大白法・令和2年3月1日刊(第1024)より転載
報恩抄 平成新編御書(999頁5行目~11行目)
妙安寺災害復興新築落慶法要の砌
平成三十年十二月二十三日
於:東京都大島町
譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては
本日は、当妙安寺の災害復興新築落慶法要、まことにおめでとうごさいます。
ただいまの経過報告や祝辞を伺って、この災難を皆様方の信心で乗りきってこられた姿を彷彿させました。難があるということは、また、ある意味におきましては自らの罪障を消減しているわけであります。したがって、大聖人様は、
「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1763頁)
と仰せであります。どんな難儀にも、しっかりとお題目を唱え、異体同心して乗りきっていくところに、私達の信心の本当の姿が存するものと拝するのであります。
さて、ただいまは『報恩抄』の一文を拝読いたしましたが、この『報恩抄』のお話は昨日の大分 ・妙祥寺の親教から始めたばかりであります。
昨日は『報恩抄』の言頭から、四行目の「智者とならで
まず、この『報恩抄』はどのような御書かと言いますと、文字通り「恩を報ずる」ということが示され、さらに恩を報ずるためには何が一番大切かということが説かれているのであります。
この御書の一番最初には、
「
とあります。つまりキツネは、けっして古巣を忘れず、死ぬ時は必ず首を自分の生まれた古い塚に向けて死ぬと言われているのであります。
これはどういう意味かと言いますと、自分の生まれた塚に対して足を向けないという意味です。今はなかなか、そういったことを言わなくなりましたけれども、足を向けて死なないというのは親孝行の大事な所作なのです。
それから次に、大聖人様は、
「
と仰せられ、白い亀の譬えを出しております。
これは中国の話でありますが、ある日、毛宝が白い亀を買い、かわいそうなので、その亀を河に放してあげたのです。その後、戦がありまして、毛宝達は戦に敗れて逃げたのですが、多くの者は河に赴き、その河に沈んで亡くなってしまったのです。この時、毛宝は戦争支度でありますから、重い
それから、
「
と仰せのように、予譲という人が出てきます。
予譲は中国の戦国時代に、智伯という人に仕えたのですが、この智伯は戦争を起こして、
ところが、結局は捕まってしまったのです。予譲はそれでも、なんとしてもかたきを討ちたいということで、襄子に「着ている着物を私にくれ」と言い、その着物を剣で刺して、かたきを取ったことにしたという話です。
さらに続いて、
「
と仰せでありますが、弘演という人は中国の春秋時代の衛の懿公の忠臣でありまして、懿公
は異民族に攻められて殺されてしまったのであります。その時、たまたま使者としてよその国へ行っておりました弘演が帰ってまいりますと、主君の死体が荒され、内臓が散乱している姿を見た弘演は、自分のおなかを割き、主君の内臓を自分のおなかに詰めて死んでいったという話です。
『報恩抄』は恩に報いるということでありますから、大聖人様は、まず中国の様々な話を出して、昔の人達はこのような形で恩に報いたということをお示しになっているのです。
しかし、これが末法における一番正しい恩への報い方ではないのでありまして、いかにしたら本当の報恩ができるかということが、この御書に詳しく出てくるのであります。
結論から言うと、しっかりとお題目を唱えていくということが大事です。お題目の功徳をもって恩に報いるということが真実の報恩の姿であり、かたきを取ることとかは、歴史上にあったかも知れませんが、それにこだわってしまってはだめたとおっしゃっているのです。けれども、最初でありますから、まず恩に報いた昔の例を仰せになっているのであります。
そもそも、この『報恩抄』は建治二(1276)年七月二十一日、大聖人様が御年五十五歳の時に、元の師匠である
この御書は御書十大部の一つで、十大部というのは、御書のなかでも特に大事な十部の御書を言うのであります。
その一番目は『唱法華題目抄』で、これは文応元(1260)年五月にお認めになりました。その次が『立正安国論』で、これも文応元年の七月に認められました。その次が『開目抄』で、この『開目抄』は佐渡で、文永九(1272)年二月にお認になりました。それから『観心本尊抄』も佐渡においてお認めになられ、これは文永十年四月であります。そして『法華取要抄』『撰時抄』『報恩抄』『四信五品抄』『下山御消息』『本尊問答抄』というのが、本宗における十大部であります
このように『報恩抄』は、十大部のなかの一つに挙げられる大事な御書なのであります。
次に『報恩抄』の概略・
「報恩抄送文に云く『道善御房の御死去の
つまり『報恩抄』には「大事の大事」が説かれていると大聖人様が仰せられているが、その「大事の大事」とは、佐渡に流される以前の『安国論』にも、また五重相対が明かされる『開目抄』にも、また天台や伝教がいまだ弘めていない大法があると明かされて浄土宗・禅宗・真言宗の三宗を破折する『撰時抄』にも明かされておらず、『報恩抄』に至って、ようやく三大秘法の名目が出てくるのであります。つまり、この三大秘法こそが「大事の中の大事」なのであるとおっしゃっているのです。
また、日寛上人は『報恩抄』の題号につきまして、
「此の抄の題号は即ち二意を含む、
と、『報恩抄』と名づけたのには二つの意味があると御指南あそばされております。
すなわち『四恩抄』には一切衆生の恩・父母の恩・国王の恩・三宝の恩の四恩が説かれております。ところが、この『報恩抄』では、父母の恩、国王の恩、三宝の恩は同じなのですが、一切衆生の恩の代わりに師匠の恩を挙げているのであります。
しかし、これには意味がありまして、この『報恩抄』は、まさに師・道善房に対して恩を報ずるという御書でありますから、通常の四恩とは少し違うところがあるのです。
その結論としては、恩に報いるためには、仏法を習い極めて智者となることが肝要であると示され、そのために大聖人様は御出家あそばされ、一代
ところが、一代聖教を学ぶ明鏡となるべき十宗が、真言は真言、念仏は念仏と、様々な教えを勝手に説いていて、仏の本意がどこにあるのか判らないのです。そこで、その十宗が言っていることをしっかりと選別して、どの教えが一番正しいかを知らなければないと、大聖人様はおしゃっているのであります。
昨日は、ここのところまでしかできませんでしたので、今日はそのあとから少しお話ししていきたいと思います。
初めに「譬へは衆盲をみちびかんには生盲の身にては
次に「
仏法でも世の中でもそうですが、ものを知らないということほど愚かなことはありません。やはり、ものを知るということは非常に大切なのです。
この「方風を弁へざらん大舟」、つまり風の方向が判らないような舟では、多くの人を乗せて目的地に行くことはできないように、仏法においても正しい仏法を知らず、間違った教えに従ったならば、成仏を遂げることはできないということです。
そしてまた「仏法を習ひ
これはどういう意味かと言いますと、仏法を習い極めようと思うならば、どうしても仏道修行するための「いとま」つまり時間を得なければならないのてす。しかし、修行の時間を得ようと思うならば、父
・師匠・国主などの心に従って、すなわち世俗のことに従って奔走をしてはならないだろうと、非常に厳しいことをおっしゃっているのです。つまり、大事な仏法を学ぶためには、世法のことに執われて、信心を疎かにしてはいけませんよとおっしゃっているのです。
これは私達の信心のなかでも、非常に大事であります。言うならは、遊びほうけて信心を失い、あるいはそのほかの用事にかまけて信心をしていこうとしない、
次に「是非につけて
この御文について、日寛上人は 『報恩抄文段』に、
「一、父母・師匠等の心に随ふべからず文。止の四(四十三)に云わく『
と、親の意見に従うのが本当ではあるかも知れないが、仏に成る道は親の意に従ってはならない、つまり親が間違った信心をしている場合には、親の言うことを聞くのではなく、間違った教えに執われている親を正していく、直していくのが本当の親孝行であると言っているのです。
これにつきましては『兄弟抄』のなかに御文があります。少し長くなりますが、言葉を
「
とお示しであります。
こういうことは、親が信心に反対している場合に、よく見かけるケースです。その時には、やはり勇気を振り絞って、しっかりと自分自身の信心を固めていくことが大事であります。
世間の道理にも、父母が
つまり、真の報恩とは何かと言えば、この仏法を親に下種し、折伏していくのが本当の親孝行になるということを言っているのです。
次に「この義は諸人
つまり、先程の『兄弟抄』の文におきまして、
「一切は
と仰せでありましたように、親の意見に従うか、従わないかという問題につきましては、間違った教えに執われている親の意見に従ってはならないし、その時にはむしろ親を諌めなけれはならないのてす。世間的に見れは、親の言うことを聞かないから親不孝になるけれども、それは親不孝ではなく、正しい仏法の道を教えるという意味においては、むしろ従わないほうが正しい親孝行だとおっしゃっているのであります。
ですから、本当に成仏を願うならば、むやみに父母、師匠等の心に従ってはならないのです。間違った父や母の意見に従って謗法を犯すようなことがあってはならないとおっしゃっているのであります。
しかし、このようなことを言うと、世間の人達はみんな驚いて、「顕にもはづれ」つまり世間の道徳にも外れ、「冥にも叶ふまし」つまり仏法の精神にも背くことになるのではないかと思うであろう。けれども「外典の孝経」つまり儒教の根本である孝について説かれている、『論語』と共に尊重されているものでありますが、それには父母、主君の心に従うべきではない時には従わずして、かえって父母、主君を諌めていくのが真の忠臣、孝子、親孝行の姿であるというようにおっしゃっているのです。
そのようなことは、皆さん方も色々なところで見聞きしているのではないかと思います。謗法にまみれている親を救うのは子の役目てす。したがって、親の間違った言葉、邪義邪宗の教えを信じてはならないのです。
もちろん、親は大事にしなければいけません。しかし、本当に親を大事にするためには、間違った教えに取り
次に「内典の仏経に云はく『恩を
続いて「
紂王という名は聞いたことがあるてしょう。この人は、お
そのように、仏法の上においては間違ったことに対して、特に自分の親や兄弟、親族に対しては、しっかりと言わなければなりません。はっきりと言っていくのが信心の姿であります。
とかく、親とか親戚などになりますと、なかなか折伏ができないというケースもあるかと思います。しかし、その人達はむしろ、しっかりと折伏しなければならないのです。
折伏は、けんかではありませんから、きちんと礼を尽くして、大聖人様の法を説いていくことが大事です。そういう胆力のある信心、
自分自身がお題目を唱えていますと、まさに肝の据わった折伏がてきるのです。しかし、お題目が足りないと、どうしても相手の意見に左右されてしまって、本当の折伏がてきなくなってしまう、あるいは途中で折伏があやふやになってしまうことが、よくあります。
次に「
このことにつきましては『法蓮抄』に、
「教主釈尊をば大覚世尊と
と仰せです。
つまり、私達が親に対して真の孝養を尽くすとは、己れ自身がしっかりと仏道修行に励むとともに、仏道の上からきちんと親や子供、自分に近い人達を導いて、しっかりと折伏していくことです。
そのためには、ます私達自身が、しっかりとお題目を唱えていなければなりません。朝夕の勤行をしっかりして、お題目を唱えていないと、その心が出てこないのです。どうしても
予定の時間を過ぎてしまいましたのて、本日はここまでといたします。
恩を報ずる根本、真実の報恩とは何かと言えば、要するにお題目なのです。親が信心をしなかったら、まず親を、どんなことがあっても折伏をしなければなりません。
折伏と言うと、けんかのように厳しく言うのが折伏だと思っている人がいたら、それは違います。折伏は慈悲なのです。だから自分の親、あるいは子供、あるいは配偶者や親戚といった近い人を、しっかりと折伏しなければだめです。それには、やはり人格が必要です。
成仏という言葉には色々な解釈がありますけれども、その一側面としては人格の完成という意味もあるのです。折伏する時も、自分の人格をしっかり磨いていかなければ、相手は 言うことを聞いてくれないでしょう。そのためには、人格の完成を目指してお題目をしっかり唱え、その功徳と人格をもって、親でも子供でも兄弟でも親戚でも近所の人でも折伏していってごらんなさい。ここから変わっていくのです。その根本のところがぐらついていると、本当の折伏はできません。このことは、私が言うまでもなく、皆さん方も重々お解りのことと思います。
今、宗門は平成三十三年に向かって、みんなで異体同心して頑張っています。どうぞ、これらのことをしっかり頭のなかに入れて、自行化他の信心に励んで、必ず誓願目標を達成していただきたいと思います。
以上をもちまして、親教を終了いたします。