法華初心成仏抄   弘安元年   五七歳

 

第一章 法華宗が釈尊所立の宗と明す

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 問うて云はく、八宗九宗十宗の中に何れか釈迦仏の立て給へる宗なるや。答へて云はく、法華宗は釈迦所立の宗なり。其の故は已説・今説・当説の中には法華経第一なりと説き給ふ。是釈迦仏の立て給ふ処の御語なり。故に法華経をば仏立宗と云ひ、又は法華宗と云ふ。又天台宗とも云ふなり。故に伝教大師の釈に云はく、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗と云へり。法華より外の経には全く已今当の文なきなり。已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云ひ、今説とは無量義経を云ひ、当説とは涅槃経を云ふ。此の三説の外に法華経計り成仏する宗なりと仏定め給へり。余宗は仏涅槃し給ひて後、或は菩薩、或は人師達の建立する宗なり。仏の御定を背きて、菩薩人師の立てたる宗を用ゆべきか、菩薩人師の語を背きて、仏の立て給へる宗を用ふべきか、又何れをも思ひ思ひに我が心に任せて志あらん経法を持つべきかと思ふ処に、仏是を兼ねて知ろし召して、末法濁悪の世に真実の道心あらん人々の持つべき経を定め給へり。経に云はく「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、知に依って識に依らざれ、了義経に依って不了義経に依らざれ」文。此の文の心は菩薩人師の言には依るべからず、仏の御定を用ひよ、華厳・阿含・方等・般若経等、真言・禅宗・念仏等の法には依らざれ、了義経を持つべし、了義経と云ふは法華経を持つべしと云ふ文なり。
 
 問うて言う。八宗・九宗・十宗のなかで、いずれの宗が釈尊の立てられた宗なのか。
 答えて言う。法華宗が釈尊の立てた宗である。そのゆえは法華経法師品第十に已説・今説・当説のなかでは法華経が第一であると説かれているが、これは釈尊の立てられた所説である。ゆえに。法華経を依経とする宗を仏立宗といい、また法華宗というのである。また天台宗ともいうのである。ゆえに、伝教大師の釈された天台大師の釈による法華の宗は釈尊の立てられた宗であるといっている。法華経以外の経には已今当の文は全く見当たらない。
 已説とは法華経より以前の四十余年の諸経をいい、今説とは無量義経をいい、当説とは涅槃経をいう。この三説をこえた法華経のみが成仏する宗であると仏は定められたのである。余宗は仏が涅槃された後に、菩薩あるいは人師達の建立した宗である。
 仏の仰せに背いて菩薩・人師の立てた宗を用いるべきか、菩薩・人師の言葉に背いて仏の立てられた宗を用いるべきか、またそのいずれをも思い思いに我が心に任せ、その心に合った経法を持つべきであるかと考えるに、仏はこのことをかねてお知りになって、末法濁悪の世において真実の道心を求める心のある人々の持つべき経を定められたのである。
 涅槃経に「法に依るべきであり人に依ってはならない。義に依るべきであり語に依ってはならない。知に依るべきであり識に依ってはならない。了義経に依るべきであり不了義経に依ってはならない」とある。この文の心は「菩薩・人師の言語には依ってはならない。仏の仰せを用いよ。華厳・阿含・方等・般若経等の真言・禅宗・念仏等の法には依ってはならない。了義経を持つべきである」ということである。了義経を持つべきであるというのは法華経を持つべきであるという文である。

 

第二章 日本は法華流布の国と示す

 問うて云はく、今日本国を見るに、当時五濁の障り重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思ひ甚だし。かゝる国かゝる時には、何れの経を弘むべきや。答へて云はく、法華経を弘むべき国なり。其の故は法華経に云はく「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云。瑜伽論には、
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丑寅の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり。
 安然和尚云はく「我が日本国」等云云。天竺よりは丑寅の角に此の日本国は当たるなり。又慧心僧都の一乗要決に云はく「日本一州円機純一にして、朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賤悉く成仏を期せん」云云。此の文の心は、日本国は京・鎌倉・筑紫・鎮西・みちをく、遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて、上も下も貴きも賤しきも持戒も破戒も男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云ふ文なり。譬へば崑崙山に石なく蓬莱山に毒なきが如く、日本国は純らに法華経の国なり。而るに法華経は元よりめでたき御経なれば、誰か信ぜざると語には云ひて、而も昼夜朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し。或は念仏も法華経も一つなりと云はん人は、石も玉も上臈も下臈も毒も薬も一つなりと云はん者の如し。其の上法華経を怨み嫉み悪み毀り軽しめ賤しむ族のみ多し。経に云はく「一切世間多怨難信」と。又云はく「如来現在、猶多怨嫉、況滅度後」の経文少しも違はず当たれり。されば伝教大師の釈に云はく「代を語れば則ち像の終はり末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり、経に云はく、猶多怨嫉況滅度後と、此の言良に以あるなり」と。此等の文釈をもって知んぬべし、日本国に法華経より外の真言・禅・律宗・念仏宗等の経教、山々・寺々・朝野遠近に弘まるといへども、正しく国に相応して、仏の御本意に相叶ひ、生死を離るべき法にはあらざるなり。
   問うて言う。今、日本国を見ると、当世は五濁の障りが重く、闘諍が盛んで瞋恚の心たけだけしく、嫉妬の思いも甚だしい。このような国、このような時にはいずれの経を弘めるべきであるのか。
 答えて言う。日本国は法華経を弘めるべき国である。その理由は法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「閻浮提の内に広く流布させて、断絶させてはならない」と説かれ、瑜伽論には「北東の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国あり」とあり、安然和尚はそれを「我が日本国である」といっている。インドから、この日本国は、北東の角にあたるのである。
 また、慧心僧都の一乗要決には「日本一州は円機純一であって、朝廷も在野も、遠きも近きも同じく一乗に帰し、僧俗貴賎、皆ことごとく成仏を期すべきである」とある。この文の心は、日本国は京都や鎌倉、筑紫・鎮西・陸奥など、遠くのところも近くのところも法華一乗の機根ばかりで、上も下も、貴い人も賎しい人も、持戒を持つ者も破戒の者も、男も女も皆一様に法華経によって成仏することができる国であるという文である。たとえば崑崙山に石がなく、蓬莱山に毒がないように、日本国は純然たる法華経の国である。
 ところが法華経は元来、尊い御経であるから、だれが信じない人がいようかなどと口ではいいながら、昼夜朝暮に弥陀念仏を称えている人は、薬は珍重すべきものとほめながら朝夕に毒を服している者と同じである。
 あるいは念仏も法華経も同じであるという人は、石も玉も、上﨟も下﨟も、毒も薬も同じであるという者と同じである。

 そのうえ、法華経を怨み嫉み悪み毀り軽しめ賎しむ人達だけが多い。法華経安楽行品第十四に「一切世間に怨多くして信じ難し」と説かれ、また、法華経法師品第十に「如来の現在すら猶、怨嫉多し、況や滅度の後をや」と説かれている経文が少しもたがわず符合している。
 そこで伝教大師の法華秀句には「代を語ればすなわち像の終り末の初め、地を尋ぬれば中国の東・カムチャッカの西、人を原ぬればすなわち五濁の生・闘諍の時である。経に猶多怨嫉・況滅度後とある。この言はまことに道理あることである」と釈されている。
 これらの文釈をもって知るべきである。日本国には法華経以外の真言宗・禅宗・律宗・念仏宗等の経教が方々の山々・寺々、全国いたるところにひろまっているが、これらはまさしく、この国に相応して、仏の御本意にかない、生死の苦を解決することができる法ではないのである。

 

第三章 仏教に背く諸宗の邪義を破す

 問うて云はく、華厳宗には五教を立て、余の一切の経は劣れり、華厳経は勝ると云ひ、真言宗には十住心を立て、余の一切経は顕教なれば劣るなり、真言宗は密教なれば勝れたりと云ふ。禅宗には余の一切経をば教内と簡ひて、教外別伝不立文字と立て、壁に向かひて悟れば禅宗独り勝れたりと云ふ。浄土宗には正雑二行を立て、法華経等の一切の経をば捨閉閣抛し雑行と簡ひ、浄土の三部経を機に叶ひめでたき正行なりと云ふ。
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各々我慢を立て、互ひに偏執を作す。何れか釈迦仏の御本意なるや。答へて云はく、宗々各別に我が経こそすぐれたれ、余経は劣れりと云ひて、我が宗吉しと云ふ事は唯是人師の言にて仏説にあらず。但し法華経計りこそ、仏五味の譬へを説きて五時の教に当てゝ、此の経の勝れたる由を説き、或は又已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云ふ事は正しき仏の金言なり。然るに我が経は法華経に勝れたり、我が宗は法華宗に勝れたりと云はん人は、下が上を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云はんが如し。何ぞ大罪に行なはれざらんや。法華経より余経を下す事は人師の言にあらず、経文分明なり。譬へば国王の万人に勝れたりと名乗り、侍の凡下を下と云はんに、何の禍かあるべきや。此の経は是仏の御本意なり。天台・妙楽の正意なり。
   問うて言う。華厳宗では五教を立てて、他の一切の経は劣り、華厳経は勝るといい、真言宗では十住心を立て、他の一切経は顕経であるから劣り、真言宗は密教であるから勝れているといっている。
 禅宗は釈尊一代の一切教を教内であると嫌って、教外別伝不立文字と立て、壁に向かって悟りを得るので禅宗がもっとも勝れているという。
 浄土宗は正雑二行を立て、法華経等の一切教をば捨閉閣抛し、雑行と嫌って、浄土の三部経が機にかなった勝れた経であり、正行であるといっている。
 このように各宗がこぞって慢じ、偏執をなしている。いずれが釈迦仏の御本意にかなう宗であるのか。
 答えて言う。各宗がそれぞれに我が経こそ勝れており余経は劣っているといって、自分の宗のよしみとすることは、ただこれ人師の言であって仏説ではない。法華経だけは仏自らが五味のたとえを説いて五時の教法にあって、この経が最も勝ていると説かれ、あるいは已今当の三説のなかで仏になる道は法華経に及ぶ経はないと説かれている。これは正しく仏の金言より出た御言葉なのである。
 しかるに、我が経は法華経に勝れている。我が宗は法華宗に勝れているという人は、あたかも下﨟が上﨟を凡下の者と下し、家代々の従者が主人に敵対して我が下人であるというようなものである。どうして大罪を免れることができようか。法華経から余経を下すことは人師の言ではなく、経文に明らかに説かれているところである。たとえていえば、国王が万人に勝れていると名乗り。侍が凡下を下﨟といって、なんの咎があるだろうか。法華経はこのように仏の御本意であり、天台大師や妙楽大師の正意とされたところなのである。

 

第四章 機縁による得道の説は邪義

 問うて云はく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種々なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり。人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも「雖示種々道、其実為仏乗」と云ふも「正直捨方便、但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞってあはれ然るべき道理かななんど思へり。如何心うべきや。若し爾らば大乗小乗の差別もなく、権教実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや。甚だいぶかし、いぶかし。答へて云はく、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども、衆生の機縁万差にしてとゝのをらざりしかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおゝせて、最後に此の妙法を説き給ふ。故に「若し但仏乗を讃せば衆生苦に没在し、是の法を信ずること能はず。法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕ちん」と説き、「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし」とも云へり。此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども、
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仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして定んで謗りを致さん。故に機をひとしなに誘へ給ふほどに、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき、最後に法華経をとき給ふ時、四十余年の座席にありし身子・目蓮等の万二千の声聞、文殊・弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きし処の法をば「如来の無量の知見を失へり」云云。法華経を聞いては「無量の宝聚求めざるに自づから得たり」と悦び給ふ。されば「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かず」とも、「仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり」とも説き給ふ。此等の文の心は四十余年の程、若干の説法を聴聞せしかども、法華経の様なる法をば総てきかず、又仏も終に説かせ給はずと法華経を讃めたる文なり。四十二年の聴きと今経の聴きとをば、わけたくらぶべからず。然るにそれ今経を法華経得道の人の為にして、爾前得道の者の為には無用なりと云ふ事、大なる誤りなり。をのずから四十二年の経の内には、一機一縁の為にしつらう処の方便なれば、設ひ有縁無縁の沙汰はありとも、法華経は爾前の経々の座にして得益しつる機どもを、押しふさねて一純に調へて説き給ひし間、有縁無縁の沙汰あるべからざるなり。悲しいかな大小権実みだりがはしく、仏の本懐を失ひて、爾前得道の者のためには法華経無用なりと云へる事を。能く能く慎むべし恐るべし。古の徳一大師と云ふ人、此の義を人にも教へ、我が心にも存じて、さて法華経を読み給ひしを、伝教大師此の人を破し給ふ言に「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」と責め給ひしかば、徳一大師は舌八つにさけて失せ給ひき。
   問うて言う。釈尊一期の説法は皆、衆生の機根に従って説かれたものであり、衆生の根性が千差万別であるので、それに応じて種々の法が説かれたのである。しかし、いずれも皆、得道を本意としたものである。そこで「自分に有縁の経は他人には無縁である。したがって、念仏によって成仏得道すべき者のためには観経等がありがたい経であって、法華経等は無用である。法華経によって成仏得道すべき者のためには余経は無用であり、法華経がありがたい経である。『四十余年には未だ真実を顕さず』と説いたり『種々の道を示すと雖も、其れ実には仏乗の為なり』あるいは『正直に方便を捨てて、但無上道を説く』と説かれているのは、法華経によって得道すべき機根の人達のためである」という考え方を、世人も皆もっともな道理であると思っている。これをいかが心得るべきであろうか。もしそうであれば大乗・小乗の差別もなく、権教・実教の異なりもないことになって、いずれの教法を仏の本意と説かれたのか、いずれの経を成仏の法と説かれたのか分からなくなり、はなはだ不審であるが、いかがであるのか。
 答えて言う。およそ仏は出世されて、始めから法華経を説こうと思われたけれども、衆生の機根が千差万別でととのっていないために、三週間思索され、四十余年間、方便の諸経を説き衆生の機根をととのえられて、最後にこの法華経を説かれたのである。
 ゆえに法華経方便品第二に「もしただ仏乗をほめるならば、衆生は苦に没在し、この法を信ずることができない。法を破って信じないゆえに三悪道に堕ちてしまうであろう」と説かれ、更に「世尊の法は、久しく時が経った後に、かならずまさに真実を説かれるであろう」とも説かれているのである。この文の意は、仏は最初から法華経を説こうと思われたが、仏法を求める機根さえない衆生は、これを信じないのみならず、かえって謗るであろうから、機根を一様にととのえるために、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間説き、最後に法華経を説かれた時、四十余年の間、仏の説法の座に連なってきた身子・目連等の万二千の声聞や、文殊・弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵天・帝釈等の無量の天人は、「爾前に聞いた経法では、如来の無量の知見を得ることができなかった」といい、法華経を聞いた所感を述べて「無上の宝聚求めないのに自ら得ることができた」と喜ばれたのである。そのゆえに「我らは昔からこのかた、しばしば世尊の説を聞いてきたが、いまだかって、このような深妙の上法を聞いたことがない」とも、「仏は希有の法を説かれた。このような法はいまだかって聞いたことがない」ともいっている。
 これらの文の意は、四十余年の間、多くの説法を聴聞したが、法華経のような法を全く聞いたことがなく、また仏もいまだかって説かれることがなかったと、法華経を讃歎した経文である。このように四十二年に聞いた爾前の法門と、法華経の会座で聞いた法門とを同じように考えて、分けて比較すべきものではない。しかるに、法華経は法華得道の人のためのものであり、爾前得道の者には無用であるというのは大きな誤りである。四十二年の経は一機・一縁のために説かれた方便の教えであるから、そのなかには、おのずと、衆生にとっては有縁であったり無縁であったりすることもあるが、法華経は爾前の経々の会座において当分の得益を受けた機根を純一にととのえて説かれたものであるので、有縁とか無縁ということがあるはずがないのである。
 大小・権実を混乱して仏の本懐を、なきものにしていることは悲しいことであり、爾前得道の者にとっては法華経は無用であるなどということは、よくよく慎むべきであり、また恐れるべきである。
 昔、徳一大師という人がこの邪義を人にも教え、自らもその心をもって法華経を読まれたのを、伝教大師がこの徳一を破して「法華経をほめているけれども、かえって法華の心をころしている」と責められたので、徳一大師は舌が八つに裂けて死んだということである。

 

第五章 法華は二乗の為との説を破す

 問うて云はく、天台の釈の中に菩薩処々得入と云ふ文は、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず、菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。若し爾らば未顕真実も正直捨方便等も、総じて法華経八巻の内、皆以て二乗の為にして、菩薩は一人も有るまじきと意うべきか如何。
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   問うて言う。天台大師の釈のなかに「菩薩は処処に入ることを得」とあるが、この文は、法華経はただ声聞・縁覚の二乗の為の経であって菩薩のための経ではなく、菩薩は爾前の経々において得道したという意と思われるが、もしそうでれば、無量義経に「未だ真実を顕さず」と説かれていることも、また法華経方便品第二に「正直に方便を捨てて但無上道を説く」と説かれていることも、総じて法華経八巻のなかに説かれていることは皆、二乗のためであって菩薩には一人も関係のないものと心得るべきか、いかがであろうか。
 答へて云はく、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云ふ事は、天台より已前唐土に南三北七と申して十人の学匠の義なり。天台は其の義を破し失せて今は弘まらず。若し菩薩なしと云はゞ、菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除こると云へる、豈是菩薩の得益なしと云はんや。それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はゞ「利根鈍根等しく法雨を雨らす」と説き、「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり」と説くは何に。此等の文の心は、利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴きもあれ賤しきもあれ、一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしと云ふ文なるをや。又法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云はゞ、普賢・文殊・弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云ふべきか。其の外に爾前の経にて得道する利根の菩薩と云ふは何様なる菩薩ぞや。抑爾前に菩薩の得道と云ふは法華経の如き得道にて候か。其ならば法華経の得道にて、爾前の得分にあらず。又法華経より外の得道ならば、已今当の中には何れぞや。いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず。故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別せり」と云ひ、又「終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり。文の心は爾前の経々には得道の差別を説くと云へども、終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給ひて候へ。    答えて言う。法華経はただ二乗のためであって菩薩のためではない、ということは天台大師が出世する以前、中国に南三・北七といって十流があり、その十人の学者が立てた義である。天台大師はその義をことごとく破折しつくして、今は全く広まっていない。もし法華経では菩薩得道の義がないというなら、法華経方便品第二に「菩薩はこの法を聞いて疑いを皆すでに除いた」と説かれており、どうして菩薩に得益がないといえようか。それでもなお、鈍根の菩薩は二乗とともに得益があるが、利根の菩薩は爾前経において得益する、というなら法華経薬草喩品第五のなかに「利根にも鈍根にも等しく法雨をふらす」と説かれ、更に法師品第十に「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提の悟りは皆この 経に属している」と説かれている文はどう解釈すればいいのか。そもそもこれらの経文の意は利根であれ鈍根であれ、持戒であれ破戒であれ、貴きも賎しきも、一切の菩薩・凡夫・二乗は、皆ことごとく法華経において成仏得道できるということである。また法華経で得益した菩薩は皆、鈍根の菩薩であるというなら、普賢・文殊・弥勒・薬王等の八万の菩薩を鈍根の菩薩というのだろうか。これらの菩薩のほかに爾前の諸経において得道する利根の菩薩とはどのような菩薩であろうか。
 そもそも爾前経に菩薩の得道といっているのは、法華経で説くような得道であるのか、もし法華経のような得道であれば、それは法華経の得道であって爾前の得道の分ではないのである。また法華経とは別の得道ならば、已今当の三説のなかではいずれに属するのか、どのように考えても、法華経以外の得道というのは当分の得道であって、真実の得道ではないのである。ゆえに無量義経には 「このゆえに衆生の得道は差別がある」と説かれ、また「ついに無上菩提を成ずることができない」と説かれている。文の意は、爾前の諸経においては当文の得道であるから種々に得道の差別があると説くが、結局は法華経のような無上菩提の得道ではないと仏は説かれているのである。

 

第六章 末法弘通の仏と法を示す

 問うて云はく、当時は釈尊入滅の後今に二千二百三十余年なり。一切経の中に何れの経か時に相応して弘まり利生も有るべきや。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。其の第五の五百歳をば闘諍堅固・白法隠没と云ひて、人の心たけく腹あしく貪欲瞋恚強盛なれば軍合戦のみ盛んにして、仏法の中に先々弘まりし所の真言・禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給へり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見るに、成仏の道こそ未顕真実なれ、世間の事法は仏の御言一分も違はず。是を以て之を思ふに、当時の闘諍堅固・白法隠没の金言も違ふ事あらじ。
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若し爾らば末法には何れの法も得益あるべからず、何れの仏菩薩も利生あるべからずと見えたり、如何。さてもだして、何れの仏菩薩にもつかへ奉らず、何れの法をも行ぜず、憑む方なくして候べきか。後世をば如何が思ひ定め候べきや。答へて云はく、末法当時は久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。其の故は経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は委しく是を尋ね聞くべきなり。
   問うて言う。現在は釈尊が入滅して後、二千二百三十余年である。一切経のなかで、いずれの経が時に相応して弘まり、利益もあるのであろうか。現在は、大集経に説かれている五箇の五百歳のなかの第五の五百歳にあたっている。その第五の五百歳は「闘諍堅固・白法隠没」といって、人の心はたけだけしく、腹黒く、貪欲・瞋恚が強盛であるので、合戦のみが盛んとなり、仏法のなかの、まえから広まっていた真言宗・禅宗・念仏宗・持戒等の白法は隠れ没するであろうと仏は説かれた。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見ると、成仏の道については未だ真実を顕していなくても、世間の事柄については仏の御言葉は一分もたがわなかった。そのことをもって思うに、第五の五百歳の現在が「闘諍堅固・白法隠没」であるとの金言も違うことはないであろう。

 もしそうだとすれば、末法にいずれの法も得益があるはずはなく、いずれの仏・菩薩にも仕えないで、いずれの法をも修行せず、憑むべき仏もないであろうが、後世についてはどのように思い定めたらよいのであろうか。
 答えて言う。末法の今は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘められている法華経二十八品の肝心である南無妙法蓮華経の七字ばかりが、この国に広まって、利益や得益もあり、上行菩薩の御利生が盛んになるべき時である。そのゆえは経文に明白である。道心が堅固であり、志のある人は、詳しくこれを尋ね聞くべきである。

 

第七章 末法に念仏弘通との法を示す

 浄土宗の人々は、末法万年には余経悉く滅し、弥陀一教のみと云ひ、又、当今末法は是五濁悪世、唯浄土の一門のみ有って通入すべき路なりと云ひて、虚言して大集経に云はくと引けども、彼の経に都て此の文なし。其の上あるべき様もなし。仏の在世の御言に、当今末法五濁悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは、説き給ふべからざる道理顕然なり。本経には「当来の世経道滅尽し、特り此の経を留めて止住すること百歳ならん」と説けり。末法一万年の百歳とは全く見えず。然るに平等覚経・大阿弥陀経を見るに、仏滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ。然るに善導が惑へる釈をば尤も道理と人皆思へり。是は諸僻案の者なり。但し心あらん人は世間のことはりをもって推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか、小河が先にひるべきか。仏是を説き給ふには法華経は大海なり、観経・阿弥陀経等は小河なり。されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給ひて候ひぬれ。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳白法隠没と云へると、双観経に経道滅尽と云へるとは但一つ心なり。されば末法には始めより双観経等の経道滅尽すと聞こえたり。経道滅尽と云へるは経の利生の滅すと云ふ事なり。色の経巻あるにはよるべからず。されば当時は経道滅尽の時に至って二百歳に余れり。此の時は但法華経のみ利生得益あるべし。    浄土宗の人々は「末法万年には余経はことごとく滅し、ただ弥陀の一教のみが残る」と言い、また「末法の今はこれ五濁の悪世であり、ただ浄土の一門のみが成仏へ入るべき路である」と言って、偽って「大集経に云く」と引いているけれども、かの経には一切が成仏へ入るべき道である」と説かれるはずがないことは道理からして明らかである。無量寿経には「きたるべき世には経道滅尽するけれども、特りこの経を留めて、止住すること百歳である」と説かれている。末法一万年のなかの百歳とは全くみえない。平等覚経・大阿弥陀経をみると、仏滅後一千年の後の百歳という意のようである。そうであるのに、善導が間違った解釈を、もっともな道理であると、人は皆思っているが、これは僻案の者である。ただし心ある人は、世間の道理をもって推察しなさい。大旱魃のある時は、大海が先に干上がるか、小河が先に干上がるか、仏はこのことを説かれているのに「法華経は大海である。観経・阿弥陀経等は小河である」と。したがって、念仏等の小河の白法が先に干上がると経文にも説かれているのである。大集経に五箇の五百歳のなかの第五の五百歳は白法隠没と説いているのと、雙観経に経道滅尽と説いているのとは、同じことである。したがって、末法には始めから雙観経等の経道は滅尽していることは明らかである。経道滅尽というのは、経の利生の滅するということである。実際の経巻があることにはよらないのである。したがって、現在の経道滅尽の時に至って二百年を過ぎている。この時はただ法華経のみ利生得益があるのである。

 

第八章 経釈を引いて末法流布を証す

 されば此の経を受持して南無妙法蓮華経と唱へ奉るべしと見えたり。
(★1312㌻)
薬王品には「後五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」と説き給ひ、天台大師は「後五百歳遠く妙道に沾はん」と釈し、妙楽大師は「且く大教の流行すべき時に拠る」と釈して、後五百歳の間に法華経弘まりて、其の後は閻浮提の内に絶え失せる事有るべからずと見えたり。安楽行品に云はく「後の末世の法滅せんと欲する時に於て斯の経典を受持し読誦せん者」文。神力品に云はく「爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げたまはく、嘱累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能はじ。要を以て之を言はゞ、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」云云。此等の文の心は、釈尊入滅の後第五の五百歳と説くも、末世と云ふも、濁悪世と説くも、正像二千年過ぎて末法の始め二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云ふ文なり。其の故は人既にひがみ、法も実にしるしなく、仏神の威験もましまさず、今生後生の祈りも叶はず、かゝらん時はたよりを得て天魔波旬乱れ入り、国土常に飢渇して天下も疫癘し、他国侵逼難・自界叛逆難とて我が国に軍合戦常にありて、後には他国より兵どもをそひ来たりて此の国を責むべしと見えたり。此くの如き闘諍堅固の時は余経の白法は験失せて、法華経の大良薬を以て此の大難をば治すべしと見えたり。
   それゆえ、この経を受持して南無妙法蓮華経と唱えるべきことが明瞭である。
 法華経薬王菩薩本事品第二十三には「後の五百歳の中に、この閻浮提に広宣流布して断絶させることがあってはならない」と説かれ、天台大師は「後の五百歳から遠く妙道に沾うであろう」と釈し、妙楽大師は「しばらく法華経が流行すべき時に拠っている」と釈して、後の五百歳の間に法華経が広まって、その後は、閻浮提のうちに絶え失せることはないと説かれているのである。安楽行品第十四には「後の末世の、法が滅びようとする時において、この経典を受持し、読誦する者は」と説かれ、如来神力品第二十一には「その時に仏が、上行等の菩薩や大衆に告げて言うには、付嘱のためにこの法華経の功徳を説いても、とうてい説き尽くすことはできない。肝要をもってこれをいうと、如来の一切の所持している法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、これらは皆この法華経に宣べ示し説き顕した」と説かれた。これらの文の心は、釈尊の入滅の後、第五の五百歳と説くのも、来世というのも、濁悪世と説くのも、正法・像法の二千年を過ぎて、末法の始めの二百余歳の今の時は、ただ法華経だけが広まるべきであるということである。そのゆえは、人の心は既に僻み、経法も実に効力がなく、仏神の威力もなくなり、今生後生の祈りもかなわない。このような時は、天魔・波旬が乱れ入り、国土は常に飢饉となり、天下には疫病が流行し、他国侵逼難・自界叛逆難といって我が国に合戦が絶えず、後には他国から兵士が襲ってきてこの国を責めるであろうことが明白である。このような闘諍堅固の時は、余経の白法は効験を失い、法華経の大良薬をもってこの大難を治すべきである、という意である。

 

第九章 正法の祈りの叶うを示す

 法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給ふべき鎮護国家の大白法なり。
 但し阿闍世王・阿育大王は始めは悪王なりしかども、耆婆大臣の語を用ひ、夜叉尊者を信じ給ひて後にこそ賢王の名をば留め給ひしか。南三北七を捨てゝ智・法師を用ひ給ひし陳主、六宗の磧徳を捨てゝ最澄法師を用ひ給ひし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり。智・法師と云ふは後には天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師と云ふ是なり。今の国主も又是くの如し。現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はゞ、万国に其の身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給ふべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤しくとも上行菩薩の化身か、
(★1314㌻)
又釈迦如来の御使ひかと思ふべし。又薬王菩薩・薬上菩薩・観音・勢至等の菩薩は正像二千年の御使ひなり。此等の菩薩達の御番は早過ぎたれば、上古の様に利生あるまじきなり。されば当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶はざる者なり。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬へばよき火打とよき石のかどとよきほくちと此の三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは、指したる世間の失無くして、聊のへつらふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。吉き法とは、此の法華経を最為第一の法と説かれたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、此の経第一と見えて候へば吉き法なり。禅宗・真言宗等の経法は第二第三なり。殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり。然るに日本国には第二第三乃至第七重の劣の法をもって御祈あれども、未だ其の証拠をみず。最上第一の妙法をもって御祈あるべきか。是を正直捨方便・但説無上道・唯此一事実と云へり。誰か疑ひをなすべきや。
    法華経をもって、国土の安穏を祈るならば、上一人から下万民に至るまで、ことごとく喜び栄えるのであり、法華経こそ鎮護国家の大白法である。
 ただし、阿闍世王や阿育大王は、初めは悪王であったけれども、耆婆大臣の進言を用い、夜叉尊者を信じられて、後には賢王の名を残されたのである。南三・北七の十師を捨て智顗法師を用いられた陳主や、南都六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用いられた桓武天皇は、今になお賢王の名を残されている。
 智顗法師というは、後に天台大師と呼ばれた。最澄法師とは後の伝教大師がこれである。
 今の国主もまたおじである。「現世安穏後生善処」の大利益のあるこの大白法を信じて、国土に弘めるならば、万国の人にその身を仰がれ、後の代に賢人の名を残されることになろう。そうした王は無辺行菩薩の化身であられることであろう。また妙法の五字を弘められる智者に対しては、いかに賎くても、上行菩薩の化身か、または釈迦如来の御使いかと思うべきである。また薬王菩薩・薬上菩薩・観音・勢至の菩薩は、正法・像法の二千年の御使いであり、これらの菩薩達の御番はもはや過ぎ去ったので、上古のように利益があるはずはない。それゆえ、これらの仏菩薩に対する当世の人の祈りをみるがよい。一切がかなっていないではないか。末法の今の世の番衆は上行・無辺行等である。
 これらをよくよく明らかにし信じてこそ、法の効験も仏菩薩の利益もあるのである。たとえていえば、よい火打ち金と、よい石の角と、よい火口と、この三つが寄り合って火を用いられるのである。祈りもまた同じである。よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難も払うことができるのである。
 よい師とは、これという世間の失もなく、いささかもへつらうことなく、少欲知足で、慈悲のある僧で、経文の意に任せて法華経を読み持ち、人をも勧めて持たせる僧を、仏は一切の僧のなかで第一のよい法師であるとほめられている。
 よい檀那とは、貴人を頼らず、賎人をも憎まず、上にもよらず、下をも卑しまず、一切、人の言を用いずに、一切経のなかで法華経を持つ人を、一切の人のなかでよい人であると仏は説かれている
 よい法とは、この法華経を「最も第一と為す」の法と説かれている。已説の経のなかでも、今説の経の中でも、当説の経のなかでも、この法華経が第一と見えているので、よい法である。禅宗・真言宗等の経法は第二・第三である。とりわけ真言の法は第七重の劣である。しかるに、第二・第三、または第七重の劣の法をもって御祈祷しているけれども、いまだその効力のあった証拠をみない。最上第一の妙法をもって御祈祷すべきである。これを「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」とも「唯此も一事のみ実なり」とも説かれているのである。だれが疑うことがあろうか。

 

第十章 妙法五字が成仏の要法と示す

 問うて云はく、無智の人来たりて生死を離るべき道を問はん時は何れの経の意をか説くべき、仏如何が教へ給へるや。答へて云はく、法華経を説くべきなり。所以に法師品に云はく「若し人あって何等の衆生か未来世に於て当に作仏することを得べきと問はゞ応に示すべし、是の諸人等未来世に於て必ず作仏することを得ん」云云。安楽行品に云はく「難問する所あらば小乗の法を以て答へざれ、但大乗を以て而も為に解説せよ」云云。此等の文の心は、何なる衆生か仏になるべきと問はゞ、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答ふべきなり。
(★1315㌻)
是仏の御本意なり。
   問うて言う。無智の人がきて、生死を離れる道を問うた時には、どの経の内容を説くべきであろうか。仏はそれをどのように教えられているであろうか。
 答えて言う。法華経を説くべきである。そのゆえは法華経法師品第十に「もし人が、どのような衆生が未来世において成仏することができるかと問うならば、まさに示すべきである。法華経を受持するこの諸人等が未来世に必ず成仏することができる」と説かれ、安楽行品第十四には「難じて問うてきたならば、小乗の法をもって答えてはならない。ただ大乗の法をもって解説せよ」と説かれている。これらの文の意は、どのような衆生が仏になることができるのかと問われたならば、法華経を受持したてまつる人が必ず仏になると答えよということである。これが仏の御本意である。
 之に付て不審あり。衆生の根性区にして、念仏を聞かんと願ふ人もあり、法華経を聞かんと願ふ人もあり。念仏を聞かんと願ふ人に、法華経を説いて聞かせんは何の得益かあるべき。又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも、強ひて法華経を説くべきか。仏の説法も機に随ひて得益あるをこそ本意とし給ふらんと不審する人あらば云ふべし。元より末法の世には、無智の人に機に叶ひ叶はざるを顧みず、但強ひて法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其の故は釈迦仏、昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男・女・尼・法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ毀られ、或は打たれ追はれ、一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しもこりもなくして強ひて法華経を説き給ひし故に今の釈迦仏となり給ひしなり。不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず、打ち奉りしかいなもすくまず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ、又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給ひしぞかし。まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かゝる難あるべしと経文に正しく見えたり。
 されば人是を用ひず、機に叶はずと云へども、強ひて法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり。
   これについて不審がある。「衆生の根性はまちまちであり、念仏を聞きたいと願う人もいる。法華経を聞きたいと願う人もいる。念仏を聞きたいと願う人に法華経を説いて聞かせても何の得益かあるだろうか。また念仏を聞こうとして説法を請われた時でも強いて法華経を説くべきであろうか。仏の説法も機根したがって得益があるのを本意としているではないか」。このようにして不審して聞く人があれば、次のように云いなさい。「もとより末法の世にあっては、無智の人には、機根にかなうかかなわないかを顧みず、ただ強いて法華経の五字の名号を説いて受持させるべきである」と。そのゆえは、釈迦仏が昔、不軽菩薩といわれて法華経を弘められた時には、男女や尼や法師が一人も漏れなく用いないで、あるいは罵られ、毀られ、あるいは打たれ、追われたことは、一様ではなかった。あるいは怨まれ、嫉まれたけれども、少しも懲りることなく、強いて法華経を説かれたので、今の釈迦仏となられたのである。不軽菩薩を罵った人は口も歪まず、打った腕も竦まなかった。付法蔵の師子尊者も外道に殺された。また法道三蔵も火印を顔面に当てられて江南に流されたのであった。まして末法において、甲斐なき僧が法華経を弘めると、必ずこのような難があると経文にたしかに説かれている。したがって人がこれを用いなくても、機根に合わないといっても、強いて法華経の五字の題名を聞かせるべきである。これでなくしては、仏になる道はないからである。

 

第十一章 妙法は順逆ともに成仏

 又或人不審して云はく、機に叶はざる法華経を強ひて説いて謗ぜさせて悪道に人を堕とさんよりは、機に叶へる念仏を説いて発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて返って地獄に堕とさんは、法華経の行者にもあらず、邪見の人にてこそ有るらめと不審せば云ふべし、経文には何体にもあれ末法には強ひて法華経を説くべしと仏の説き給へるをば、さていかゞ心うべく候や。釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等は、さて邪見の人・外道にておはしまし候べきか。又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云ふ者をば仏のの給はく、説ひ犬野干の心をば発こすとも、
(★1316㌻)
二乗の心をもつべからず。五逆十悪を作りて地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからずなんどと禁められしぞかし。悪道におちざる程の利益は争でか有るべきなれども、其をば仏の御本意とも思し食さず、地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。権教をもて仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強ひて法華経を説きて、謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き、我不愛身命とは仰せらるべきや。よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。
   またある人が不審して言う。「機に合わない法華経を強いて説いて、誹謗させて悪道に堕とすよりは、機根に合った念仏を説いて、発心させるほうがよい。利益もなく、誹謗させて、かえって地獄に堕とすのは、法華経の行者ではなく邪見の人である」と。これに対して、次のようにいいなさい。「経文には、機根の如何にかかわらず末法には強いて法華経を説くべきであると仏が説かれているのを、どのように心得たらよいのであろうか。釈迦仏・不軽菩薩・天台大師・妙楽大師・伝教大師等は邪見の人であり、外道であられるというのか」と。
 また悪道にも堕ちず、三界の生を離れた二乗と云う者を、仏は「たとえ犬や野干の心を発しても、二乗の心をもってはならない。五逆罪や十悪を犯して地獄に堕ちても、二乗の心をもってはならない」などと禁められている。悪道に堕ちないというほどの利益は他にどうしてあろうかと思われるぐらいであるが、それでもそれを仏の御本意とされなかったのである。そして、地獄に堕ちても、仏になる法華経を耳に触れるならば、これを種として必ず仏になると説かれたのである。
 それゆえ、天台大師や妙楽大師もこの心をもって、強いて法華経を説くべきであると釈しているのである。
 たとえば、地面につまずいて倒れた者が、かえって地面に手をついて起き上がるようなものである。地獄には堕ちるけれども、速やかに浮かんで仏になるのである
 当世の人は、何はなくても法華経に背く失によって地獄に堕ちることは疑いないのであるから、ともかくも法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗ずる者は毒鼓の縁となって仏になるのである。
 どちらにしても仏の種は、法華経より外にないのである。もし権教をもって仏になれるのであれば、どうして仏は強いて法華経を説いて、謗るも信ずるも利益があると説き、「我身命を愛せず」と仰せられることがあろうか。道心ある人は、よくよくこのことを心得なければならない。

 

第十二章 法華信受の人の成仏を明す

 問うて云はく、無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべきか。又何れの浄土に往生すべきぞや。答へて云はく、法華経を持つにおいては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解りを開く事も有るべし。其の外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら信心の人は、浄土に必ず生まるべしと見えたり。されば生十方仏前と説き、或は即往安楽世界と説きき。是の法華経を信ずる者の往生すと云ふ明文なり。之に付いて不審あり。其の故は我が身は一にして、十方の仏前に生まるべしと云ふ事心得られず。何れにてもあれ一方に限るべし。正に何れの方をか信じて往生すべきや。答へて云はく、一方にさだめずして十方と説くは最もいはれあるなり。所以に法華経を信ずる人の一期終はる時には、十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生まるべきなり。余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生まるべからず。浄土十方に多くして、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏の法を説く浄土もあり、或は菩薩の法を説く浄土もあり。法華経を信ずる者は此等の浄土には一向に生まれずして、
(★1317㌻)
法華経を説き給ふ浄土へ直ちに往生して座席に列りて法華経を聴聞して、やがてに仏になるべきなり。然るに今世にして法華経は機に叶はずと云ひうとめて、西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は、阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず、十方の浄土にも生まるべからず、法華経に背く咎重きが故に、永く地獄に堕つべしと見えたり。其人命終入阿鼻獄と云へる是なり。
   問うて言う。無智の人でも法華経を信じたならば即身成仏することができるのか。また、どの浄土に往生することができるのか。
 答えて言う。法華経を持つにあたっては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし、一念三千・十境・十乗の観法を一心に行う人は真実に即身成仏し、悟りを開くこともあるであろう。
 そのほかに、法華経の心も知らず、無智であっても信心一途の人は浄土に必ず生まれるであろうと思われる。
 それゆえ法華経提婆達多品第十二には「十方の仏の前に生まれん」と説き、薬王菩薩本事品第二十三には「即ち安楽世界に往いて」と説いている。これは法華経を信ずる者が仏国土に往生すると云う明文である。
 これについては不審がある。そのわけは、我が身は一つでありながら十方の仏の前に生まれるということは納得できない。どこであったにしても一方に限るべきである。まさにどの方角を信じて往生すべきであろうか。
 答えて言う。一方に定めずに十方と説いているのは、もっともな理由があるのである。そのわけは、法華経を信ずる人が、一生を終える時には、十方世界のなかで法華経を説く仏のもとに生まれるのであり、他の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生まれないのである。 
 浄土は十方に多くあって、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏の法を説く浄土もあり、あるいは菩薩の法を説く浄土もある。
 法華経を信ずる者はこれらの浄土には全く生まれずに、法華経を説かれる浄土へ直ちに往生して、その会座に列なって法華経を聞き、すぐさま仏になるのである。
 ところが、今生で法華経は機にかなわないといって疎んじ、西方浄土で法華経を悟ろうという者は、阿弥陀仏の浄土に往生して法華経を悟るのでもなく、十方の浄土にも生まれるわけでもない。法華経に背く咎が重いので、永く地獄に堕ちなければならない。法華経譬喩品第三に「其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれているのがこれである。

 

第十三章 法華は女人成仏の法と明す

 問うて云はく、即往安楽世界阿弥陀仏と云云。此の文の心は法華経を受持し奉らん女人は、阿弥陀仏の浄土に生まるべしと説き給へり。念仏を申しても阿弥陀の浄土に生まるべしと云ふ。浄土既に同じ、念仏も法華経も等しと心え候べきか如何。答へて云はく、観経は権教なり、法華経は実教なり、全く等しかるべからず。其の故は仏世に出でさせ給ひて、四十余年の間多くの法を説き給ひしかども、二乗と悪人と女人とをば簡ひはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、此の経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給ひ候ひつれ。其の旨経文に見えたり。華厳経には「女人は地獄の使ひなり能く仏の種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と云へり。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも、法界の女人は永く仏になるべからず」と見えたり。又経に云はく「女人は大鬼神なり、能く一切の人を喰らふ」と。竜樹菩薩の大論には「一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶ」と見えたり。されば実にてや有りけん、善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり。又業平が歌にも、葎をいてあれたるやどのうれたきはかりにも鬼のすだくなりけりと云ふも、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。又女人には五障三従と云ふ事あるが故に罪深しと見えたり。五障とは、一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏にならずと見えたり。又三従とは、女人は幼き時は親に従ひて心にまかせず、人となりては男に従ひて心にまかせず、年よりぬれば子に従ひて心にまかせず。加様に幼き時より老耄に至るまで三人に従ひて心にまかせず、思ふ事もいはず、見たき事をもみず、聴聞したき事もきかず、是を三従とは説くなり。されば栄啓期が三楽を立てたるにも、
(★1318㌻)
女人の身と生まれざるを一の楽みといへり。
 加様に内典外典にも嫌はれたる女人の身なれども、此の経を読まねどもかゝねども身と口と意とにうけ持ちて、殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の竜女・憍曇弥・耶輸陀羅女の如くにやすやすと仏になるべしと云ふ経文なり。又安楽世界と云ふは一切の浄土をば皆安楽と説くなり。又阿弥陀と云ふも観経の阿弥陀にはあらず。所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀、四十八願の主、十劫成道の仏なり。法華経にも迹門の阿弥陀は大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて、法華経大願の主の仏なり。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり。随って釈にも「須く更に観経等を指すべからざるなり」と釈し給へり。
   問うて言う。「即ち安楽世界の阿弥陀仏の…往いて」云々とあるが、この文の意は法華経を受持し奉る女人は阿弥陀仏の浄土に生まれることができるということである。念仏を称えても阿弥陀仏の浄土に生れるであろうといっている。浄土は全く同じである。念仏も法華経も等しいと心得てよいかどうか。
 答えて言う。観経は権教であり、法華経は実教である。全く等しくない。その理由は、仏が世に出現されて四十余年の間、多くの法を説かれたけれども、二乗と悪人と女人とを嫌われて成仏することができるとは一言も仰せられなかったが、この法華経には、腐敗した種のような二乗も、三逆罪を犯した提婆達多も、五つの障りがあるとされた女人も、仏になると説かれたのである。その趣旨は経文に記されている。
 華厳経には「女人は地獄の使いである。仏の種子を断じている。外面は菩薩に似ているが、内心は夜叉のようである」と説いている。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落ちたとしても、法界の女人は永く成仏することはできない」とある。また、ある経には「女人は大鬼神である。一切の人を食う」と説かれている。竜樹菩薩の大智度論には、「一度、女人を見れば永く地獄の業因を積む」とある。
 それゆえ、真実であろうか、善導和尚は謗法の者であるけれども、女人を見ずに一生を過ごした、といわれたのである。
 また在原業平が歌にも「葎生て 荒たる宿のうれたきは かりにも鬼のすたく也けり」というのがあるけれども、女人を鬼と詠んでいるのである。
 また、女人には五障三従ということがあるために罪深いとされている。五障とは一には梵天王・二には帝釈・三には魔王・四には転輪聖王・五には仏、これらにはなれないということである。
 また、三従とは女人は幼い時には親に従って思うようにならず、成人となってからは夫に従って思うようにならず、年老いたときには子に従って思うようにならない。このように幼い時から老年に至るまで、この三人に従って思うようにならず、思ったことも言えず、見たいことも見ることができず、聞きたいことも聞けない。これを三従というのである。
 それゆえ、栄啓期が三つの楽しみを立てたなかにも、女人の身と生まれなかったのを、一つの楽しみといっている。
 このように内典にも外典にも嫌われた女人の身であるけれども、この法華経を読まないでも、書かないでも、身と口と意とに受け持って、とくに口に南無妙法蓮華経と唱えたてまつる女人は、釈尊在世の竜女や憍曇弥や耶輸陀羅女のように、やすやすと仏になることができるという経文なのである。
 また、法華経で「安楽世界」というは一切の浄土をば皆「安楽世界」と説いているのである。また「阿弥陀仏」というも観経で説く「阿弥陀仏」ではない。理由は観経で説かれる「阿弥陀仏」は法蔵比丘がなった阿弥陀仏であり、四十八願を立てた主で、十劫の昔に成道した仏である。法華経でも迹門で説かれる「阿弥陀仏」は大通智勝仏の十六の王子のなかの第九の阿弥陀仏で、法華経を説く大願を発した主である。
 法華経本門で説かれる「阿弥陀仏」は釈迦仏の分身の阿弥陀仏である。したがって、法華文句記にも「当然、観経等で説くものをさすものではない」と釈しているのである。

 

第十四章 法華経が難解難入の法と破す

 問うて云はく、経に「難解難入」と云へり。世間の人此の文を引きて、法華経は機に叶はずと申し候は、道理と覚え候は如何。答へて云はく、謂れなき事なり。其の故は此の経を能くも心えぬ人の云ふ事なり。法華より已前の経は解り難く入り難し、法華の座に来たりては解り易く入り易しと云ふ事なり。されば妙楽大師の御釈に云はく「法華已前は不了義なるが故に、故に難解と云ふ。即ち今の教には咸く皆実に入るを指す。故に易知と云ふ」文。此の文の心は、法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来たりては機賢く成りて解り易く入り易しと釈し給へり。其の上難解難入と説かれたる経が機に叶はずば、先づ念仏を捨てさせ給ふべきなり。其の故は双観経に「難きが中の難き、此の難きに過ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云へり。文の心は、此の経を受け持たん事は難きが中の難きなり、此に過ぎたる難きはなし、難信の法なりと見えたり。    問うて言く、法華経に「解し難く、入り難し」と説かれている。世間の人がこの文を引いて、法華経は機根に合わない、と言っているのは道理であると思われるが、どうか。
 答えて言う。根拠のないことである。そのわけは、この法華経をよく分かっていない人のいうことだからである。法華経以前の経は解り難くて入り難く、法華経の会座に至っては解り易く入り易いということである。それゆえ、妙楽大師の法華文句記には「法華経以前は不完全な教えであるので難解というのである。法華経は皆がことごとく真実に入るので易知というのである」と釈している。この文の意は、法華経より以前の経では機根が劣っているので解り難くて入り難いが、法華経に至っては機根が賢くなって解り易く入り易いのである、ということである。
 そのうえ「解し難く入り難し」と説かれた経が機根に合わないというならば、まず念仏をこそ捨てるべきである。そのゆえは無量寿経に「難事のなかの難事で、これ以上の難事はない」と説き、阿弥陀経には「難信の法である」と説いているからである。文の意は、この経を受け持つことは難事のなかの難事で、これ以上の難事はない。信じ難い法である、ということである。

 

第十五章 法華が真実の説と明す

 問うて云はく、経文に「四十余年未だ真実を顕はさず」と云ひ、又「無量無辺不可思議阿僧劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得じ」と云へり。此の文は何体の事にて候や。答へて云はく、
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此の文の心は釈迦仏一期五十年の説法の中に始めの華厳経にも真実をとかず、中の方等般若にも真実をとかず。此の故に禅宗・念仏・戒等を行ずる人は無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじと云ふ文なり。仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説き給ふ文には「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし」と仰せられしかば、舍利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是くの如き深妙の上法を聞かず」と云ひて、我等仏に離れ奉らずして四十二年若干の説法を聴聞しつれども、いまだ是くの如く貴き法華経をばきかずと云へる。此等の明文をばいかゞ心えて、世間の人は法華経と余経と等しく思ひ、剰へ機に叶はねば闇の夜の錦、こぞの暦なんど云ひて、適持つ人を見ては賤しみ軽しめ悪み嫉み口をすくめなんどする、是併ら謗法なり。争でか往生成仏もあるべきや。必ず無間地獄に堕つべき者と見えたり。
   問うて言う。無量義経に「四十余年の間は未だ真実を顕わしていない」と説き、また「無量無辺不可思議阿僧祇劫を経過したとしても、ついに無上菩提を成ずることができない」と説いている。この文はどういうことなのか。
 答えて言う。この文の意は、釈迦仏が一代五十年の説法のなかで始めの華厳経にも真実を説かず、中間の方等経・般若経にも真実を説いていない。したがって、禅宗・念仏宗・戒律等を修行する人は無量無辺劫を経過しても仏に成れない、という文である。
 仏が四十二年の歳月を経た後、法華経を説かれた文に「世尊の法は久しく時がたったのちに必ず真実が説かれるであろう」と仰せらで、舎利弗等の千二百の阿羅漢、一万二千人の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王は仏の御言を領解して「我等昔よりしばしば、世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是くの如き、深妙の上法を聞かず」と述べて、我らは仏に離れることなく四十二年の間、多くの説法を聞いたけれども、末だこのように貴い法華経を聞いたことがない、といったのである。
 法華経と余経と等しいと思い、そのうえ機根に合わないので闇夜の錦であるとか去年の暦であるなどといって、たまたま持つ人を見ては、賎しみ、軽んじ、憎み、嫉み、口をすくめるなどしている世間の人は、これらの明文をこのように心得ているのであろうか。これこそ謗法であり、どうして往生成仏ができるのであろうか。必ず無間地獄に堕ちる者と思われる。

 

第十六章 法華行者に三類競うを示す

 問うて云はく、凡そ仏法を能く心得て仏意に叶へる人をば、世間に是を重んじ一切是を貴む。然るに当世法華経を持つ人々をば、世こぞって悪み嫉み軽しめ賤しみ、或は所を追ひ出だし、或は流罪し、供養をなすまでは思ひもよらず、怨敵の様ににくまるゝは、いかさまにも心わろくして、仏意にもかなはず、ひがさまに法を心得たるなるべし。経文には如何が説きたるや。答へて云はく、経文の如くならば、末法の法華経の行者は人に悪まるゝ程に持つを実の大乗の僧とす。又経を弘めて人を利益する法師なり。人に吉しと思はれ、人の心に随ひて貴しと思はれん僧をば、法華経のかたき世間の悪知識なりと思ふべし。此の人を経文には、猟師の目を細めにして鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くして、在家の俗男俗女の檀那をへつらひ、いつわりたぼらかすべしと説き給へり。其の上勧持品には法華経の敵人三類を挙げられたるに、一には在家の俗男俗女なり。此の俗男俗女は法華経の行者を憎み罵り、打ちはり、きり殺し、所を追ひ出だし、或は上へ讒奏して遠流し、
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なさけなくあだむ者なり。二には出家の人なり。此の人は慢心高くして内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて、法華経の行者を見ては怨み嫉み軽しめ賤しみ、犬野干よりもわろきやうを人に云ひうとめ、法華経をば我一人心得たりと思ふ者なり。三には阿練若の僧なり。此の僧は極めて貴き相を形に顕はし、三衣一鉢を帯して山林の閑かなる所に篭り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云はく、大愚癡の者大邪見の者なり、総て慈悲なき者の外道の法を説くなんど云はん。上一人より仰いで信を取らせ給はゞ其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし。法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此の三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。
   問うて言う。およそ、仏法をよく心得て仏の本意にかなった人を世間ではこれを重んじ、一切の人はこれを貴む。ところが、現在の世は法華経を持つ人々を、世間はこぞって憎み、嫉み、軽んじ、賎しみ、あるいは追放し、あるいは流罪しており、供養するなどとは思いもよらない状態で怨敵のように憎まれているのは、どうみても心がけが悪くて仏の本意にもかなわず、間違って法を心得ているからであろう。経文にはどのように説かれているのか。
 答えて言う。経文では、末法の法華経の行者は人に憎まれるほど、受持するのを真実の大乗の僧であり、経を弘めて人を利益する法師であるとしている。人によく思われ、人の心に従って、貴しと思われる僧は、法華経の敵であり、世間の悪知識と思いなさい。この人を経文には、猟師が目を細めにして鹿を狙い、猫が爪を隠して鼠を狙うようにして在家の俗男・俗女の檀那に諂い、偽り、たぶらかすであろうと説かれている。
 そのうえ法華経勧持品第十三には、法華経の敵人として三種類を挙げられているが、一つには在家の俗男・俗女である。この俗男・俗女は法華経の行者を憎み、罵り、殴りつけ、切り殺し、追放し、あるいは権力者に讒奏して遠流し、情け容赦なく怨む者である。

 二には出家の人である。この人は慢心が高く、内心は物も知らないけれども智者のように見せかけて、世間の人に学匠と思われ、法華経の行者を見ては怨み、嫉み、軽んじ、賎しみ、犬や野干よりも劣っていると人に言って嫌うように仕向け、法華経を自分一人が心得ていると思う者である。
 三つは阿練若の僧である。この僧は極めて貴い姿を形にあらわし、三衣・一鉢を携えて山林の静かな所に籠り住んで、釈尊在世の阿羅漢のように諸人に貴まれ、仏のように万人に仰がれており、法華経を説かれた教えのとおりに読み持ち奉る僧を見ては、憎み嫉んで「大愚癡の者であり、大邪見の者である。全く慈悲のない者で、外道の法を説いている」などと言うであろう。上一人から仰いで信じられているから、その以下の万人も仏に対するように供養をするであろう。法華経を教説のとおり読み持つ人は、必ずこの三種類の敵人に怨まれるであろう、と仏は説かれている。

 

第十七章 題目受持を成仏の法と示す

 問うて云はく、仏の名号を持つ様に、法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや、如何。答へて云はく、経に云はく「仏諸の羅刹女に告げたまはく、善きかな善きかな、汝等但能く法華の名を受持する者を擁護せん福量るべからず」云云。此の文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給へるを、大覚世尊讃めて言はく、善きかな善きかな、汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたくめでたき功徳なり、神妙なり、と仰せられたる文なり。是我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云ふ文なり。    問うて言う。仏の名号を持つように法華経の名号を特別なものとして持つべきであるとする証拠はあるのか、どうか。
 答えて言う。法華経陀羅尼品第二十六に「仏、諸の羅刹女に告げたまわく、善き哉善き哉、汝等但能く、法華の名を受持する者を擁護せんすら、福量るべからず」と説いている。この文の意は十羅刹女が法華経の名号を持つ人を護ろうと誓いを立てたのを大覚世尊がほめて「よいことである、よいことである。あなた方が南無妙法蓮華経と受け持つ人を守る功徳はどれほどとも量りがたく、素晴らしい功徳である。立派なことである」と仰せられたのである。つまり、これは我ら衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱えるべきであるという文である。
 凡そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舍利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と、三世諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理を妙法蓮華経と名づけたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。譬へば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。
(★1321㌻)
空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏になり給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是なり。是等の趣を能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。
          日蓮花押    
   そもそも妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王や帝釈等の仏性と、舎利弗や目連等の仏性と、文殊や弥勒等の仏性と、三世の諸仏の悟りの妙法とが一体不二である理を妙法蓮華経と名づけたのである。
 ゆえにひとたび妙法蓮華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天会の一切衆生の心中の仏性をただ一声によびあらわしたてまつるのであって、その功徳は無量無辺である。
 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめたてまつって、我が己心中の仏性を南無妙法蓮華経と呼び呼ばれてあらわれるところを仏というのである。たとえば、籠の中の鳥が鳴けば、空をとぶ鳥が呼ばれて集まるようなものである。空を飛ぶ鳥が集まれば、籠の中の鳥も出ようとする。
 口に妙法をよびたてまつれば、我が身の仏性も呼ばれて必ずあらわれる。梵王や帝釈の仏性は呼ばれて我らを守る。仏や菩薩の仏性は呼ばれて喜ばれる。それゆえ、法華経見宝搭品第十一に「もしすこしの間でも持つ者がいれば、我れ則座に歓喜する。諸仏もまた同様である」と説かれているのはこの意である。
 したがって、三世の諸仏も妙法蓮華経の五字によって仏になられたのである。三世の諸仏の出世の本懐であり、一切衆生が皆、仏道を成ずる妙法というのはこれである。これらの趣旨をよくよく心得て、仏になる道には我慢偏執の心がなく、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるべきである。
         日蓮花押