四条金吾殿御返事 建治三年四月 五六歳

別名『八風抄』

 

第一章 主君の大恩を述べる

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 はるかに申しうけ給はり候はざりつれば、いぶせく候つるに、□□て候。又□御つかいと申し、よろこび入って候。又まほりまいらせ候。
 
 久しくお手紙をうけたまわらいので、心もとなく思っていましたが、さまざまな御供養の物や、おつかいを受け、非常にうれしく思いました。また、またお守り御本尊を授与いたします。
 所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息、引き合せて見候畢んぬ。此の事は御文なきさきにすいして候。上には最大事とをぼしめされて候へども、御きんずの人人のざんそうにて、あまりに所領をきらい、上をかろしめたてまつり候、ぢうあうの人こそををく候に、かくまで候へば、且らく御恩をばおさへさせ給ふべくや候らんと申すらんとすいして候なり。それにつけては御心えあるべし、御用意あるべし。    所領訴訟の間題に関しては、主君から、あなたにあてた御手紙と、あなたのお手紙を引き合せて拝見しました。このことについては、お手紙をいただく前から推察していました。主君は、このことを最も大事と思われているのに、御近臣の人々が讒奏して「頼基は、あまりにもふり替えられる所領をきらって、主君をあなどっているのではないか。わがまま者は多いが、これほどまでにわがままな者に対しては、しばらく恩をさし押えられてはどうでしょう」と申し上げたのではないかと推量している。それについては、十分な腹がまえをもって臨みなさい。
 我が身と申し、をや・親類と申し、かたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或は所領を・ををかたよりめされしかば、又方方の人人も或は御内内をいだし、或は所領ををいなんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。    あなた自身といい、親・親族といい、それぞれ家中のものとして恩恵を受けた大恩ある主君である。その上、日蓮が御勘気を受けた時、日本国一同の人が憎んでいたから、弟子等もある者たちは所領を幕府から取り上げられ、またそのものの主君である人々も、あるいは家中から勘当し、あるいは所領を追いはらったりしたのに、江間氏はあなたに何のおとがめもなかったのは、あなたにとっては、なみなみならぬ大恩を受けたことになる。
 このうへはたとひ一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給ふべき主にはあらず。それにかさねたる御恩と申し、所領をきらはせ給ふ事、御とがにあらずや。    このような大恩をうけたからに、たとえこれから一分の御恩を受けなくても、恨むべき主君ではない。それに重ねて御恩を期待して、これほどの所領をきらわれているのはあやまりではないだろうか。 

 

第二章 賢人の条件を示す

 賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり。しかるをひりに主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給ふ事なし。    賢人とは八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。およそ世間的利益はあっても喜ばず、衰えるのを嘆かないということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は守られるのである。ところがそれを、道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのである。

 

第三章 師弟不二の祈りを説く

 訴訟を申せど叶ひぬべき事もあり、申さぬに叶ふべきを申せば叶はぬ事も候。夜めぐりの殿原の訴訟は、申すは叶ひぬべきよしをかんがへて候ひしに、あながちになげかれし上、日蓮がゆへにめされて候へば、
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いかでか不便に候はざるべき。ただし訴訟だにも申し給はずば、いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給はり候ぬと約束ありて、又をりがみをしきりにかき、人人訴訟・ろんなんどありと申せし時に、此の訴訟よも叶はじとをもひ候ひしが、いままでのびて候。
   訴訟というものは、公に申し上げて叶うこともあれば、訴えずいれば叶うものを、申し上げたために叶わなくなることもある。夜回りの方たちの訴訟は、申し上げて叶うてだてを考えていたところ、あまり強くなげかれていた上、それも日蓮の門下であるために屋敷や所領を没収されたのであるから、どうしてかわいそうだと思わないことがあろうか。ただし、訴訟をされないのであれば、祈ってあげようといったところ、そのようにいたしますと約束したのである。また公文書をしきりに書いて、人々の間に訴訟についての議論がさかんであるといわれている折、この訴訟は、おそらく叶うまいと思っていましたので、今まで、そのままになっている。
 だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ、いのり叶ひたるやうにみへて候。はきりどのの事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申すままには御用ひなかりしかば、いかんがと存じて候ひしほどに、さりとてはと申して候ひしゆへにや候けん、すこし・しるし候か。    比企大学三郎能本殿や、池上右衛門大夫殿のことは日蓮のいった通りにされたから、祈りが叶ったようである。波木井六郎実長殿は法門のことについては御信用なさっているようだが、この訴訟に関しては、日蓮のいうとおりに用いられなかったから、どうであろうと思っていたところ、「それでは訴訟は叶わない」と注意しておいたからであろうか、多少の効果はあったようである。 
 これにをもうほど・なかりしゆへに又をもうほどなし。だんなと師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもってをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶ひ候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。    だが、こちらで思うほどに聞き入れなかったので、訴訟の効果もおもうほどでなかった。このように、檀那と師匠とが心が同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので叶うわけがない。
 また、檀那と師匠とが心を同じくした祈りであっても、大法(正法)を、小法(邪法)をもって長年にわたり誹謗する人々の祈りは、かなわないばかりか、わが身(師匠)も檀那も、共に滅びるのである。

 

第四章 真言の祈りを破す

 天台の座主明雲と申せし人は第五十代の座主なり。去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆の国へ配流、山僧大津よりうばいかえす。しかれども又かへりて座主となりぬ。又すぎにし寿永二年十一月に義仲にからめとられし上、頸うちきられぬ。是はながされ頸きらるるをとがとは申さず。賢人聖人もかかる事の候。但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時、清盛が一類二十余人起請をかき連判をして願を立て、平家の氏寺と叡山をたのむべし、三千人は父母のごとし、山のなげきは我等がなげき、山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国二十四郡を一向によせて候ひしかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもて源氏をいさせしかども、義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ、義仲とただ五六人計り、叡山の中堂にはせのぼり、調伏の壇の上にありしを引き出だしてなわをつけ、西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頸をうち切りたりき。かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし。又たづぬる事もなし。    天台の座主であった明雲という人は、第五十代の座主である。去る安元二(1276)年五月に後白河法皇の怒りにふれて伊豆の国に配流されたが、比叡山の僧たちが途中の大津でうばいかえした。そうして、再びかえって座主となった。またその後壽永二(1183)年十一月に義仲に捕えられ、その上、頸をきられてしまった。このようにいっても、流罪になったり、頚をきられたのを失というのではではない。賢人や聖人であっても、このようなことにあうのである。しかし源氏の頼朝と平家の清盛との合戦が起こった時、清盛の一族二十余人が起請をかき連判をして、願をたてて「平家の氏寺として叡山をたのもう。叡山の僧三千人は我らが父母とおなじである。叡山の嘆きは我らの嘆きであり、叡山の悦びは我らの悦びである」といって、近江の国、二十四郡を全部、寄進したので、叡山においては大衆と座主と一同となって、内においては真言の大法をつくして祈禱し、外にあっては、僧兵たちを動かして源氏を討たせた。しかし木曾義仲の家臣で樋口兼光という武士が義仲とともに、わずか五・六人ぐらいで叡山中堂にはせ登って、調伏の壇の上にいた明雲座主を引き出し、縄でしばり、西坂を大石をころがすように引きずりおろして頸を切ってしまったのである。このような事実があったが日本国中の人々は真言の教えを遠ざけることもしないし、またそのようになった原因を明らかにしようともしないのである。
 去ぬる承久三年辛巳の五・六・七の三箇月が間、京・夷の合戦ありき。時に、日本国第一の秘法どもをつくして、叡山・東寺・七大寺・園城寺等、
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天照太神・正八幡・山王等に一一に御いのりありき。其の中に日本第一の僧四十一人なり。所謂前の座主慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度々義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日にいくさにまけ、勢多迦が頸をきられ、御室をもひ死に死しぬ。かかる事の候へども、真言はいかなるとがともあやしめる人候はず。をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に日本国の王法ほろび候畢んぬ。今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此なり。かかる事も候ぞ。此は秘事なり、人にいはずして心に存知させ給へ。
   去る承久三年、五、六、七月の三ヵ月が間、京と鎌倉の合戦があった。その時、日本国第一の真言の秘法をつくして、叡山・東寺・七大寺・園城寺等などでは、天照太神・正八幡.・山王等に対していちいちに鎌倉調伏の御祈禱をした。その中には日本第一といわれる僧侶が四十一人いた。いわゆる叡山の前の座主である慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正たちは、しばしば義時調伏を祈禱した。その上、道助法親王は紫宸殿で六月八日から、御調伏を祈祷したのだが、七日間で調伏できるといっていたのに、その七日目の十四日に戦さに負け、最愛の勢多迦が頚を切られ、道助法親王もひどく嘆いてしんでしまった。このようなことがあったけれども、真言にはどのようなことがあるのかとあやしむ人もいない。今迄、真言の大法をつくして調伏したのは、明雲が一度目、慈円が二度目であるが、そのたびに日本国の王法はほろんでしまった。今度が三度目になる。
 すなわち、現在の蒙古調伏がこれである。この例のようなこともあるであろう。これは、秘密の事である。他人にはいわないで、あなたの心にとどめておきなさい。
 されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく、御内をばいでず、我れかまくらにうちいて、さきざきよりも出仕とをきやうにて、ときどきさしいでてをはするならば叶ふ事も候ひなん。あながちにわるびれてみへさせ給ふべからず。よくと名聞・瞋りとの    したがって、今度の所領替えのことについては、訴訟をおこさないで、また、主君を恨まずに、御内からも出ないで、自分はそのまま鎌倉にいて、以前よりも出仕とひかえて、ときどき出仕するようにしていったら、あなたの願いも叶うこともあるでしょう。決して悪びれた振る舞いをしてはいけません。欲や名聞名利を求めたる瞋る心をおこさないように。…。