阿仏房尼御前御返事  建治元年九月三日  五四歳

別名『畷堅固御書』『報千日尼書』

 

第一章 謗法の罪報を教える

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 御文に云はく「謗法の浅深軽重に於ては罪報如何なるや」云云。夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ。「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり。謗法の者にも浅深軽重の異なりあり。法華経を持ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれなり。此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小水をけすが如し。
 
 あなたのお手紙には「謗法の浅い深い、軽い重いに応じて罪報はどのようになるのでしょうか」とある。そもそも法華経の本意は、一切衆生が皆成仏できる道を説いた御経である。そうではあるといっても、この経を信ずる者は成仏を遂げ、謗る者は無間大城に堕ちるのである。法華経譬喩品に「若し人、が信じないでこの経を毀謗すれば、この人は即ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」とあるのはこのことである。
 謗法の者にも浅深・軽重の異なりがある。法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである。これらの人々はごくわずかばかりの謗法はあっても深重の罪を受けることはない。信ずる心は強く謗法は弱いゆえである。譬えば大水で小火を消すようなものである。

 

第二章 謗法呵責を説く

 涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」云云。此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種々の大難に値ふといへども、仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。
   涅槃経には「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば」、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中での怨である」の誡をまぬかれるために謗法を責めるのである。
 但し謗法に至って浅深あるべし。偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、
(★906㌻)
いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざるとの重罪免れ難し。云ひて罪のまぬがるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥利益の心尤も然るべきなり。軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてをくも候べし。自然になをる辺あるべし。せめて自他の罪を脱れて、さてゆるすべし。其の故は一向謗法になれば、まされる大重罪を受くるなり。「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」とは是なり。
   ただし謗法について浅深があるのである。愚かをよそおって責めない時もあろう。真言・天台宗等などは法華教誹謗の者であるからきびしく呵責すべきである。しかしながら大智慧の者でなければ日蓮の弘通の法門と彼等の法門とを分別しがたい。したがって、しばらくは彼等の呵責は指しおくことがある。譬えば立正安国論がそうである。
 言っても言わなくても重罪はまぬがれがたい。言って罪をまぬあれるのを見ながら聞きながら、そのままにしておいて禁めないことは、眼耳の二徳がたちまちに破れて大無慈悲の振る舞いである。章安大師のいうには「慈がなくし詐り親むことは、即ち彼がためには怨の振る舞いである」と。重罪は消滅しがたい。いよいよ他を利益しようとする心を盛んにすることが最も大切である。
 軽罪の者を責める時もある。また、責めないでそのままにしておくこともある。自然に直る人もある。謗法を責めて、自分も相手も罪をまぬかれて、それからゆるす場合もある。その理由は一向に謗法に染まってしまうならば、より重い大重罪を受けるからである。章安大師の涅槃経疏の「彼がために悪を除けば、即ち是れは彼のための親でる」とあるのは、このことである。
 日蓮が弟子檀那の中にも多く此くの如き事共候。さだめて尼御前もきこしめして候らん。一谷の入道の事、日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ。後生はいかんとすべき。然れども法華経十巻渡して候ひしなり。    日蓮の弟子檀那の中にも、多くこのような事柄がある。きっと尼御前も聞いておられることであろう。一谷入道は、日蓮の檀那であると内々にはそうなっているけれども、外に対しては念仏者として振る舞っている。後生はどう救いようもない。しかしながら、法華経十巻を渡したのである。

 

第三章 一層の信心を励ます

 弥信心をはげみ給ふべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是なり。法華経に云はく「恐畏の世に於て能く須臾も説く」云云。悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候時、正法を暫時も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云ふ経文なり。
   いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼必ず憎むでろう。憎むから憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とはこういう人をいうのである。法華経の見宝塔品には云「恐畏の世に於いて、よくわずかの間でも説く」とある。これは悪世末法の時、三毒強盛の悪人達が集まっている時に、正法を間でも信じ持つ者を天人が供養するであろうという経文である。
 此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが候はゞ、無間大城疑ひなかるべし。譬へば海上を船にのるに、船をろそかにあらざれども、あか入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべきなり。浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとはせ給ふ事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあにをとるべきや。「我大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」とは是なり。
   此の度、大願を立て後生を願っていきなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城に堕ちることは疑いないであろう。譬えばば海上を船に乗っていくのに、船は粗悪でなくても、水が入ったならば必ず船は沈み、船中の人々は一時に死ぬのである。また、畷は堅固であっても、蟻の穴があけば、必ず最後には湛えた水が溜まらないようなものである。したがって謗法不信の水を抜き取り、信心の畷を固めるべきである。
 浅い罪であるならばこちらからゆるして功徳を得させるべきである。重い過失であるならば信心を励ましてその重罪を消滅させるべきである。
 尼御前のお立場で謗法の罪の浅深、軽重の意味を問われた事は、実に希有な女性であられる。竜女にどうして劣るであろうか。法華経提婆品に「我れ大乗の教を闡いて苦の衆生を度せん」と説かれているのはこのことである。
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「其の義趣を問ふは是れ則ち難しとす」と云ひて法華経の義理を問ふ人はかたしと説かれて候。相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし。日蓮が義を助け給ふ事、不思議に覚え候ぞ、不思議に覚え候ぞ。穴賢穴賢。
  九月三日        日  蓮 花押
   阿仏房尼御前御返事
 
 また「その義趣を問うことは、是れ則ち難しいことである」といって、法華経の義理を問う人はなかなかあらわれがたいと説かれている。
 心して力あるかぎりは、謗法を責めていきなさい。日蓮が義を助けられることは、実に不思議に感じられてなりません、不思議に感じられてなりません。穴賢穴賢。
  九月三日        日蓮花押
   阿仏房尼御前御返事