大白法・平成30年6月1日刊(第982号)より転載 御書解説(219)―背景と大意
本抄は、文永十一(1274)年七月二十六日、大聖人様が御年五十三歳の時、
南条家の
総本山大石寺の
本抄は、大聖人様が身延に入られたのを知った後家尼御前が子息・時光殿を
本抄は、初めに御供養の品々に対する御礼を述べられています。
続いて、鎌倉でお会いしたことは
次に、故上野殿(南条兵衛七朗)が存命であったならば、常に法門を申し上げ、またお話を伺いたいと残念に思っていたが、殿は形見として、ご自身を若くしたような子息を
そして、かつて故上野殿が法華経を信仰することによって成仏されたと
続いて、
そして、今回読経した功徳の一部を故上野殿へ回向させていただいたと述べられ、やはり人はよき子を持つべきである。時光殿を見て涙を押さえることができない、と仰せられます。
最後に、法華経に説かれる
本抄に「御
大聖人様は『唱法華題目抄』に、
「追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来たって、法華経は末代の機に叶ひ難き由を示す。故に施主も其の説を実と信じてある間、
と。追善供養を修するに当たって、念仏等の謗法の邪師が弔うならば、亡くなった父母等はいよいよ地獄の苦しみを増し、それを依頼した子供は不孝の者となると仰せられ、正法正師による追善供養の大事を御教示されています。
また、回向とは善根を修した功徳を他に回し向かわしめることを言いますが、本抄に、
「このほど
と仰せのように、御本尊に向かって法華経を読誦し、南無妙法蓮華経の題目を唱えたその功徳の一部が故人に回向されるのです。
本宗においては、朝夕の勤行・唱題の折に追善回向を行う他、命日忌や法事の折など、各所属寺院に願い出て塔婆を建立しますが、これも故人に対する
大聖人様は本抄の最後に、法華経『妙荘厳王本事品二十七』に説かれる妙荘厳王の故事を
妙荘厳王には夫人の浄徳夫人と浄蔵・浄眼という二人の息子がいました。夫人と浄蔵・浄眼の二人の子息は正法を受持していましたが、妙荘厳王は
大聖人様は、御在世当時の池上宗仲・宗長兄弟に対し『兄弟抄』において、
「父母の心に随はずして家を出でて仏になるが、まことの恩を
と仰せになっています。
池上兄弟は、二度にわたる勘当を受けるなど、三障四魔が競い起こる中、力を合わせて父の康光を折伏し、大聖人様に帰依させましたが、このように謗法の親を正法へ導くことこそ真の報恩であり、最高の親孝行です。世間でも「孝行したい時には親はなし」と言われますが、折伏も同様です。聞く耳を持たないからと
法統相続とは、子孫等にこの正法の信心を受け継がせることです。これは、単に御受戒を受けさせ、入信させることではなく、朝夕の勤行・唱題を実践し、折伏弘通に邁進するように育て上げることです。これにより一家和楽、子孫繁栄の功徳が顕れてきます。またこれは、大聖人様の仏法を令法久住・広宣流布する上からもたいへん大事です。
法統相続は、まず親がこの本門戒壇の大御本尊に対する絶対の信を確立し、自行化他の信心を率先垂範することが重要です。子供はその親の信心姿勢を見て育ちます。
本抄に、
「
と仰せのように、故上野殿と後家尼御前の信心が、家督を継いだ時光殿をはじめ、子孫に受け継がれていくのです。
時光殿は、本抄御述作の時には十六歳となり、立派な若者となっていました。この時の大聖人様との出会いが、後の日興上人の富士方面における弘通の支えとなり、また大石寺創建へと
特に本門戒壇の大御本尊御図顕の機縁となった熱原法難においては、鎌倉幕府からの様々な圧力に屈することなく、法難に関わった人々を
この時光殿の信心も、父の兵衛七郎と母の後家尼御前の信心姿勢を受け継いだものであり、法統相続の重要なことが拝されます。
御法主日如上人猊下は、
「折伏をしてそのままにしておくことは、あたかも赤ん坊を産んでそのままにするようなものであり、これほど無慈悲なことはありません。また、育成をおろそかにするようなことがあれば、まことにもって、その人に対しても、また自分自身に対しても無責任極まる行動となってしまいます」(大白法951号)
と育成の大事を御指南されています。
私たちは、自らが善根を修して功徳を積むことはもちろんのこと、家内繁栄を願って法統相続を確実に行うことが肝要です。
三年後に迫った平成三十三年の御命題達成に向け、折伏と育成の両輪を忘れることなく、一層精進してまいりましょう。