盂蘭盆御書   弘安二年七月一三日  五八歳

 

第一章 盂蘭盆の起源を示される

(★1374㌻)
 盂蘭盆と申し候事は、仏の御弟子の中に、目連尊者と申して舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して、須弥山に日月のならび、大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり。此の人の父をば吉懺師子と申し、母をば青提女と申す。其の母の慳貪の科によて餓鬼道に堕ちて候ひしを、目連尊者のすくい給ふより事をこりて候。
 
 盂蘭盆ということについては、仏の御弟子の中に目連尊者といって、舎利弗尊者と並んで智慧第一・神通第一といって、須弥山に日月が並ぶように、大王に左右の臣が侍るようにしていた人です。この人の父を吉懺師子とい、母を青提女といいました。その母が生前の慳貪の科によって餓鬼道に堕ちていたのを、目連尊者が救い出したことから始まっております。
 其の因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候ひけれども、目連は凡夫なれば知ることなし。幼少にして外道の家に入り、四井陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども、いまだ其の母の生処をしらず。其の後十三のとし、舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり、修惑を断じて阿羅漢となりて、三明をそなへ六通をへ給へり。天眼をひらいて三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとをし三悪道を見る事、氷の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし。其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり。のむ事なし、食らふことなし。皮はきんてうをむしれるがごとく、骨はまろき石をならべたるがごとし。頭はまりのごとく、頚はいとのごとし。腹は大海のごとし。口をはり手を合はせて物をこへる形は、うへたるひるの人のかをかげるがごとし。先生の子をみてなかんとするすがた、うへたるかたち、たとへをとるに及ばず。いかんがかなしかりけん。    その因縁は、母は餓鬼道に堕ちて嘆き苦しんでいましたが、目連尊者もはじめは凡夫なので知ることもありませんでした。幼少にして外道の家に入って、四韋陀・十八大経という外道の一切経を修学し尽くしましたが、それでも目連は母のいる所を知りませんでした。その後、十三歳の時に舎利弗とともに釈迦仏を訪ね、その御弟子となり、見惑を断じて初果の聖人となり、修惑を断じて阿羅漢となり、三明六通を得ました。そして天眼を開いて三千大千世界を、明鏡に影を映すようにして御覧になったところ、大地をみとおして三悪道を見ると、私達が、氷の下に泳いでいる魚を朝日に向かって通し見るようでした。その中の餓鬼道というところに自分の母がいたのです。その有様は飲むものはなく、食べるものもない。皮膚は金鳥の毛をむしったようであり、痩せ衰えて骨は丸い石を並べたようであり、頭は鞠のように、首は糸のようであり、腹だけが大きく大海のようでした。口を張り、手を合わせて物を乞う姿は、飢えた蛭が人の香をかぎつけているようです。そして、先生の子を見て泣こうとする姿、飢えてひもじそうな様子は、たとえようもないくらいで、目連はどんなに嘆かわしく、悲しく思ったことでしょう。
 法勝寺の修行舜観がいわうの島にながされて、はだかにて、かみくびつきにうちをい、やせをとろへて海へんにやすらいて、もくづをとりてこしにまき、
(★1375㌻)
魚を一つみつけて右の手にとり、口にかみける時、本つかいしわらわのたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しと、いづれかをろかなるべき。かれはいますこしかなしさわまさりけん。
   かの法勝寺の執行であった俊寛が、硫黄の島に流されて、裸の体に、髪が首つきをおおい、痩せ衰えた姿で海辺をさまよい、藻くずを取って腰に巻き、魚を一尾見つけて右手でつかみ、口で噛んでいる時、元仕えていた童子が訪ねてきて、その姿を見た時と、目連尊者が母を見た時と、どちらが愚かで、哀れでしょうか。
 目連のほうが俊寛のそれよりも、いま少し、悲しみが勝っていたでしょう。
 目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給い、はんをまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり、左の手にてははんをかくして口にをし入れ給ひしかば、いかんがしたりけん、はん変じて火となり、やがてもへあがり、とうしびをあつめて火をつけたるがごとくばともへあがり、母の身のごこごことやけ候ひしを目連見給ひて、あまりあわてさわぎ、大神通を現じて大いなる水をかけ候ひしかば、其の水たきゞとなりていよいよ母の身のやけ候ひし事こそあわれには候ひしか。    目連尊者は、あまりの悲しさに大神通力を現じて飯を差し上げたところ、母は喜んで右の手で飯をつかみ、左の手で飯を隠して口に入れたところ、どうしたことか飯が変じて火となり、灯心を集めて火をつけたようにぱっと燃え上ってしまい母の体がことごとに音をたてて焼けるのを目連尊者が見て、あまりにあわてて、さらに大神通力を現じて大水をかけたところ、その水が薪となってますます母の体が焼けたさまは、まことに哀れでした。
 其の時、目連みづからの神通かなわざりしかば、はしりかへり、須臾に仏にまいりて、なげき申せしやうは、我が身は外道の家に生まれて候ひしが、仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへて三界の生をはなれ、三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候にかへりて大苦にあわせて候は心うしとなげき候ひしかば、仏説ひて云はく、汝が母はつみふかし。汝一人が力及ぶべからず。又多人なりとも天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず。七月十五日に十方の聖僧をあつめて、百味をんじきをとゝのへて、母のくはすくうべしと云云。目連、仏の仰せのごとく行なひしかば、其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給ひきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候。其れによて滅後末代の人々は七月十五日に此の法を行なひ候なり。此は常のごとし。    その時目連尊者は自らの神通がかなわないので、走り帰ってすぐに仏の前に参り「私は外道の家に生まれましたが、仏の御弟子となって阿羅漢果を得、三界の生因を離れ、三明六通を得て羅漢になりましたが、いま乳母の大苦を救おうとしたのにかえって大苦にあわせてしまい、心苦しく残念でなりません」と嘆きながら申し上げたのです。目連の嘆きを聞いて仏は「汝の母は罪深い人だから、汝一人の力ではとうてい救うことはできない。またどのような人でも、たとえ、天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力でも救うことはできない。どうしてもと願うなら、七月十五日に十方の聖僧を集め、百味の飯食を供養して母の苦をすくうべきである」と説かれたのです。目連尊者が仏の仰せのままに行なわれたところ、その母は餓鬼道一劫の苦を脱れることができたと、盂蘭盆経という経に説かれています。
 そのことによって、仏滅後、末代の人々は七月十五日にこの法を行うことになり、今ではこの日に盂蘭盆会をおこなうのは世の常のようです。

 

第二章 目連が母を救えなかった理由

 日蓮案じて云はく、目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人、二百五十戒をかたく持つ事石のごとし。三千の威儀を備へてかけざる事は十五夜の月のごとし。智慧は日ににたり。神通は須弥山を十四さうまき、大山をうごかせし人ぞかし。かゝる聖人だにも重報の乳母の恩ほうじがたし。
(★1376㌻)
あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給ひき。いまの僧等の二百五十戒は名計りにて、事をかいによせて人をたぼらかし、一分の神通もなし。大石の天にのぼらんとせんがごとし。智慧は牛にるいし、羊にことならず。設ひ千万人をあつめたりとも父母の一苦すくうべしや。 
   日蓮が考えるに、目連尊者という申人は、十界のなかの声聞道の人で、二百五十戒を堅く持つことは石のようであり、三千の威儀を備えて欠けないことは十五夜の月のようでした。智慧は日輪に似て、神通力は須弥山を十四層に巻き、大山を動かすほどの人でした。このような聖人でも、重恩のある母の恩に報いることは難しく、そればかりか、恩を報じようとして、かえって大苦を増してしまったのです。
 それに比べ今の僧等は、二百五十戒は名ばかりで、持戒ということに事を寄せて人をたぶらかし、一分の神通力もありません。大石が天に昇ろうとしてもできないようなものです。智慧の劣っていることは牛や羊のようで、たとえ千万人を集めたとしても父母の一苦をも救うこたができるでしようか。
 
 せんずるところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし。されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男、目連房をせめて云はく「汝を供養する者は三悪道に堕つ」云云。文の心は、二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は三悪道に堕つべしと云云。此又唯目連一人がきくみゝにはあらず、一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみゝなり。此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末の郎従にて候。詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。    所詮、目連尊者が母の苦を救えなかったのは、小乗の教えを信じて、二百五十戒という持戒の人であったからです。
 ゆえに、浄名経という経典には浄名居士が目連房を責めて、汝を供養するものは三悪道に堕ちる、と言ったと説かれています。
 これは、ただ目連尊者一人を指していわれたのではなく一切の声聞乃至末代の持斎等を指していわれたのです。この浄名経というのは法華経に比べると、数十番も末につながる郎従のようなものです。つまりは、目連尊者自身が未だ成仏していないからです。自身が成仏せずして、父母を救うことは難しく、ましてや他人を救えるでしょうか。

 

第三章 正法による親子同時の成仏を明かす

 しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて「正直捨方便」とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。故に法華経に云はく「我が願ひ既に満じて衆の望みも亦足りなん」云云。目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。    ところが、目連尊者は法華経という経に、正直捨方便とあるとおり、小乗の二百五十戒を立ちどころに投げ捨てて、南無妙法蓮華経と唱えたところ、やがて成仏して多摩羅跋栴檀香仏となりました。この時こそ、父母も成仏することができたのです。ですから法華経に、我が願既に満ちて、衆の望も亦足りぬ、と説かれているのです。目連の色身は父母の遺体です。そうであれば目連が色身が成仏したので、父母の身もまた成仏したのです。
 例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に平氏の大将安芸守清盛と申せし人をはしき。度々の合戦に国敵をほろぼして上大政大臣まで臣位をきわめ、当今はまごとなり、一門は雲客月につらなり、日本六十六国島二つを掌の内にかいにぎりて候ひしが、人を順ふること大風の草木をなびかしたるやうにて候ひしほどに、心をごり身あがり、結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手ににぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去ぬる治承四年十二月二十二日に、七寺の内の東大寺・
(★1377㌻)
興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば、其の大重罪入道の身にかゝりて、かへるとし養和元年潤二月四日、身はすみのごとく血は火のごとく、すみのをこれるがやうにて、結句は炎身より出でてあつちじにゝ死にゝき。
   例えば、日本国八十一代の安徳天皇の治世に、平氏の大将、安芸守清盛という人がいました。
 度々の合戦に国敵を滅ぼして、上は太政大臣まで官位をきわめ、安徳天皇は孫にあたります。一門は雲客月卿につらなり、日本六十六ヶ国・島二つを掌中におさめ、人を帰順させることは大風の草木をなびかすようでしたが、しだいに憍慢の心が起き、つけあがって、結句は神仏を蔑視し、神人と諸僧を掌握しようとしたので、比叡山の僧や七大寺との諸僧を敵にしてしまったのです。つまりは、治承四年十二月二十二日、七大寺の中の東大寺・興福寺の両寺を焼き払ってしまったのです。その大重罪は太政入道の身に報いとなって現れ、翌年、養和元年潤二月四日、熱病にかかり、身は炭のようにこげ、顔は火がおこったようになり、結局は体内から炎が上がって熱死してしまったのです。 
 其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば、西海に沈むとみへしかども東天に浮かび出でて、右大将頼朝の御前に縄をつけてひきすへて候ひき。三男知盛は海に入りて魚の糞となりぬ。四男重衡は其の身に縄をつけて京かまくらを引きかへし、結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等、我等が仏のかたきなりとて一刀づつききざみぬ。悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず、子と孫と末七代までもかゝり候ひけるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。    そして、その大重罪は二男の宗盛にも及び、壇の浦の合戦に敗れ、西海に沈んだと思われたが東天に浮かび、捕えられて右大将頼朝の前に縄をつけたまま引き据えられたのです。三男知盛は海に沈んで魚糞となってしまい、四男重衡は一の谷の合戦に敗れ、身に縄を付けられて、京都、鎌倉を引き回されたあげく、奈良の七大寺に引き渡され。十万人の大衆等に我等が仏敵なりと一刀ずつ切り刻まれてしまったのです。
 これらのことから悪の中の大悪は、その罪を我が身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのです。善の中の大善もまた同じです。
 目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経の第三に云はく「願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。    目連尊者が法華経を信じた大善は、目連自身が仏になっただけでなく、目連の父母も仏になったのです。また父母のみならず上七代・下七代に及び、ひいては上無量生・下無量生の父母達までが存外に成仏することができるのです。さらには、子息・夫妻・所従・檀那・その他無量の衆生までも三悪道を離れることができただけでなく、皆、ことごとく初住・妙覚の仏となったのです。ですから、法華経の第三の巻に「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と説かれているのです。

 

第四章 妙法ゆえの成仏を約し激励される

 されば此等をもって思ふに、貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり。此の僧は無戒なり無智なり。二百五十戒一戒も持つことなし。三千の威儀一つも持たず。智慧は牛馬にるいし、威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。例せば蛇の珠をにぎり、竜の舎利を戴けるがごとし。    それゆえ、これらをもって考えてみますと、貴女は治部殿という孫を僧にもっておられます。この僧は無戒・無智で二百五十戒の一戒も持つことはなく、三千の威儀の一つも満たしていませんが、智慧は牛馬の頭で、威儀の整わないことは猿のようですが、その仰ぐところの仏は釈迦仏であり、信ずる法は法華経です。これを譬えれば蛇が珠を握り、竜が舎利を戴いているようなものです。
 藤は松にかゝりて千尋をよぢ、鶴は羽を持ちて万里をかける。此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし。我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかゝりて妙覚の山にものぼりなん。一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべし。此の羽をもて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までもとぶらうべき僧なり。あわれいみじき御たからはもたせ給ひてをはします女人かな。彼の竜女は珠をさゝげて仏となり給ふ。此の女人は孫を法華経の行者となしてみちびかれさせ給ふべし。    藤は松に懸って千尋をよじ登り、鶴は羽の力によって万里を飛ぶことができます。これらは自身の力ではありません。治部房もまた同じです。我が身は藤のようでも法華経という松の木に懸かれば妙覚の山にも登ることができ、一乗妙法の羽をたのんで寂光の空を自由に翔ることができるのです。この羽をもって父母・祖父・祖母・乃至七代の末まで弔うことのできる僧なのです。立派な、素晴らしい宝をお持ちになっている女人です。彼の竜女は珠を仏に供養して成仏されました。この女人は孫を法華経の行者にして、寂光浄土に導かれていくことでしょう。
(★1378㌻)
 事々そうそうにて候へばくはしくは申さず、又々申すべく候。恐々謹言。
 七月十三日                     日蓮花押
 治部殿うばごぜん御返事
牙一俵・やいごめ・うり・なすび等、仏前にさゝげて申し候ひ了んぬ。
   
 あれこれ忙しく、詳しくは申し上げません。また申し上げます。恐恐。
  七月十三日          日蓮花押
 治部殿うばごぜん御返事

 米一俵・やきごめ・うり・なすび等を御仏前におそなえいたしました。