| 阿闍世王は賢人なりしが、父をころせしかば、即時に天にもすてられ、大地もやぶれて入りぬべかりしかども、殺されし父の王一日に五百りゃう、五百りゃう数年が間仏を供養しまいらせたりし功徳と、後に法華経の檀那となるべき功徳によりて、天もすてがたし、地もわれず、ついに地獄にをちずして仏になり給ひき。 | 阿闍世王は賢人であったが、父を殺したのであるから、即座に天に捨てられ、大地がわれて地獄に堕ちるべきところであったが、殺された王が生前に一日五百輌ずつ、数年間にわたって、仏を供養した功徳と、阿闍世王自身、後に法華経外護の檀那となる功徳によって、天も捨てがたく、地もわれず、ついに地獄にも堕ちないで仏になったのである。 | |
| とのも又かくのごとし。兄弟にもすてられ、同れいにもあだまれ、きうだちにもそばめられ、日本国の人にもにくまれ給ひつれども、去ぬる文永八年の九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出でて、さがみのえちに御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有りしかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。 | あなたもまたその通りであって、兄弟にも捨てられ、同僚にもにくまれ、公達にも迫害され、日本国中の人にもにくまれたけれども、去る文永八年九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気を蒙った際に、馬の口に取り付いて鎌倉を出て依知まで供してこられたことは、一閻浮提第一の法華経の味方であるから、梵天・帝釈も捨てられなかったのであろう。 | |
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仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむかせ給はず候ひし御ともの御ほうこうにて仏にならせ給ふべし。例せば有徳国王の覚徳比丘の命にかはりて釈迦仏とならせ給ひしがごとし。法華経はいのりとはなり候ひけるぞ。あなかしこあなかしこ。 |
仏になることもこれと同じである。どのような大罪があったとしても、法華経に対して背かれずに、御供の御奉公をされたのであるから、仏になることは疑いない。 例えば涅槃経に説かれているところの、有徳王が正法護持の覚徳比丘の命を捨てて護った功徳によって、釈迦仏となられたごとくである。法華経を信ずるのは成仏の祈りとなるものである。あなかしこあなかしこ。 |
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いよいよ道心堅固にして今度仏になり給へ。 御一門の御房たち又俗人等にもかゝるうれしき事候はず。かう申せば今生のよくとをぼすか。それも凡夫にて候へばさも候べき上、欲をもはなれずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云。天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提、生死即涅槃」等云云。 (★1288㌻) 竜樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれていみじきやうを釈して云く「譬へば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」等云云。「小薬師は薬を以て病を治す、大医は大毒をもって大重病を治す」等云云。 日 蓮 花押 四条金吾殿御返事 |
いよいよ信心を強盛にして今生に成仏を期していきなさい。 御一門の出家の御房達や在家の人々のなかにも、これほどうれしいことはない。このように所領のことについていえば、現世の欲望だと思われるかもしれないが、凡夫であるからにはそれは当然であるし、その欲を離れずして仏になる道があるのである。 普賢経に法華経の大事な心を説いて「煩悩を断ぜず五欲を離れず」とあり、また竜樹菩薩の摩訶止観には「煩悩がそのまま菩提となり、生死がそのまま涅槃の境界となる」とある。また竜樹菩薩の大論には法華経が一代諸経に勝れていることを釈して「たとえば大薬師がよく毒を変じて薬とするごときものである」といわれている。その意は、小薬師は薬を以って病を治すが、大医は大毒を以って大重病を治すのである。ということである。 弘安元戊寅年十月 日 日蓮花押 四条金吾殿御返事 |