清澄寺大衆中  建治二年一月一一日  五五歳

別名『虚空蔵菩薩書』

 

第一章 亡国の悪法・真言を破す

(★945㌻)
 新春の慶賀自他幸甚幸甚。去年来たらず如何。定めて子細有らんか。
 抑参詣を企て候へば、伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春・輔正記なんどや候らん。円智房の御弟子に、観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ。それのみならず、ふみの候由も人々申し候ひしなり。早々に返すべきのよし申させ給へ。
 
 新春のを喜び祝うこと、自他ともに何よりの幸せである。去年来られなかったが、どうしたことか。きっと事情があったであろう。
 さて、身延へ参詣しよと思われるならば、伊勢公の御房から十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の注釈書を借用してきてほしい。このことは真言師が大勢騒いでいるのでこういうのである。また摩訶止観の第一と第二の巻を携えてきてほしい。東春・輔正記などもあるであろうか。円智房の御弟子の観智房の持っている宗要集も貸してもらっていただきたい。それだけでなく、文書があるということも人々がいっていた。すぐに返す旨をいって借りてきてもらいたい。
(★946㌻)
 今年は殊に仏法の邪正たゞさるべき年か。浄顕の御房・義城房等には申し給ふべし。日蓮が度々殺害せられんとし、並びに二度まで流罪せられ、頚を刎ねられんとせし事は別に世間の失に候はず。生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ。其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。其の故は月氏漢土の仏法の邪正は且く之を置く。日本国の法華経の正義を失ふて、一人もなく人の悪道に堕つる事は、真言宗が影の身に随ふがごとく、山々寺々ごとに法華宗に真言宗をあひそひて、如法の法華経に十八道をそへ、懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の灌頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に、真言経と申すは爾前権経の内の華厳・般若にも劣れるを、慈覚・弘法これに迷惑して、或は法華経に同じ或は勝れたりなんど申して、仏を開眼するにも仏眼大日の印真言をもって開眼供養するゆへに、日本国の木画の諸像皆無魂無眼の者となりぬ。結句は天魔入り替はって檀那をほろぼす仏像となりぬ。王法の尽きんとするこれなり。此の悪真言かまくらに来たりて又日本国をほろぼさんとす。
 
 今年はことに仏法の邪正がただされるべき年であろう。
 浄顕の御房や義城房等にはいってください。日蓮が、たびたび殺害されようとして、また二度まで流罪され、頚を切られようとしたことは、別に世間の罪によるものではない。生身の虚空蔵菩薩から大智慧をいただいたことがあった。日本第一の智者にしてくださいと申し上げたことを、かわいそうに思われたのであろう。明星のような大宝珠を与えられて、それを右の袖で受け取ったために、それから一切経を見たところの八宗並びに一切経の勝劣をほぼしることができた。
 その上で真言宗は法華経を滅ぼす宗である。これは大事である。まず序分に禅宗と念仏宗の誤った考え方を責めてみようと思ったのである。そのわけはインドや中国の仏法の邪正については、しばらくさしおく。日本国が法華経の正義を失って一人ももれなく人々が悪道に堕ちることは、真言宗が影の身に随うように多くの山々・寺々ごとに法華宗に真言宗をいっしょに添えて、法に説くとおり法華経の修行に十八道という真言の修法を添え、法華経による懺悔の法に阿弥陀経を加え、天台宗の僧の潅頂の儀式に際し真言宗を正とし法華経を傍としたので、真言の経というのは法華経以前に説かれた権の教のなかの華厳経・般若経にも劣っているのを、慈覚・弘法はこれに迷って、あるいは法華経と同じ、あるいは法華経より勝れているなどといって、仏像を開眼するのにも仏眼尊と大日如来の印・真言をもって開眼供養するために、日本国の木画の諸の像は皆、魂のない眼のものとなってしまった。結局は天魔が入り替わって檀那を滅ぼす仏像となってしまった。王法が尽きようとしているのは、このためである。この悪法である真言宗が鎌倉に入ってきて、また日本国を滅ぼそうとしている。
 其の上、禅宗・浄土宗なんど申すは又いうばかりなき僻見の者なり。此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出だされ、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を、今は見る日蓮が刀剣に当たる事を。日本国の有智無智上下万人の云はく、日蓮法師は古の論師・人師・大師・先徳にすぐるべからずと。日蓮この不審をはらさんがために、正嘉・文永の大地震・大長星を見て勘へて云はく、我が朝に二つの大難あるべし。
(★947㌻)
所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり。自界は鎌倉に権の大夫殿、御子孫どしうち出来すべし。他国侵逼難は四方よりあるべし。其の中に西よりつよくせむべし。是偏に仏法が一国挙りて邪なるゆへに、梵天帝釈の他国に仰せつけてせめらるゝなるべし。
   そのうえ禅宗・浄土宗などというのは、また、いいようもない誤った考えの者である。これをいえば、かならず日蓮の命にかかわることになるであろうと承知していたけれども、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために建長五年四月二十八日、安房の国東条の郷にある清澄寺の道善房の持仏堂の南面において浄円房という者並びに少しばかりの大衆にこれをいいはじめて、その後二十余年の間、退転することなくいってきた。その間、あるいは所を追い出されたり、あるいは流罪されたりした。昔は、不軽菩薩の杖木等の難にあったと聞く。今は日蓮が刀剣の難にあうことを見る。
 日本国の有智・無智そして上下のすべての人はいう「日蓮法師は昔の論師・人師・大師・先徳にすぐれるはずがない」と。日蓮はこの不審を晴らすために、正嘉元年の大地震と文永元年の大彗星を見て考えていった。「わが国に二つの大難があるであろう。いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。

 自界叛逆難は鎌倉に権の大夫殿のご子孫の同士討ちが起こるであろう。他国侵逼難は四方からくるであろう。その中でも西より強く攻めてくるであろう。これはひとえに信じている仏法が一国こぞって邪であるために、梵天・帝釈が他国にいいつけて攻められるのである。
 日蓮をだに用ひぬ程ならば、将門・純友・貞任・利仁・田村のやうなる将軍百千万人ありとも叶ふべからず。これまことならずば、真言と念仏等の僻見をば信ずべしと申しひろめ候ひき。    日蓮を用いないでいる間は、平将門・藤原純友・安部貞任・藤原利仁・坂上田村麻呂のような将軍が百千万人いても叶いはしない。これが真実であるならば真言と念仏等の誤った考えを信じよう」といいひろめてきた。

 

第二章 清澄寺の大衆に重恩を教える

 就中、清澄山の大衆は日蓮を父母にも三宝にもをもひをとさせ給はゞ、今生には貧窮の乞者とならせ給ひ、後生には無間地獄に堕ちさせ給ふべし。故いかんとなれば、東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしゝ等をかりとり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうどとなり、清澄・二間の二箇の寺、東条が方につくならば日蓮法華経をすてんとせいじょうの起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて、一年が内に両寺は東条が手をはなれ候ひしなり。此の事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へずにをもはれん人々は、天にすてられたてまつらざるべしや。かう申せば愚癡の者は我をのろうと申すべし。後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり。
   なかでもとくに清澄山の大衆は、日蓮を父母にも、仏・法・僧の三宝にも劣ると思われるならば、今生には貧しい乞者の身となり、後生には無間地獄に堕ちられるであろう。なぜならは、東条左衛門景信が悪人で清澄寺の飼っている鹿等を狩り取り、各房の法師等を念仏者の所従にしようとした時、日蓮が反対をして領家の味方となり、清澄・二間の二つの寺が東条方につくならば日蓮は法華経を捨てよう、と真心から起請文を書いて、日蓮が御本尊の手に結びつけて祈り、一年の内に両寺は東条方の手を離れたのである。このことは虚空蔵菩薩もどうして捨てられるだろうか。清澄寺の大衆も日蓮を信じようとしない人々は、諸天にすてられないことがあろうか。こういえば愚かな者は、自分を呪っている、というであろうが、後生には無間地獄に堕ちるのがかわいそうなのでいうのである。
 領家の尼ごぜんは女人なり、愚癡なれば人々のいひをどせば、さこそとましまし候らめ。されども恩をしらぬ人となりて、後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども、又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ。    領家の尼御前は女性であり、愚かなので人々がいろいろといって嚇すと、そうかと思っておられるであろう。けれども恩を知らない人となって後生に悪道に堕られることがかわいそうであるし、また一つに日蓮の父母等に恩を施された人であるので、なんとしても後生を助けてさしあげようと祈っている。

 

第三章 法華経の行者への帰依を勧む

 法華経と申す御経は別の事も候はず。我は過去五百塵点劫より先の仏なり、又舎利弗等は未来に仏になるべしと。これを信ぜざらん者は無間地獄に堕つべし。我のみかう申すにはあらず、多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌をいだしてかう候。地涌千界・文殊・観音・梵天・帝釈・日・月・四天・十羅刹、
(★948㌻)
法華経の行者を守護し給はんと説かれたり。されば仏になる道は別のやうなし。過去の事、未来の事を申しあてゝ候がまことの法華経にては候なり。
   法華経というお経はべつのことを説いているのではない。「我は過去の五百塵点劫より昔から仏である。また舎利弗等は未来に仏になるであろう」と、「これを信じない者は無間地獄に堕ちるであろう。自分だけがこういうのではない。多宝仏も証明し、十方の諸仏も舌を出して証明し、こういっている。地涌千界の菩薩・文殊菩薩・観音菩薩・梵天・帝釈・日天・月天・四天王・十羅刹女等は法華経の行者を守護するであろう」と説かれている。
 それ故、仏になる道には別の方法はない。過去の事・未来の事をいいあてているのが、まことの法華経なのであり、それを信ずることである。
 日蓮はいまだつくしを見ず、えぞをしらず。一切経をもて勘へて候へばすでに値ひぬ。もししからば、各々不知恩の人なれば無間地獄に堕ち給ふべしと申し候はたがひ候べきか。今はよし、後をごらんぜよ。日本国は当時のゆき対馬のやうになり候はんずるなり。其の後、安房国にむこが寄せて責め候はん時、日蓮房の申せし事の合ふたりと申すは、偏執の法師等が口すくめて無間地獄に堕ちん事不便なり不便なり。
  正月十一日          日蓮花押
 安房国清澄寺大衆中
 このふみは、さど殿とすけあさり御房と虚空蔵の御前にして大衆ごとによみきかきせ給へ。
   日蓮は筑紫を見たこともないし、蒙古も知らない。一切経によって考えて述べたところが、その予言はすでに的中した。もしそうであるなら、あなた方は不知恩の人となるならば無間地獄に堕ちられるであろうということが違うことがあろうか。
 今はいいとしても、後をご覧なさい。日本国は現在の壱岐・対馬のようになるであろう。その時、当時の安房の国に蒙古が責めてくるとき、日蓮がいっていることが合った、といいながら、邪法の法師等が口をすくめて無間地獄に堕ちるであろうことは、かわいそうである。かわいそうである。
  正月十一日          日蓮花押
 安房の国清澄寺大衆中
 この手紙は日向と助阿闍梨御房とが、虚空蔵菩薩の御前で清澄寺の大衆に読んで聞かせなさい。