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(★685㌻) 其の後御おとづれきかまほしく候ひつるところに、わざと人ををくり給び候。又何よりも重宝たるあし、山海を尋ぬるとも日蓮が身には時に当たりて大切に候。 |
その後、お便りを聞きたいと思っていたところに、わざわざ人を遣わしていただきました。また何よりも貴宝な金銭を受け取りましたが、これは山海を尋ねても、日蓮が身には時にあたって大切なものです。 |
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夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候。先日のまぼり暫時も身をはなさずたもち給へ。其の御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕はし奉る事たえたり。 師子王は前三後一と申して、ありの子を取らんとするにも、又たけきものを取らんとする時も、いきをひを出だす事はたゞをなじき事なり。日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく「師子奮迅之力」とは是なり。 |
お便りにあった経王御前が御病気との事、昼夜に日月天に祈っております。先日差し上げた御本尊は、しばらくも身を離すことなく受持していきなさい。この御本尊は、正法・像法の二時には、習い伝えた人すらいない。まして書き顕したことは絶えてなかった。 師子王は前三後一といって、蟻の子を取ろうとするときにも、また獰猛なものを取ろうとするときにも、その勢いは、全く同じである。日蓮の御本尊を認めるにも師子王に劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経湧出品に「師子奮迅の力」とるのはこれである。 |
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又此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかゝるべきなり。 但し御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし。法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用ふる事なれ。鬼にかなぼうたるべし。 |
また、この曼荼羅をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が、障りをなすことができようか。 鬼女母神や十羅刹女が、法華経の題目を持つ者を守護すると経文には見えている。幸せは愛染明王のようで、福運はは毘沙門天のように備わっていくであろう。 たとえ、どのようなところに遊びたわむれていても、災難あるはずはない。悠々と遊行して畏れないことは師子王のようであろう。十羅刹女のなかでも皐諦女の守護がとくに深いことであろう。 ただし御信心によるのである。剣なども、勇気のない人のためには何の役にも立たない。法華経という利剣は、信心の殊勝な人が用いる時こそ、役にたつのであり、これこそ鬼に金棒なのである。 |
| 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ。 | この御本尊は、日蓮が魂を墨に染め流して認めたのである。信じていきなさい。釈迦仏の御意は法華経である。日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたものはない。妙楽大師の法華文句記に「本地の遠寿を顕わすことをもってその根本となす」と解釈されている。 |