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(★762㌻) あまのり一ふくろ送り給び了んぬ。又大尼御前よりあまのり畏まり入って候。 此の所をば身延の岳と申す。駿河の国は南にあたりたり。彼の国の浮島がはらの海ぎはより、此の甲斐国波木井郷身延の嶺へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし。 |
甘海苔を一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。 この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国・波木井の郷・身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士河という日本第一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高き屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。 |
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此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵となる。かゝる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つついたてたるがごとし。峰に上りてみれば草木森々たり。 (★763㌻) 谷に下りてたづぬれば大石連々たり。 |
この河の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵となってしまう。このようなところを過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峯に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。 | |
| 大狼の音山に充満し、猿猴のなき谷にひゞき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひゞきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものは、やまがつがたき木をひろうすがた、時々とぶらう人は昔なれし同朋なり。彼の商山の四皓が世を脱れし心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ。 | 狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまかつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人といえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。 | |
| 峰に上りてわかめやをいたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並び立ちたり。谷に下りてあまのりやをいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せりのみしげりふしたり。古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今此のあまのりを見候ひて、よしなき心をもひいでてうくつらし。かたうみ・いちかは・こみなとの磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給ひけんと、かたちがへなるうらめしさ、なみだをさへがたし。 | 嶺に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなく、わらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このような故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このあまのりを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことではある。片海・市川・小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまったのであろうかと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。 |
| 此はさてとゞめ候ひぬ。但大尼御前の御本尊の御事、おほせつかはされておもひわずらひて候。其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人々の中にもしるしをかせ給わず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺々の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入りし賢者等のしるされて候寺々の御本尊皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺々の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺々の御本尊又かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。 | それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事をおおせつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国からインドの地に入った人々のなかにも書き残されていない。西域記や慈恩伝・伝燈録等の書を開いてみれば、五天竺の諸国の寺々の本尊は、皆ことごとく記され伝えられている。また中国から日本に渡った聖人、日本から中国に入った賢者等が記された寺々の本尊を皆調べてみた。日本国の最初の寺、元興寺や四天王寺等の多くの寺々の日記や、日本紀という書をはじめとして多くの日記に記されているから、その寺々の本尊も明らかである。それらのなかに、この御本尊はいっこうに記されていない。 | |
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人疑って云はく、経論になきか、なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめと云云。而れども経文は眼前なり。御不審の人々は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。前代につくりかゝぬを難ぜんとをもうは僻案なり。例せば釈迦仏は悲母孝養のために忉利天に隠れさせ給ひたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。但目連尊者一人此をしれり。此又仏の御力なりと云云。 (★764㌻) 仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。 |
人は疑っていう。「それは経論にないからこそ、多くの賢者等は画像にもかかず、木像にも造立されなかったのであろう」と。しかし、経文には明らかである。不審に思う人々は経文に有るか無いかをこそ尋ねるべきである。前代に造りかいていないのを非難しようと思うのは僻案である。たとえば釈迦仏は、御母の孝養のために忉利天に隠れられたのを、一閻浮提の一切の人々は知る事がなかった。ただ目連尊者一人がこれを知っていた。このように人々には分からないようにしたのは、仏の御力によるといわれている。 仏法は眼前であっても、機根がなければ顕れ、時が至らないと弘まらないことは、法の道理である。たとえば大海の潮が時にしたがって増減し、天の月が時にしたがって上下に満ち欠けるようなものである。 |
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而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。 (★765㌻) 昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。 |
ところで、安房の国の東条の郷は辺国であるけれども、日本国の中心のようなものである。そのわけは天照太神がこの地に跡を垂れたからである。 昔は伊勢の国に跡を垂れておられたが、国王は八幡大菩薩や加茂の明神の御帰依が深く、天照太神の御帰依が浅かったので太神がお瞋りになっていたとき、源右将軍頼朝という人が御起請文を書いて会加の小大夫に申し仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのであろう。日本を手中におさめる将軍となった。その源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められた。そのため、この太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのであろう。例えば八幡大菩薩は昔は西府においでになったが、中ごろは山城の国の男山に移り、今は相州鎌倉の鶴が岡に栖まわれているのと同様である。 |