| (★664㌻) 問うて云はく、法華経の第一方便品に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云はく、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云はく「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。又云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」云云。又云はく「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。此等の釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。 | 問うて言う。法華経の第一の卷、方便品第二に「諸法実相とは、諸法の実相、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」と説かれている。この経文の意味はどのようなものであろうか。 答えて言う。下は地獄界から上は仏界までの十界の依報と正報の当体が一法も残さず妙法蓮華経の姿であるという経文である。依報があるならば必ず正報が住している。妙楽大師の法華文句記には「依報も正報も常に妙法蓮華経を顕している」等と述べている。また金剛錍には「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。その十如は必ず十界という差別相がある。その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。また、同じく金剛錍のなかで「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、毘盧舎那仏の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。 これらの妙楽大師の釈義は分明である。誰が疑いを生ずるであろうか。したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。 | 
| 釈迦・多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時、事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ。 かくの如き等の法門、日蓮を除きては申し出だす人一人もあるべからず。 天台・妙楽・ (★665㌻) 伝教等は心には知り給へども言に出だし給ふまではなし、胸の中にしてくらし給へり。其れも道理なり、付嘱なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕はすべき人なし。是即ち本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。 | 釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。 このような法門は日蓮を除いては、申し出す人は一人もいないのである。 天台大師も妙楽大師も伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、言葉には出されることはなかった。 それも道理なのである。 それは付嘱がなかったゆえであり、時がいまだきていないゆえであり、釈尊の久遠の弟子ではないがゆえである。地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかは、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけでなく、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。これはすなわち、法華経本門寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。 | 
| されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり。天台云はく「実相の深理、本有の妙法蓮華経」云云。此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ、本有の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。 | したがって釈迦仏・多宝仏の二仏といっても、用の仏であり、妙法蓮華経こそ本仏であられるのである。法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。「如来秘密」体の三身であって迹仏なのである。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであろうが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせている凡夫なのである。 そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句には「如来とは十方三世の諸仏・真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身・本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。この釈に「本仏」というのは凡夫であり「迹仏」というのは仏である。 しかしながら、迷りと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は倶体・倶用ということを知らないのである。 そうであるからこそ諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相と説かれたのである。「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。ゆえに「諸法」は妙法蓮華経ということなのである。地獄は地獄の姿をみているのが実の相である。餓鬼と変じてしまえば地獄の実の姿ではない。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。 このことについて天台大師は「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり「本有常住の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。この釈の意をよくよく心中に案じられるがよい。 | 
| 日蓮末法に生まれて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立ちて粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先づ作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり。日蓮をこそにくむとも内証にはいかヾ及ばん。 (★666㌻) さればかゝる日蓮を此の島まで遠流しける罪、無量劫にもきえぬべしとも覚えず。譬喩品に云はく「若し其の罪を説かば劫を窮むるも尽きず」とは是なり。又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其の功徳をば仏の智慧にてもはかり尽くし給ふべからず。経に云はく「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得じ」と云へり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。経に云はく「能く竊かに一人の為に法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の所遣として如来の事を行ずるなり」と、豈別人の事を説き給ふならんや。 | 日蓮が末法に生まれて上行菩薩が弘められるところの妙法蓮華経を先立ってほぼ弘め、作りあらわされているところの本門寿量品の古仏である釈迦仏・迹門の宝塔品で涌出された多宝仏・従地涌出品の時に出現された地涌の菩薩等をまず作りあらわしたてまつることは自分の分際を過ぎたことである。この日蓮を憎むとも、内証をどうすることもできないのである。 それゆえに、このような日蓮を佐渡の島まで遠流した罪は無量劫を経ても消えるとはおもわれない。法華経譬喩品第三には「もし法華経誹謗の罪を説くならば、劫のあらんかぎりを説いても説きつくすことはできない」と説かれているのはこのことである。また日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられたその功徳は仏の智慧によっても量り尽くすことはできない」と説かれている。 地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人である。あるいは、地涌の菩薩の数に入っているかもしれない。もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮が弟子檀那は地涌の流類ということになろう。法華経法師品第十の「よくひそかに一人のためにでも、法華経そしてその一句だけでも説くならば、まさにこの人は如来の使いであり、如来から遣わされて如来の振る舞いを行ずるものと知るべきである」との文は、だれか他の人のことを説かれたものではない。 | 
| されば余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり。是ほむる処の言よりをこり候ぞかし。末法に生まれて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有って流罪死罪に及ばん。然れどもたへて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給ふべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけせなかにをふべきぞ、大善根の者にてあるぞ、一切衆生のためには大導師にてあるべしと、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩・天神七代・地神五代の神々・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちにほめられ奉る間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめられぬれば我が身の損ずるをもかへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるヽをもしらずふるまふ事は凡夫のことはざなり。 | 人からたいへんよく自分がほめられるならば、どのような困難でも耐えていこうとする心が出てくるものである。これはほめる言葉から起きてくるものである。すなわち「末法に生まれて法華経を弘める行者には、三類の強敵が起きて、流罪・死罪にまで及ぶであろう。しかれども、この難に耐えて法華経を弘める者を、釈迦仏は衣をもって覆ってくださり、諸天は供養をし、あるいは肩に担い、背に負うて守るであろう。その行者は大善根の者であり、一切衆生のためには大導師である」と、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・天神七代・地神五代の神々・鬼子母神・十羅刹女・四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神・大日如来・普賢菩薩・文殊師利菩薩・日月天などの諸尊にほめたたえられるので、日蓮は、無量の大難をも耐え忍んでいるのである。 ほめられれば我が身の損ずることもかえりみず、そしられるときはまた我が身の破滅することにも気づかずに振る舞うのが凡夫の常である。 | 
| いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。 (★667㌻) 剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。 | このたび、信心をしたからにはどんなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、日蓮が一門となりとおしなさい。日蓮と同意であるならば地涌の菩薩であろうか。地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子であるということをどうして疑うことができようか。法華経従地涌出品第十五に「これらの菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこのことである。 末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は男女の分け隔てをしてはならない。皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ唱えることのできない題目なのである。 はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、二人・三人・百人と次第に唱え伝えてきたのである。未来もまたそうであろう。これが地涌の義ではないだろうか。そればかりか広宣流布のときは日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。 | 
| ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏菩薩、虚空にして二仏うなづき合ひ、定めさせ給ひしは別の事には非ず。唯ひとへに末法の令法久住の故なり。既に多宝仏は半座を分かちて釈迦如来に奉り給ひし時、妙法蓮華経の旛をさし顕はし、釈迦・多宝の二仏大将としてさだめ給ひし事あにいつはりなるべきや。併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。 | ともかくも法華経に名をたて身をおていきなさい。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなずきあい、定められたことは別のことではない。ただひとえに末法の令法久住のためである。すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲られたとき、妙法蓮華経の旛をさしあらわして、釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められたことがどうして偽りであろうか。それは我々衆生を仏にしようとの御談合である。 | |
| 日蓮は其の座には住し候はねども、経文を見候に少しもくもりなし。又其の座にもやありけん、凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり、又未来は決定として当詣道場なるべし。過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず。 | 日蓮はその座には居合わせなかったが、経文を見ると少しの曇りもなく明らかである。またその座にいたのかもしれないが、凡夫であるから過去のことは分からない。しかし現在は明らかに法華経の行者であるからには、また未来は決定して当詣道場となるであろう。過去のことをもって推するならば、虚空会に居合わせたのであろう。三世の生命が別のものであるわけがない。 | 
| 此くの如く思ひつヾけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら如是我聞と答へ給ふ。余の九百九十九人はなく涙を硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。今日蓮もかくの如し。かヽる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏・多宝仏、未来日本国の一切衆生のためにとヾめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし。現在の大難を思ひつヾくるにもなみだ、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし。此のなみだ世間の事には非ず、但偏に法華経の故なり。若ししからば甘露の涙とも云ひつべし。涅槃経には父母・兄弟・妻子・眷属にわかれて流すところのなみだは四大海の水よりもをヽしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。法華経の行者となる事は過去の宿習なり、同じ草木なれども仏とつくらるヽは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。 | このように思い続けていると、流人ではあるが喜悦は測り難いものである。うれしいことにも涙を落とし、辛いことにも涙をおとすものである。涙は善悪に通じているものである。彼の千人の阿羅漢・仏の事を思ひい釈尊滅後、釈尊の十大弟子の彼の千人の阿羅漢は、仏のことを思い出して涙を流し、涙を流しながら文殊師利菩薩が「妙法蓮華経」と唱えられると、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら「如是我聞」と答えられたのである。余の九百九十九人は、泣く涙を硯の水として、また如是我聞の上に「妙法蓮華経」と書きつけたのである。 今、日蓮も同じである。このような流人の身となったことも妙法蓮華経の五字七字を弘めたゆえであり、それは釈迦仏・多宝仏が未来の日本国の一切衆生のために留め置かれたところの妙法蓮華経であると、このように日蓮は聞いたのである。現在の大難を思い続けるにも涙があふれ、未来の成仏を喜ぶにつけても涙が止まらないのである。 鳥と虫とは泣いても涙を落とすことはない。日蓮は泣かないが涙がひまないのである。しかしこの涙は世間の涙ではない。ただひとえに法華経のゆえの涙である。もしそうであるなら甘露の涙ともいえよう。 涅槃経には「父母・兄弟・妻子・眷属に別れて流すところの涙は四大海の水よりも多いが、仏法のためには一滴をもこぼさない」と説かれている。法華経の行者となることは過去の宿縁である。同じ草木であっても権仏となるのはまた宿業なのである。 |