)達多(だった)を師として私を害せしめた罪は大であるから、このような大難に()うのである。さらに我が滅後の末法に、提婆達多のような悪僧が国に充満して、一人の正法の僧を流罪・死罪にする故に国中に種々の大難が起こり、後に他国に攻められる」

と説かれていることを挙げられます。そして、今の世の念仏者はこの経文の通りであり、真言師等の大慢は、提婆達多の百千万億倍に過ぎる大罪であると述べられます。

 そして、真言宗の奇怪さを言えば、胎蔵(たいぞう)界の曼荼羅を描いて、その上に登り諸仏の御面(かお)を踏みながら灌頂(かんじょう)という儀式を行うことは、父母の面を踏み、天子の頭頂(ずちょう)を踏むような不孝・不忠の行為であり、そのような者が国中に充満して万民の師となる故に国が亡ぶと仰せられます。

 そして、このことを人々に説き国を救うのが、私(日蓮)の一大事の法門であると明かされ、これをみだりに人に話してはいけないと仰せられ、便りごとの(こころざし)に感謝されて、本抄は終わっています。

 

 三、拝読のポイント

『神力品』の瑞相は末法の妙法流布を示す

 瑞相とは、めでたいことが起こるしるし、吉兆のことです。仏教においては、八相(はっそう)作仏(さぶつ)すなわち仏の誕生・成道・説法・涅槃(ねはん)などの際に現われる前兆を言います。

 法華経の『序品』において、此土(しど)の六瑞(説法(せっぽう)瑞・入定(にゅうじょう)瑞・雨華(うけ)瑞・地動端・衆喜(しゅうき)瑞・放光(ほうこう)瑞)と、他土の六瑞(見六趣(けんろくしゅ)瑞・見諸仏(けんしょぶつ)瑞・聞諸仏説(もんしょぶっせつ)法瑞・(けん)()衆得道(しゅとくどう)瑞・(けん)菩薩(ぼさつ)所行(しょぎょう)瑞・見仏(けんぶつ)涅槃(ねはん)瑞)が説かれました。

 此土の六瑞の中の地動瑞に、(どう)()(ゆう)(しん)(こう)(かく)の六種があります。仏が法を説かれる時に必ず瑞相があることは、諸経典に説かれていますが、その瑞相には大小の差があり、爾前(にぜん)権経と法華経の迹門(『序品』)では、法華経迹門の時のほうが大きく、さらに法華経迹門と法華経本門とを比較すると、本門の『神力品』に説かれる滅後末法に法華経の肝要が弘まる時の瑞相のほうが、(はる)かに大きいことが説かれています。この瑞相の大なることをもって、末法には御本仏が出現し、南無妙法蓮華経の下種仏法が広宣流布することが判るのです。

 依正不ニについて

 また、大聖人様は本抄に、

 「(それ)十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のことし。身なくば影なし、正報なくは依報なし。又正報をは依報を()て比をつくる

と、十方世界は依報、衆生は正報、また依報は影、正報は体であると、依報と正報は二にして不二であることを説かれています。

 これは妙楽大師が『法華玄義釈籤(しゃくせん)』において釈した「依正不二門」(十不(じっぷ)二門の第六)のことで、衆生の一念に三千の諸法を具足(ぐそく)する一念三千の法門においては、衆生と五陰(ごおん)の二千世間を正報、国土の一千世間を依報とし、この依正の三千世間は即、一念に(そな)わるとするものです。

 故に衆生の五(こん)(げん)()()(ぜつ)(しん))が驚動すれば天変があり、衆生の心(())が動ずれば地夭が起こるのです。もし衆生が悪法を受持すれば、色心が(にご)り、その結果として十方世界には天変地夭が起こります。これとは反対に衆生が正法を受持すれば、十方世界は善処、仏国土となるのです。

 真言の害毒

 大聖人様は本抄において、真言師は提婆達多の百千万億倍の大慢の者であると厳しく破折されています。そして、

 「謗法者の種子の国に充満せば、国中に種々の大難をこり、後には他国にせめらるべしと()かれて侯

と仰せのように、大謗法の者が国中に充満するならば、種々の災禍が起こり、他国に攻められると教示されています。

『本尊問答抄』に、

 「日蓮がいさ()めを御用ひなくて、真言の悪法を以て大蒙古国を調伏(じょうぶく)せられは、日本還って調伏せられなん」(御書1282頁)

とあるように、真言は亡国の悪果をもたらす悪法なのです。

 

 四、結  び

 御法主日如上人猊下は、

 「大聖人様が、念仏に対しては無間地獄に()つると言い、あるいは禅宗や真言宗に対しては誤りの教えであると厳しく断じているのは、一見すると強言のようではありますが、実には相手を救い、幸せの境界に導くための慈悲の言動であって、これこそ、真実の言葉、相手を思う優しさを持った言葉であると仰せられているのであります。まさに、折伏は相手の幸せを願う慈悲行であります」(大白法979号)

と仰せです。

 私たちは、御本仏の御遺命である広宣流布に向け、慈悲の折伏を実践していくことが、自他共に成仏の境界を得るための最善の方途であり、それこそが大聖人様の「一大事の法門」であることを肝に銘じ、さらなる折伏弘通に邁進(まいしん)してまいりましよう。