(★1408㌻) 夫一代聖教とは総て五十年の説教なり。是を一切経とは言ふなり。此を分かちて二と為す。一には化他、二には自行なり。 |
一代聖教とは、釈尊が五十年の間に説いた教え全体のことであり、これを一切経という。この一切経を二つに分ける。一には化他の経であり、二には自行の経である。 |
一に化他の経とは、法華経より前の四十二年の間説き給へる諸の経教なり。此を権教と云ひ、亦は方便と名づく。此は四教の中には三蔵教と通教と別教との三教なり。五時の中には華厳と阿含と方等と般若となり。法華より前の四時の経教なり。 |
一には化他の経とは法華経よりまえの四十二年の間に説かれた、もろもろの経教である。これを権教といい、また方便と名づける。 これは化法の四教のなかでは、三蔵教・通教・別教の三教であり、五時のなかでは華厳・阿含・方等・般若という。法華経よりまえの四時の経教である。 |
又十界の中には前の九法界なり。又夢と寤との中には夢中の善悪なり。又夢を権と云ひ、寤を実と云ふなり。是の故に夢は仮に有って体性無し、故に名づけて権と云ふなり。寤は常住にして不変の心の体なり、故に此を名づけて実と為す。故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く、故に権教と言ふ。夢中の衆生を誘引し驚覚して法華経の寤と成さんと思し食しての支度方便の経教なり、故に権教と言ふ。斯れに由って文字の読みを糾して心得べきなり。 |
また十界のなかでは、仏界に対して、まえの九法界である。またな夢と寤のなかでは、夢のなかの善悪を説いた教えである。夢を権といい、寤を実という。夢は仮にあるもので、本体や性分ではないので、これを名づけて権というのである。寤は心の常住であり、不変の体であるから、これを名づけて実とするのである。四十二年のもろもろの経教は生死の夢のなかの善悪の事を説いているので権教というのである。夢を見ている衆生を誘い導き、目をさまさせて法華経の寤の世界に入れようと思われて、その支度方便として説かれた経教であるので権教というのである。 このことから、権と実との文字の読み方を明らかにして、その違いを心得ていくべきである。 | |
(★1409㌻) 故に権をば権と読む。権なる事の手本には夢を以て本と為す。又実を実と読む。実事の手本は寤なり。故に生死の夢は権にして性体無ければ権なる事の手本なり。故に妄想と云ふ。本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり。故に実相と云ふ。是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化他の権と自行の実との差別を知るべきなり。故に四教の中には前の三教と、五時の中には前の四時と、十法界の中には前の九法界は同じく皆夢中の善悪の事を説くなり。故に権教と云ふ。 |
故に、権という字はカリと読む。権であることの手本は夢を根本とするのでる。また実という字はマコトと読む。実事の手本は寤である。生死の夢は権であって本体や性分がないので権であることの手本なのである。ゆえに妄想というのである。本覚の寤は実であって生滅を離れた心であるから真実の手本である。ゆえに実相というのである。 このように、権実の二字の意味を明らかにして一代聖教のなかの化他の権教と自行の実教との差別を知るべきである。 四教のなかでは前の三教と、五時のなかでは前の四時と、十法界のなかでは九法界とは皆、同じく夢のなかの善悪のことを説いているのであり、ゆえに権教というのである。 |
此の教相をば無量義経に「四十余年未顕真実」と説きたまふ已上。未顕真実の諸経は夢中の権教なり。故に釈籖に云はく「性は殊なること無しと雖も必ず幻に藉りて幻の機と幻の感と幻の応と幻の赴とを発こす。能応と所化と並びに権実に非ず」已上。此皆夢幻の中の方便の教なり。 | この教相を無量義経で「四十余年未顕真実」と説かれているのである。(以上)。未顕真実の諸経は夢のなかのことを説いた権教である。ゆえに妙楽大師は法華玄義釈籤には「夢を見ているときの寤のときは、心性それ自体は異なりはしないけれども、夢のなかにあっては、必ず幻によっているのであり、幻の機、幻の感、幻の応、幻の赴とを起こしているのである。能応の仏も所化の衆生も、ともに幻の権であって実なる存在ではない」と説かれている。つまり未顕真実の諸経は、皆、夢や幻のなかのことを説いた方便の教なのである。 | |
「性は殊なること無しと雖も」等とは、夢見る心性と寤の時の心性とは只一の心性にして、総て異なること無しと雖も、夢の中の虚事と寤の時の実事と、二事一の心法なるを以て、見ると思ふも我が心なりと云ふ釈なり。 | 「性は殊なること無しと雖も」等とは、夢を見ているときの心性と寤のときの心性とは、ただ一つの心性であっても、全く異なるものではないけれども、夢のなかの架空のことも、寤のときの実際のことも、ただ一つの心法からあらわれているのであるから、実は自身の心を見ているのであるという釈である。 | |
故に止観に云はく「前の三教の四弘、能も所も泯す」已上。四弘とは、衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。此を四弘と云ふ。能とは如来なり、所とは衆生なり。此の四弘は能の仏も所の衆生も、前三教は皆夢中の是非なりと釈し給へるなり。然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸教は、未顕真実の権教なり方便なり。法華に取り寄るべき方便なるが故に真実には非ず。 | ゆえに摩訶止観を注釈した止観輔行伝弘決には「前の三教に説かれる四弘請願は架空のものであり、そこに説かれる能も所もともに滅びてしまう」と説かれている。「四弘」とは、無量無辺の衆生を救おうと誓願し、無数の煩悩を断じようと請願し、無尽の法門を知り尽そうと請願し、無上の菩提を証得しようと誓願する四弘請願をいうのである。「能」とは如来であり、「所」とは衆生である。前三教に説かれる四弘の誓いは、能化の仏も、所化の衆生も、皆、夢の中の是非であると釈されたのである。したがって法華経以前の四十二年の間に説かれた諸経は、未顕真実の権教であり、方便の教えである。法華経に誘引するための方便であるから真実ではないのである。 | |
此は仏自ら四十二年の間説き集め給ひて後に、今法華経を説かんと欲して、先づ序分の開経の無量義経の時、仏自ら勘文し給へる教相なれば、人の語も入るべからず、不審をも生すべからず。故に玄義に云はく「九界を権と為し、仏界を実と為す」已上。九法界の権は四十二年の説教なり。仏法界の実は八箇年の説、法華経是なり。 |
このことから仏自らが四十二年の間説いた教えをすべて集められた後に、今まさに法華経を説こうとして、その序分にあたる開経の無量義経のときに、勘え定められた教相なのであるから、人の言葉をさしはさむべきではなく、疑問をさしはさむ余地はないのである。 法華玄義釈籤には「九界を権と為し、仏界を実と為す」と説いている。九法界の権は四十二年の説教であり、仏法界の実は八箇年の説で法華経である。 |
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故に法華経を仏乗と云ふ。九界の生死は夢の理なれば権教と云ひ、仏界の常住は寤の理なれば実教と云ふ。故に五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自行の八箇年の実教と合して五十年なれば、権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰無し。 |
ゆえに法華経を仏乗というのである。九界の生死は夢の世界の法理なので権教といい、仏界の常住の生命の寤は法理なので実教という。 釈尊の五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と自らの悟りを明かした八年間の実教とを合わせて五十年となる。ゆえに権と実との二つの文字を鏡として諸経を見るとき、その相違が明らかとなって曇りはないのである。 |
故に三蔵教を修行すること三僧百大劫を歴て終はりに仏に成らんと思へば、 (★1410㌻) 我が身より火を出だして灰身入滅とて灰と成りて失せぬるなり。通教を修行すること七阿僧百大劫を満てゝ仏に成らんと思へば、前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり。別教を修行すること二十二大阿僧百千万劫を尽くして終はりに仏に成りぬと思へば、生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤の法華経の時には、別教には実仏無し、夢中の果なり。故に別教の教道には実の仏無しと云ふなり。別教の証道には、初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕はし、始めて之を見れば別教は隔歴不融の教と知りて、円教に移り入りて円人と成り已はって、別教には留まらざるなり。上中下の三根の不同有るが故に、初地・二地・三地乃至等覚までも円人と成る。故に別教の面に仏無きなり。故に有教無人と云ふなり。故に守護国界章に云はく「有為の報仏は夢中の権果前三教の修行の仏、無作の三身は覚前の実仏なり後の円教の観心の仏」と。又云はく「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏、実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏」と。此の釈を能く能く意得べきなり。権教は難行苦行して適仏に成ると思へば、夢中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏無きなり。極果の仏無ければ有教無人なり。況んや教法実ならんや。之を取りて修行せんは聖教に迷へるなり。 |
ゆえに三蔵教を修行する菩薩は三僧祇、百大劫の修行を経て、ついに仏になろうとすると、我が身から火を出し、灰身入滅といって、灰と成って消えうせるのである。 通教を修行する菩薩は七阿僧祇・百大劫の修行を成就して仏になろうと思うと、前の三蔵教と同じように灰身入滅して跡形もなく消えてしまうのである。 別教を修行する菩薩は二十二大阿僧祇、百千万劫の修行を尽くして、ついに仏になったと思うと、それは生死の夢のなかでの仏果にすぎない。ゆえに別教の教えには実の仏とはいわれないのである。 別教の証得の道は初地に至って初めて無明惑の一分を断じて中道の法理の一分を悟るが、そこから別教の教えを振り返ってみると、それは隔歴・不融の教であると知って、円教に移って円教の人となってしまい、別教にはとどまらないのである。 菩薩にも上根・中根・下根と三根の差があり、初地・二地・三地から等覚までは円教の人となるのである。このゆえに別教の経文のうえには仏はないのであり、ゆえに「有教無人」といわれるのである。 このことを伝教大師は守護国界章に「有為無常の報身仏は夢の中の権果でありこれは前三教の修行で得た仏果である無作の三身は真実を覚ううえいる実仏である。これは後の円教の観心の仏である。と説かれ、また「権教の三身は未だ無常を免れないこれは前三教の修行で得た仏果せある実教の三身は倶体倶用で常住であるこれは後の円教の観心の仏であると説かれている釈をよくよく心得るべきである。 権教は難行苦行して、たまたま仏になったと思うと、夢のなかの権の仏であるので本覚の寤に立ち還ったときには、実の仏ではないのである。仏道修行の究極の果としての仏がないので、有教無人というのである。 ましてそのような教法を実といえるであろうか。この権教をとって修行するのは一代聖教の元意に迷っているのである。 |
此の前三教には仏に成らざる証拠を説き置き給ひて、末代の衆生に慧解を開かしむるなり。 九界の衆生は一念の無明の眠りの中に於て、生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ、夢の是非に執して冥きより冥きに入る。是の故に如来は我等が生死の夢の中に入りて倒の衆生に同じて、夢中の語を以て夢中の衆生を誘ひ、夢中の善悪の差別の事を説きて漸々に誘引し給ふ。夢中の善悪の事、重畳して様々に無量無辺なれば、先づ善事に付いて上中下を立つ。三乗の法是なり。三々九品なり。此くの如く説き已はって後に又上々品の根本善を立て、上中下三々九品の善と云ふ。皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり。今是をば総じて邪見外道と為す捜要記の意。 此の上に又上々品の善心は本覚の寤の理なれば、此を善の本と云ふと説き聞かせ給ひし時に、 (★1411㌻) 夢中の善悪の悟りの力を以ての故に、寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり。是の時に仏説いて言はく、夢と寤との二は虚事と実事との二の事なれども心法は只一なり。眠りの縁に値ひぬれば夢なり。眠り去りぬれば寤の心なり。心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此は別教の中道の理なり。 是の故に未だ十界互具・円融相即を顕はさゞれば成仏の人無し。故に三蔵教より別教に至るまでの四十二年の間の八教は皆悉く方便・夢中の善悪なり。只暫く之を用ゐて衆生を誘引し給ふ支度方便なり。此の権教の中には、分々に皆悉く方便と真実と有りて権実の法欠けざるなり。四教一々に各四門ありて差別有ること無し。語も只同じ語なり。文字も異なること無し。斯れに由りて語に迷ひて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云ふ。 |
釈尊はこの前三教では仏になることができない証拠を説き置かれて、末代の衆生に慧解を開かせたものである。 九界の衆生は一念の無明という眠りのなかにあって、生死の夢に溺れて、本覚の寤を忘れ、夢のなかでの是非に執着して、冥きから冥きへとさまよっているのである。それゆえに如来は、我らの生死の夢のなかに入って、顛倒の衆生と同じ境界に立ち、夢のなかの言葉を使って、夢のなかにある衆生を誘い導き、夢のなかでの善悪の差別を説いて次第に誘引されるのであるが。夢のなかの善悪のことは、重なり合ってさまざまであり、無量無辺であるので、まず善のことについて上・中・下の三つを立てた。いわゆる声聞・縁覚・菩薩の三乗の法がこれである。この三乗の法を修行する人にまた上根・中根・下根の別があるので、三三九品となる。 このように説き終わって後に、上上品の根本の善を立てられたのを、上中下三三九品の善というのである。 しかしこれらは、皆ことごとく九界生死の夢のなかの是非善悪である。今これを総じて邪見であり、外道とするのである。これは妙楽大師の摩訶止観捜要記の意である。 このうえにまた、上上品の善心は本覚の寤の法理だから、これが善の根本であると説き聞かせたときに、夢の中ながら善悪を立て分ける悟りの力によって寤の本心の実相の法理を初めて聞知することができたのである。 このとき仏は「夢と寤との二つは、架空のことで実際のことと違いがあるけれども、心法はただ一つである。眠りの縁に値えば夢を見、眠りが去れば寤の心に戻るのであって、心法はただ一つである」と開会されたが、その開会の下地を作り置くための方便の教えである。これは別教の中道の法理にのっとっているのである。 このゆえに、未だ十界互具・円融相即を顕していないので、成仏の人はいないのである。このように三蔵教から別教に至るまで四十二年の間の八教は皆ことごとく方便の教えであり、夢のなかの善悪を説いたものである。ただしばらくの間、衆生を誘引するために用いられた支度・方便の教えなのである。 この権教のなかにも、それぞれに皆ことごとく方便と真実があり、権実の法が欠けていないのである。四教の一々にそれぞれ有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門があって差別がないのである。また言葉も同じであり、文字にも違いがない。これによって、言葉に迷って権実の差別をわきまえないときを仏法が滅びるというのである。 |
是の方便の教は唯穢土に有って総て浄土には無し。法華経に云はく「十方仏土の中には唯一乗の法のみ有りて、二も無く亦三も無し。仏の方便の説をば除く」已上。故に知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取りて、往生の行と為し、十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌ひて取らずして成仏すべき道理有るべしや否や。一代の教主釈迦如来、一切経を説き勘文し給ひて言はく、三世の諸仏の同様に一つ語一つ心に勘文し給へる説法の儀式なれば、我も是くの如く一言も違はざる説教の次第なり云云。方便品に云はく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶこと無く、草木樹林にも山河大地にも一微塵の中にも互ひに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して欠くること無し。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は、我が心の中に有って片時も離るゝこと無き三身即一の本覚の如来なり。是の外には法無し。此の一法計り十方の浄土に有りて余法有ること無し。故に無分別の法と云ふは是なり。此の一乗妙法の行をば取らずして、全く浄土にも無き方便の教を取りて、成仏の行と為んは迷の中の迷なり。我仏に成りて後に穢土に立ち還りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、 (★1412㌻) 次第に誘ひ入れて方便の教を説くを化他の教とは云ふなり。故に権教と言ひ、又方便とも云ふ。化他の法門の有り様、大体略を存して斯くの如し。 |
この方便の教えは、ただ穢土のみあって、浄土にはないのである。法華経方便品第二には「十方の仏土のなかには、ただ一乗の法のみがあって、二乗の法も三乗の法もない。仏の方便の説を除くのである」と説かれている。 ゆえに十方の仏土にはない方便の教をとって往生の行とし、十方の浄土にある一乗の法を嫌い、それを取らないで成仏できる道理があるかどうかを知るべきである。 一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文し、こう言われている。三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式であるので、我もこのように三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのである、と。すなわち方便品にいわく「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」と。 無分別の法とは一乗の妙法である。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵のなかにも、それぞれが十法界の法を具足している。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばないところはない。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心のなかに収まって瞬時も離れることがない。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、このほかには仏の法はないのである。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのである。 この一乗妙法の修行を選択しないで、全く浄土には無い方便の教をとって成仏の行とするのは迷いのなかの迷いである。 自分が仏になって後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入れさせるために次第に誘引して方便の教えを説いたのを化他の教というのである。 それゆえに権教ともいい、方便ともいうのである。化他の法門のありさまは、略していえば大体このようなものである。 |
二に自行の法とは是法華経八箇年の説なり。是の経は寤の本心を説きたまふ。唯衆生の思ひ習はせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて寤の本心を訓ふるなり。故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ふ。法華経の文と釈との意此くの如し。之を明らめ知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷ふべきなり。但し此の化他の夢中の法門も寤の本心に備はれる徳用の法門なれば、夢中の教を取りて寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり。此を法華経の開会とは云ふなり。譬へば衆流を大海に納むるが如きなり。 仏の心法妙と衆生の心法妙と、此の二妙を取りて己心に摂むるが故に心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり。是を経に説いて云はく「如是相応身如来、如是性報身如来、如是体法身如来」と。此を三如是と云ふ。此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好と為す。是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり。法界に周遍して一仏の徳用なれば、一切の法は皆是仏法なりと説き給ひし時、其の座席に列なりし諸の四衆・八部も畜生も外道等も、一人も漏れず皆悉く妄想の僻目僻思ひ立ち所に散止して、本覚の寤に還って皆仏道を成ず。仏は寤の人の如く、衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢を醒まして本覚の寤に還るを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道とも云ふ。只一つの法門なり。十方の仏土は区に分かれたりと雖も通じて法は一乗なり。方便なきが故に無分別法なり。十界の衆生は品々異なりと雖も、実相の理は一なるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりと雖も、十界互ひに具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に無分別なり。 (★1413㌻) 過去と未来と現在とは三つなりと雖も、一念の心中の理なれば無分別なり。 |
第二の自行の法とは、八ヵ年の法華経の説のことである。この経は仏の寤の本心を説かれた経である。ただ衆生は夢のなかの心地に思い慣れているので、その夢のなかの言語を借りて寤の本心を教えたのである。したがって夢のなかの言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えたのである。法華経の文とその釈の本意はこういうことであり、このことを明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのである。 ただし、この化他のために説いた夢のなかの法門も寤の本心に備わった徳用の法門であり、その夢のなかの教えをとって寤の本心に収めているのであるから、四十二年の夢のなかの化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのである。これを法華経の開会というのである。たとえば衆流を大海に納めるようなものである。 仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心のなかに摂めるゆえに、心の外には法はないのである。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来である。このことを法華経方便品第二には「如是相応身如来如是性報身如来如是体法身如来」と説かれている。これを三如是というのである。 この三如是の本覚の如来は十方法界を身体とし、十方法界を心性とし、十方法界を相好とするのである。このゆえに我が身は本覚三身如来の身体なのである。法界にあまねくいきわたり、しかもそれは一仏の徳用であるから一切の法は皆これ仏法なのである。と釈尊が説かれたとき、その座につらなっていた、もろもろの四衆・八部・畜生・外道等は一人も漏れずに、皆ことごとく妄想の僻目・僻思いが、たちごころに散り止んで本覚の寤に還って、皆仏道を成じたのである。 仏は寤の人のようなものであり、衆生は夢を見ている人のようなものである。ゆえに生死にとらわれた虚妄の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏とも平等大慧とも無分別法とも皆成仏道ともいうのであり、ただ一つの法門である。 十方の仏土は、まちまちに分かれているけれども、法は通じて一乗の法であり、方便の教えがないゆえに無分別法である。十界の衆生はそれぞれ異なっているけれども、実相の理は一つであるゆえに無分別である。百界千如・三千世間の法門は異なっているけれども、 十界互具するゆえに無分別である。夢と寤と虚と実と各々別々で異なっていても、一心のなかの法であるゆえに無分別である。過去と未来と現在とは三つであるけれども、一念のなかの理なので無分別である。 |
一切経の語は夢中の語とは、譬へば扇と樹との如し。法華経の寤の心を顕はす言とは譬へば月と風との如し。故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払ふ。故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。是の故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり。故に止観に云はく「月、重山に隠るれば扇を挙げて之に類し、風、大虚に息みぬれば樹を動かして之を訓ふるが如し」文。弘決に云はく「真常性の月煩悩の山に隠る。煩悩は一に非ず故に名づけて重と為す。円音教の風は化を息めて寂に帰す。寂理無碍なること猶大虚の如し。四依の弘教は扇と樹との如し。乃至月と風とを知らしむるなり」已上。夢中の煩悩の雲重畳せること山の如し。其の数八万四千の塵労にして、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に文と語とは扇と樹との如し文。上の釈は一往の釈とて実義に非ざるなり。 月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若の慧解とを訓へ知らしむるを妙法蓮華経と名づく。故に釈籖に云はく「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」已上。声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切の経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる寤の我が身の心性の寂光の極楽なり。 |
一切経の語は夢のなかの言葉であるというのには、たとえば扇と樹とのようなものである。法華経の寤の心を表す言葉というのは、たとえば月と風とのようなものである。本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う。ゆえに夢のなかの言葉と扇の樹によって寤の心の月と風を知らしめるのである。これによってむ夢のなごりを散らして寤の本心に還らせるのである。ゆえに摩訶止観には「月が重山に隠れれば、扇を挙げて月にたとえ、風が大空にやんでしまえば、樹を動かして風の動きを教えるようなものである」と述べている。また止観輔行伝弘決には「真実の常性の月は煩悩の山に隠れる。煩悩は一つではないゆえに名づけて重山という。円音教の風は教化をやめて寂理に帰る。寂滅の法理は妨げるものがなく、ちょうど大空のようである。四依の菩薩の弘教は扇と樹とのようなもので、これをもって月と風とを知らしめるのである」と。またある人は「夢のなかの煩悩の雲は重なり合って山のようである。八万四千の塵労であって、心性の本覚の月を隠す。扇と樹とにたとえられる経論の文字・言語の教えによって、月と風とにたとえられる本覚の理を覚知させようとしたのが聖教である。ゆえに文と語とは扇と樹とにたとえられるのである」と。 このある人の釈は一往の釈であって実義ではない。月のような妙法の心性の悟りと風のごとく我が心の般若の慧解とを教え知らしめるのを妙法蓮華経と名づけるのである。ゆえに法華玄義釈籤には「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」と説かれているのである。声色の近名とは扇と樹とのような夢のなかの一切経論の言説である。無相の極理とは月と風とのような寤の我が身の心性の寂光の極楽である。 |
法華経に云はく「如是相一切衆生の相好本覚の応身如来、如是性一切衆生の心性本覚の報身如来、如是体一切衆生の身体本覚の法身如来」と。此の三如是より後の七如是出生して合して十如是と成るなり。此の十如是は十法界なり。此の十法界は一人の心より出でて八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し。三世の諸仏の総勘文にして御判慥かに印たる正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり。印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印無ければ正本の文書に非ず。全く実の仏無し。実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。十法界は十なれども十如是は一なり。譬へば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し。是の故に仏界の一つの十如是顕はれぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も欠減無く同時に皆顕はれて、体と用と一具にして一体の仏と成る。十法界を互ひに具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足して欠くること無し。故に十如是は本末究竟して等しく差別無し。本とは衆生の十如是なり。末とは諸仏の十如是なり。諸仏は衆生の一念の心より顕はれ給へば衆生は是本なり、諸仏は是末なり。然るを経に「今此三界皆是我有・其中衆生悉是吾子」已上と云ふは、仏成道の後に化他の為の故に、 (★1416㌻) 迹の成道を唱へて生死の夢中にして本覚の寤を説きたまふなり。智慧を父に譬へ、愚癡を子に譬へて是くの如く説き給へるなり。衆生は本覚の十如是なりと雖も、一念の無明眠りの如く心を覆ひ、生死の夢に入りて本覚の理を忘る。髪筋を切る程に過去・現在・未来の三世の虚夢を見るなり。仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入りて衆生を驚かし給へる智慧は、夢の中にての父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。此の道理を以て悉是吾子と言ふなり。此の理を思ひ解けば、諸仏と我等とは本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性は本末是同じ。斯れに由りて己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚して本覚の寤に還るを即身成仏と云ふ。即身成仏は今我が身の上の天性地体なり。煩ひも無く障りも無き衆生の運命なり。果報なり冥加なり。 |
法華経方便品第二には「如是相一切衆生の相好、本覚の応身如来。如是性一切衆生の心性、本覚の報身如来。如是体一切衆生の身体、本覚の法身如」とある。この三如是から後の七如是が出生して十如是となったのである。 この十如是は十法界にわたるのであり、この十法界は一人の心から生み出された八万四千の法門となるのである。 この法門は、一人を手本として一切衆生に平等にあてはまるのである。これは三世の諸仏の総勘文であって御判をたしかに押した正本の文書である。仏の御判とは実相の一印のことである。印とは判の異名である。 他の一切の経は実相の印がないので正本の文書ではないのである。そこにはに全く実の仏ではない。実の仏がないゆえに夢中の文書である。浄土にないからである。 十法界は十であるけれども、十如是は一つである。たとえば水中の月は無量であっても大空の月は一つであるようなものである。 九法界の十如是は夢の中の十如是であるから水中の月のようなものである。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是であるから 大空の月のようなものである。 ゆえに仏界の一つの十如是があらわれると、水中の月のような九法界の十如是も一つも欠けることなく同時に皆あらわれて、一体の仏となるのである。 十法界を互いに具足して平等であるのが十界の衆生であるから、大空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して欠けることがないのである。ゆえに十如是は本末究竟して等しく差別がないのである。 本とは衆生の十如是であり、末とは諸仏の十如是である。諸仏は衆生の一念の心からあらわれたものであるから、衆生は本であり諸仏は末なのである。 ところが法華経譬喩品第三には「今この三界は皆これ我が所有するところである。その中の衆生はことごとく我がが子である」と説かれている。 これは仏が成道した後に化他のために垂迹のうえの成道を唱えて生死の夢のなかにあって本覚の寤を説かれたのである。そして智慧を父にたとえ、愚癡を子にたとえてこのように説かれたのである。 衆生は本覚の十如是であるけれども、一念のなかの無明が眠りのように心を覆って、生死の夢のなかに入ってしまって本覚の法理を忘れ一本の髪を切るほどのわずかな無明の心で過去・現在・未来の三世にわたる虚夢を見るのである。 仏は夢から覚めた寤のような人であるから、衆生の生死の夢のなかに入って衆生を目覚めさせるのであり、その智慧は生死の夢のなかのあっては父母のようであり夢のなかにいる我ら衆生は子息のようなものである。この道理によって「悉く是れ吾が子なり」といわれたのである。 この法理を理解すれば諸仏と我らとは本のうえからも父子であり、末のうえからも父子である。父子の天性は本も末も同じである。これによって己心と仏心とは異ならないと観ずるゆえに生死の夢を覚まして本覚の寤に還るのを即身成仏というのである。即身成仏は、今、我が身に本来具わった天性であり、地体であって、煩いもなく、障りもない。衆生の運命であり、果報であり、冥加なのである。 |
夫以れば夢の時の心を迷ひに譬へ、寤の時の心を悟りに譬ふ。之を以て一代聖教を覚悟するに、跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成りて驚きぬれば、我が身も家も臥所も一所にて異ならず。夢の虚と寤の実との二事を目にも見、心にも思へども、所も只一所なり、身も只一身にて二の虚と実との事有り。之を以て知るべし、九界の生死の夢見る我が心も、仏界常住の寤の心も異ならず。九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変はらず、心法も替はらず、在所も差はざれども夢は皆虚事なり、寤は皆実事なり。止観に云はく「昔荘周といふもの有り、夢に胡蝶と成りて一百年を経たり。苦は多く楽は少なく、汗水と成りて驚きぬれば胡蝶にも成らず、百年をも経ず、苦も無く楽も無く皆虚事なり、皆妄想なり」已上取意。弘決に云はく「無明は夢の蝶の如く、三千は百年の如し。一念実無きは猶蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと年を積むに非ざるが如し」已上。此の釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず。寤に蝶と成らずと思ふ時も別の荘周なし。我が身を生死の凡夫なりと思ふ時は、夢に蝶と成るが如く僻目僻思ひなり。我が身は本覚の如来なりと思ふ時は本の荘周なるが如し。即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云ふには非ざるなり。蝶と思ふは虚事なれば成仏の言無し。沙汰の外の事なり。 (★1417㌻) 無明は夢の蝶の如しと判すれば、我等が僻思ひは猶昨日の夢の如く、性体無き妄想なり。誰の人か虚夢の生死を信受して、疑ひを常住涅槃の仏性に生ぜんや。止観に云はく「無明の癡惑は本より是法性なり。癡迷を以ての故に法性変じて無明と作り、諸の倒の善・不善等を起す。寒来たりて水を結び変じて堅氷と作るが如く、又眠り来たりて心を変じて種々の夢有るが如し。今当に諸の倒は即ち是法性なり、一ならず異ならずと体すべし。倒起滅すること旋火輪の如しと雖も、倒の起滅を信ぜずして唯此の心但是法性なりと信ず。起は是法性の起、滅は是法性の滅なり。其れを体するに実に起滅せざるを妄りに起滅すと謂へり。只妄想を指すに悉く是法性なり。法性を以て法性に繋け、法性を以て法性を念ず。常に是法性なり。法性ならざる時無し」已上。是くの如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に、夢の蝶の如くなる無明に於て実有の思ひを生じて之に迷ふなり。 |
よく考えてみると、夢のときの心を迷いにたとえ、寤のときの心を悟りにたとえる。これによって一代聖教を悟ってみると、跡形もない虚妄の夢を見て心を苦しめ、汗水を流して目が覚めてみると、我が身も、家も寝床も同じ場所で異ならない。夢と虚と寤の実との二つの事を目にも見て、心に思ったけれども、その所はただ一つの所であり、身もただ一つの身であって、しかもなお二つの虚と実とは異なりがないのである。 これをもって理解すべきである。九界の生死の夢を見ている我が心も、仏界の常住の寤の心も異なるものではない。九界の生死の夢を見ている所が仏界常住の寤の所で、変わるものではない。心法も変わらず、居る所も異なるものではないけれども、夢は皆虚事であり、寤は皆実事なのである。 摩訶止観には「昔荘周という者がいた。夢のなかで胡蝶となって百年を経た。苦しいことは多く、楽しいことは少なく、汗水を流して目がさめてみると、胡蝶にも成らず百年の経ってはおらず、苦しいこともなく、楽しいことも無く、皆、虚事であり、皆、妄想であった」已上取意、 摩訶止観弘決には「無明は夢の蝶のようなものであり、三千は百年のようなものである。一念が実でないのは、ちょうど蝶でなかったようなものであり、三千がないことはも年を経ていなかったようなものである」と述べている。 この釈は即身成仏の証拠である。夢のなかで蝶となったときも荘周は変わっておらず、目がさめて蝶にはならなかったと思うときも別の荘ではない。我が身を生死に束縛された凡夫であると思うときは夢で蝶になったようなものであり、僻目であり、僻思いである。我が身は本覚の如来であると思うときは元の荘周に戻ったようなものであり、即身成仏である。 しかし蝶の身をもって成仏するというのではない。蝶と思うことは虚事なので、そこに成仏の言葉はない。これは論外のことである。 無明の夢は蝶のようなものであると分かってしまえば、我らの僻思いはちょうど昨日の夢のように性も体もない妄想である。一体だれが虚夢の生死を信受して常住の涅槃の仏性に対して生ずることがあるであろうか。 摩訶止観には「無明の癡かな惑いは、その本は法性である。癡かな迷いによって法性が変化して無明となり、さまざまな顛倒の善・不善等を起こすのである。寒さがきて水を凍らせると、水が変化して堅い冰となるように、また眠りがきて心を変化させれば種々の夢を見るようなものである。今まさにもろもろの顛倒はすなわ法性であり、同一でもなく異なりもないと体得すべきである。顛倒の起滅するところは火輪といって、火をぐるぐると回すと火の輪があるように見えるように、実際には、ないものが有るように見えるのであるが、その顛倒の起滅を信じないで、ただこの心が元来、法性であると信ずるのである。起は法性の起であり、滅は法性の滅である。このことを悟ってみると、実際には起滅しないものを、みだりに起滅すると思っているのである。ただ妄想を指してみると、本はことごとく法性である。法性をもって法性に繋け、法性をもって法性を念じているのである。常に法性の働きであり、法性でないときはないのである」と述べている。 このように、法性でないときは一瞬でないのが法性であるのに、夢の蝶を実際のことと思うように、無明顚倒の生死を実際にあることと思って迷うのである。 |
止観の九に云はく「譬へば眠りの法、心を覆ふて一念の中に無量世の事を夢みるが如し。乃至寂滅真如に何の次位か有らん。乃至一切衆生即大涅槃なり。復滅すべからず。何の次位の高下・大小有らんや。不生不生にして不可説なれども因縁有るが故に亦説くことを得べし。十因縁の法は生の為に因と作る。虚空に画き方便して樹を種ゆるが如し。一切の位を説くのみ」已上。十法界の依報・正報は法身の仏、一体三身の徳なりと知りて一切の法は皆是仏法なりと通達し解了する、是を名字即と為づく。名字即の位より即身成仏する故に円頓の教には次位の次第無し。故に玄義に云はく「末代の学者多く経論の方便の断伏を執して諍闘す。水の性の冷やゝかなるが如きも、飲まずんば安んぞ知らん」已上。天台の判に云はく「次位の綱目は仁王・瓔珞に依り、断伏の高下は大品・智論に依る」已上。仁王・瓔珞・大品・大智度論、是の経論は皆法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり。今の法華は八教に超えたる円なれば、速疾頓成にして心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば、下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。 (★1418㌻) 一と多と相即すれば一位に一切の位皆是具足せり。故に一生に入るなり。下根すら是くの如し。況んや中根の者をや。何に況んや上根をや。実相の外に更に別の法無し。実相には次第無きが故に位無し。 |
摩訶止観の巻九には「たとえば眠の法が心を覆って一念のなかに無量世のことを夢みるようなものである(乃至)寂滅真如には何の次第階位があるのであろうか(乃至)一切衆生が即大涅槃である。また滅することもないのである。そこに何の次第階位や、高下や大小があるであろう。この法理は不生不生であって不可説ではあるけれども、因縁が具わっているゆえに、また説くことができるのである。十因縁の法は衆生のために因となる。その十因縁を説くことは虚空に絵を描いて樹を種えるようなものであって、方便として一切の位を説いただけなのである」と述べている。 十法界の依報・正報は法身の仏、一体三身の徳であると知って、一切の法は皆これ仏法であると通達し解了するのを名字即とするのである。名字即の位から即身成仏するゆえに円頓の教には次第階位の段階がないのである。ゆえに、法華玄義には「末代の学者の多くは経論に方便として説かれた煩悩を断じ伏すという修行に執着して競い争っている。水が冷たいことも、飲んでみなければどうして知ることができようか」と述べている。 天台大師の教判には「次第階位の大綱と網目については仁王経と瓔珞経により、煩悩を断じ伏した位の高下は大品般若経と大智度論による」と説かれている。仁王経・瓔珞経・大品般若経・大智度論は皆、法華経以前の八教のなかの経論である。権教の修行は無量劫を経て昇進する次第階位であるから、位の順序を説くのである。 今法華は八教に超えた円教なので速疾頓成であって、心と仏と衆生と、この三つは我が一念の心中に収まって、心の外にはないとみることができれば、下根の行者ですら一生のうちに妙覚の位に入るのである。一と多とが相即するので、一つの位に一切の位が皆具足するのである。ゆえに一生の間に妙覚の位に入るのである。 下根ですらそうであるのだから、いわんや中根の者は当然である。まして上根の者はいうまでもない。実相の外には更に別の法はない。そして実相には順序がないので位はないのである。 |
総じて一代聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知るべし。之を悟るを仏と云ひ、之に迷へば衆生なり。此は華厳経の文の意なり。 弘決の六に云はく「此の身の中に具に天地に倣ふことを知る。頭の円かなるは天に象り、足の方なるは地に象ると知る。身の内の空種なるは即ち是虚空なり。腹の温かなるは春夏に法り、背の剛きは秋冬に法り、四体は四時に法り、大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法り、鼻の息の出入は山沢溪谷の中の風に法り、口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り、開閉は昼夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、皮肉は地土に法り、毛は叢林に法り、五臓は天に在りては五星に法り、地に在りては五岳に法り、陰陽に在りては五行に法り、世に在りては五常に法り、内に在りては五神に法り、行を修するには五徳に法り、罪を治むるには五刑に法る。謂はく墨・・・宮・大辟此の五刑は人を様々に之を傷ましむ其の数三千の罰あり此を五刑と云ふ。主領には五官と為す。五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し。謂はく苟萠等なり。天に昇りては五雲と曰ひ、化して五竜と為る。心を朱雀と為し、腎を玄武と為し、肝を青竜と為し、肺を白虎と為し、脾を勾陳と為す」と。又云はく「五音・五明・六芸皆此より起こる。亦復当に内治の法を識るべし。覚心、内に大王と為っては百重の内に居り、出でては則ち五官に侍衛せらる。肺をば司馬と為し、肝をば司徒と為し、脾をば司空と為し、四支をば民子と為し、左をば司命と為し、右をば司録と為し、人命を主司す。乃至臍をば太一君等と為すと。禅門の中に広く其の相を明かす」已上。人身の本体を委しく検すれば是くの如し。然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思ふ僻思ひ、譬へば荘周が夢の蝶の如しと釈し給へるなり。五行とは地水火風空なり。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいふ。只一物にて経々の異説なり。 (★1419㌻) 内典外典の名目の異名なり。今経に之を開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり。是を十如是と云ふ。此を唯仏与仏乃能究尽と云ふ。不退の菩薩と極果の二乗とは少分も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る。故に即身成仏するなり。金剛不壊の体なり。是を以て明らかに知るべし。天崩れば我が身も崩るべし、地裂けば我が身も裂くべし、地水火風滅亡せば我が身も亦滅亡すべし。然るに此の五大種は過去・現在・未来の三世は替はると雖も五大種は替はることなし。正法と像法と末法との三時殊なりと雖も、五大種は是一にして盛衰転変無し。薬草喩品の疏には、円教の理は大地なり、円頓の教は空の雨なり。亦三蔵教・通教・別教の三教は三草と二木となり。其の故は此の草木は円理の大地より生じて、円教の空の雨に養はれて、五乗の草木は栄ふれども、天地に依りて我栄えたりと思ひ知らざるに由るが故に、三教の人天・二乗・菩薩をば草木に譬へて説きたり。不知恩の故に草木の名を得。今法華に始めて五乗の草木は、円理の母と円教の父とを知るなり。一地の所生なれば母の恩を知るが如く、一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意是くの如くなり。 |
総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。 妙楽大師の止観輔行伝弘決巻六には「この身の一つ一つが天地に摸倣していることが分かる。頭の円いのは天にかたどり、足の四角形なのは地にかたどり、身中が空虚であるのは虚空をあらわしている。腹が温かいことは春と夏に法とり、背の剛いのは秋と冬に法とり、四体は四時に法とり、十二の大節は十二ヵ月に法とり、小節の三百六十は三百六十日に法とり、鼻の息の出入りは山や沢や渓谷の中の風に法とり、口の息の出入りは虚空の中の風に法とり、両眼は日月に法とり、その開閉は昼夜に法とり、髪の毛は星辰に法とり、眉は北斗星に法とり、脈は江河に法とり、骨は玉や石に法とり、皮と肉は地土に法とり、毛は叢や林に法とり、五臓は、天においては五星に法とり、地にあっては五岳に法とり、陰陽においては五行に法とり、人の世においては五常に法とり、心においては五神に法とり、行においては五徳に法とり、刑罪においては五刑に法とる。いわゆる墨・劓・剕・宮・大辟である(此の五刑は人を様々に傷つける刑罰で、その数は三千の罰があり、こを五刑と云う) 天地の主領においては五官にあたる。五官は下の巻八の博物誌を引いており、いわゆる苟萠等である。天に昇っては五雲ととなり、これが変じて五竜となる。また心蔵を朱雀とし、腎蔵を玄武とし、肝蔵を青竜とし、肺蔵を白虎とし、脾蔵を勾陳とする」とのべている。 また同じく止観輔行伝弘決には「五音も五明も六芸も、皆この五蔵から起こっている。更にまた内を治める法にあてはめてみれば、覚る心が大王となっては、百重の内に在り、外に出るときは五官に衛られる。肺をば司馬とし、脾を司徒とし、脾を司空とし、四支を民子とし、左を司命とし、右を司録として人命を支配している。また臍を太一君等というのであり、天台大師の釈禅波羅蜜次第法門のなかに詳しくそ相を明かしてある」と述べられている。 人身の本体を詳しく調べてみると、以上のとおりである。ところが金剛不壊の身を生滅無常の身であると思う誤った思いは、たとえば荘周が夢の蝶のようなものであると、妙楽大師は止観輔行伝弘決に釈されているのである。 五行とは地水火風空である。五大種とも五薀とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいうのである。これらは本来ただ一つの物であるが、経々によってさまざまに説かれているのである。内典と外典とその名目が異なるだけである。 法華経にはこの五行を開会して、一切衆生の心中にある五仏性、および五智の如来の種子であると説いている。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。 この五字をもって人身の体を造っているのである。したがって我が身は本有常住であり本覚の如来である。 これを法華経方便品第二で十如是と説いたのであり、これは「ただ仏と仏とのみが、すなわちよくこれを究め尽くしている」と説かれているのである。 この法門は不退の菩薩も極果の阿羅漢を得た二乗も少しも知らない法門である。それを法華円頓の教えを信ずる凡夫は初心の位からこれを知ることができるゆえに即身成仏するのであり、金剛不壊の体となるのである。 このように我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れるならば我が身も崩れ、地が裂けるならば我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう。しかるにこの五大種は過去・現在・未来の三世は移り変わっても、五大種は変わることがない。正法・像法・末法と三時は異なっても。五大種は同じであり盛衰転変することはないのである。 法華経薬草喩品第五の疏には「法華円教の理は大地のようなものである。円頓の教は空の雨のようなものである。また三蔵教・通教・別教の三教は、三草と二木の教えである。そのわけはこれらの草木は円理の大地から生じて円教の空の雨に養われて、五乗の草木は栄えるけれども、天地の恩恵によって自身が栄えたことを思い知らないのである。したがって仏は三教の人天・二乗・菩薩を草木にたとえて、不知恩のものと説かれたのである。ゆえに草木との名を得たのである。ところが今法華にきてはじめて、五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るのである。一つの大地から生じたものと知るから母の恩を知り、同じ一つの雨によって潤されたものと知るから、父の恩を知ったといえるのである」と述べられている。以上が薬草喩品の意である。 |
釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し、人一の法と名づく。一人の上の法なり。多人の綺へざる正しき文書を造る慥かなる御判の印あり。三世の諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由他の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で尽くして、時を指して末法近来の我等衆生の為に慥かに此の由を説き聞かせて、 (★1420㌻) 仏の譲り状を以て末代の衆生に慥かに授与すべしと慇懃に三度まで同じ御語に説き給ひしかば、若干の菩薩達各数を尽くして躬を曲げ頭を低れ、三度まで同じ言に各我も劣らずと事請けを申し給ひしかば、仏心安く思し食して本覚の都に還りたまふ。三世の諸仏の説法の儀式作法には、只同じ御言に時を指したる末代の譲り状なれば、只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと譲り状の面に載せたる手継の証文なり。 |
釈迦如来は五百塵点劫の当初、凡夫であったとき、我が身はすなわち地水火風空の五大であって本有常住の当体であるとお知りになって、即座に悟を開かれた。 後に、衆生を教化するために幾世も幾世も繰り返し繰り返し現れて成道し、いたるところにおいて仏としての八種の相を示した。今日においては、王宮に誕生し、菩提樹下に成道して、はじめて仏になるさまを衆生に見知らしめ、それから四十余年の間、方便の教を設けて衆生を誘引した。 その後、方便の諸の経教を捨てて、正直の法であり、五智の如来の種子である妙法蓮華経の理を説きあらわして、そのなかに四十二年の間の方便の諸経を丸め入れて、一仏乗とし、人一の法と名づけた。釈尊自身の悟りを明かした法である。 この妙法蓮華経は、釈尊が多くの人の異論をさしはさむことのできない正しい文書としてつくられたものであり、仏の実印がたしかに捺されているのである。 三世の諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏から相伝されたとき、釈迦仏は三千三百万億那由佗の国土の上の虚空に充満している多数の菩薩達の頭を摩でて、時を指定して、末法今時の我ら衆生のためにこの妙法をたしかに説き聞かせ、仏の譲り状をもって、末代の衆生にたしかに授与しなさいと、丁寧に三度まで同じ言葉で仰せられた。そのときそのとき多くの菩薩達は一人も残らず、身を曲げ頭を下げて、三度まで同じ言葉で我劣らじと仏に誓ったので、仏は安心されて本覚の都に遷られたのである。 三世の諸仏の説法の儀式・作法と同じ言葉をもって行われた、末代のための譲り状であるから、ただ一向に後の五百歳を指さして、この妙法蓮華経をもって成仏すべき時であると、譲り状の文の面に書き記された。三世の諸仏の手継ぎ証文である。 |
安楽行品には、末法に入って近来、初心の凡夫法華経を修行して、成仏すべき様を説き置かれしなり。身も安楽行、口も安楽行、意も安楽行なる自行の三業も、誓願安楽の化他の行も、同じく後の末世に於て法の滅せんと欲する時となり云云。此は近来の時なり。已上四所に有り。薬王品には二所に説かれ、勧発品には三所に説かれたり。皆近来を指して譲り置かれたり。正しき文書を用ゐずして凡夫の言に付き、愚癡の心に任せて三世諸仏の譲り状に背き奉り、永く仏法に背かば、三世の諸仏何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲しみ思し食すらん。涅槃経に云はく「法に依って人に依らざれ」云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還って仏法を滅す。弘決に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざることは、良に近代大乗を習ふ者の雑濫に由るが故なり。況んや像末情澆り信心寡薄、円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども、暫くも思惟せず、便ち目を瞑ぐに至る。徒に生じ徒に死す、一に何ぞ痛ましきかな」已上。同四に云はく「然も円頓の教は本凡夫に被らしむ。若し凡に益するに擬せずんば、仏何ぞ自ら法性の土に住して法性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かずして、何ぞ諸の法身の菩薩の与に凡身を示し、此の三界に現じたまふことを須ひんや。乃至一心凡に在れば即ち修習すべし」已上。 |
法華経安楽行品第十四には、末法に入って近来の初心の凡夫が法華経を修行して成仏すべきありさまを説き置かれている。 すなわち、身安楽、口安楽、意安楽の自行の三業も誓願安楽の化他行も同じく「後の末世に於いて法の滅せんと欲する時」と説かれている現在のためなのである。 安楽行品には以上四ヵ所に末法の時を示す文がある。法華経薬王菩薩本事品第二十三には二ヵ所に説かれ、同普賢菩薩勧発品第二十八には三ヵ所に説かれている。 いずれも近来をさして仏は譲り置かれたのであるが、この正しい文書を用いずに、凡夫の言葉に付き、愚癡の心に任せて、三世の諸仏の譲り状に背きたてまつり、永く仏法に背くならば、三世の諸仏はどれほどか本意なく悔しく心憂く嘆き悲しまれることであろう。 涅槃経には「法に依つて人に依ってはならない」と戒められている。末代の学者が仏法を習学して、かえって仏法を滅するのは、痛ましいことである。悲しいことである。 妙楽大師は止観輔行伝弘決にこのことを悲しんで「この法華円頓の教えを聞いてこれを崇重しないことは、まことに近代の大乗を習う者が仏法の正邪を乱したことによるのである。まして像法・末法に成ると、人情は薄く信心は弱くなり、円頓の教法は経蔵に満ちているけれども、これをしばらくの間も読んで思索しようとはせず、仏法に対して目を塞ぐようになり。いたずらに生まれ、いたずらに死ぬことは、ひとえに痛ましいかぎりではないか」と述べている。 さらに止観輔行弘決の巻四には「法華円頓の教はもともと、凡夫のために説かれた法門である。もし凡夫を利益するためでなければ、仏はどうして自ら法性の土に住し、法性の身をもってもろもろの菩薩のために、この円頓の教を説くのではなくして、もろもろの法身の菩薩のために凡身を示してこの三界に出現される必要があったであろうか。(乃至)凡夫に仏の生命が具わっているのだから、凡夫が修習することができるのである」と述べている。 |
所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり。故に弘決に又云はく「一切の諸仏、己心は仏心に異ならずと観たまふに由るが故に仏に成ることを得」已上。此を観心と云ふ。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を礙るべき悪業も有るまじ、生死に留まるべき妄念も有るまじ。一切の法は皆是仏法なりと知りぬれば、 (★1421㌻) 教訓すべき善知識も入るべからず。思ひと思ひ言ひと言ひ、為すと為し儀ひと儀ふ、行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障りも無き自在の身と成る。此を自行と云ふ。此くの如く自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる無明妄想なる僻思ひの心に住して、三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥より冥に入り永く仏法に背くこと悲しむべく悲しむべし。只今こそ打ち返し思ひ直し悟り返さば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。 我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向かって我が性の理を見ず、故に無明と云ふ。如来は面に向かって我が性の理を見たまへり。故に明と無明とは其の体只一なり。鏡は一の鏡なりと雖も向かひ様に依りて明昧の差別有り。鏡に裏有りと雖も面の障りと成らず。只向かひ様に依りて得失の二つ有り。相即融通して一法二義なり。化他の法門は鏡の裏に向かふが如く、自行の観心は鏡の面に向かふが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡は只一にして替はること無し。鏡を即身に譬へ、面に向かふを成仏に譬へ、裏に向かふを衆生に譬へ、鏡に裏有るを性悪を断ぜざるに譬へ、裏に向かふ時面の徳無きを化他の功徳に譬ふるなり。衆生の仏性の顕はれざるに譬ふるなり。 |
結局、己心と仏身と一体であると観ずれば速かに仏に成るのである。このことを止観輔行伝弘決にはまた「一切の諸仏は、己心は仏心と異なるものではないと観ずるゆえに仏になることができたのである」と述べている。 このことを観心というのである。実に己心と仏心とは同じ心でえあると悟れば、臨終を妨げる悪業もなく、生死界にとどまるに妄念もないのである。 一切の法は皆これ仏法であると知ったならば、教訓をしてくれる善知識も必要ないのである。そして、思うままに思い、言うままに言い、為すままに為し、振る舞うままに振る舞うというその行住坐臥の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して一体となるから、過失もなく、障害もない自由自在の身となる。これを自行というのである。 このように自由自在な自行の行を捨てて、跡形もないような無明妄想である誤った思いの心に住して、三世の諸仏の教訓に背くならば、無明から無明に入り、永く仏法に背く姿になることは、まことに悲しいかぎりである。 今、心を入れ替えて、思い直し、悟り返してみれば、即身成仏は我が身のほかにないことが分かるのである。 我が心の鏡と仏の心の鏡はただ一つの鏡であるけれども、我らは鏡の裏に向かって我が仏性の理を見ないのである。ゆえに無明というのである。 如来は鏡の表面に向かって我が性の理を見ておられるのである。ゆえに明と無明とはその体はただ一つである。 鏡は一つの鏡であっても、向かいようによって、明と矇昧の差別が起こるのである。 鏡に裏があるといっても、表面の障りとはならない。ただ向かいようによって映し出すか出さないかの二つがあるのである。この二者は相即融通して一法の二義である。 化他の法門は鏡の裏に向かうようなものであり、自行の観心の鏡は表面に向かうようなものである。化他のときの鏡も、自行のときの鏡も我が心性の鏡はただ一つであってかわらない。 鏡を即身にたとえ、鏡の表面に向かうのを成仏にたとえ、裏にむかうのを衆生にたとえるのである。 そして鏡に裏があるのを性悪を断じないことにたとえ、裏に向かうときに表面のような影を映す徳がないことを化他の功徳にたとえるのである。すなわち衆生の仏性があらわれないことにたとえるのである。 |
自行と化他とは得失の力用なり。玄義の一に云はく「薩婆悉達、祖王の弓を彎いて満るを名づけて力と為し、七つの鉄鼓を中り、一つの鉄囲山を貫き地を洞し、水輪に徹る如きを名づけて用と為す自行の力用なり。諸の方便教は力用の微弱なること凡夫の弓箭の如し。何となれば昔の縁は化他の二智を稟けて理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽くさず已上化他。今の縁は自行の二智を稟けて仏の境界を極め、法界の信を起こして円妙の道を増し、根本の惑を断じて変易の生を損ず。但生身及び生身得忍の両種の菩薩のみ倶に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。化の功広大に利潤弘深なる、 (★1422㌻) 蓋し茲の経の力用なり已上自行」と。自行と化他との力用、勝劣分明なること勿論なり。能く能く之を見よ。一代聖教を鏡に懸けたる教相なり。極仏境界とは十如是の法門なり。十界互ひに具足して十界十如の因果、権実の二智二境は我が身の中に有りて一人も漏るゝこと無しと通達し解了して、仏語を悟り極むるなり。起法界信とは十法界を体と為し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまへる本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず。増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば、珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず、仏法に不足無し、一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり。断根本惑とは一念無明の眠りを覚まして本覚の寤に還れば、生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり。損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生する人、彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間、因は移り果は易はりて次第に進み昇り、劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云ふなり。下位を捨つるを死と云ひ、上位に進むを生と云ふ。是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり。爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば、十界互具、法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ、仏道の行は増して、変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず。故に生身及び生身得忍の両種の菩薩、増道損生するなり。法身の菩薩とは生身を捨てゝ実報土に居するなり。後心の菩薩とは等覚の菩薩なり。但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。本門には法身と後身との菩薩を利益す。但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す。故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地・等覚の菩薩を利益する行なるが故に、化の功広大なり化他徳用。利潤弘深とは自行徳用、円頓の行者は自行と化他と一法をも漏らさず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘なり。竪には三世に亘って法性の淵底を極むるが故に深なり。此の経の自行の力用此くの如し。 化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今の法華経は自行・ (★1423㌻) 化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滯り無し。薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬へに云はく「諸経は諸水の如し、法華は大海の如し」云云取意。実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入ること昼夜に絶えず。入ると雖も増せず減ぜず。不可思議の徳用を顕はす。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納ること無し。自行と化他との勝劣是くの如し。一を以て諸を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり。人の語を入れず。此の旨を意得れば一代聖教は鏡に懸けて陰り無し。此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり、敢へて人の会釈を引き入るべからず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生成仏の直道なり。 |
自行と化他とは、得るか失うかの力用の相違である。法華玄義の巻一には「薩婆悉達が祖王の弓を満月のように引き絞ったところを力と名づけるのである。そして放たれた矢が七つの鉄鼓を突き破り、一つの鉄囲山を貫き、地を通し、水輪まで突き抜けるようなところを用と名づけるのである。(これが自行の力用である。これに対してもろもろの方便教は、その力用の微弱であることは、あたかも凡夫が弓矢を射るようなものである。なぜならば、四十二年間に縁を結んだ衆生は化他の法門の権実二智を禀けたが、末だ理を照らすことも広くいきわたらず、信心を生ずることも深くなく、疑念をを除くことも尽くしたわけではないからである。)以上が化他の力用である。(今、法華経に縁を結んだ衆生は自行の法門の権実二智を禀けて仏の境界を極め、法界の信を起こし、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易の生を損ずるのである。そして生身の菩薩および生身得忍の両種の菩薩をともに利益するのみでなく、法身の菩薩および法身の後心の菩薩の両種の菩薩をともに利益するのである。教化の功力が広大でその利益し潤すことがひろく深いのが、この法華経の力用である)以上は自行の力用である」と述べられている。 自行と化他との力用の勝劣が明らかであることはもちろんである。よくよくこの玄義の文をみるがよい。一代聖教を鏡に映し出す教相である。 「仏の境界を極め」というのは、十如是の法門のことである。この十如是は十界に互いに具足して、十界・十如の因果、権実の二智、九界の境と仏界の境等は我が身のなかに具わって、一人としてそれらを具えないものではないものであると通達し解了したときに仏の説いた語を悟り極めることができるのである。 「法界の信を起こし」というのは、十法界を身体とし、十法界を心性とし、十法界を形相とする本覚の如来は、我が身のなかにあったのだと信ずることである。 「円妙の道を増し」というのは、自行と化他との二つは相即円融の法であるから、珠と光と宝の三徳がただ一つの珠に具わる徳であるように、片時も離れず、仏法に不足して欠けるところはない。この法を信受すれ一生のうちに仏に成ることができると慶喜の念を増すことである。 「根本の惑を断じ」というのは、一念の無明の眠りから覚めて、本覚の寤に還るならば、生死の苦も涅槃の楽もともに昨日の夢のように跡形もなくなるのである。 「変易の生を損ず」というのは、同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生した人が、その土で菩薩道を修行して仏になろうとするとき、因行は移り果徳は易って次第に位階を進み昇りながら、劫数を経て成仏の遠きを待つのを変易の生死というのである。 因行が昇進して下位を捨てるのを死といい、上位に進むのを生というのである。このように変易する生死は浄土における苦悩である。 ところが、今、凡夫の我らがこの穢土で法華経を修行すれば、十界互具・法界一如であるから、浄土の菩薩の変易の生死を損い、仏道の修行は増進して、変易の生死を一生のうちに縮めて仏道を成ずることができるのである。ゆえに生身および生身得忍の両種の菩薩ともに仏道を増し生死を損ずるのである。 「法身の菩薩」というのは、生身を捨てて実報土にいる菩薩のことである。「後心の菩薩」というのは等覚位の菩薩のことである。 ただし法華経迹門では生身の菩薩および生身得忍の菩薩を利益して、本門では法身の菩薩および法身の後心の菩薩とを利益するのるのである。ただし今は迹門を開会して本門に摂めて一つの妙法とするのである。 ゆえに凡夫の我らがこの穢土で修行する行力をもって、浄土に往生している十地の菩薩および等覚の菩薩までも利益するから、その教化の功徳は広大なのである。これが化他の徳用である。 「利潤弘深」というのは、自行の徳用である。法華円頓の行者は自行と化他とを一法も漏らさず、一念に具足して、横には十方法界に遍くいきわたるから弘しといい、竪には三世にわたって法性の淵底までも極めるから深しというのである。 法華経の自行の力用はこのようなものである。化他の諸経は自行を具えていないから、あたかも片翼しかない鳥が空を飛ぶことができないようなものである。ゆえに成仏する人もいないのである。 今、法華経は自行と化他の二行を開会して、不足がないから、鳥が両翼をもって飛ぶのになんの障りもないように、成仏することになんら滞りがないのである。 法華経薬王菩薩本事品第二十三には、十の喩えをもって自行の法華と化他の諸経との力用の勝劣を判じている。その第一の喩えに、諸経は諸水のようで法華経は大海のようである云々と説かれている。 実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入れること、昼夜絶えることがなくとも、大海の水は増減なく、不可思議の徳用をあらわすのである。 逆に諸経の衆水は片時ほどのあいだも法華経の大海を納めることはできない。自行と化他との勝劣はこのとおりである。一つの例をもって他の例を推察しなさい。 以上の譬喩は皆仏の所説である。人の言葉を指し挟まずに、この旨を心得たならば、一代聖教の勝劣は明鏡にかけて曇りもないように明瞭である。この経文や釈を見て、だれ人が勝劣に迷うであろうか。法華経は三世の諸仏が総じて勘えたところの文である。ゆえにあえて人師の解釈を引き入れるべきではない。法華経は三世の諸仏の出世の本懐である。一切衆生の成仏の直道である。 |
四十二年の化他の経を以て立つる所の宗々は、華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり。此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり。皆是方便なり。兼・但・対・帯の方便誘引なり。三世諸仏説教の次第なり。此の次第を糾して法門を談ず。若し次第に違はゞ仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違へず、我も亦是くの如しとて、経に云はく「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上。若し之に違へば永く三世の諸仏の本意に背く。他宗の祖師各我が宗を立て、法華宗と諍ふこと・りの中の・り、迷ひの中の迷ひなり。 徴他学の決に之を破して云はく山王院「凡そ八万法蔵の其の行相を統ぶるに四教を出でず。頭辺に示すが如く、蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶の二論等の能と所と教と理と争でか此の四を過ぎん。若し過ぎると言はゞ豈外邪に非ずや。若し出でずと言はゞ便ち他の所期を問ひ得よ即四乗の果なり。然して後に答へに随って推徴して理を極はめよ。我が四教の行相を以て並べ検へて彼の所期の果を決定せよ。若し我と違はゞ随って即ち之を詰めよ。且く華厳の如きは、五教に各々に修因向果有り。 (★1424㌻) 初中後の行一ならず。一教一果是所期なるべし。若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是仏教ならざるのみ。三種の法輪、三時の教等中に就て定むべし。汝何者を以て所期の乗と為すや。若し仏乗なりと言はゞ未だ成仏の観行を見ず。若し菩薩なりと言はゞ此亦即離の中道の異あるなり。汝正しく何れを取るや。設し離の辺を取らば果として成ずべき無し。如し即是を要とせば仏に例して之を難ぜよ。謬って真言を誦すとも、三観一心の妙趣を会せずんば、恐らくは別人に同じて妙理を証せじ。所以に他の所期の極に逐ひて理に準じて我が宗の理なり徴むべし。因明の道理は外道と対す。多くは小乗及び別教に在り。若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門なり。権に機に対して設けたり。終に以て引進するなり。邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以に論ずる時は四依撃目の志を存して之を執著すること莫れ。又須く他の義を将って自義に対検して随って是非を決すべし。執して之を怨むこと莫れ大底他は多く三教に在り円旨至って少なきのみ。先徳大師の所判是くの如し。諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し。末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや。 |
四十二年の化他の経によって立てた宗々は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗である。 これらは皆ことごとく法華経を説く以前の八教のなかの教で、皆、方便の教えである。兼・但・対・帯の義をおびた、方便誘引のための経教である。 これは三世諸仏の説教の順序次第である。この順序を糾して、法門を談ずるのであり、もしこの順序に違うならば、仏法とはいえないのである。 一代教主の釈迦如来も、三世諸仏の説教の順序を糾して一字も誤りなく、我もまた同様であるとして、法華経方便品第二にに「三世諸仏の説法の儀式のように、我も今またこのように無分別の法を説く」といっている。 もしこの順序を違えるならば、永く三世の諸仏の本意に背くことになるのである。他宗の祖師達が、おのおの自宗を立てて法華宗と争うことは、誤りのなかの誤り、迷いのなかの迷いである。 三王院の智証が著した授決集の巻一にある「微陀学決」には、このことを破折している。 「およそ一代聖教は八万法蔵といわれるが、その行相をまとめてみると、四教を出ていない。それは巻頭に示したとおりである。 蔵・通・別・円はすなわち声聞・縁覚・菩薩・仏乗である。ゆえに真言宗・禅宗・華厳宗・三論宗、唯識を説く法相宗・律宗・成実宗・倶舎の二論等で説く能詮の教も所詮の理もどうしてこの四教を超えることがあろうか。 もし超えるというならば、もはや外道邪義ではないか。また、もし出ていないというならば、その宗の所期すなわち、四乗のうちではどの乗を目的としているかを問うべきである。そして、その答えにしたがって、その宗の極理を尋ね、誤りを徴めよ。 そして我が四教の行相にあてはめて検討して決定せよ。他宗の目的としている果がもし我が宗のそれと違うならば、その果の違いを問い詰めよ。 今しばらく華厳宗についてみれば、同宗では一代聖教を五教に分け、それぞれに修因・向果を立てるから初・中・後の因行が一様でない。そのゆえは一教に一果を目的としているからである。 しかし、それらがもし蔵・通・別・円の因と果とでなければ、これは仏教ではない。このように微めるべきである。 また三論宗では三種の法輪をもって一代聖教を判別し、法相宗では三時教判をたてているが、その教理について是非を定めるべきである。そして汝の宗では何をもって目的とすべき乗とするかと、難詰すべきである。 もし仏乗であるといえば、汝の宗では、いまだ成仏の観行を説いていないではないか、と難詰すべきである もし菩薩乗であるといえば、菩薩の修行する中道にも即・離の異なりがあって、汝の宗では正しくいずれを取るかと問うて、もし離の中道を取ると答えたならば、別教では有教無人といって仏道を成就する菩薩はいないから、果を成ずることはないと破すべきである。 もし即の中道を要とすると答えたならば、仏乗を目的とすると答えたときと同じように難詰せよ。 また誤って真言を読誦しても三観一心の妙旨を会得しなければ、別教の人と同じように妙理を証することはできないであろう。それゆえに他宗の目的とする極理を追い求めて我が宗の妙理に照らして徴めるべきである。 また因明の道理は外道に対して説かれたもので、多くは小乗及以び別教に説かれる法門である。 もし法華・華厳・涅槃等の経に比べるならば、摂引するための法門である。仮に衆生の機根に対して設けられた方便教である。 終には正法に引き進めるための教であって、外道・小乗の徒を開会して真理に至らしめるためのものである。 ゆえに仏教を論ずるときは、四依の人が時機に応じて化導した精神を踏まえるべきで、その教えそのものにの執着してはならない。 また、正法を求めるためにはすべからく他宗の教義をもって自宗の義と対照検討し、その是非を決定すべきである。 いたずらに自宗の義に固執して、相手を怨んではならない。要するに、他宗の教義は大概三教に属するもので、円教の妙旨はきわめて少ないのである」と。 先徳智証大師の所判は以上のとおりである。諸宗が立てるところのこの鏡にかけてみると、陰りがなく明白である。末代の学者は、どうしてこれを見ないで勝手に一代聖教の勝劣を判じてよいものであろうか。 |
大綱の三教を能く能く学すべし。頓と漸と円とは三教なり。是一代聖教の総の三諦なり。頓・漸の二は四十二年の説なり。円教の一は八箇年の説なり。合して五十年なり。此の外に法無し。何に由ってか之に迷はん。衆生に有る時には此を三諦と云ひ、仏果を成ずる時には此を三身と云ふ。一物の異名なり。之を説き顕はすを一代聖教と云ふ。之を開会して只一の総の三諦と成す時に成仏す。此を開会と云ひ此を自行と云ふ。又他宗所立の宗々は此の総の三諦を分別して八と為す。各々に宗を立つるに依って、円満の理を欠いて成仏の理無し。是の故に余宗には実の仏無きなり。故に之を嫌ふ意は不足なりと嫌ふなり。円教を取って一切の諸法を観ずれば、円融円満して十五夜の月の如く、不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌はず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品をも択ばず。一切の諸法は皆是仏法なりと知れば諸法を通達す。即ち非道を行ずとも仏道を成ずるが故なり。天地水火風は是五智の如来なり。 (★1425㌻) 一切衆生の身心の中に住在して片時も離るゝこと無きが故に、世間と出世と和合して心中に有って、心外には全く別の法無きなり。故に之を聞く時、立ち所に速やかに仏果を成ずること滯り無き道理至極なり。総の三諦とは譬へば珠と光と宝との如し。此の三徳有るに由って如意宝珠と云ふ。故に総の三諦に譬ふ。若し亦珠の三徳を別々に取り放さば何の用にも叶ふべからず。隔別の方便教の宗々も亦是くの如し。珠を法身に譬へ、光を報身に譬へ、宝を応身に譬ふ。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌ふなり。之を丸めて一と為すを総の三諦と云ふ。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。 又寂光をば鏡に譬へ、同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬ふ。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云ふ。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て、寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。此は三世の諸仏の只同じ語に勘文し給へる総の教相なれば、人の語も入らず、会釈も有らず。若し之に違はゞ三世の諸仏に背き奉る大罪人なり、天魔外道なり。永く仏法に背くが故に。之を秘蔵して他人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば、仏法に証理無くして二世に冥加無からん。謗ずる人出来せば三世の諸仏に背くが故に、二人乍ら倶に悪道に堕ちんと識るが故に之を誡むるなり。能く能く秘蔵して深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相叶ひ、二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙り、滞り無く上々品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たって、身を十方法界の国土に遍し、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有るべからず。 |
一代聖教をわきまえるには、その大綱となる三教をよくよく学ばなければならない。頓教と漸教と円教とが三教である。この三教は一代聖教の総の三諦である。 頓・漸の二教は四十二年の説であり、円教の一教は後八年間の説である。合わせて五十年であり、このほかに仏法はない。どうしてこれに迷うことがあろうか。 衆生に約するときはこれを三諦といい、仏果を成ずるときはこれを三身という。これは一つの物の異名である。 これを説きあらわしたのを一代聖教といいこれを開会してただ一つの総の三諦と悟るときに成仏するのである。これを開会といい、自行というのである。 また他宗の立てる各教義はこの総の三諦を分別して八つとしたのである。各々に宗旨を立てるから円満の理を欠いて成仏の理がないのである。 したがって他宗には実の仏がないのである。ゆえに他宗を嫌うのであるが、その意は教理が不完全であると嫌うのである。 今、円教によって一切諸法を観察すると、円融円満で十五夜の月のように不足なく満足し、究極に達するならば、善悪をも嫌うことなく折節をも選ぶことなく、静処をも求めることなく、人柄をも選ぶことなく、一切の諸法は皆これ仏法であると知って、諸法に通達するのである。すなわち、たとえ非道を行じても、仏道を成ずることができるのである。 天地水火風は五智の如来である。一切衆生の身心のなかに住在して片時も離れることがないから。世間法と出世間法が和合して我らの心のなかにあって、心の外には全く別の法はない。 ゆえにこの妙理を聞くときは、その場で速やかに仏果を成ずることに、いささかの滞りもないのであって、これは至極の道理である。 総の三諦とは、たとえば珠と光と宝の関係のようなものである。この三徳があるから如意宝珠といい、総の三諦にたとえるのである。 また珠の三徳を別々に取り放してしまえば、なんの用にもならない。隔別の方便教の宗々は、どれも同じである。 珠は法身にたとえ、珠の放つ光は報身にたとえ、珠の宝としての価値は応身にたとえるのである。諸宗は、この総の三徳を分別して宗旨を立てるので、不足であると嫌うのである。 これに対して、この三諦を丸めて一つにするのを総の三諦というのである。この総の三諦はまた三身即一の本覚の如来である。 また寂光土を鏡にたとえ、同居土と方便土と実報土の三土をば鏡に映る像にたとえる。四土も一土である。三身もその体は一仏である。 法華経では、この三身と四土とが和合して仏の一体の徳であるのを寂光の仏というのである。この寂光の仏をもって円教の仏となし、円教の仏をもって寤の実仏となすのである。他の三土の仏は夢中の権仏である。 以上述べたことは、三世の諸仏が同じ語をもって勘文した総の教相であるから、人の言葉を入れる余地もなく、会通会釈も必要ない。 もしこの仏説に違うならば、三世の諸仏に背きたてまつる大罪の人であり、天魔外道である。なんとなれば、このような人々は永く仏法に背くからである。この法門は秘蔵して他人に見せてはならない。 もし秘蔵することなく、みだりにこれを披露するならば、仏法の奥義を証することなく、現当の二世に冥加を蒙ることがないであろう。 万一、誹謗する人が出てくるならば、三世の諸仏に背くことになるから、謗ずる者も披露した者もに二人ともどもに悪道に堕ちるということを知っているゆえに、みだりに見せることを戒めるのである。 ゆえに心ある者はよくよくこれを秘蔵して、深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意にかない、二聖・二天・十羅刹の擁護を受け、滞りなく上上品の寂光世界へ往生を遂げ、たちまちの間に九界生死の夢のなかに帰ってきて、身を十方法界の国土にいきわたらせ、心を一切有情の身中に入れて、内からは勧発し、外からは引導して、内外相応じ、因縁和合して自在神通の慈悲の力を施して、広く衆生を利益すること滞りがないであろう。 |
三世の諸仏は此を一大事の因縁と思し食して世間に出現し給へり。一とは中道なり法華なり、大とは空諦なり華厳なり、事とは仮諦なり阿含と方等と般若となり。已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時仏果を成ずるが故に、出世の本懐成仏の直道なり。 (★1426㌻) 因とは一切衆生の身中に総の三諦有りて常住不変なり。此を総じて因と云ふなり。縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず。善知識の縁に値へば必ず顕はるゝが故に縁と云ふなり。然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて五仏性を顕はさんこと、何の滞りか有らんや。春の時来たりて風雨の縁に値ひぬれば、無心の草木も皆悉く萠え出で、華を生じて敷き栄へて世に値ふ気色なり。秋の時に至りて月光の縁に値ひぬれば、草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し、寿命を続きて長養し、終に成仏の徳用を顕はす。之を疑ひ之を信ぜざる人有るべきや。無心の草木すら猶以て是くの如し、何かに況んや人倫に於てをや。 我等は凡夫なりと迷ふと雖も一分の心も有り解も有り、善悪を分別し折節を思ひ知る。然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値ひなば、因果を分別して、成仏すべき身なるを以て善知識に値ふと雖も、猶草木にも劣りて身中の三因仏性を顕はさずして黙止せる謂れ有るべきや。此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切るべし。今より已後は夢中の法門を心に懸くべからざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障り無く開悟すべし。自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し。三世諸仏の勘文是くの如し。秘すべし秘すべし。 弘安二年己卯十月 日蓮花押 |
三世の諸仏はこれを一大事の因縁と考えられて世間に出現されたのである。一大事因縁の一とは中道であり、法華経である。大とは空諦であり、華厳経である。事とは仮諦であり、阿含経・方等経・般若経である。以上は一代聖教のうえに立てた総の三諦である。
この総の三諦を悟り知るときは、仏果を得るゆえに、諸仏にとっての出世の本懐であり、衆生にあっては成仏の直道なのである。 因とは、一切衆生の身中に総の三諦があって常住不変であるということで、これを総じて因というのである。 縁とは三因仏性はあるといっても、善知識の縁に値わなければ、これを悟らず、知らず、また顕れることもない。善知識の縁に値えば必ずあらわれるゆえに縁というのである。 しかるに今、この一と大と事と因と縁との五事が和合して、値いがたい善知識の縁に値って、五仏性をあらわすことに、なんの滞りもないのである。 春のときがきて風雨の縁に値えば、無心の草木も皆ことごとく萠え出でて、華も咲き栄えて世間に出る気色である。 秋になって月の光の縁に値えば、草木は皆ことごとく実が熟れて、一切の有情を養育し、その寿命を延べて長く養い、ついに成仏の徳用をあらわすのである。 これを疑い、信じない人があろうか。無心の草木でさえ、なおこのとおりである。ましては人間においてはなおされのことである。 我らは迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることができる。 しかし宿縁に促され、生を仏法流布の国土に受けたのである。善知識の縁に値えば因果を分別して成仏できる身であるのに、善知識に値っても、草木に劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるであろうか。 このたび必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきである。今から以後は夢のなかの法門に心をかけてはならない。 三世の諸仏と我が一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきである。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて曇りはないのである。三世の諸仏の勘文はこのとおりである。秘すべきである、秘すべきである。 弘安二年己卯十月 日 日蓮花押 |