大白法・令和4年3月1日刊(第1072)より転載

御法主日如上人猊下御説法

報恩抄 平成新編御書(1003頁1行目~1004頁6行目)
要行寺本堂新築落慶法要の砌
令和三年十二月二十一日
於 静岡県富士宮市・要行寺

 問うて云はく、華厳の澄観・三論の嘉祥(かじょう)・法相の慈恩・真言の(ぜん)無畏(むい)、乃至弘法(こうぼう)・慈覚・智証等を、仏の敵と()給ふか。答へて云はく、(これ)大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼を()て経文を見るには、法華経に(すぐ)れたる経ありと()はん人は、(たと)ひいかなる人なりとも謗法は(まぬが)れじと見えて候。(しか)るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人(しょにん)仏敵たらざるべき。()し又をそれをなして()し申さずば、一切経の勝劣(むな)しかるべし。又此の人々を恐れて、(すえ)の人々を仏敵と()はんとすれば、彼の宗々の末の人々の云はく、法華経に大日経をまさ()りたりと申すは我私(わたくし)の計らひにはあらず、祖師の御義なり。戒行の持破(じは)、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたが()ふ事なしと申せば、彼の人々にとがなし。又日蓮(これ)を知りながら人々を恐れて申さずば「(むし)身命(しんみょう)(うしな)ふとも教を(かく)さヾれ」の仏陀(ぶつだ)諫暁(かんぎょう)を用ゐぬ者となりぬ。いかんがせん、()はんとすれば世間をそ()ろし、黙示(もだ)さんとすれば仏の諫曉のがれがたし。進退(ここ)(きわ)まれり。(むべ)なるかなや、法華経の文に云はく「(しか)も此の経は如来の現在にすら(なお)怨嫉(おんしつ)多し。(いわ)んや滅度の(のち)をや」と。又云はく「一切世間(あだ)多くして信じ難し」等云云。釈迦(しゃか)仏を摩耶(まや)夫人(ぶにん)はら()ませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとを()し見て、我等が大怨敵(おんてき)法華経と申す利剣をはらみたり。事の(じょう)ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯(じょうぼん)王宮に入り、御産安穏(あんのん)良薬(ろうやく)を持ち候大医ありとのヽしりて、大毒を(きさき)にまいらせつ。初生(しょしょう)の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を()でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆(だいば)瞿伽梨(くがり)波瑠璃(はるり)(おう)()(じゃ)()(おう)等の悪人の身に入りて、(あるい)は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等(これら)の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたば()かり()し、如来(にょらい)現在(げんざい)猶多(ゆた)怨嫉(おんしつ)の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連(もくれん)・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞかし。況滅(きょうめつ)度後(どご)と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそ()ろしき大難あるべしと、()かれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわ()うや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か、提婆が(たけ)(じょう)、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象(すいぞう)には()ぐべきとはをも()へども、彼にも()ぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々()ふ人をこそ、滅後の法華経の行者とは()(そうら)わめ。付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使(おんつかい)なり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は(だん)弥羅(みら)(おう)(こうべ)を刎ねられ、仏陀(ぶっだ)蜜多(みった)・竜樹菩薩等は赤幡(あかきはた)を七年・十二年さしとをす。馬鳴(めみょう)菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをも()()にヽ死す。此等は正法一千年の内なり。(御書1003頁1行目~1004頁6行目) 

 本日は、興栄山要行寺本堂新築落慶法要、まことにおめでとうございます。
 皆様方の尊い外護の赤誠(せきせい)によりまして、要行寺の本堂がこのように面目を一新し、立派に新築されましたことを、心からお祝い申し上げます。
 これもひとえに、住職・磯村如道房の愛宗護法の堅固な信念と、御信徒各位の外護の赤誠によるものでありまして、心からお祝い申し上げるとともに、その功績は計り知れないものがあり、必ずや仏祖三宝尊も御嘉納あそばされるところと、心からお喜び申し上げます。
 どうぞ皆様には、この歓喜と功徳をもって、要行寺がこの地域における弘通の法域として、その使命を果たし、いよいよ活躍されますように、心からお祈を申し上げる次第であります。

 つきましては、まず、本文に人る前に、この『報恩抄』について少し申し上げたいと思います。
 『報恩抄』は、建治ニ(1276)年七月二十一日、宗祖大聖人様が御年(おんとし)五十五歳の時、旧師・道善房の逝去の報を聞き、追善供養のために(したた)められ、出家当時の兄弟子である、清澄寺の浄顕房ならびに義浄房の両人へ送られた御書であります。本抄は御書十人部ならびに五大部の一つに数えられている、重要な御書であります。
 ちなみに十大部と申しますのは、まず文応元(1260)年五月に認められました『唱法華題目抄』、その次に文応元年七月に認められました『立正安国論』、三番目に文永九(1272)年二月の『開目抄』、四番目に文水十年四月の『観心本尊抄』、五番目が文水十一年五月の『法華取要抄』、六番目が建治元年六月の『撰時抄』、七番目が建治ニ年七月の『報恩抄』、八番目が建治三年四月の『四信五品抄』、九番目が建治三年六月の『下山御消息』、最後の十番目が弘安元(1278)年九月の『本尊間答抄』であります。以上の十編を十大部と申すのであります。
 さらに、十人部のなかでも特に重要なる御書といたしまして、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』の五編を五大部と称しているのであります。したがって『報恩抄』は、五大部ならびに十大部のなかに入る、いわゆる最重要御書であるということになります。

 次に、当抄のあらましについて申し上げますと、総本山第二十六世日寛上人は『報恩抄文段』に、
 「報恩抄送文に云わく『道善御房の御死去の(よし)()ぬる月(ほぼ)(これ)を承り乃至此の文は随分(ずいぶん)大事の大事どもをかきて候ぞ』等云云。『大事の大事』とは、(およ)そ五大部の中に、安国論は佐渡已前にて(もっぱ)法然(ほうねん)の謗法を破す。故に(ただ)()権実(ごんじつ)相対にして(いま)だ本迹の名言(みょうごん)()ださず。(いわ)や三大秘法の名言を出ださんをや。開目抄の中には広く五段の教相を明かし、専ら本迹を判ずと(いえど)(ただ)『本門寿量の文底秘沈』と云って、(なお)未だ三大秘法の名言を明かさず。撰時抄の中には『天台未弘(みぐ)の大法、経文の(おもて)顕然(けんねん)なり』と判ずと雖も、(しか)も浄・禅・真の三宗を破して、未だ三大秘法の名義(みょうぎ)を明かさず。(しか)るに(いま)当抄の中に於て、通じて諸宗の謗法を折伏し、別して真言の誑惑(きょうわく)責破(しゃくは)し、(まさ)しく本門の三大秘法を顕わす。これ(すなわ)ち大事の中の大事なり。故に『大事の大事』と云うなり。()が祖は是れを(もつ)て即ち師恩報謝に()したもうなり」(御書文段379頁)
 つまり、本抄が「大事の中の大事」たる所以は、例えば『立正安国論』や『開目抄』『撰時抄』と比較されまして、本抄には本門の三大秘法を顕されている故であると、甚深の御指南をあそばされているのであります。

 次に、本抄の題号について、日寛上人は同文段に、
 「この抄の題号は即ち二意を含む。所謂(いわゆる)通別なり。通は()わく、四恩報謝の報恩抄、別は謂わく、師恩報謝の報恩抄なり」(同頁)
と仰せであります。すなわち、本抄の題号には通と別の義がありまして、通じて言うならば、父母・師匠・三宝・国王の四恩報謝のためであり、別して言えば、師匠の恩に対する報恩謝徳であると仰せられているのであります。
 なお、四恩につきましては、本抄の四恩と『四恩抄』の四恩には の相違があります。本抄におきましては、先程も申し上げましたように、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国王の恩の四つを挙げておられますが、『四恩抄』では、一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩・三宝の恩の四つを挙げておられます。すなわち、本抄においては『四恩抄』の一切衆生の恩に代わり、師匠の恩を挙げておられますが、これは本抄が師恩報謝のために認められたからであります。
 また、本抄におきましては一切衆生の恩を(がっ)して父母の恩のなかに置き、四恩とされておりますけれども、その所以について大聖人は『法蓮抄』に、
 「然るに六道四生の一切衆生は皆父母なり」(御書 815頁)
と仰せられています。つまり、衆生が三世にわたって三界六道の生死(しょうじ)を絶え間なく繰り返す生命流転の相からするならば、一切衆生が父母であることになりまして、父母の恩を報ずるということは一切衆生の恩を報ずることになるからであると仰せられているのであります。
 次に、別して言えば「師の恩報謝の報恩抄なり」と仰せの如く、本抄は師匠の報恩謝徳のために認められたものであります。
 すなわち、旧師・道善房の逝去を(いた)み、その報恩謝徳のために認められ、(かさ)が森と故道善房の御墓前において読ましめたものであります。したがって、総結の文には、
 「されば花は根にかへり、真味は土にとヾまる。此の功徳は故道善房の聖霊(しょうりょう)の御身にあつまるべし」(御書1037頁)
と仰せになっているのであります。

 次に、当抄の大意について簡単に申し上げますと、最初に通じて四恩を報じ、別して故道善房の恩を報ずべきことを明かされ、大恩を報ずるためには必ず仏法を習い極めて智者となることが肝要とされ、そのためには出家して一代聖教を学ばなければならないとされております。
 しかし、一代聖教を学ぶ明鏡となるべきところの十宗いわゆる倶舎(くしゃ)成実(じょうじつ)・律・法相(ほつそう)・三論・真言・華厳・浄上・禅・天台法華の各宗が、それぞれ自宗の正当性を主張しているために、いずれが仏の本意か解らず、そこでインド、中国、日本の各宗の教義を挙げて、一代聖教のなかでは法華経が最勝であり、法華経の肝心は題目にあることを示され、さらに末法の法即人の本尊と、題目、戒壇の三大秘法を整足して明かされているのであります。
 なかんずく、真言密教を破折されまして、天台座主(ざす)でありながら真言に転落した慈覚、智証については、厳しく破折をされているのであります。
 最後に、三大秘法を流布し、一切衆生を救済することが、師の大恩に報ずる道であると明かされているのであります。
 以上、簡単に題号と大意について申し上げましたが、続いて本文に人ります。

 初めに「問うて云はく、華厳の澄観・三論の嘉祥(かじょう)・法相の慈恩・真言の(ぜん)無畏(むい)、乃至弘法(こうぼう)・慈覚・智証等を、仏の敵と()給ふか」と仰せであります。
 「華厳の澄観」というのは、御承知の通り、唐代華厳宗の第四祖で、清涼(しょうりょう)国師と呼ばれた人であります。華厳学の復興と弘教に功があったとして、皇帝から清涼法師、続いて清涼国師の号を受けた人であります。
 「三論の嘉祥」というのは、吉蔵(きちぞう)大師のことでありまして、中国の隋代に出た、三論宗中興の祖と言われた人であります。嘉祥寺に住んでいましたので、この名があります。
 「法相の慈恩」というのは、法相宗の()のことでありまして、慈恩寺に住んでおりましたので慈恩大師と呼ばれていたのであります。この人は法相宗の事実上の開祖と言われております。
 「真言の善無畏」とは、東インドの生まれで、密教を学び、中国に入って大日経などを翻訳し、中国に本格的に密教を伝えた最初の人であると言われております。この人は、同時代に出た金剛智、不空と共に「三三蔵」と呼ばれたのであります。
 「弘法」とは、皆さんも御承知の通り、日本真言宗の開祖であります。諱は空海で、讃岐(さぬき)(香川県)の生まれでありまして、唐に渡って真言密教を学び、帰朝後、弘仁七(817)年に高野山(こうやさん)金剛(こんごう)峯寺(ぶじ)を建てて、密教を流布した者であります。
 「慈覚」というのは、比叡山延暦寺の第三代座主・円仁(えんにん)のことでありまして、入唐(につとう)して顕密を修め、承和十四(847)年に帰朝して、仁寿四(854)年に天台の座主となった人であります。
 「智証」というのは、延暦寺の第五代座主・円珍のことでありまして、入唐して止観と天台宗の章疏(しょうしょ)を学び、真言密教と両部密教を学んで帰朝しました。比叡山山王院に住み、貞観十(868)年に延暦寺座主となり、園城(おんじょう)()に伝法灌頂(かんじょう)道場を建てた者であります。
 以上、これらの人師は、いずれも八万法蔵を胸に浮かべ、十二部経を(たなごころ)に握る明師にして、智は日月の如く、徳は四海にわたる、智徳霊験の高徳、内証不測の大師なるも、大聖人がこれらの人師を「仏の敵」と断ぜられたのは、いかなる意かと問われているのであります。

 この問いに対しまして「答へて云はく、(これ)大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼を()て経文を見るには、法華経に(すぐ)れたる経ありと()はん人は、(たと)ひいかなる人なりとも謗法は(まぬが)れじと見えて候」と仰せであります。
 つまり「この疑難は実に重大である。仏法において第一の大事である」と仰せられ、まさしく経文を見ると、たとえどのような人であっても、法華経より勝れたお経があると言う人は、謗法の罪を免れることができないと厳しく仰せられているのであります。

 次に「(しか)るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人(しょにん)仏敵たらざるべき。()し又をそれをなして()し申さずば、一切経の勝劣(むな)しかるべし。又此の人々を恐れて、(すえ)の人々を仏敵と()はんとすれば、彼の宗々の末の人々の云はく、法華経に大日経をまさ()りたりと申すは我私(わたくし)の計らひにはあらず、祖師の御義なり。戒行の持破(じは)、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたが()ふ事なしと申せば、彼の人々にとがなし」と仰せであります。
 つまり、経文の通りに言うならば「此の諸人」すなわち、華厳の澄観、三論の嘉祥、法相の慈恩、真言の善無畏、乃至、弘法、慈覚、智証らは、どうしても仏敵たることを免れない。もしまた、これらの人々を恐れて、その末である今日(こんにち)の華厳、あるいは真言の者達を仏敵であると指摘しなかったならば、一切経の勝劣は空しくなってしまう。
 また、その末流である今日の華厳、真言の者達を仏敵と言えば、彼の宗の人達は「大日経が法華経より勝れていると言うのは、私の計らいてはなくして『祖師の御義』すなわち、善無畏とか弘法、慈覚、智証の立てられた義である。祖師と私達とには、持戒か破戒か、智慧が勝れるか劣るか、身分が上か下かなどの違いはあっても、学んだ法門には違いがない」と答えるであろうから、結局、誤った教えを聞いた末の人々には(とが)はなく、誤った教えを説いた善無畏、弘法、慈覚、智証などの祖師にこそ、(あやま)ちがあるのであると仰せられているのであります。

 次に「又日蓮(これ)を知りながら人々を恐れて申さずば「(むし)身命(しんみょう)(うしな)ふとも教を(かく)さヾれ」の仏陀(ぶつだ)諫暁(かんぎょう)を用ゐぬ者となりぬ。いかんがせん、()はんとすれば世間をそ()ろし、黙示(もだ)さんとすれば仏の諫曉のがれがたし。進退(ここ)(きわ)まれり」と仰せであります。
 つまり、大聖人が先に述べられたことを知りながら、華厳や真言の祖師を恐れて何も言い出さなかったならば、「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さゞれ」という仏の(いまし)めを用いない者となってしまう。言うとすれば世間の迫害が恐ろしく、言うまいとすれば仏の誠めに(そむ)くことになる。進退ここにきわまったと、おっしやっているのであります。
 ここに引かれる「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さゞれ」というのは涅槃経の文でありまして、たとえ身命を失うことがあっても、仏が説かれる教えに背いてはならないという意味であります。

 次に「(むべ)なるかなや、法華経の文に云はく「(しか)も此の経は如来の現在にすら(なお)怨嫉(おんしつ)多し。(いわ)んや滅度の(のち)をや」と。又云はく「一切世間(あだ)多くして信じ難し」等云云」と仰せであります。
 初めの「宜なるかなや」というのは、なるほどとか、本当に、道理で、という意味であります。そして「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」とは法華経法師品の御文でありまして、法華経を弘める者には、釈尊の在世でさえ怨嫉が多いのだから、まして仏の滅後に弘める者は、より多くの怨嫉を受けて、難に()うのは当然であるとの意であります。続いて「一切世間怨多くして信じ難し」とは法華経安楽行品の御文でありまして、仏が法華経を説く時は、世間のあらゆる人が仏を(うら)み、迫害して、信じようとしなかったことを言っております。
 大聖人は『如説修行抄』に、
 「日蓮が、住んでいた所を追われ、(きず)(こうむ)り、さらには幕府の(とが)めを受けて伊豆と佐渡の遠国に二度も流されたことを見聞したとしても、これは『猶多(ゆた)怨嫉(きょう)滅度後』の経文の通りであって、今、初めて驚くべきことではない」(同670頁取意)
と仰せになっております。
 つまり、釈尊は九横(くおう)の大難を受けられ、像法の天台や伝教も法華経弘通の故に難を受けました。同様に末法に至って日蓮大聖人も、伊豆や佐渡の配流等の大難を受けたことを知るべきてあると仰せになっているのであります。

 次に「釈迦(しゃか)仏を摩耶(まや)夫人(ぶにん)はら()ませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとを()し見て、我等が大怨敵(おんてき)法華経と申す利剣をはらみたり。事の(じょう)ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯(じょうぼん)王宮に入り、御産安穏(あんのん)良薬(ろうやく)を持ち候大医ありとのヽしりて、大毒を(きさき)にまいらせつ」と仰せてあります。
 ここで、釈尊在世の様子を見てみると、摩耶夫人か釈尊を懐妊された時、第六天の魔王は摩耶夫人のお(なか)の子の様子を通し見て「我々の大怨敵である法華経の利剣を身ごもったのであるから、出産前になんとかして、これを失うようにしなければならない」と決心をして、第六天の魔王自ら、大医師と姿を変えて浄飯王宮に入り、大きな声で「安産の大良薬を持参してきた大良医である」と(いつわ)って、夫人に毒を差し上げようとしたのであります。
 その「第六天の魔王」というのは、皆さん方もよく御存じのように、欲界の六欲天の最頂に住する魔王でありまして、『大智度論』のなかには、
 「此の天は他の()する所を奪って(しか)して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とあります。すなわち、多くの眷属と共に、仏道を成するのを妨げて精気を奪い、それを自己の楽しみとする、いわゆる奪命(だつみょう)と言われるものであります。三障四魔のなかの天子魔に当たりまして、大聖人は『治病大小権実違目』に、
 「元品(がんぽん)法性(ほっしょう)は梵天・帝釈等と顕はれ、元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕はれたり」(御書1237頁)
と仰せになり、第六大の魔王とは元品の無明であると約しておられます。

 次に「初生(しょしょう)の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を()でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆(だいば)瞿伽梨(くがり)波瑠璃(はるり)(おう)()(じゃ)()(おう)等の悪人の身に入りて、(あるい)は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す」と仰せであります。
 つまり、釈尊が生まれた時は、すぐに石を降らしてつぶそうとし、乳には毒を入れて殺そうとし、また出家のため城を出た時には、黒い毒蛇となって道を塞いで通行の邪魔をした。あるいはまた、提婆達多や瞿伽梨、波留瑠王、阿闍世王等の悪人の身中に人って、あるいは大石を投げて仏の身から皿を出さしめ、あるいは釈尊の同族を殺し、あるいは仏の弟子などを多く殺すという大難が続いたということです。
 これらは、釈尊の御一代の上から、魔の所為を挙げられているのであります。

 次に「此等(これら)の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたば()かり()し、如来(にょらい)現在(げんざい)猶多(ゆた)怨嫉(おんしつ)の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連(もくれん)・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞかし」と仰せてす。
 今言ったような、いわゆる釈尊の九横の大難は皆、遠くは釈尊に法華経を説かせまいとして(たくら)んだもので、法華経法師品第十に説かれる、
 「如来の現在すら、猶怨嫉多し(如来現在。猶多怨嫉)」(法華経326頁)
という大難でありました。しかし、それは仏にとって遠き難であって、それよりも間近な、直接の難がある。すなわち、舎利弗、目連や諸大菩薩達も、法華経以前の四十余年の間は、やはり法華経の大怨敵の仲間であったということなのです。
 ここに引かれている「如来現在猶多怨嫉」は、法華経を弘める者には釈尊の在世ですら大難があった、いわんや滅度ののちに法華経を弘める者には当然、数々の大難があると、このようにおっしやっているのであります。

 次に「況滅(きょうめつ)度後(どご)と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそ()ろしき大難あるべしと、()かれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわ()うや在世より大なる大難にてあるべかんなり」と仰せであります。
 今申したのは、 いわゆる仏在世の難であるけれども、「況滅度後」つまり未来の世においては一層、恐ろしい大難があるであろうと、法華経の法師品に説かれているのであります。
 つまり、仏でさえ忍びかねた大難を、我ら凡夫がどうして忍ぶことができようか。ましてや、釈尊在世よりも大きな難があるであろうと言われているではないかとおっしやっているのであります。

 そして「いかなる大難か、提婆が(たけ)(じょう)、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象(すいぞう)には()ぐべきとはをも()へども、彼にも()ぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々()ふ人をこそ、滅後の法華経の行者とは()(そうら)わめ」と仰せてす。
 つまり、たとえそれが、いかなる大難であったとしても、例えば提婆達多が長さ三丈、広さ一丈六尺の大石を投げて仏を殺そうとした難、あるいは阿闍世王が酔った象を放って仏を害そうとした難に過ぎるような難はないと思うが、仏の滅後にはそれらの難に過ぎた難を受けると示されてあるから、我が身には少しの(とが)もないのに、たびたび大難に値う人こそ、実は滅後の法華経の行者であると知らなければならないとおっしやっているのであります。
 このことについては『御義口伝』のなかに、
 「妙法蓮華経を安楽に行ぜん事、末法に於て今日蓮等の(たぐい)の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と(こころ)()べきなり」(御書1762頁)
と仰せです。特にこの御文のなかで「難来たるを以て安楽と意得べきなり」との御指南は、私達の信心の上において、身に染みて拝すべき大事な御指南であります。
 我々が広宣流布の戦いをしていけば、この先いかなることがあるか判りません。しかし、それを大御本尊様への絶対の信をもって乗りきっていくところに、私達の一生成仏があるわけであります。したがって「難来たるを以て安楽と意得べきなり」と仰せられているのであります。
 難に負けない、難を乗り越える信心こそ、今、私達にとっても、一番大事な信心の姿ではないかと思います。

 次に「付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使(おんつかい)なり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は(だん)弥羅(みら)(おう)(こうべ)を刎ねられ、仏陀(ぶっだ)蜜多(みった)・竜樹菩薩等は赤幡(あかきはた)を七年・十二年さしとをす。馬鳴(めみょう)菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをも()()にヽ死す。此等は正法一千年の内なり」と仰せであります。
 仏様の滅後に教えを弘めることを付嘱されたところの付法蔵の二十四人、つまり、釈尊の付嘱を順次、受け継いた魔訶迦葉から師子に至る付法蔵の二十四人は、いずれも四依の菩薩であり、仏様の使いであると仰せになっております。
 御文のなかの「四依の菩薩」というのは、仏の滅後において衆生を(あわ)れみ、世間の()りどころとなるべき四種の人格者で、小乗の四依は、正法の前の五百年に出た迦葉、阿難等であります。また大乗の四依は、正法の後の五百年に出た馬鳴、竜樹、天親等であります。ちなみに像法千年には、南岳、天台等が出現されたのであります。
 このように、摩訶迦葉から師子に至るニ十四人は、いずれも四依の菩薩であって、すべて仏様の使いであると仰せです。
 そして、提婆菩薩は法のために外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に首を刎ねられたとおっしやっています。また、仏陀蜜多は十ニ年間、竜樹菩薩は七年間、共に赤い(はた)を押し立てて、外道ならびに邪見の諸師の破折に精進された。あるいは馬鳴菩薩は金銭三億をもって敵国に売られ、如意論師は非道の外道のために思い()にしてしまったのである。これらは、すべて正法千年の間のことであるとおっしやっているのであります。

 ここに挙げられる提婆菩薩等の方々について簡略に申し上げますと、まず「提婆菩薩」というのは、付法蔵の第十五祖で、南インドの人であります。バラモンの出身で、竜樹の弟子となった人でありますが、昔、大自在天の請いによって一眼を供養したため、片眼となったと言われます。南インドで外道に帰依していた王を破折して、邪道の論師を多数、破折いたしました。ところが、そのなかの一人に(うら)まれて殺されました。しかし、命が終わる前に、その外道の(おろ)かさを哀れみ、自分を殺そうとした者をも救ったと言われている方であります。
 次に「師子尊者」が出てきますが、これは付法蔵のニ十四人の最後の伝灯者であります。師子尊者が北インドの罽賓国で布教をしていた時に、国王の檀弥羅は邪見が強盛で、多くの寺塔を破壊したり、僧を殺すなどの迫害をしました。そしてついに師子尊者の首をも切ってしまったのであります。しかし、獅子尊者の首からは一滴の血も流れず、ただ白い乳のみが出たということてす。これは、師子尊者が白法を持っていたこと、また成仏したことを顕すとされております。
 次に「檀弥羅王」ですが、罽賓(けいひん)国の王様でありまして、この王は仏教に対して敬信の念が全くなく、罽賓国内の寺院や仏塔を破壊し、多くの僧を殺害したと言われております。
 次に「仏陀蜜多」でありますが、付法蔵の第九祖で、(たく)みな方便を駆使して衆生を教化し、諸々の外道を論破しました。ある時、外道を信ずる国王を教化するために、赤い旗を掲げて十ニ年間、王城の前を往来し、ついに王の面前で法論する機会を得ました。そして、一切の博学弁達のバラモンと対論してこれを論破し、ついに王の帰依を得たのであります。また、ある苦得外道の行者が仏の悪口を言うのを聞いて、必ず地獄に()ちるとして破折し、この苦得外道の徒・五百人と共に仏法に帰依させたと言われている人であります。
 その次が「竜樹菩薩」ですが、この方は南インドの大乗の論師で、付法蔵の第十四祖であります。大乗思想の大成者で、八宗の祖と言われている方であります。元々はパラモンの出身で、初め小乗教を学びましたが、雪山(せっせん)で大乗教を教えられ、また南海の竜宮を訪ねて多くの大乗経典を得たと言われております。当時、盛んになりつつあった大乗教の諸経典を注釈し、理論的基礎を与えて大乗思想の振興に大きく貢献した人であります。この竜樹の思想は中観派と称されるもので、大乗思想の根幹をなすものであるため、後世、八宗の祖、いわゆる倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・天台の、八宗の祖と言われた方であります。
 次に「馬鳴菩薩」という方は、中インド、舎衛(しゃえい)国の大乗の論師であります。初め外道の学者として盛んに仏教を非難しておりましたけれども、のちに仏教に帰依し、天賦(てんぷ)の詩才を発揮して、よく衆生を教化したと言われております。迦弐志加(かにしか)王の保護を受けて仏教の興隆に努力し、また仏教文学の『仏所行讚』などを著しています。
 最後に「如意論師」というのは、『毘婆沙論』を作り、また世親菩薩の師とされる方であります。超日王は如意論師を(はずかし)めようと、外道の学者百人を集めて如意論師と討論をさせました。そのうち九十九人は論師に屈服しましたが、最後の一人に(はか)られ、世親に遺誡(ゆいかい)して、舌をかみ切って死んだと言われております。

 以上、正法一千年の間における、付法蔵の四依の菩薩の受難を挙げられていますが、これらの御文をさらに末法今時の上から拝すれば、今日、新型コロナウイルス感染症や様々な難が競い起きている混迷の世相にあって、私どもは、たとえいかなる難が到来しようとも、大御本尊様に絶対の信を取り、全力を傾注して自行化他の信心に励み、もって広市の戦いに臨んでいかなけれはならないことを痛感するものであります。
 そもそも、世の中の不幸と混乱の原因は、実はすべて邪義邪宗の謗法の害毒にあります。まさにこれは、大聖人様が『立正安国論』においてお示しの通リであります。この謗法を()ち、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の仏法を立てなければ、真の幸せも平和も招来することはできないわけでありますから、我々は、いかな難に値おうとも、妙法広布に精進していくことが肝要であります。まさに妙法広布に精進していくなかに、必ず広大なる御仏智を頂き、いかなる難をも乗り越えられることを確信し、我々はいよいよ強盛に自行化他の信心に励んでいくことが肝要であろと思います。
 『御義ロ伝』のなかには、
 「末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1762頁)
と仰せであります。また『開目抄』には、
 「今、日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来たるは過去の重罪の今生の護法に招き()だせるなるべし。鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば、波、山のごとし。(ねむ)れる師子に手をつくれば大いに()」(同573頁)
と仰せられ、さらにまた『椎地四郎殿御書』には、
 「大難来たりなば強盛の信心弥々(いよいよ)(よろこ)びをなすべし。火に(たきぎ)くわ()へんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流(しゅる)()る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河(しょが)の水は大難の如く入れども、かえ()す事とが()むる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ」(同1555頁)
と仰せであります。
 これらの御文を拝する時、私どもは、これから先、たとえいかなる難が競い起きようとも、大御本尊様への絶対の信のもとに、身命を惜しまず妙法広布に尽くしていくならば、必ず一生成仏を果たせることを確信していかなければなりません。
 妙法の広大無辺なることをしっかりと拝して、私達は自行化他の信心に励むことが肝要であります。

 いよいよ本年も残り少なくなりましたが、皆様には最後の最後まで、異体同心・一致団結して妙法広布に尽くされることをお願いする次第であります。
 特に今日のあらゆる状況から見て、折伏を忘れた信心は、本宗のなかには存在しません。まさに、自行化他にわたりての南無妙法蓮華経であります。一人ひとりが折伏をしっかり行じていくところに、必ず大きな功徳が存することは間違いありません。広宣流布を願う我々が一致団結して、この難局を乗りきっていくことが肝要であろうと思います。
 皆様方のいよいよの御精進を心からお祈りして、本日の法話といたします。

(文責在大日蓮編集室)