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さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢにうち出で四方に兵のうちつゝみてありしかども、日蓮云はく、各々さわがせ給ふな、べちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清丸が頚を刎ねられんとせし時は長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をかうぜさせ給ひし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏、法華経を説き給ひしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給ふべきに、いかに此の処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す。さて最後には日蓮今夜頚切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべしとて又馬にのりぬ。 |
さて十二日の夜は、武蔵守宣時の預かりで夜半に達し、それから首を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路を出たとき、四方を兵士が取り囲んでいたけれども日蓮は「みんな騒ぎなさるな。ほかのことはない。八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬からおりて大高声で次のようにいった。「本当に八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清磨呂が道鏡の謀略によって首を斬られようとしたときはたけ一丈の月と顕われて守護し、伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられた時は紫の袈裟をお布施としておさずけになった。今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。いま法のために首を斬られようとしているがこれは日本の国のいっさいの衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を助けようと申している法門である。また大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられようか。その上、釈迦仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略な守護をいたしませんという誓状を差し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立てたではないか。である以上は日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願をはたすべきであるのにどうしてこの大難の場所に来合わせないのか」と朗々と申しわたした。そして最後には「日蓮は今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときには、まず天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと、名をさしきって教主釈尊に申し上げよう。これを痛いと自覚されるならば、大至急お計らいなされ」としかってまた馬に乗った。 |
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同じき十月十日に依智を立って、同じき十月二十八日に佐渡国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり。彼の李陵が胡国に入りてがんかうくつにせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて、面にかなやきをさゝれて江南にはなたれしも只今とおぼゆ。あらうれしや、檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給ひき。不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず。 (★1063㌻) 「数々見擯出」の明文は但日蓮一人なり。「一句一偈我皆与授記」は我なり。「阿耨多羅三藐三菩提」は疑ひなし。相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆逹多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて、本末究竟等とのべられて候は是なり。摩訶止観第五に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」文。又云はく「猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾んにし、風の求羅を益すが如きのみ」等云云。釈の心は、法華経を教へのごとく機に叶ひて解行すれば、七つの大事出来す。其の中に天子魔とて第六天の魔王、或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について、或は随って法華経の行をさえ、或は違してさうべき事なり。何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分々に随って留難あるべし。其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし。法華経ををしへの如く時機に当たって行ずるには殊に難あるべし。故に弘決の八に云はく「若し衆生生死を出でず仏乗を慕はずと知れば、魔是の人に於て猶親の想を生す」等云云。釈の心は人善根を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王親のおもひをなして、人間につきて其の人をもてなし供養す。世間の人に実の僧と思はせんが為なり。例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し。されば国主等のかたきにするは、既に正法を行ずるにてあるなり。釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり。眼前に見えたり。此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば、争でか日本の主となり給ふべき。されば此の人々は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。 |
同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に三昧堂に入ったが、ここは六郎左衛門が家のうしろの塚原という山野のなかの洛陽の蓮台野のやうに死人を捨てる場所にある一間四面の堂の仏で仏もない。屋根は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消える事がない。こういう場所に敷皮をしき蓑を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・雹・雷電が絶え間なく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当たり前の住居である。彼の李陵が胡国に入って岩窟に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗皇帝に責められて顔に焼き印を押されて江南に放逐されたのも只今だと感じた。 ああ嬉しいことである。檀王は阿私仙人に責め使われて法華経の功徳を得、不軽菩薩は増上慢の比丘等に杖で打たれて一乗の行者といわれた。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅度後・二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯出」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識である。平左衛門こそ提婆達多である。念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。 摩訶止観第五にいわく「行解すでに勤めたならば三障四魔が紛然として競い起こる」と、またいわく「三障四魔の働きは猪が金山を摺ってますます光らせ、たくさんの河川の水が海に入って、いよいよ海水を増し、薪が火をますます熾んにし、風が吹いて迦羅求羅という虫を太らせるようなものである」等と。この釈の心は、法華経を教えのとおりに機根に叶い時に叶って解行し修行すれば七つの大事が出てくる。そのなかに天子魔といって、第六天の魔王があるいは国主あるいは父母あるいは妻子あるいは檀那あるいは悪人等にとりついて、あるいは行者に随って法華経の行者をさまたげあるいは反対するはずである、どの経を行ずるにせよ仏法を修行するならば分々に随って留難があるはずである。そのなかでも法華経の行ずるならば、強盛にさまたげるであろう。法華経を教えのとおりに時と機根に適合して行ずるならばとくに強く難があるはずである、ということを述べているのである。 故に弘決の八にいわく「若し衆生が生死を出離せず仏乗を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して親のような想いを生ずる」等と、釈の心は、人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いを起こして人間についてその人を優遇し供養をする。それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊敬する僧をあらゆる人が供養するようなものである、といっているのである。 であるから、国主等がかたきにするのはこちらが正法を行じている証拠なのである。釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人をよくするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇がおられなかったならばどうして日本国の主となられたであろうか。故にこの人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者となれただろうかと悦こんだのである。 |
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又念仏者集まりて僉議す。かうてあらんには、我等かつえしぬべし。いかにもして此の法師を失はゞや。既に国の者も大体つきぬ、いかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者生喩房・良観が弟子道観等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す。此の御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声を放って上を呪咀し奉る。 (★1067㌻) 其の音声一国に聞ふと申す。武蔵前司殿是をきゝ、上へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろうに入れよと、私の下知を下す、又下文下る。かくの如く三度、其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。或は其の前をとをれりと云ひてろうに入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云ひて国をおひ或は妻子をとる。かくの如くして上へ此の由を申されければ、案に相違して、去ぬる文永十一年二月十四日御赦免の状、同じき三月八日に島につきぬ。念仏者等僉議して云はく、此程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚・法然上人をのるほどの者が、たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを、御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云ひて、やうやうの支度ありしかども、何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来たりて島をばたちしかば、あはいあしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ。越後のこう、信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す。島の法師原は今までいけてかへすは人かったいなり。我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をばとをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者どもあまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず。三月十三日に島を立ちて、同じき三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。 |
また念仏者が集まって協議した。こうしていたのではわれ等は飢え死にするだろう、どうしてもこの法師を亡きものにしようではないか、既に国中の者も大体彼についてしまった、どうしようか、と相談して、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観の弟子の道観等が鎌倉へ走り登って武蔵守宣時殿に讒訴し「此の御房が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないであろう、阿弥陀仏をあるいは焼き払いあるいは河に捨て流しております、夜も昼も高い山に登って日月に向かって大声をあげてお上を呪咀しております、その音声は一国に聞こえております」といった。 武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上へ申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文が代官へ下った。このように三度まであり、その間の出来事はとくにはふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいてお上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。 念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵しるほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか、思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければ百日五十日を経ても渡らず順風では三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。 これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである、われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉へ入った。 |
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同じき四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和らげてたゞしくする上、或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一々に経文を引きて申す。平左衛門尉は上の御使ひの様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答へて云はく、今年は一定なり、それにとっては日蓮己前より勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥此の国軍にまくべし穴賢穴賢。真言師総じて当世の法師等をもて御祈り有るべからず。各々は仏法をしらせ給ふておわすにこそ申すともしらせ給はめ。 (★1068㌻) 又何なる不思議にやあるらん、他事にはことにして日蓮が申す事は御用ひなし。後に思ひ合はせさせ奉らんが為に申す。隠岐法皇は天子なり。権大夫殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば天照太神うけ給ひなんや。所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用ひあるべしや。いかなりければ公家はまけ給ひけるぞ。此は偏に只事にはあらず。弘法大師の邪義、慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思ひて、叡山・東寺・園城寺の人々の鎌倉をあだみ給ひしかば、還著於本人とて其の失還って公家はまけ給ひぬ。武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ。今又かくの如くなるべし。ゑぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人なり。いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ。是をもて思ふに、此の御房たちだに御祈りあらば入道殿事にあひ給ひぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。さいはざりけるとおほせ候なと、したゝかに申し付け候ひぬ。 |
同四月八日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。 平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱をしてはならない。各々は仏法を知っておいでならばともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。 また、どういう訳であろうか、よそ事には異なって日蓮が申す事に限ってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるためにる事実をあげて申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。 |
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さてかへりきゝしかば、同四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて雨の御いのりあり。此の法印は東寺第一の智人、をむろ等の御師、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに、金三十両、むま、やうやうの御ひきで物ありときこふ。鎌倉中の上下万人、手をたゝき口をすくめてわらうやうは、日蓮ひが法門申して、すでに頚をきられんとせしが、とかうしてゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず、真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるしめでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けうさめて、これは御あら義と申せし程に、日蓮が申すやうは、しばしまて、弘法大師の悪義まことにて国の御いのりとなるべくば、隠岐法皇こそいくさにかち給はめ。をむろ最愛の児せいたかも頚をきられざるらん。弘法の法華経を華厳経にをとれりとかける状は、十住心論と申す文にあり。寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は秘蔵宝鑰に候。天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり。 (★1069㌻) 一乗法華経をとける仏をば、真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は、正覚房が舎利講式にあり。かゝる僻事を申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、竜王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、をこづきし程に、日蓮が云はく、善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹きてありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。此等は雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。設ひふりたりともなんの不思議かあるべき。天台のごとく、千観なんどのごとく、一座なんどこそたうとけれ。此は一定やうあるべしと、いゐもあはせず大風吹き来たる。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふきころし、牛馬をゝくたふれぬ。悪風なれども、秋は時なればなをゆるすかたもあり。此は夏四月なり、其の上、日本国にはふかず、但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。たゞ事ともみへず。ひとへにこのいのりのゆへにやとをぼへて、わらひ口すくめせし人々も、けふさめてありし上、我が弟子どもゝあら不思議やと舌をふるう。 |
さて、帰って聞いたところによると、同四月十日から阿弥陀堂の法印に命じて雨乞いの祈禱があった。この法印は東寺第一の智者であり御室の道助法親王等の御師であて、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけたごとく精通し、天台・華厳等の諸宗を皆胸に浮かべるよう知り尽くした人物である。それに随いて十日からの祈雨に十一日に大雨が降って風は吹かずしずかであって一日一夜ふったので、相模守殿時宗殿はたいそう感じ入って、金三十両に馬などさまざまなものを賜ったと聞こえてきた。 これを知って鎌倉中の上下万人が手をたたき口を蹙めて嘲笑し「日蓮が間違った法門を主張して、すぐに首を斬られようとしたが、やっと免されたのだから神妙にするかと思っていたがそうではなく相変わらず念仏・禅を誹るばかりでなく真言の密教などさえも誹るものだから、このような法の験があらわれたのはいい見せしめで目出度い」と罵ったところ、日蓮が弟子等はがっかりして「諸宗破折は粗暴な主張」といったので、日蓮はこう喩していった。 「しばらく待て、弘法大師の悪義が真実であって国の祈りになるものならば隠岐の法皇こそ戦さに勝ったはずである。御室の最愛稚児・勢多迦も首を斬られなかったであろう。弘法が法華経を華厳経に劣ると書い状は十住心論という文にあり、寿量品の釈迦仏を凡夫であると記した文は秘蔵宝鑰にある。天台大師を盗人と書いた状は二教論にあり、一実乗の法華経を説いた仏を真言師の履きもの取りにも及ないと書いた状は正覚房覚鎫の舎利講の式にある、こういう邪義をいう者の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば竜王は法華経の敵である。梵天・帝釈・四大天王に責められるであろう。この降雨にはなにかわけがあるだろう」というと、弟子達がいうには「どんなわけがあるのだろうか」と嘲笑したので、日蓮はこう答えた。「善無畏も不空も雨乞いの祈りには雨はふったものの大風が吹いたと見えている。弘法は三週間過ぎてから雨を降らせた。これ等は雨をふらせなかったのと同じである。なぜなら。3×7=21日の間に降らぬ雨などあるものではない。たとえ祈りで降ってもなんの不思議があろうか。天台のように千観などのように一座の修法で降らせてこそ尊いのだ、これは必ずわけがあろう」といいも終わらないうちに大風が吹いてきた。 大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を・あるいは天に吹きのぼらせ、あるいは地に吹き入れ、空には大きな光り物が飛び、地には棟や梁が倒れ乱れた。人々さえも吹き殺し牛や馬もたくさん倒れた。悪風であっても秋なら季節であるからまだ許すこともできる。だがこれは夏の四月である。その上・日本全国には吹かずに但関東八ヵ国だけである。八ヵ国もなかにも武蔵・相模の両国であり、両国のなかでもとくに相州に強く吹いた。相州のなかでも鎌倉、鎌倉のなかでもとくに御所・若宮・建長寺・極楽寺等に強く吹いた、してみるとただの暴風とも見えず、全くこの祈禱のゆえかと思われて、日蓮を嘲笑し口を蹙めた人々も興醒めてしまったうえ、わが弟子たちも「あら不思議な!」と驚いていい合った。 |
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本よりごせし事なれば、三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでて此の山に入る。同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて少弍の入道・大友等きゝにげににげ、其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度よせるならば、いかにも此の国よはよはと見ゆるなり。仁王経には「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、乃至他方の怨賊来たりて国人喪乱に遭はん」等云云。仏説まことならば、此の国一定悪人のあるを国主たっとませ給ひて、善人をあだませ給ふにや。 (★1070㌻) 大集経に云はく「日月明を現せず四方皆亢旱す。是くの如く不善業の悪王と悪比丘と我が正法を毀壊せん」云云。仁王経に云はく「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く、其の王別へずして此の語を信聴せん。是を破仏法破国の因縁と為す」等云云。法華経に云はく「濁世悪比丘」等云云。経文まことならば此の国に一定悪比丘のあるなり。夫宝山には曲林をきる。大海には死骸をとゞめず。仏法の大海、一乗の宝山には、五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども、誹謗の死骸と一闡提の曲林をばをさめざるなり。されば仏法を習はん人、後世をねがはん人は法華誹謗おそるべし。 |
今度の諌めも用いられまいとかねて心に期していたことなので、三度まで国を諌めても用いなければその国を去るべしとの習いに従った。そこで同五月十二日に鎌倉を出発してこの身延山に入った。 同十月に大蒙古国が攻め寄せてきて壱岐・対馬の二ヵ国を打ち取られただけでなく、太宰府も破られて、少弐資能入道覚恵や大友頼泰入道道忍等はそれを聞いて逃げ、そのほかの兵者どもはやすやすと大体打ち取られてしまった。また今度攻め寄せてくるならばいかにもこの国は弱体に見受けられる。仁王経には「聖人が去るときには七難が必ず起こる」等とあり、最勝王経には「悪人を愛敬して善人を治罰するに由るが故に(乃至)他方の怨賊が来って必ず国中の人が滅ぼされる乱に遇う」等とある。仏説がまことであるならば、この国にまちがいなく悪人がいるのを国主が尊敬して、善人にあだをするからではないか。 大集経にいわく「日月に光なく四方が皆ひでりとなる。このような不善業の悪王と悪比丘とがわが正法を毀壊するのである」云云と、仁王経にいわく「諸の悪比丘が多く名誉と利益を求めて国王・太子・王子の前においてすすんで破仏法の因縁・破国の因縁を説くであろう。その王は説の善悪を分別できなくてその言葉を信じて聴く、これが破仏法・破国の因縁である」等云云、法華経にいわく「濁世の悪比丘」等云云、 経文が真実ならばこの国に間違いなく悪比丘が存在している。そもそも宝の山においては曲がった木は伐り去り大海には死骸を留めて置くことがない。仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫や四重禁戒を破る濁水は入れるけれども誹謗の死骸と一闡提の曲林はおさめないのである。であるから仏法を習おうという人・後世を願おうとする人は法華誹謗を恐るべきである。 |
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皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと。他人はさてをきぬ。安房国の東西の人々は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり、いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさてをきぬ。円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候ひけるかいかに。日蓮なくば此の人々をば仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。これをもってしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家もしらせ給はず。末の代はいよいよあをぐなり。あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし。拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。 |
あらゆる人が思い込んでいるさまは弘法や慈覚を謗る人をどうして用いられようかと。しかし、他人は別として安房の国の東条と西条の人々はこの事を信ずべきである。それは眼の前に現証があるからである。いのもりの円頓房・清澄の西尭房・道義房・方海の実智房等は貴いといわれてきた僧であった。がこれらの人々の臨終はどうであったかと尋ねてみるべきである。これらはさておくが、円智房は清澄の大堂において三ヵ年の間・一字三礼の法華経を自身で書写し十巻を暗誦し、五十年が間一日一夜に二部ずつ読まれたのであった。だから彼を人は皆仏になるだろうといった。これに対して日蓮だけが「念仏者よりも道義房と円智房こそ無間地獄の底に堕ちるであろう」といっていたが、此の人々の御臨終は良かったか、どうか、そうではなかったではないか。もし日蓮がいなかったならば、この人々を世間では仏になったであろうと思ったに違いない。これをもって知りなさい。弘法・慈覚等は臨終があまり悪くてあきれる事があったけれども、それを弟子共が隠したために、朝廷においてもその事実を知り給わず、時代が下るにつれて末の世ではますます尊敬しているのである。もしそれを顕わす人がいないならば未来永劫までそのままとなってしまうであろう。昔、天竺の拘留外道は石となって八百年過ぎてから陳那菩薩に責められて融けて水となり、迦毘羅外道は石と化して一千年後に同じく陳那菩薩に責められたために融けて水と化し、その失が顕われたではないか。今もまた同じことである。 | |
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夫人身をうくる事は五戒の力による。五戒を持てる者をば二十五の善神これをまぼる上、同生同名と申して二つの天、生まれしよりこのかた、左右のかたに守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし。しかるに此の国の無量の諸人なげきをなすのみならず、ゆき・つしまの両国の人皆事にあひぬ。大宰府又申すばかりなし。 (★1071㌻) 此の国はいかなるとがのあるやらん。しらまほしき事なり。一人二人こそ失もあるらめ、そこばくの人々いかん。これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末の者ども国中に充満せり。故に梵・釈・四天等、法華経の座の誓状のごとく、頭破作七分の失にあてらるゝなり。 |
一体、人身を受けるということは五戒の力によるのである。人とうまれてからも五戒を持っている者に対しては二十五の善神がこれを守る上に、同生同名といって左神・右神の二つの天生が、生まれたときからその人の左右の肩の上にいて守護しているために、その人に失がなければ鬼神が仇をすることはない。しかるにこの日本国の無量の諸人が三災七難に遇って悲嘆しているばかりか、壱岐・対馬の両国の人は皆大事件に遇ってしまった。筑紫の太宰府もまたいうまでもないさんざんな体たらくである。このように神の守護なく大難に遇うのはこの国に一体どんな罪があるのであろうか。これこそぜひ知りたいことである。一人・二人ならば失もあるだろうが、大勢の人々に失があるということは一体どうしたことか、これは偏に法華経を見下して誹謗する弘法・慈覚・智証等の末葉の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末葉の者どもが国中に充満して邪法を弘めているゆえに、梵釈・四天等が法華経の会座の誓状どおりに頭破作七分の治罰を加えているのである。 |
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疑って云はく、法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは、道理なりとをぼへ候はいかん。答へて云はく、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝と宣べたる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわるゝとしれるか。経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり、七鬼神ありて一滴食らへば頭をいたむ、三滴を食らへば寿絶えんとす、七滴皆食らへば死するなり。今の世の人々は皆頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてをいたる人の、或は酒にゑひ、或はねいりぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり。今の世の人々は去ぬる正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。其の頭のわれし時ぜひぜひやみ、五蔵の損ぜし時あかき腹をやみしなり。これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや。 |
疑って言うが、法華経の行者を仇とする者は「頭破れて七分と作らん」と説かれているのに、日蓮房を謗ったけれども別に頭も割れないのは、日蓮房は法華経の行者ではないのか、というのはには理に叶っていると思うがどうであろうか。 答えていおう。日蓮を法華経の行者ではないというならば、法華経をなげ捨てよと書いた法然達、釈尊をまだ無明に属する者であると書いた弘法大師、法華と真言は理は同じだが事では真言が勝れると宣べた善無畏・慈覚等こそが法華経の行者であるだろうか。断じてそうではなかろう。また、頭破作七分ということはどういうことであるか汝等は刀を以って斬ったときのように割れるのだと心得ているのか、経文には「阿梨樹の枝のごとし」と説かれているではないか。だから刀で斬ったような割れ方ではないのだ。もともと人の頭のなかには精気の根元をなす七滴の水があるが、七人の鬼神がいてこれを取って食べようとすきをうかがっていて一滴食えば頭を痛める、三滴を食えば寿命が絶えようとし、七滴全部を食えば人は死ぬのである。今の世の人々は鬼神に頭の水を食われて皆・頭が阿梨樹の枝のように破れてしまっているが悪業が深いために自覚していないのである。たとえば傷を負った人があるいは酒に酔うかあるいは深く寝入ってしまえばその傷の痛みを感じないようなものである。また、頭破作七分というのは、または心破作七分ともいって、頭の皮の底にある骨が心気の激動によって罅破れるのである。心が破れきって死んだ場合には割れることもある。今の世の人々は去る正嘉の大地震・文永の大彗星出現のときに皆頭が破れてしまった。その頭が破れたときに喘息を病み、五臓を損なったとき赤痢を病んだのであった。これは法華経の行者を誹ったために当たってしまった現罰であると気がつかないのか。 |