新尼御前御返事  文永一二年二月一六日  五四歳

 

第一章 甘海苔の供養に故郷を想う

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 あまのり一ふくろ送り給び了んぬ。又大尼御前よりあまのり畏まり入って候。
 此の所をば身延の岳と申す。駿河の国は南にあたりたり。彼の国の浮島がはらの海ぎはより、此の甲斐国波木井郷身延の嶺へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり。河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし。
 
 甘海苔を一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。
 この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国・波木井の郷・身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士河という日本第一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高き屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。
 此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ、舟破れて微塵となる。かゝる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つついたてたるがごとし。峰に上りてみれば草木森々たり。
(★763㌻)
谷に下りてたづぬれば大石連々たり。
   この河の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵となってしまう。このようなところを過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峯に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。
 大狼の音山に充満し、猿猴のなき谷にひゞき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひゞきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものは、やまがつがたき木をひろうすがた、時々とぶらう人は昔なれし同朋なり。彼の商山の四皓が世を脱れし心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ。    狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまかつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人といえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。
 峰に上りてわかめやをいたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並び立ちたり。谷に下りてあまのりやをいたると尋ぬれば、あやまりてやみるらん、せりのみしげりふしたり。古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今此のあまのりを見候ひて、よしなき心をもひいでてうくつらし。かたうみ・いちかは・こみなとの磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給ひけんと、かたちがへなるうらめしさ、なみだをさへがたし。    嶺に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなく、わらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このような故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このあまのりを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことではある。片海・市川・小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまったのであろうかと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。

 

第二章 御本尊の前代未聞なるを述ぶ

 此はさてとゞめ候ひぬ。但大尼御前の御本尊の御事、おほせつかはされておもひわずらひて候。其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人々の中にもしるしをかせ給わず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺々の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入りし賢者等のしるされて候寺々の御本尊皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王寺等の無量の寺々の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺々の御本尊又かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。    それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事をおおせつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国からインドの地に入った人々のなかにも書き残されていない。西域記や慈恩伝・伝燈録等の書を開いてみれば、五天竺の諸国の寺々の本尊は、皆ことごとく記され伝えられている。また中国から日本に渡った聖人、日本から中国に入った賢者等が記された寺々の本尊を皆調べてみた。日本国の最初の寺、元興寺や四天王寺等の多くの寺々の日記や、日本紀という書をはじめとして多くの日記に記されているから、その寺々の本尊も明らかである。それらのなかに、この御本尊はいっこうに記されていない。
 人疑って云はく、経論になきか、なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめと云云。而れども経文は眼前なり。御不審の人々は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。前代につくりかゝぬを難ぜんとをもうは僻案なり。例せば釈迦仏は悲母孝養のために忉利天に隠れさせ給ひたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。但目連尊者一人此をしれり。此又仏の御力なりと云云。
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仏法は眼前なれども機なければ顕はれず。時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり。例せば大海の潮の時に随って増減し、上天の月の上下にみちかくるがごとし。
   人は疑っていう。「それは経論にないからこそ、多くの賢者等は画像にもかかず、木像にも造立されなかったのであろう」と。しかし、経文には明らかである。不審に思う人々は経文に有るか無いかをこそ尋ねるべきである。前代に造りかいていないのを非難しようと思うのは僻案である。たとえば釈迦仏は、御母の孝養のために忉利天に隠れられたのを、一閻浮提の一切の人々は知る事がなかった。ただ目連尊者一人がこれを知っていた。このように人々には分からないようにしたのは、仏の御力によるといわれている。
 仏法は眼前であっても、機根がなければ顕れ、時が至らないと弘まらないことは、法の道理である。たとえば大海の潮が時にしたがって増減し、天の月が時にしたがって上下に満ち欠けるようなものである。

 

第三章 上行付嘱・末法弘通を明かす

 今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。    今、この御本尊は、教主釈尊が五百塵点劫の昔より心中におさめられ、世に出現せれても四十余年の間は説かれず、法華経の中でも迹門では説かれず、宝塔品より事が起こり、寿量品で説き顕し、神力品・属累品で事が終ったのである。そこれ金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音菩薩、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の多くの菩薩が我も我もとこの御本尊を弘めることを望んだけれどもかなえられなかった。
 是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひゞけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しをかせ給ひぬ。    仏は、これ等の菩薩は智慧もすぐれ、才学ある人々と名高いが、いまだ法華経を学んで日も浅く、学も浅識で、末代の大難を忍ぶことはむずかしいであろう。自分には、五百塵点劫より大地の底にかくし置いた真の弟子がある。これに譲ろうといって湧出品で上行菩薩等を召し出されて、法華経の本門の肝心である妙法蓮華経の五字を譲られて「この御本尊は我が滅後、正法一千年・像法一千年に弘通してはならない。末法の始めに、謗法の法師が一閻浮提に充満し、諸天が怒って彗星が天に現れ、大地は大波のようにおどり動くだろう。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の数々の大災難が一時に起こり、一閻浮提の人々が、おのおのの甲冑をつけ、弓や杖を手にするであろう時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばない時、諸人は皆、死んで無間地獄に堕ちる者の雨の降るように多い時、この五字の大曼荼羅を身に持ち、心に信ずれば、諸王はその国を助け、万民は災難をのがれ、また後生の大火炎をのがれることができるだろう」と仏は記しおかれたのである。
 而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。此の法門弘通せんには「如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」と申して、第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等なり。此又第二第三の僧侶がうったへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈し、或は刀杖等云云。    さて日蓮は上行菩薩ではないけれども、以前からほぼこの事を知ることができたのは、上行菩薩の御計らいかと思って、この二十余年の間、このことを語ってきた。この法門を弘通しようとすれば法華経法師品第十に「如来の現在すら猶多怨嫉が多い。況や滅度の後をや」と、また安楽行品第十四に「一切世間に怨多くして信じ難い」と説かれているように、第一の敵は国主並びに郡郷等の地頭や領家・万民等である。これはまた第二・第三の敵である僧侶が訴えるのについて、彼らは法華経の行者をあるいは悪口し、あるいは罵詈し、あるいは刀杖等で迫害するのである。

 

第四章 東条郷が日本の中心なるを示す

 而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。
(★765㌻)
昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。
   ところで、安房の国の東条の郷は辺国であるけれども、日本国の中心のようなものである。そのわけは天照太神がこの地に跡を垂れたからである。

 昔は伊勢の国に跡を垂れておられたが、国王は八幡大菩薩や加茂の明神の御帰依が深く、天照太神の御帰依が浅かったので太神がお瞋りになっていたとき、源右将軍頼朝という人が御起請文を書いて会加の小大夫に申し仰せつけていただきささげ、伊勢の外宮にひそかに御納めしたところ、太神の御心に叶ったのであろう。日本を手中におさめる将軍となった。その源頼朝は東条の郷を天照太神の御栖と定められた。そのため、この太神は伊勢の国にはおられず、安房の国・東条の郡に住まわれるようになったのであろう。例えば八幡大菩薩は昔は西府においでになったが、中ごろは山城の国の男山に移り、今は相州鎌倉の鶴が岡に栖まわれているのと同様である。

 

第五章 御本尊受持の信心を正す

 日蓮は一閻浮提の内、日本国安房国東条郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。随って地頭敵となる。彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。領家はいつわりをろかにて、或時は信じ或時はやぶる。不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき。日蓮先よりげざんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定んで偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候。    日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡で、この正法を弘通し始めた。これに対して地頭が敵となったが、彼等はすでに半分亡びて半分を残すだけである。領家の大尼は偽りおろかで、あるときは信じ、あるときは破る、というように定まらなかったが、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前からお目にかかるごとに「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこのことである。領家の大尼御前は日蓮にとって重恩の人であるから、助けてあげようとこの御本尊をしたためてさしあげるならば、十羅刹はきっと日蓮を偏頗な法師と思われるであろう。また経文に説かれているとおりに不信の人に御本尊をさしあげるならば、日蓮は偏頗はないけれども、大尼御前は自身の失を知られず、日蓮を恨まれることであろう、その事は詳しく助阿闍梨の手紙に書いておいたので、呼ばれて尼御前に御目にかけていただきたい。
 御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候。さどの国と申し、此の国と申し、度々の御志ありてたゆむけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも終にはいかんがとをそれ思ふ事、薄氷をふみ太刀に向かふがごとし。くはしくは又々申すべく候。それのみならず、かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候人々も、いまは世間やわらぎ候かのゆへに、くゆる人々も候と申すに候へども、此はそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思ひまいらせ候へども、骨に肉をばかへぬ事にて候へば、
(★766㌻)
法華経に相違せさせ給ひ候はん事を叶ふまじき由、いつまでも申し候べく候。恐々謹言。
  二月十六日          日蓮花押
新尼御前御返事
   新尼御前は大尼御前と御一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心つくしといい、この身延の国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。
 しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。詳しくは、また申しあげよう。
 それだけでなく、鎌倉でも御勘気のとき、千人のうち九百九十九人が退転してしまったが、それらの人々は今は世間もやわらいできたので、後悔している人人もあるということである。大尼御前はそれらの人々とは全く違っているので、いかにもかわいそうだとは思うが、骨に肉を換えられない道理であるから、法華経に相違された人に御本尊をさしあげることはできないと、どこまでもお伝えください。恐恐謹言。
  二月十六日          日蓮花押
 新尼御前御返事