四条金吾殿御返事 建治三年七月 五六歳

別名『為法華経不可惜所領事』

第一章 金吾の決断を讃える

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 去月二十五日の御文、同じき月の廿七日の酉の時に来たりて候。仰せ下さるゝ状と、又起請かくまじきよしの御せいじゃうとを見候へば、優曇華のさきたるをみるか、赤栴檀のふたばになるをえたるか、めづらし、かうばし。三明六通を得給ふ上、法華経にて初地初住にのぼらせ給へる証果の大阿羅漢、得無生忍の菩薩なりし舎利弗・目連・迦葉等だにも、裟婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ、かなふまじき由辞退候ひき。まして三惑未断の末代の凡夫いかでか此の経の行者となるべき。
 
 先月25日のお手紙が、同月27日の午後6時頃に着きました。主君の江間氏から仰せ下された書画と、法華経を捨てるという起請を書かないという、あなたの御誓状をみましたが、優曇華の花が咲いたのを見るか、赤栴檀のはじめてふたばとして芽をだしたかのようにめずらしく尊いことであり、芳ばしく思いました。
 三明六通を得た上・法華経によって初地・初住にのぼった証果の大阿羅漢であり、無生忍の位を得た菩薩であった舎利弗・目連・迦葉等でさえも、この娑婆世界で、末法の時、法華経を弘通する事の大難を耐え忍ぶことができないので、弘通する資格がないといわれ、辞退したのである。まして見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を未だ断じていない末代の凡夫が、どうして此の経の行者となることができゆか。
 設ひ日蓮一人は杖木瓦礫・悪口王難をもしのぶとも、妻子を帯せる無智の俗なんどは争でか叶ふべき。中々信ぜざらんはよかりなん。すへとをらずしばしならば人にわらはれなんと不便にをもひ候ひしに、度々の難、二箇度の御勘気に心ざしをあらはし給ふだにも不思議なるに、かくをどさるゝに二所の所領をすてゝ、法華経を信じとをすべしと御起請候ひし事、いかにとも申す計りなし。    たとえ日蓮一人は杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶことはできたとしても、妻子をもった法華経の道理を知らない在家の人達は、どうして耐え忍ぶことができようか。かえって信じない方がよかったのではないか。最後まで信心を貫き通せず、わずかの期間の信心であるならば、人に笑われるであろうと不便に思っていた。しかるに日蓮の度度の難・二箇度の御勘気の折に不動の信心をあらわされたことさえ、不思議であるのに、このように自身がおどされた時に二ヵ所の所領をすててまでも法華経を信じ通しますという誓状を書かれたことは、とうてい言葉では言いようのないほど立派なことです。
 普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思し食して、妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ。只事の心を案ずるに、日蓮が道をたすけんと、上行菩薩貴辺の御身に入りかはらせ給へるか。又教主釈尊の御計らひか。    釈尊は、普賢菩薩・文殊菩薩等でさえも、末法には、おぼつかないと思われて、妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の弘通び道をたすけようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわれたのだろうか。または教主釈尊の御計い事であろうか。
 彼の御内の人々うちはこびこって、良観・竜象が計らひにてやぢゃうあるらん。    江間氏の身内であなたを憎んでいる人々が増長しているのは良観・竜象房が、きっと画策しているに違いないでしょう。
 起請をかゝせ給ひなば、いよいよかつばらをごりて、かたがたにふれ申さば、鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなくせめうしなひなん。凡夫のならひ、身の上ははからひがたし。これをよくよくしるを賢人聖人とは申すなり。    もし、あなたが信仰を捨てるという起請を書いたならば、彼らはますます驕り高ぶって、方々にそれを吹聴するであろう。その結果、鎌倉にいる日蓮が弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう。凡夫の常として、自分の身の上のことは、計りがたいのであり、それを熟知するのを賢人・聖人というのです。
 遠きをばしばらくをかせ給へ。近きは武藏のかう殿、両所をすてゝ入道になり、結句は多くの所領、男女のきうだち、
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御ぜん等をすてゝ御遁世と承る。とのは子なし。たのもしき兄弟なし。わづかの二所の所領なり。一生はゆめの上、明日をごせず。いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給ふべからず。されば同じくはなげきたるけしきなくて、此の状にかきたるがごとく、すこしもへつらはず振る舞ひ仰せあるべし。中々へつらふならばあしかりなん。設ひ所領をめされ、追ひ出だし給ふとも、十羅刹女の御計らひにてぞあるらむとふかくたのませ給ふべし。
   遠くの事例はしばらくおいて、近くの例でいえば、武蔵の守殿が二ヵ所の領地をすてて入道になり、結局は多くの所領、息子や娘、また妻等を捨てて御遁世なされたと聞いている。
 あなたには子供はいない。また頼みとする兄弟もいない。
ただあるのは、わづかの二ヵ所の所領である。一生はゆめの上の出来事のように、はかなきものであり、明日の命もわからないのです。いかなる乞食になっても法華経にきずをつけてはなりません。それゆえ、同じ一生であるなら、嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しも、へつらわずに振舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって悪くなるでしょう。たとえ所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであろうと思って、深く信をとり、諸天にゆだねておきなさい。
 日蓮はながされずして、かまくらにだにもありしかば、有りしいくさに一定打ち殺されなん。此も又御内にてはあしかりぬべければ釈迦仏の御計らひにてやあるらむ。    日蓮が、流罪されないで、鎌倉にいたならば、あの二月騒動の折りに、きっと打ち殺されていたにちがいありません。あなたが、身内を追い出されたことも、主君の身内にいてはならないだろうという釈迦仏の御計らいでしょう。

第二章 禍を転じて幸となすを示す

 陳状は申して候へども、又それに僧は候へども、あまりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に、いまだ所労きらきらしく候はず候へば、同じ事に此の御房をまいらせ候。   あなたの主君への陳状は、したためておきましたが、また、鎌倉にも、弟子の僧はいますが、あまりにもおぼつかないので、三位房をつかわそうと思っていたところ、まだ病状の方が、はかばかしくないので、かわりにこの御房(誰かは不明)を参らせました。
 だいがくの三郎殿か、たきの太郎殿か、とき殿かに、いとまに随ひてかゝせて、あげさせ給ふべし。これはあげなば事きれなむ。いたういそがずとも内々うちをしたゝめ、又ほかのやつばらをもあまねくさはがせて、さしいだしたらば、若しや此の文かまくら内にもひろうし、上へもまいる事もやあるらん。わざはひの幸ひはこれなり。    大学の三郎殿か、滝の太郎殿か、富木殿に、ひまをみて浄書させて、差し出しなさい。これを主君に差し出せば、一切決着がつくでしょう。それほど急がずとも、内内に身内を整理し、またほかの仏敵の者にも、騒ぐだけ騒がせて、差し出したならば、もしかしたら鎌倉中にもこの陳状ことが伝わって鎌倉殿のところへ入ることがあるかもしれない。わざわいが転じて幸いとなるとはこのことをいうのです。
 法華経の御事は已前に申しふりぬ。しかれども小事こそ善よりはをこて候へ。大事になりぬれば必ず大なるさはぎが大なる幸ひとなるなり。此の陳状、人ごとにみるならば、彼等がはぢあらわるべし。    法華経のことについては、これまで申しておいたとおりである。しかしながら、ちいさな事こそ、小さな善事からおこるが、大事になったならば、かれらのあやまりがはっきりわかるであろう。 この陳状を人々が見るならば、彼らの誤りがはっきりわかるだろう。
 只一口に申し給へ。我とは御内を出でて、所領をあぐべからず。上よりめされいださむは法華経の御布施、幸ひと思ふべしとのゝしらせ給へ。    あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から主君の御内を出て所領をさしあげる気持ちはありません。主君から召し上げられ、出すのならばそれは法華経への御布施であり、幸いと思います」といいなさい。
 かへすがへす奉行人にへつらふけしきなかれ。此の所領は上より給ひたるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもってたすけまいらせて給びて候所領なれば、召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじゃう候とも用ひまいらせ候まじく候と、うちあて、にくさうげにてかへるべし。あなかしこ、あなかしこ。   くれぐれも奉行人にへつらうような様子があってはならない。「此の所領は、主君よりいただいたものではない。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領なのであるから、それを召し上げるならば、また御病気が再発するでしょう。そのときになって頼基に謝罪されても、もはや用いません」と、いいおいて、憎憎しげに帰りなさい。
 御よりあひあるべからず。よるは用心きびしく、夜廻りの殿原かたらひて用ひ、常にはよりあはるべし。
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今度御内をだにもいだされずば十に九は内のものねらひなむ。かまへてきたなきしにすべからず。
  建治三年丁丑七月        日蓮 花押
 四条金吾殿御返事
   決して、決して御寄合にいってはならない。夜は用心を厳しくして、夜回りの人々と親しく交わって用い、常日頃互いに寄り合っていきなさい。
 
今度、もし主君の御内を出るようなことがなければ、十に九は御内のものがねらうであろう。決して見苦しい死に方をしては」いけません。

  建治三年丁丑七月        日蓮花押
 四条金吾殿御返事