種々御振舞御書  建治二年 五五歳

 

第一章 予言の的中と迫害

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 去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘へたりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。定んで御たずねありて、いくさの僉議をもいゐあわせ、調伏なんども申しつけられぬらんとをもひしに、其の義なかりしかば、其の年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろかし申す。
   去る文永五年の閏正月十八日に、西の侵略者・大蒙古の国から、日本の国は蒙古に臣従しないなら攻め取るという通知の国書を送ってきた。これによって、日蓮が去ぬる文応元年に勘えて幕府に奏上し諌めた立正安国論の予言が少しも違うことなく合到した。この安国論はかの唐土の白楽天が時の政治を諷刺して国を諌めた楽府よりも勝れ、釈迦仏の未来記にも劣るものではない。このような予言が事実となって顕われたのであるから、末法の世としてこれを超える不思議がまたとないであろうか。これは国に対する大きな功績であるから賢王や聖主の御世であるならば日本一のおほめの賞状にもあずかり、自分の生存中に大師号をも贈られるに違いない。また必ずや蒙古の来襲について詳しく質問を受け、防戦の仕方についての軍義の相談も受け、蒙古調伏の祈りなども依頼されるであろうと思ったのに、幕府からはなんの音沙汰もなかったので、その年の末の十月に十一ヵ所へ「誤った宗教をやめて日蓮に帰依するように」という手紙を書き送ってそれらに警告をした。 
 国に賢人なんどもあるならば、不思議なる事かな、これはひとへにたゞ事にはあらず。天照太神・正八幡宮の僧について、日本国のたすかるべき事を御計らひのあるかとをもわるべきに、さはなくて或は使ひを悪口し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども上へも申さず。これひとへにたゞ事にはあらず。設ひ日蓮が身の事なりとも、国主となり、まつり事をなさん人々は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわうやこの事は上の御大事いできたらむのみならず、各々の身にあたりて、をほいなるなげき出来すべき事ぞかし。而るを用ひる事こそなくとも悪口まではあまりなり。此ひとへに日本国の上下万人、一人もなく法華経の強敵となりて、としひさしくなりぬれば大禍のつもり、大鬼神の各々の身に入る上へ、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり。
   国に賢人がいるならば「予言と蒙古の通知と一致した。まことに不思議なことである。これはただごとではない。天照太神と八幡大菩薩がこの僧に託宣して日本国の方法を計られたのではないか」と思われるべきであるのに、そうではなく、ある者はこの十一通の状を持っていた大聖人の使いのものに悪口をし、ある者は嘲り、ある者は手紙を受け取りもせず。ある者は返事も与えなかった。ある者は返事はよこしたが執権へそれを取りつがなかった。こういうありさまであったから異常なことであった。たとえこの手紙の訴えの内容が、日蓮の一身上の私事であったとしても、国主となって一国の政治を司る立ち場の人々は、それを執権職へ取り次いでこそ政道の法に叶う行為ではないのか。
 ましてやこのことは、政府にとって大事件が勃発しようとしているばかりでなく、幕府や寺々の各人の身に当たって大きな嘆きがおこるべき大事件である。それなのに、この忠告を用いることはなかったとしても、悪口を加えるとはあまりにも常軌を逸脱したことであった。これはひとえに、日本の国の上下全部の人々が残らず法華経の強敵となって長い年を経たので誹謗の大罪がつもり重なって、大悪鬼神が各人の身に入ったうえに。蒙古の通告状に正念を抜かれて、精神が狂ったのである。

 例せば殷の紂王に比干といゐし者いさめをなせしかば、用ひずして胸をほる。周の文武王にほろぼされぬ。呉王は伍子胥がいさめを用ひず、自害をせさせしかば越王勾踐の手にかゝる。これもかれがごとくなるべきかと、いよいよふびんにをぼへて、名をもをしまず命をもすてゝ、強盛に申しはりしかば、
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風大なれば波大なり、竜大なれば雨たけきやうに、いよいよあだをなし、ますますにくみて御評定に僉議あり。頚をはぬるべきか、鎌倉ををわるべきか。弟子檀那等をば、所領あらん者は所領を召して頚を切れ、或はろうにてせめ、あるいは遠流すべし等云云。
 
 正しい諌めを用いなかった前例として、殷の紂王は忠臣比干が死をもって諌めたのに対して、それを用いずに彼の死体の胸を割って恥ずかしめ、結局周の文王の子・武王に亡ぼされてしまった。呉王は伍子胥の諌めを用いずにかえって伍子胥に死を賜わり、伍子胥は亡国を見るに忍びないと嘆きながら自殺してしまった。そのため呉王は越王勾践の手にかかって亡ぼされてしまった。
 自分は、幕府も紂王や呉王ようになるだろうとますます不憫に感じて、悪名をたてられるのも惜しまず命も捨てて強盛に邪法を禁止せよと主張し続けたので、あたかも風が強いほど波が大きいように、竜が大きければ雨が烈しいように、ますます日蓮に仇をし、ますます憎んで、評定衆の討議で大聖人の処置について相談があり、斬罪にするのがよかろうとか、鎌倉を所払いにするのが妥当だろうとか、大聖人の弟子檀那については、武士で所領のある者は所領を取り上げて首を斬れとか、あるいは牢に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどと、さまざまな意見が出るありさまであった。

 

第二章 死身の弘法を説いて弟子を励ます

 日蓮悦んで云はく、本より存知の旨なり。雪山童子は半偈のために身をなげ、常啼菩薩は身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士は皮をはぐ、薬王菩薩は臂をやく、不軽菩薩は杖木をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆菩薩は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘ふれば、天台大師は「時に適ふのみ」とかゝれ、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にすべからず」としるさる。法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし。    これを聞いて日蓮は悦んで次のようにいった。「このような留難が降りかかることははじめからよく承知していたことである。雪山童子は半偈のために鬼神に身を投げ与え、常啼菩薩は法をもとめるために身を売り、善財童子は求法のために高山から火のなかに飛び込み、楽法梵士は仏法の悟りの句を書き残すために自分の身の皮を剥いで紙とし、薬王菩薩は臂を焼いて燈明とした。不軽菩薩は正法を説いて増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者は壇弥羅王に首を斬られ、提婆菩薩は法論に負けた外道の弟子に殺された。以上の実例はどういう時期に起こったであろうかと考えてみると、天台大師は『摂受か折伏かは時に適って行うのである』と書き、それを受けて章安大師は涅槃経の疏に『摂折二門は時に拠って取捨宜しきを得てかたよるべきではない。すなわち、正像末で変わるものである』と記している。であるから法華経自体は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時によってその修行の方法はさまざまに差別があるべきである。
 仏記して云はく「我滅後正像二千年すぎて、末法の始めに此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし。其の時悪王・悪比丘等、大地微塵より多くして、或は大乗、或は小乗等をもてきそはんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて、或はのり、或はうち、或はろうに入れ、或は所領を召し、或は流罪、或は頚をはぬべし、などいふとも、退転なくひろむるほどならば、あだをなすものは国主はどし打ちをはじめ、餓鬼のごとく身をくらひ、後には他国よりせめらるべし。これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等、法華経の敵なる国を他国より責めさせ給ふなるべし」ととかれて候ぞ。
   釈尊が記していうには『我が滅後・正法・像法二千年をすぎて末法に入るとその始めに此の法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出来するであろう。其のときには悪王や悪僧等が大地の土よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもってこの法華経の行者と競い合うであろうが、此の題目の行者に折伏をもって責められるために、在家の檀那等をさそい合わせて、あるいは悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上が、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどといって脅迫するが、にもかかわらず退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をする者は、国主は同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、のちには他国から攻められるであろうこの他国侵逼難はこれひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四大天王等が、法華経の敵である国を他国からその謗法の罪を責めさせるのである』と説かれている。
 各々我が弟子となのらん人々は一人もをくしをもはるべからず。をやををもひ、めこををもひ、所領をかへりみることなかれ。無量劫よりこのかた、をやこのため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども、かゝる事出来せしかば退転してやみにき。譬へばゆをわかして水に入れ、火を切るにとげざるがごとし。各々思ひ切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり。
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   各各日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは、大地の土の数よりも多い。だが法華経のためにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えばせっかく湯を沸かしておきながら水を入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか。今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換うるようなものである。
 仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしらがをどさんを、をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき。仏の御使ひとなのりながら、をくせんは無下の人々なりと申しふくめぬ。    仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗の付法者、または南岳・天台等や妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まっていく瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者二陣・三陣と自分に続いて大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄へ堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣のひとびとである」とよくよく弟子檀那に申しふくめた。

 

第三章 念仏者等の讒言と平左衛門尉の敵対

さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかまへ申す。故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがたし。但し上件の事一定申すかと、召し出だしてたづねらるべしとて召し出だされぬ。奉行人の云はく、上へのをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。
   こうしているうちに、念仏者や持斎・真言師等は自身の智慧では勝つ見込みがなく、幕府へ訴えても目的を果たせなかったので、卑劣にも幕府高官の夫人や尼になった未亡人達に取りついていろいろと讒言した。そこで彼女たちや高官の奉行人に対して「諸宗の訴えによれば、日蓮は故最明寺入道殿と極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたといい、この方々が建立した建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えといい、道隆上人・良観上人等の首を斬れといっているという。それは評定衆の会議で処置が決まらなかったとしても日蓮の罪は免れないではないか。だから本人を召し出して以上の件を間違いなくいったかどうか直接たしかめるように」といいつけたため、九月十日に問注所へ召喚された。
 その席上、奉行人が「お上の仰せは以上のとおりである。それに間違いないか」といったので、それに答えて「そのとおり、以上の件については一言も違わずいった。但し最明寺殿・極楽寺殿が御存生のときからいっていたことである」。
 詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行はるゝほどならば、国に後悔ありて、日蓮御勘気をかほらば仏の御使ひを用ひぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし平左衛門尉と、申し付けしかども、太政入道のくるひしやうに、すこしもはゞかる事なく物にくるう。  「詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるなら、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件があろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使を用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日月・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府御一門に同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申し付けたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。

 

第四章 二度目の諌暁と御勘気

 去ぬる文永八年太歳辛未九月十二日御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。
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了行が謀反ををこし、大夫律師が世をみださんとせしを、めしとられしにもこへたり。平左衛門尉大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして、眼をいからし声をあらうす。大体事の心を案ずるに、太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり。たゞ事ともみへず。日蓮これを見てをもうやう、日ごろ月ごろをもひまうけたりつる事はこれなり。さいはひなるかな、法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべをはなたれば、沙に金をかへ、石に珠をあきなへるがごとし。
   去る文永八年九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。
 九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたのはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てよとは、臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し、石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。
 さて平左衛門尉が一の郎従少輔房と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出だして、おもてを三度さいなみて、さんざんとうちちらす。又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ、あるいはいたじきたゝみ等、家の二三間にちらさぬ所もなし。日蓮大高声を放ちて申す。あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ、とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをすとよばはりしかば、上下万人あわてゝ見へし。日蓮こそ御勘気をかほれば、をくして見ゆべかりしに、さはなくして、これはひがごとなりとやをもひけん。兵者どものいろこそへんじて見へしか。    さてそのときの光景は、平左衛門尉の第一の郎従であつ少輔房という者がかけ寄って、日蓮が懐にいれていた法華経の第五の巻を取り出し、それで自分の顔を三度なぐりつけてさんざんに抛げ散らした。また残り九巻の法華経を兵士達が抛げ散らし、あるいは足で踏みつけ、あるいは身にまきつけ、あるいは板敷きや畳など、家の中の二・三間に散らさないところがなかった。このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ!おのおのがたはただ今日本国の柱をたおしているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見えるべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。 
 十日並びに十二日の間、真言宗の失、禅宗・念仏等、良観が雨ふらさぬ事、つぶさに平左衛門尉にいゐきかせてありしに、或はわっとわらひ、或はいかり、なんどせし事どもはしげければしるさず。せんずるところは、六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事、三度までつかひをつかわして、一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。いずみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもって存ぜさせ給へ。各々の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなきし事、人々につきて讒せし事、
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一々に申せしかば、平左衛門尉等かたうどしかなへずして、つまりふしし事どもはしげければかゝず。
   十日の召し出しの時、十二日の逮捕の夜、真言宗の失や、禅宗・念仏宗が邪法であること、良観が雨乞いを祈って降らすことをできなかったことを詳しく平左衛門尉にいい聞かせたところ、あるいは一斉にあざ笑い、あるいは怒りなどしたことは煩わしいので書かない。
 要するに六月十八日から七月四日まで幕府の命を受けて良観が雨乞いをして、日蓮に阻止されて降らすことができず、汗を流し涙だけ流して雨が降らなかった上に逆風が吹き続けたこと、この祈りの間三度まで使者を遣わして「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀をこえられようか。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒を制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まって一週間・二週間も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして、高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたのか、理につまり弁護しきれなくなって、ついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここでは書かない。

 

第五章 若宮八幡での諸天善神の諌暁

 さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢにうち出で四方に兵のうちつゝみてありしかども、日蓮云はく、各々さわがせ給ふな、べちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清丸が頚を刎ねられんとせし時は長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をかうぜさせ給ひし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏、法華経を説き給ひしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給ふべきに、いかに此の処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す。さて最後には日蓮今夜頚切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべしとて又馬にのりぬ。
   さて十二日の夜は、武蔵守宣時の預かりで夜半に達し、それから首を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路を出たとき、四方を兵士が取り囲んでいたけれども日蓮は「みんな騒ぎなさるな。ほかのことはない。八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬からおりて大高声で次のようにいった。「本当に八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清磨呂が道鏡の謀略によって首を斬られようとしたときはたけ一丈の月と顕われて守護し、伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられた時は紫の袈裟をお布施としておさずけになった。今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。いま法のために首を斬られようとしているがこれは日本の国のいっさいの衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を助けようと申している法門である。また大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられようか。その上、釈迦仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略な守護をいたしませんという誓状を差し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立てたではないか。である以上は日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願をはたすべきであるのにどうしてこの大難の場所に来合わせないのか」と朗々と申しわたした。そして最後には「日蓮は今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときには、まず天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと、名をさしきって教主釈尊に申し上げよう。これを痛いと自覚されるならば、大至急お計らいなされ」としかってまた馬に乗った。

 

第六章 竜の口法難と発迹顕本

 ゆいのはまにうちいでて、御りゃうのまへにいたりて又云はく、しばしとのばら、これにつぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ、熊王と申す童子をつかはしたりしかばいそぎいでぬ。今夜頚切られへまかるなり、この数年が間願ひつる事これなり。此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれ、
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ねずみとなりし時はねこにくらはれき。或はめに、こに、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こしごへたつの口にゆきぬ。
   由比の浜に出て御霊社の前にさしかかったとき、また「しばらく待て殿方、ここに知らせるべき人がいる」といって、中務三郎左衛門尉という者のところへ熊王という童子を遣わしたところ彼は急いで出てきた。
 「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ、ねずみとなったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、だが法華経のためには一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい僧侶の身として生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない、今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那に分けようともうしてきたのはこれである
といったところ、左衛門尉の兄弟四人は馬の口に取りついて御供をし、腰越竜の口に行った。
 此にてぞ有らんずらんとをもうところに、案にたがはず兵士どもうちまはりさわぎしかば、左衛門尉申すやう、只今なりとなく。日蓮申すやう、不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるゝぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月よのやうにて人々の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れ、けうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり。日蓮申すやう、いかにとのばらかゝる大に禍なる召人にはとをのくぞ、近く打ちよれや打ちよれやとたかだかとよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよあけばいかにいかに、頚切るべくわいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなんとすゝめしかども、とかくのへんじもなし。    首を斬るのはここであろうと思っていたところが、案にたがわず兵士どもが自分を取りかこんで騒いだので左衛門尉が「今が御最期でございます」といって泣いた。それをさとして日蓮が「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が鞠のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで、人の顔も見えなかったが、これが光って月夜のようになり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士共はひるみ怖れ首を斬る気を失って一町ばかり走り逃げる者もあり、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もある。日蓮が「どうして殿方、これほどの大罪ある召捕人から遠のくのか、近くへ寄って来い寄って来い」と声高高に呼びかけたが急ぎ寄る者もいない。「こうして夜が明けてしまったならばどうするのか、首を斬るなら早く斬れ、夜が明けてしまえば見苦しかろうぞ」とすすめたけらどもなんの返事もなかった。
 はるか計りありて云はく、さがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す。此は道知る者なし、さきうちすべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらふほどに、或る兵士の云はく、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく。午の時計りにえちと申すところへゆきつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへに入りぬ。    しばらくしてから「相模の依智という所へお入りなさい」という。「自分の方には知る者がいない、案内しなさい」といったけれども先立ちする者もいないのでしばらく休んでいると、ある兵士が「そこがその道でございます」といったので道にまかせて進んだ。正午ごろに依智というところへ着いたので本間六郎左衛門の邸に入った。
 さけとりよせて、ものゝふどもにのませてありしかば、各かへるとてかうべをうなだれ、手をあざへて申すやう、このほどはいかなる人にてやをはすらん、我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給ふとうけ給はれば、にくみまいらせて候ひつるに、まのあたりをがみまいらせ候ひつる事どもを見て候へば、
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たうとさにとしごろ申しつる念仏はすて候ひぬとて、ひうちぶくろよりずゞとりいだしてすつる者あり。今は念仏申さずとせいじゃうをたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等番をばうけとりぬ、さえもんのじょうもかへりぬ。
   酒を取り寄せて、ついてきた兵士に飲ませていたところ、彼等が「帰りますが」といい出し、頭を下げて申すには「今までどんなお方であるか存じませんでしたが、われわれが頼んできた阿弥陀仏を誹っていると聞いたので憎み申し上げておりましたが、直接に拝顔して昨夜来のお振舞いを拝見しました所、あまりにも尊いので、長年称えてきた念仏は捨てました」といって火打ち袋から数珠を取り出して捨てるものがあり「今後は念仏を申しません」と誓状を差し出す者もあった。
 六郎左衛門尉の家来達が警護の役目を受け取った。四条金吾も帰っていった。

 

第七章 月天の不思議と弟子檀那への迫害

 其の日の戌の時計りに、かまくらより上の御使ひとて、たてぶみをもって来ぬ。頚切れというかさねたる御使ひかとものゝふどもはをもひてありし程に、六郎左衛門が代官右馬のじょうと申す者、立てぶみもちてはしり来たりひざまづいて申す。今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候ひつるに、かゝる御悦びの御ふみ来たりて候。武蔵守殿は、今日卯の時にあたみの御ゆへ御出でにて候へば、いそぎあやなき事もやと、まづこれへはしりまいりて候と申す。かまくらより御つかひは二時にはしりて候。今夜の内にあたみの御ゆへははしりまいるべしとて、まかりいでぬ。追状に云はく、此の人はとがなき人なり。今しばらくありてゆるさせ給ふべし。あやまちしては後悔あるべしと云云。
   その日の午後八時ごろに鎌倉からお上の使いということで、立て文を持ってきた。首を斬れという再度のお使いかと武士達が思っていたところ、本間六郎左衛門の代官・右馬尉というものが立て文を持って走って来てひざまずいて申すには「斬首は今夜であろ。なんとも情けないと思っておりましたのに、このようなお手紙が参りました。武蔵守殿は今朝の六時に熱海の湯へお立ちになりましたから、理不尽なことがあっては大変だと思い、急いでこちらへ走って参りましたと申しております。鎌倉からの使者は四時間で走って参りました。そして、今夜のうちに熱海の湯に走ってまいりますといって出発しました」と。
 追状には「此の人は罪の無い人である。今しばらくしてから赦されるであろう。斬首をしたなら後悔するであろう」と認めてあった。
 其の夜は十三日、兵士ども数十人坊の辺り並びに大庭になみゐて候ひき。九月十三日の夜なれば月大いにはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あらあら申して、抑今の月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし。宝塔品にして仏勅をうけ給ひ嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓ひは日蓮なくば虚しくてこそをはすべけれ。今かゝる事出来せば、いそぎ悦びをなして法華経の行者にもかはり、仏勅をもはたして、誓言のしるしをばとげさせ給ふべし。いかに、今しるしのなきは不思議に候ものかな。何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず。しるしこそなくとも、うれしがをにて澄み渡らせ給ふはいかに。大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失ふ」とかゝれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに、いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや、
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天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかゝりてありしかば、ものゝふども皆ゑんよりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて、江の島のなるとて空のひゞく事、大いなるつゞみを打つがごとし。
   その夜は十三日で兵士達が数十人、坊のあたりと大庭にひかえていた。
 九月十三日の夜であるから月が実によく晴れていたので、夜中に大庭に出て月に向かって、自我偈を少し誦み奉り諸宗の勝劣と法華経の文の概略を申し述べて、
 「そもそも今の月天は法華経の御座に列席している名月天子ではないか。宝塔品で仏勅を受けられ、嘱累品で仏に頂を摩でられ『世尊の勅のとおりまさに正確に実行する』と誓状を立てた天神ではないか。仏前の誓いは日蓮がいなかったならば虚しくなってしまうであろう。だが今こういう大難が出てきたのであるから、急いで、悦んで法華経の行者にも代わり、仏勅をも果たして誓言の験を果たしなさい。一体どうしたのか、今験がないのは実に不思議なことである。なに事も国に起らなければ鎌倉へも帰ろうと思わない。たとえ験を現さないにしても嬉し顔で澄み渡っているのはどうしたわけであるか。大集経には『日月は明るさを現さず』と説かれ、仁王経には『日月明るさをを失う』と書かれ最勝王経には『三十三天がおのおの瞋りを生ずる』と明らかに見えているではないか。いかに月天、いかに月天!」
と責めたところが、その験であろうか、天から明星のような大星が下ってきて前の梅の木の枝にかかったので、武士たちが皆縁側から飛び降り、ある者は大庭に平伏し、ある者は家のうしろへ逃げてしまった。間もなく一天かき曇って大風が吹いてきて、江の島が鳴るということで空が鳴りひびくありさまは大きな鼓を打つようであった。
 夜明くれば十四日、卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云はく、昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大いなるさわぎあり。陰陽師を召して御うらなひ候へば、申せしは、大いに国みだれ候べし、此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかゞ候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつれば、それを待つべしとも申す。依智にして二十余日、其の間鎌倉に或は火をつくる事七八度、或は人をころす事ひまなし。讒言の者共の云はく、日蓮が弟子共の火をつくるなりと。さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人にしるさる。皆遠島へ遣はすべし、ろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ。さる程に火をつくる者は持斎・念仏者が計り事なり。其の由はしげければかゝず。    夜が明けると十四日で、午前六時ごろに十郎入道というものが来て、
 「昨夜の八時ごろに執権相模守殿の邸に大きな騒動があり陰陽師を呼んで占わせたところ、彼がいうには『大いに国が乱れましょう。それはこの御房をご勘気したためである。大至急召し還さなければ世のなかがどうなるかわかりません』といったので『すぐ赦されますように』という人もあり、また『大聖人が百日の内に軍がおこるでろうと申していたからそれを待ちましょう』というものがあったとのことでございます」
と告げた。
 依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七・八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」というので、役所ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子達を鎌倉に置いてはならぬとの方針で二百六十余人の名が記された。その者達は皆遠島へながされるだろう。すでに入牢中の弟子達は首を斬られるだろうと聞こえてきた。ところが真相は放火などは持斎や念仏者の計りごとである。そのほかのことは繁くなるから書かない。

 

第八章 塚原三昧堂での御法悦

 同じき十月十日に依智を立って、同じき十月二十八日に佐渡国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり。彼の李陵が胡国に入りてがんかうくつにせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて、面にかなやきをさゝれて江南にはなたれしも只今とおぼゆ。あらうれしや、檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給ひき。不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず。
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「数々見擯出」の明文は但日蓮一人なり。「一句一偈我皆与授記」は我なり。「阿耨多羅三藐三菩提」は疑ひなし。相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆逹多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて、本末究竟等とのべられて候は是なり。摩訶止観第五に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」文。又云はく「猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾んにし、風の求羅を益すが如きのみ」等云云。釈の心は、法華経を教へのごとく機に叶ひて解行すれば、七つの大事出来す。其の中に天子魔とて第六天の魔王、或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について、或は随って法華経の行をさえ、或は違してさうべき事なり。何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分々に随って留難あるべし。其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし。法華経ををしへの如く時機に当たって行ずるには殊に難あるべし。故に弘決の八に云はく「若し衆生生死を出でず仏乗を慕はずと知れば、魔是の人に於て猶親の想を生す」等云云。釈の心は人善根を修すれども、念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王親のおもひをなして、人間につきて其の人をもてなし供養す。世間の人に実の僧と思はせんが為なり。例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し。されば国主等のかたきにするは、既に正法を行ずるにてあるなり。釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり。眼前に見えたり。此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば、争でか日本の主となり給ふべき。されば此の人々は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。
    同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に三昧堂に入ったが、ここは六郎左衛門が家のうしろの塚原という山野のなかの洛陽の蓮台野のやうに死人を捨てる場所にある一間四面の堂の仏で仏もない。屋根は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消える事がない。こういう場所に敷皮をしき蓑を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・雹・雷電が絶え間なく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当たり前の住居である。彼の李陵が胡国に入って岩窟に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗皇帝に責められて顔に焼き印を押されて江南に放逐されたのも只今だと感じた。
 ああ嬉しいことである。檀王は阿私仙人に責め使われて法華経の功徳を得、不軽菩薩は増上慢の比丘等に杖で打たれて一乗の行者といわれた。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅度後・二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯出」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識である。平左衛門こそ提婆達多である。念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。
 摩訶止観第五にいわく「行解すでに勤めたならば三障四魔が紛然として競い起こる」と、またいわく「三障四魔の働きは猪が金山を摺ってますます光らせ、たくさんの河川の水が海に入って、いよいよ海水を増し、薪が火をますます熾んにし、風が吹いて迦羅求羅という虫を太らせるようなものである」等と。この釈の心は、法華経を教えのとおりに機根に叶い時に叶って解行し修行すれば七つの大事が出てくる。そのなかに天子魔といって、第六天の魔王があるいは国主あるいは父母あるいは妻子あるいは檀那あるいは悪人等にとりついて、あるいは行者に随って法華経の行者をさまたげあるいは反対するはずである、どの経を行ずるにせよ仏法を修行するならば分々に随って留難があるはずである。そのなかでも法華経の行ずるならば、強盛にさまたげるであろう。法華経を教えのとおりに時と機根に適合して行ずるならばとくに強く難があるはずである、ということを述べているのである。
 故に弘決の八にいわく「若し衆生が生死を出離せず仏乗を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して親のような想いを生ずる」等と、釈の心は、人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いを起こして人間についてその人を優遇し供養をする。それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊敬する僧をあらゆる人が供養するようなものである、といっているのである。
 であるから、国主等がかたきにするのはこちらが正法を行じている証拠なのである。釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人をよくするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇がおられなかったならばどうして日本国の主となられたであろうか。故にこの人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者となれただろうかと悦こんだのである。

 

第九章 塚原問答と自界叛逆の御予言

 かくてすごす程に、庭には雪つもりて人もかよはず、堂にはあらき風より外はをとづるゝものなし。
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眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向かひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ。
   このような心境で過ごしていたが、庭には雪が積もって人も通わず、堂には荒い風のほかは訪れるものもない。
 目には止観や法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱え夜は月星に向かって諸宗の違いと法華経の深義を講じている間に年が改まった。
 いづくも人の心のはかなさは、佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人より合ひて僉議すと承る。聞こふる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房此の国にながされたり。なにとなくとも、此の国へ流されたる人の始終いけらるゝ事なし。設ひいけらるゝとも、かへる事なし。又打ちころしたれども、御とがめなし。塚原と云ふ所に只一人あり。いかにがうなりとも、力つよくとも、人なき処なれば集まりていころせかしと云ふものもありけり。又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、しばらくきられず、終には一定ときく。又云はく、六郎左衛門尉殿に申して、きらずんばはからうべしと云ふ。多くの義の中にこれについて守護所に数百人集まりぬ。    どこでも人の心のあさはかさは同じことで、佐渡の国の持斎や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人が寄り合って教義していると伝わってきた。「有名な阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房がこの国に流されてしまった。特別な罪人でなくてもこの島へ流された人で最後まで生かされたためしがない。たとえ活かしておいても元の国へ帰れた例がない。また流人を打ち殺したとしてもお咎めはない。彼は塚原という所にただひとりでいる。いかに剛の者でも力が強くても人のいない場所なのだから集まって射殺してしまえ」というものがあった。
 また「いずれにしても首を斬られるはずであったが相模守時宗殿の夫人がご懐妊なのでしばらく斬罪をのばしているがやがて必ず執行されるときいている。だから放っておくがよい」とか、
 また「地頭の六郎左衛門尉殿に斬ってもらうように訴えて、斬らなかったらわれわれで謀ろうではないか」という者もあり、さまざまな意見が出たあげく、この問題について守護所へ強訴に数百人が集まった。

 六郎左衛門尉の云はく、上より殺しまうすまじき副状下りて、あなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云ひければ、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師等が頚にかけさせ、或はわきにはさませて正月十六日にあつまる。佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集まれる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集まりたり。
 
 これに対して六郎左衛門尉が「お上から殺してはならぬという副状が下っている。軽蔑すべき流人ではない。彼の身にあやまちを起こしたあらば重連が大きな罪になる。だから殺すなどということは考えないで、それよりもっぱら法門で攻めるように」と答えたので、念仏者等があるいは浄土の三部経・あるいは摩訶止観・あるいは真言の経釈等を小憎等の首にかけさせ、あるいは小脇に挟ませて正月十六日に集まった。佐渡一国だけではなくて越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から集まった法師等なので塚原の堂の大庭から山野にかけて数百人、それに六郎左衛門尉と兄弟一家やそれ以外の者、百姓の入道等が数知れず集まった。
 念仏者は口々に悪口をなし、真言師は面々に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは、聞こふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしりさはぎひゞく事、震動雷電の如し。日蓮は暫くさはがせて後、各々しづまらせ給へ、法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をばそくびをつきいだしぬ。    念仏者は口々に悪口をいい、真言師は怒りのために面々の顔色を失い、天台宗は自分達こそ勝つのだと声高に騒いだ。在家の者どもは「かねて聞き及ぶ阿弥陀仏のかたきめ」と罵り、この騒ぎが響きわたるさまは地震か雷鳴のようであった。日蓮はしばらく騒がせておいてから「おのおのがた静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と申したところ、六郎左衛門を始め多数の人々が「そうだ」といって悪口した念仏者を突き出した。 

 さて止観・真言・念仏の法門一々にかれが申す様をでっしあげて、承伏せさせては、ちゃうとはつめつめ、一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ。利剣をもてうりをきり、大風の草をなびかすが如し。
 
 さて止観・真言・念仏の法門を、一々相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めすると、相手は一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。 
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 仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ。善導が柳より落ち、弘法大師の三鈷を投げたる、大日如来と現じたる等をば、或は妄語、或は物にくるへる処を一々にせめたるに、或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟・平念珠をすてゝ念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。
 
 彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。善導が首をくくって柳から落ち、弘法大師が三股の金剛杵を投げたとか大日如来と現れたとか等について、あるいは妄語あるいは気違い沙汰である点を、一々詳しく責めたところ、ある者は悪口し、ある者は口を閉じてしまい、ある者は顔色を失い、あるいは「念仏は間違いであった」という者もあり、あるいはその場で袈裟や平念珠を捨てて念仏は称えまいという由の誓状を立てる者もあった。
 皆人立ち帰る程に、六郎左衛門尉も立ち帰る、一家の者も返る。
 日蓮不思議一つ云はんと思ひて、六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云はく、いつか鎌倉へのぼり給ふべき。かれ答へて云はく、下人共に農せさせて七月の比と云云。日蓮云はく、弓箭とる者は、をゝやけの御大事にあひて所領をも給はり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに、急ぎうちのぼり高名して所知を給はらぬか。さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくり、いくさにはづれたらんは恥なるべしと申せしかば、いかにや思ひげにて、あはてゝものもいはず。念仏者・持斎・在家の者どももなにと云ふ事ぞやと怪しむ。
   皆帰って行くので六郎左衛門尉も帰り一家の者もかえっていった。このとき日蓮は不思議を一ついおうと思って六郎左衛門尉を大庭から呼び返して「いつ鎌倉へ上られるのか」というと、彼が答えるには「下人どもに農事をせさせてからで、七月のころになりましょう」という。日蓮は「弓箭とる者は主家の御大事に間に合って、ほうびに所領の一つも賜わることこそ田畠を作るとはいうものではないか。ただ今いくさが起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄をたてて領地を賜らないか、なんといってもあなたは相模の国では名の知れた侍である。それが田舎で田を作っていくさにはずれたならば恥であろう」といったところ、なんと思ったのであろうか、帰り急いでものもいわなかった。見ていた念仏者・持斎・在家の者どもも、これは一体どうしたことかと怪しんだ。

 

第十章 御本仏として開目抄を御述作

 さて皆帰りしかば、去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頚切らるゝならば日蓮が不思議とゞめんと思ひて勘へたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず。人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れて、それともなくゆめの如くに妄語出来して、此の御一門どしうちして、後には他国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し。かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使ひにとらせぬ。    さて皆も帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるようならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったである。この文は次のとおりで、「日蓮によって日本国の存亡は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門がすでに日本の柱を倒してしまった。そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう。例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。
 つきたる弟子等もあらぎかなと思へども、力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其の夜にはやふねをもて、一門相具してわたる。日蓮にたな心を合はせて、
(★1066㌻)
たすけさせ給へ、去ぬる正月十六日の御言いかにやと此の程疑ひ申しつるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ひぬ。又蒙古国も一定渡り候なん。念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん。永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云ふとも、相模守殿等の用ひ給はざらんには、日本国の人用ゆまじ。用ゐずば国必ず亡ぶべし。日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使ひぞかし。わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重んずけれども、梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし。されども此の神人なんどをあやまちぬれば、只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道・隠岐法皇等のほろび給ひしは是なり。此はそれにはにるべくもなし。教主釈尊の御使ひなれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合はせて地に伏し給ふべき事なり。法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照らし給ふ。かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。何に況んや数百人ににくませ二度まで流しぬ。此の国の亡びん事疑ひなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり。又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし。ただ平左衛門尉が好むわざわひなり。和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立ち帰りぬ。
 側についていたに弟子等も強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に佐渡に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。
 六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。
 そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日の御言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたずに三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう。念仏無間地獄も一定でございましょう。今後は決して念仏は申しません」といったので、
「あなたがどのように云おうとも、時宗殿等がお用いにならぬならば、日本国の人は用いまい。用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天。帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はこれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天・帝釈は左右に仕え日天・月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰があたってしまったのである。またこのたびも用いなければ大蒙古国から打手を向けてきて日本国は亡ぼされるであろう。これは平左衛門尉が自ら好んで招くわざわいである。そのときあなた方もこの島で安穏ですむはずはない」
と申し聞かせたところ、驚きあわてたようすで帰っていった。

 さて在家の者ども申しけるは、此の御房は神通の人にてましますか、あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ、持斎をも供養すまじ。念仏者・良観が弟子の持斎等が云はく、此の御房は謀叛の内に入りたりけるか。さて且くありて世間しづまる。
 
 さて、これを伝え聞いた在家の者どもがいうには「この御房は神通のお方であろうか、ああ怖ろしい怖ろしい。今後は念仏者を養うまい持斎も供養すまい」と。
 念仏者や良観の弟子の持斎等は「内乱をあらかじめ知っていたところを見るとこの御房は謀叛の仲間に加わっていたのであったか」といった。しばらくして世間の騒ぎは静まった。

 

第十一章 宣時の迫害と御赦免

 又念仏者集まりて僉議す。かうてあらんには、我等かつえしぬべし。いかにもして此の法師を失はゞや。既に国の者も大体つきぬ、いかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者生喩房・良観が弟子道観等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す。此の御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声を放って上を呪咀し奉る。
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其の音声一国に聞ふと申す。武蔵前司殿是をきゝ、上へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろうに入れよと、私の下知を下す、又下文下る。かくの如く三度、其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。或は其の前をとをれりと云ひてろうに入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云ひて国をおひ或は妻子をとる。かくの如くして上へ此の由を申されければ、案に相違して、去ぬる文永十一年二月十四日御赦免の状、同じき三月八日に島につきぬ。念仏者等僉議して云はく、此程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚・法然上人をのるほどの者が、たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを、御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云ひて、やうやうの支度ありしかども、何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来たりて島をばたちしかば、あはいあしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ。越後のこう、信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す。島の法師原は今までいけてかへすは人かったいなり。我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をばとをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者どもあまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず。三月十三日に島を立ちて、同じき三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
   また念仏者が集まって協議した。こうしていたのではわれ等は飢え死にするだろう、どうしてもこの法師を亡きものにしようではないか、既に国中の者も大体彼についてしまった、どうしようか、と相談して、念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者の性諭房・良観の弟子の道観等が鎌倉へ走り登って武蔵守宣時殿に讒訴し「此の御房が島にいるならば諸宗の堂塔は一宇も残らないし、僧も一人も残らないであろう、阿弥陀仏をあるいは焼き払いあるいは河に捨て流しております、夜も昼も高い山に登って日月に向かって大声をあげてお上を呪咀しております、その音声は一国に聞こえております」といった。
 武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上へ申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文が代官へ下った。このように三度まであり、その間の出来事はとくにはふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいてお上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。
 念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵しるほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか、思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければ百日五十日を経ても渡らず順風では三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。
 これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである、われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉へ入った。

 

第十二章 三度目の諌暁

 同じき四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和らげてたゞしくする上、或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一々に経文を引きて申す。平左衛門尉は上の御使ひの様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答へて云はく、今年は一定なり、それにとっては日蓮己前より勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥此の国軍にまくべし穴賢穴賢。真言師総じて当世の法師等をもて御祈り有るべからず。各々は仏法をしらせ給ふておわすにこそ申すともしらせ給はめ。
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 又何なる不思議にやあるらん、他事にはことにして日蓮が申す事は御用ひなし。後に思ひ合はせさせ奉らんが為に申す。隠岐法皇は天子なり。権大夫殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば天照太神うけ給ひなんや。所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用ひあるべしや。いかなりければ公家はまけ給ひけるぞ。此は偏に只事にはあらず。弘法大師の邪義、慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思ひて、叡山・東寺・園城寺の人々の鎌倉をあだみ給ひしかば、還著於本人とて其の失還って公家はまけ給ひぬ。武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ。今又かくの如くなるべし。ゑぞは死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人なり。いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ。是をもて思ふに、此の御房たちだに御祈りあらば入道殿事にあひ給ひぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。さいはざりけるとおほせ候なと、したゝかに申し付け候ひぬ。
   同四月八日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。
 平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱をしてはならない。各々は仏法を知っておいでならばともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。
 また、どういう訳であろうか、よそ事には異なって日蓮が申す事に限ってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるためにる事実をあげて申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。

 

第十三章 阿弥陀堂法印の祈雨、大悪風をまねく

 さてかへりきゝしかば、同四月十日より阿弥陀堂法印に仰せ付けられて雨の御いのりあり。此の法印は東寺第一の智人、をむろ等の御師、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台・華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに、金三十両、むま、やうやうの御ひきで物ありときこふ。鎌倉中の上下万人、手をたゝき口をすくめてわらうやうは、日蓮ひが法門申して、すでに頚をきられんとせしが、とかうしてゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず、真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるしめでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けうさめて、これは御あら義と申せし程に、日蓮が申すやうは、しばしまて、弘法大師の悪義まことにて国の御いのりとなるべくば、隠岐法皇こそいくさにかち給はめ。をむろ最愛の児せいたかも頚をきられざるらん。弘法の法華経を華厳経にをとれりとかける状は、十住心論と申す文にあり。寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされたる文は秘蔵宝鑰に候。天台大師をぬす人とかける状は二教論にあり。
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一乗法華経をとける仏をば、真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は、正覚房が舎利講式にあり。かゝる僻事を申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、竜王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらんと申せば、弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、をこづきし程に、日蓮が云はく、善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹きてありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。此等は雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。設ひふりたりともなんの不思議かあるべき。天台のごとく、千観なんどのごとく、一座なんどこそたうとけれ。此は一定やうあるべしと、いゐもあはせず大風吹き来たる。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を、或は天に吹きのぼせ、或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび、地には棟梁みだれたり。人々をもふきころし、牛馬をゝくたふれぬ。悪風なれども、秋は時なればなをゆるすかたもあり。此は夏四月なり、其の上、日本国にはふかず、但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵・相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら、かまくらにも御所・若宮・建長寺・極楽寺等につよくふけり。たゞ事ともみへず。ひとへにこのいのりのゆへにやとをぼへて、わらひ口すくめせし人々も、けふさめてありし上、我が弟子どもゝあら不思議やと舌をふるう。
   さて、帰って聞いたところによると、同四月十日から阿弥陀堂の法印に命じて雨乞いの祈禱があった。この法印は東寺第一の智者であり御室の道助法親王等の御師であて、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけたごとく精通し、天台・華厳等の諸宗を皆胸に浮かべるよう知り尽くした人物である。それに随いて十日からの祈雨に十一日に大雨が降って風は吹かずしずかであって一日一夜ふったので、相模守殿時宗殿はたいそう感じ入って、金三十両に馬などさまざまなものを賜ったと聞こえてきた。
 これを知って鎌倉中の上下万人が手をたたき口を蹙めて嘲笑し「日蓮が間違った法門を主張して、すぐに首を斬られようとしたが、やっと免されたのだから神妙にするかと思っていたがそうではなく相変わらず念仏・禅を誹るばかりでなく真言の密教などさえも誹るものだから、このような法の験があらわれたのはいい見せしめで目出度い」と罵ったところ、日蓮が弟子等はがっかりして「諸宗破折は粗暴な主張」といったので、日蓮はこう喩していった。
 「しばらく待て、弘法大師の悪義が真実であって国の祈りになるものならば隠岐の法皇こそ戦さに勝ったはずである。御室の最愛稚児・勢多迦も首を斬られなかったであろう。弘法が法華経を華厳経に劣ると書い状は十住心論という文にあり、寿量品の釈迦仏を凡夫であると記した文は秘蔵宝鑰にある。天台大師を盗人と書いた状は二教論にあり、一実乗の法華経を説いた仏を真言師の履きもの取りにも及ないと書いた状は正覚房覚鎫の舎利講の式にある、こういう邪義をいう者の弟子・阿弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば竜王は法華経の敵である。梵天・帝釈・四大天王に責められるであろう。この降雨にはなにかわけがあるだろう」というと、弟子達がいうには「どんなわけがあるのだろうか」と嘲笑したので、日蓮はこう答えた。「善無畏も不空も雨乞いの祈りには雨はふったものの大風が吹いたと見えている。弘法は三週間過ぎてから雨を降らせた。これ等は雨をふらせなかったのと同じである。なぜなら。3×7=21日の間に降らぬ雨などあるものではない。たとえ祈りで降ってもなんの不思議があろうか。天台のように千観などのように一座の修法で降らせてこそ尊いのだ、これは必ずわけがあろう」といいも終わらないうちに大風が吹いてきた。
 大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を・あるいは天に吹きのぼらせ、あるいは地に吹き入れ、空には大きな光り物が飛び、地には棟や梁が倒れ乱れた。人々さえも吹き殺し牛や馬もたくさん倒れた。悪風であっても秋なら季節であるからまだ許すこともできる。だがこれは夏の四月である。その上・日本全国には吹かずに但関東八ヵ国だけである。八ヵ国もなかにも武蔵・相模の両国であり、両国のなかでもとくに相州に強く吹いた。相州のなかでも鎌倉、鎌倉のなかでもとくに御所・若宮・建長寺・極楽寺等に強く吹いた、してみるとただの暴風とも見えず、全くこの祈禱のゆえかと思われて、日蓮を嘲笑し口を蹙めた人々も興醒めてしまったうえ、わが弟子たちも「あら不思議な!」と驚いていい合った。

 

第十四章 身延入山後蒙古襲来す

 本よりごせし事なれば、三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでて此の山に入る。同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて少弍の入道・大友等きゝにげににげ、其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度よせるならば、いかにも此の国よはよはと見ゆるなり。仁王経には「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、乃至他方の怨賊来たりて国人喪乱に遭はん」等云云。仏説まことならば、此の国一定悪人のあるを国主たっとませ給ひて、善人をあだませ給ふにや。
(★1070㌻)
大集経に云はく「日月明を現せず四方皆亢旱す。是くの如く不善業の悪王と悪比丘と我が正法を毀壊せん」云云。仁王経に云はく「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く、其の王別へずして此の語を信聴せん。是を破仏法破国の因縁と為す」等云云。法華経に云はく「濁世悪比丘」等云云。経文まことならば此の国に一定悪比丘のあるなり。夫宝山には曲林をきる。大海には死骸をとゞめず。仏法の大海、一乗の宝山には、五逆の瓦礫・四重の濁水をば入るれども、誹謗の死骸と一闡提の曲林をばをさめざるなり。されば仏法を習はん人、後世をねがはん人は法華誹謗おそるべし。
   今度の諌めも用いられまいとかねて心に期していたことなので、三度まで国を諌めても用いなければその国を去るべしとの習いに従った。そこで同五月十二日に鎌倉を出発してこの身延山に入った。
 同十月に大蒙古国が攻め寄せてきて壱岐・対馬の二ヵ国を打ち取られただけでなく、太宰府も破られて、少弐資能入道覚恵や大友頼泰入道道忍等はそれを聞いて逃げ、そのほかの兵者どもはやすやすと大体打ち取られてしまった。また今度攻め寄せてくるならばいかにもこの国は弱体に見受けられる。仁王経には「聖人が去るときには七難が必ず起こる」等とあり、最勝王経には「悪人を愛敬して善人を治罰するに由るが故に(乃至)他方の怨賊が来って必ず国中の人が滅ぼされる乱に遇う」等とある。仏説がまことであるならば、この国にまちがいなく悪人がいるのを国主が尊敬して、善人にあだをするからではないか。
 大集経にいわく「日月に光なく四方が皆ひでりとなる。このような不善業の悪王と悪比丘とがわが正法を毀壊するのである」云云と、仁王経にいわく「諸の悪比丘が多く名誉と利益を求めて国王・太子・王子の前においてすすんで破仏法の因縁・破国の因縁を説くであろう。その王は説の善悪を分別できなくてその言葉を信じて聴く、これが破仏法・破国の因縁である」等云云、法華経にいわく「濁世の悪比丘」等云云、 経文が真実ならばこの国に間違いなく悪比丘が存在している。そもそも宝の山においては曲がった木は伐り去り大海には死骸を留めて置くことがない。仏法の大海・一乗の宝山には五逆の瓦礫や四重禁戒を破る濁水は入れるけれども誹謗の死骸と一闡提の曲林はおさめないのである。であるから仏法を習おうという人・後世を願おうとする人は法華誹謗を恐るべきである。

 

第十五章 臨終の相をもって法華誹謗を証す

 皆人をぼするやうは、いかでか弘法・慈覚等をそしる人を用ゆべきと。他人はさてをきぬ。安房国の東西の人々は此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり、いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさてをきぬ。円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候ひけるかいかに。日蓮なくば此の人々をば仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。これをもってしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家もしらせ給はず。末の代はいよいよあをぐなり。あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし。拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其の失はあらわれしか。
   あらゆる人が思い込んでいるさまは弘法や慈覚を謗る人をどうして用いられようかと。しかし、他人は別として安房の国の東条と西条の人々はこの事を信ずべきである。それは眼の前に現証があるからである。いのもりの円頓房・清澄の西尭房・道義房・方海の実智房等は貴いといわれてきた僧であった。がこれらの人々の臨終はどうであったかと尋ねてみるべきである。これらはさておくが、円智房は清澄の大堂において三ヵ年の間・一字三礼の法華経を自身で書写し十巻を暗誦し、五十年が間一日一夜に二部ずつ読まれたのであった。だから彼を人は皆仏になるだろうといった。これに対して日蓮だけが「念仏者よりも道義房と円智房こそ無間地獄の底に堕ちるであろう」といっていたが、此の人々の御臨終は良かったか、どうか、そうではなかったではないか。もし日蓮がいなかったならば、この人々を世間では仏になったであろうと思ったに違いない。これをもって知りなさい。弘法・慈覚等は臨終があまり悪くてあきれる事があったけれども、それを弟子共が隠したために、朝廷においてもその事実を知り給わず、時代が下るにつれて末の世ではますます尊敬しているのである。もしそれを顕わす人がいないならば未来永劫までそのままとなってしまうであろう。昔、天竺の拘留外道は石となって八百年過ぎてから陳那菩薩に責められて融けて水となり、迦毘羅外道は石と化して一千年後に同じく陳那菩薩に責められたために融けて水と化し、その失が顕われたではないか。今もまた同じことである。
 夫人身をうくる事は五戒の力による。五戒を持てる者をば二十五の善神これをまぼる上、同生同名と申して二つの天、生まれしよりこのかた、左右のかたに守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし。しかるに此の国の無量の諸人なげきをなすのみならず、ゆき・つしまの両国の人皆事にあひぬ。大宰府又申すばかりなし。
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此の国はいかなるとがのあるやらん。しらまほしき事なり。一人二人こそ失もあるらめ、そこばくの人々いかん。これひとへに法華経をさぐる弘法・慈覚・智証等の末の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末の者ども国中に充満せり。故に梵・釈・四天等、法華経の座の誓状のごとく、頭破作七分の失にあてらるゝなり。
   一体、人身を受けるということは五戒の力によるのである。人とうまれてからも五戒を持っている者に対しては二十五の善神がこれを守る上に、同生同名といって左神・右神の二つの天生が、生まれたときからその人の左右の肩の上にいて守護しているために、その人に失がなければ鬼神が仇をすることはない。しかるにこの日本国の無量の諸人が三災七難に遇って悲嘆しているばかりか、壱岐・対馬の両国の人は皆大事件に遇ってしまった。筑紫の太宰府もまたいうまでもないさんざんな体たらくである。このように神の守護なく大難に遇うのはこの国に一体どんな罪があるのであろうか。これこそぜひ知りたいことである。一人・二人ならば失もあるだろうが、大勢の人々に失があるということは一体どうしたことか、これは偏に法華経を見下して誹謗する弘法・慈覚・智証等の末葉の真言師、善導・法然が末の弟子等、達磨等の人々の末葉の者どもが国中に充満して邪法を弘めているゆえに、梵釈・四天等が法華経の会座の誓状どおりに頭破作七分の治罰を加えているのである。

 

第十六章 最大の総罰・頭破作七分

 疑って云はく、法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと申すは、道理なりとをぼへ候はいかん。答へて云はく、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすてよとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝と宣べたる善無畏・慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわるゝとしれるか。経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり、七鬼神ありて一滴食らへば頭をいたむ、三滴を食らへば寿絶えんとす、七滴皆食らへば死するなり。今の世の人々は皆頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてをいたる人の、或は酒にゑひ、或はねいりぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり。今の世の人々は去ぬる正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。其の頭のわれし時ぜひぜひやみ、五蔵の損ぜし時あかき腹をやみしなり。これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや。
    疑って言うが、法華経の行者を仇とする者は「頭破れて七分と作らん」と説かれているのに、日蓮房を謗ったけれども別に頭も割れないのは、日蓮房は法華経の行者ではないのか、というのはには理に叶っていると思うがどうであろうか。
 答えていおう。日蓮を法華経の行者ではないというならば、法華経をなげ捨てよと書いた法然達、釈尊をまだ無明に属する者であると書いた弘法大師、法華と真言は理は同じだが事では真言が勝れると宣べた善無畏・慈覚等こそが法華経の行者であるだろうか。断じてそうではなかろう。また、頭破作七分ということはどういうことであるか汝等は刀を以って斬ったときのように割れるのだと心得ているのか、経文には「阿梨樹の枝のごとし」と説かれているではないか。だから刀で斬ったような割れ方ではないのだ。もともと人の頭のなかには精気の根元をなす七滴の水があるが、七人の鬼神がいてこれを取って食べようとすきをうかがっていて一滴食えば頭を痛める、三滴を食えば寿命が絶えようとし、七滴全部を食えば人は死ぬのである。今の世の人々は鬼神に頭の水を食われて皆・頭が阿梨樹の枝のように破れてしまっているが悪業が深いために自覚していないのである。たとえば傷を負った人があるいは酒に酔うかあるいは深く寝入ってしまえばその傷の痛みを感じないようなものである。また、頭破作七分というのは、または心破作七分ともいって、頭の皮の底にある骨が心気の激動によって罅破れるのである。心が破れきって死んだ場合には割れることもある。今の世の人々は去る正嘉の大地震・文永の大彗星出現のときに皆頭が破れてしまった。その頭が破れたときに喘息を病み、五臓を損なったとき赤痢を病んだのであった。これは法華経の行者を誹ったために当たってしまった現罰であると気がつかないのか。

 

第十七章 身延山での御生活

 されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ嫉む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。財有る者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、此の経を持つ人をば強ちに嫉み候なり。此の魔王、疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。
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少しも違はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を蒙り、最後には此の山にこもる。此の山の体たらくは、西は七面の山、東は天子のたけ、北は身延山、南は鷹取の山。四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四の河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人希なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
   そもそも鹿はいい味があるために人に殺され、亀は油があるために命を奪われる。女人は器量が良いと妬む者が多い。国を治める者は他国からすきを狙われる恐れがあり、富める者は強奪に遇いがちなので命が危うい。法華経を持つ者は必ず成仏するゆえに六天の魔王という三界の主が此の経を持つ人を強烈に嫉むのである。この魔王はあたかも疫病神が誰の目にも見えずに人に付つように、芳醇な酒に人が知らずに気分よく酔い入ってしまうように国主・父母・妻子に取り付いて法華経の行者を嫉むのであると経文には見えている。これに寸分も違っていないのが現在の世相である。日蓮は南無妙法蓮華経と唱えるゆえに、二十余年間、住む所を追い出され、二度まで幕府のご勘気を蒙り、最後にはこの身延の山に籠った。
 この山のありさまは、西は七面山・東は天子嶽・北は身延山・南は鷹取山が取り巻きそびえ、この四つの山の高いことは天に付くばかり、嶮しさは飛鳥も飛びにくいほどである。そのなかに四つの河がある。いわゆる富士河・早河・大白河・身延河である。その四つの河に挟まれたなかに一町ほどの空地があるところに庵室を構えた。こういう谷間であるために昼は日を見ず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は雑草が茂り、訪ね来る人もまれなので道を踏み分けることも難しい。殊に今年は雪が深くて人が訪ね来ることがない。そのため死を当然と心得て御本尊だけを頼み奉って暮らしていたのにご音信をいただきありがたく存じている。おそらくは釈迦仏の御使いか過去の父母の御使いかと感謝に絶えません。
南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。