四条金吾殿御返事  弘安二年九月一五日  五八歳

源遠長流御書

 

第一章 金吾の信心を讃嘆す

(★1390㌻)
 銭一貫文給びて、頼基がまいらせ候とて、法華経の御宝前に申し上げて候。定めて遠くは教主釈尊並びに多宝・十方の諸仏、近くは日月の宮殿にわたらせ給ふも御照覧候ひぬらん。
 
 銭一貫文をいただきましたが、これは頼基からの御供養であると、法華経の御宝前(御本尊)に申し上げました。必ず、遠くは教主釈尊並びに多宝・十方の諸仏、近くは日天月天の宮殿からも御照覧あることでしょう。
 さては人のよにすぐれんとするをば、賢人・聖人とをぼしき人々も皆そねみねたむ事に候。いわうや常の人をや。漢皇の王昭君をば三千のきさき是をそねみ、帝釈の九十九億那由他のきさきは憍尸迦をねたむ。前の中書王をばをのの宮の大臣是をねたむ。北野の天神をば時平のをとど是をざんそうして流し奉る。    さて、人の世の中に勝れようとすると、賢人、聖人と思われるような人々さえも、皆そねみ、ねたむものである。まして常人はいうまでもない。漢の元帝の后、王昭君を三千人の后がそねみ、帝釈天が九十九億那有侘の后は憍尸迦をねたんだ、日本では前の中書王を小野の宮の大臣がねたみ、北野の天神(菅原道真)を左大臣藤原時平がねたんで天皇に讒奏して筑紫の国に流したのである。
 此等をもてをぼしめせ。入道殿の御内は広かりし内なれどもせばくならせ給ひ、きうだちは多くわたらせ給ふ。内のとしごろの人々あまたわたらせ給へば、池の水すくなくなれば魚さわがしく、秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人々そねみ候らんに、度々の仰せをかへし、よりよりの御心にたがはせ給へば、いくそばくのざんげんこそ候らんに、度々の御所領をかへして、今又所領給はらせ給ふと云云。此程の不思議は候はず。
(★1391㌻)
此偏に陰徳あれば陽報ありとは此なり。我が主に法華経を信じさせまいらせんとをぼしめす御心のふかき故か。
   これらのことをもって考えてごらんなさい。主君・江間入道度の御内は、はじめは広かったが、今はせまくなっている。しかも一族の子息たちは多くいらっしゃる。年来の家来も大勢おられるので、ちょうど池の水が少なくなれば魚がさわがしくなり、秋風が立つと小鳥が梢を争うのとおなじである。
 どんなにか御内の人々があなたをそねんでいることであろう。さらにあなたはたびたびの主君の仰せに背き、折々の御心にそわなかったから、どれほど多くの讒言があったであろう。ところが、主君からたびたびいただいた所領を返上して、今また所領を給わったということは、これ程不思議なことはない。
 全く陰徳あれば陽報ありとはこのことである。

 主君に法華経を信じさせようとされた真心の深いことによるのであろうか。
 阿闍世王は仏の御怨なりしが、耆婆大臣の御すゝめによて、法華経を御信じありて代を持ち給ふ。妙荘厳王は二子の御すゝめによて邪見をひるがへし給ふ。此又しかるべし。貴辺の御すゝめによて今は御心もやわらがせ給ひてや候らん。此偏に貴辺の法華経の御信心のふかき故なり。    阿闍世王は仏に敵対していたが、耆婆大臣のすすめによって法華経を信ずるようになり、寿命をのばして天下をたもつことができた。妙荘厳王は二人の息子のすすめによって邪見をひるがえされた。あなたの場合も同じである。あなたのすすめによって、主君の江間氏も今は、心をやわらげられたのであろう。これも、偏にあなたの法華経への御信心が深いからである。

 

第二章 難信難解を明かす

 根ふかければ枝さかへ、源遠ければ流れ長しと申して、一切の経は根あさく流れちかく、法華経は根ふかく源とをし、末代悪世までもつきずさかうべしと天台大師あそばし給へり。此の法門につきし人あまた候ひしかども、をほやけわたくしの大難度々重なり候ひしかば、一年二年こそつき候ひしが、後々には皆或はをち、或はかへり矢をいる。或は身はをちねども心をち、或は心はをちねども身はをちぬ。    樹は根が深ければ枝ぶりがさかんとなり、川は源が遠ければ流れは長い。この譬えのように、法華経以外のいっさいの経々は、根が浅く、流れは近い。それに対し、法華経は、根が深く源は遠い。故に末法悪世までもつきることなく栄え、流布していくと天台大師はいわれている。
 この法門を信心した人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年二年はついてきたが、後々には、みな、ある人は退転し、ある人は反逆して法華経に敵対してしまった。またある人は身は退転していないようだが、心の中ではすでに疑いをいだき、あるいは信仰の心だけはあっても、身は退転してしまっている。
 釈迦仏は浄飯王の嫡子、一閻浮提を知行する事、八万四千二百一十の大王なり。一閻浮提の諸王頭をかたぶけん上、御内に召しつかいし人十万億人なりしかども、十九の御年浄飯王宮を出でさせ給ひて、檀特山に入りて十二年、其の間御ともの人五人なり。所謂拘隣と頞鞞と跋提と十力迦葉と拘利太子となり。此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ。残りの三人も後の六年にすて奉りて去りぬ。但一人残り給ひてこそ仏にはならせ給ひしか。法華経は又此にもすぎて人信じがたかるべし。難信難解とは此なり。又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし。此をこらへん行者は、我が功徳にはすぐれたる事、一劫とこそ説かれて候へ。    釈迦仏は浄飯王の嫡子で世界を知行すること八万四千二百一十の大王であった。したがって一閻浮提の諸王が頭を傾けて敬意を表し、召使にいたっては十万億人であった。そのような身分でありながら、御年十九のとき父・浄飯王の宮殿を出られ、檀特山に入りて十二年修行したのである。その間伴の人は、僅か五人であった。所謂拘鄰と頞鞞と跋提と十力迦葉と拘利太子である。この五人も六年目には二人は去り、残りの三人も後の六年に釈尊を捨て去ってしまった。釈尊は唯だ一人残り修行され、後に仏に成られたのである。法華経は、またこれにも過ぎて信じ難い経である。経文に「難信難解」とあるのはこのことである。また仏の在世よりも今末法は大難か重なるのである。これを耐えて実践する者は一劫の間、仏を供養する功徳よりも勝る、と法師品に説かれている。

 

第三章 如来の使であることを明す

 仏滅度後二千二百三十余年になり候に、月氏一千余年が間仏法を弘通せる人、伝記にのせてかくれなし。漢土一千年、日本七百年、又目録にのせて候ひしかども、仏のごとく大難に値へる人々少なし。我も聖人、我も賢人とは申せども、況滅度後の記文に値へる人一人も候はず。竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法の大難に値へる人々にては候へども、此等も仏説には及ぶ事なし。此即ち代のあがり、法華経の時に生まれ値はせ給はざる故なり。    今は仏滅度後、二千二百三十余年になる。インドで一千余年の間、仏法を弘めた人は、伝記にのってはっきりしている。漢土の一千年・日本の七百年間の弘法者も皆、目録にのっているけれども、釈迦のように大難にあった人は少ない。我も聖人、我も賢人とはいうけれども、「况滅度後」の経文通りに大難にあった人は一人もいない。竜樹菩薩・天台・伝教こそ仏法のために大難にあった人々ではあるがそれでも経文に説いている大難には及ばない。それは時代がはやすぎて、法華経の弘まるべき時に生まれ合わせなかったからである。
 今は時すでに後五百歳・末法の始めなり。日には五月十五日、月には八月十五夜に似たり。天台・伝教は先に生まれ給へり。
(★1392㌻)
今より後は又のちぐへなり。大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず。今こそ仏の記しをき給ひし後五百歳、末法の初め、況滅度後の時に当たりて候へば、仏語むなしからずば、一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん。
   今は時すでに、釈迦が大集経で予言した「後五百歳」にあたり末法の始めである。たとえば日でいえば五月十五日の夏至・月では八月十五日の中秋の夜のごとき時である。天台・伝教大師はこの末法の時代よりも先に生まれられた。また、今より後に生まれてくる人も、その時を失ったことを後悔するであろう。日蓮が出現して魔軍の大陣は、すでに破れた。その他の余党は、物のかずではない。今こそ釈迦が予言した「後五百歳・末法の初め・况滅度後」の時にあたるのであるから、仏語が虚妄でないならば、一閻浮提のうちに、必ず聖人が出現していることであろう。
 聖人の出づるしるしには、一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候に、すでに合戦も起こりて候に、すでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給ひて候らん。きりん出でしかば孔子を聖人としる。鯉社なって聖人出で給ふ事疑ひなし。仏には栴檀の木をひて聖人としる。老子は二五の文を蹈んで聖人としる。    聖人が出現する前兆としては「一閻浮提第一の合戦が起こるであろう」と経文に説かれているが、すでに合戦も起こっているのであるから、聖人は、すでに一閻浮提の内に出現されているであろう。
 孔子の時代の人々は麒麟が出現したので孔子が聖人であることを知った。また鯉社が鳴って聖人が出現することは疑いないことである。
 仏が出現した時には、栴檀の木が生い、それによって聖人であることを知ることができた。また老子は足の裏に二と五の文を蹈んでいたので聖人と知ることができたのである。
 末代の法華経の聖人をば何を用ってかしるべき。経に云はく、能説此経・能持此経の人、則ち如来の使ひなり。八巻・一巻・一品・一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使ひなり。    今末法の聖人については、何をもって知ることができるであろうか。法華経法師品第十に「能く此の経を説き、能く此の経を受持する人は仏の使いである」と説かれている。すなわち法華経八巻・一巻・一品・一偈を持つ人、ないし題目を唱える人は、如来の使いである。また最初から最後まで、生涯、妙法を捨てずに大難を受けても受持し通す人は如来の使である。
 日蓮が心は全く如来の使ひにはあらず、凡夫なる故なり。但し三類の大怨敵にあだまれて、二度の流難に値へば如来の御使ひに似たり。心は三毒ふかく一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使ひに似たり。    日蓮が心は、まったく如来の使ではない。それはわが身が凡夫であるゆえである。しかし、この法華経に予言されたように三類の大怨敵に憎まれ、伊豆の伊東と佐渡と二度も流罪の難にあったのであるから、経文に説かれた如来の使に似ている。心は貧瞋癡の三毒が深く、また一身は凡夫であるけれども口には南無妙法蓮華経と唱えているから仏の使いに似ている。
 過去を尋ぬれば不軽菩薩に似たり。現在をとぶらうに加刀杖瓦石にたがう事なし。未来は当詣道場疑ひなからんか。これをやしなはせ給ふ人々は豈同居浄土の人にあらずや。事多しと申せどもとゞめ候。心をもて計らせ給ふべし。    過去にその例をたずねてみれば威音王仏の像法の末に出現したという不軽菩薩に似ている。また現在をたずねてみれば、経文に説かれた「加刀杖瓦石」の難に少しも違っていない。したがってこのことから未来を推定してもれば、必ず経文の如く「当に道場に詣でる」ことは疑いない。したがって、このような日蓮を養って下さる方々は、霊山浄土に共に住む人であることは疑いない。申し上げることはたくさんあるが、ここでは止めておく。あとは心をもって推量して下さい。

第四章 金吾の医術を讃える

 ちごのそらうよくなりたり、悦び候ぞ。又大進阿闍梨の死去の事、末代のぎばいかでか此にすぐべきと、皆人舌をふり候なり、さにて候ひけるやらん。三位房が事、さう四郎が事、此の事は宛も符契符契と申しあひて候。日蓮が死生をばまかせまいらせて候。全く他のくすしをば用ゐまじく候なり。
  九月十五日        日蓮花押
 四条金吾殿
   稚児の病気もすっかりよくなり、心から悦んでおります。又大進阿闍梨の死去の事、あなたの身立て通りで、末代の耆婆もあなたには及ぶまいと、皆舌をまいて感心している。私もその通りだと思っています。三位房のことや、さう四郎のことも、全く割符を合わせたようだと語り合っています。日蓮の生死を、あなたにおまかせします。全く他の医者は頼まないつもりでおります。
  弘安元年戊寅九月十五日        日蓮花押
 四条金吾殿